第7話 一人ぼっち

 六月三十日。夜。


 冷てぇぇぇぇぇえええええ!!!!!


 冷水のシャワーを頭から浴びながら心の中で叫ぶ俺。


 結果的にガス代と水道代の両方を払えなかった俺は、仕方なく水道代だけ払った。「もうそろそろ七月で暑くなってきたし、水風呂もアリかな~」なんて思っていたけど、普通にナシだった。


 ガスが止まって数日経ったが、この冷水シャワーに慣れる日は訪れないだろう。それでも水が止まるよりはマシだし、我慢するしかない。耐えろ、俺。


 風呂場から出てきた俺は体を震わせながら布団に包まる。歯をガチガチ震わせながら、しょぼい風圧のドライヤーで髪を乾かす。早く給料日になってくれ……!


 コンビニの給料日は毎月二十五日が多いと言われているが、俺の働いているコンビニは基本的に毎月十日。支払ったところですぐガスが使えるわけでもないから、俺はあと十日以上も冷水シャワー生活に耐えなければいけないことになる。


 冬だったら凍死してもおかしくないだろう、と鼻水を垂らしながら思った。


 スマホの方はデータが完全に消えてしまい、何度もフリーメールアドレスのアカウントにログインしようと試みたが駄目だった。他のサイトで使っているパスワードを入力してもはじかれるだけで、パスワード再設定の方も質問の答えが思い出せず、手詰まり状態である。


 詩織さんとの連絡手段を失ったということは、データだけではなく100万円も戻ってこないだろう。本当にあの日が人生で一番楽しい一日になるのかもしれない。


 くしゃみをしながら、その日は眠りについた。



 七月五日。昼。


「さっきからうるさい」


 店長がしかめ面で俺を見てくる。


「何もひゃべっでまぜんよ」


「いや、鼻だよ! 鼻! さっきから鼻すすりすぎだ! それに声もガラガラだし、ちゃんと言えてないだろ!」


 どうやら軽い風邪をひいてしまったらしい。朝から喉が変だし、鼻水が止まらない。原因はもちろん冷水シャワーを浴びていたからだろう。


「せめてマスク付けろよ。うつされて俺まで風邪ひいたら、この店潰れるぞ」


「はい……ずみまぜん」


 休憩時間にマスクとのど飴を買って多少楽になった気がしたが、今の俺からすれば痛い出費である。帰りに風邪薬を買うべきだろうか。しかし、もう財布の中身はほぼ空っぽだ。風邪薬って意外に高かった記憶があるし、今持っている残金で買えるのかすら怪しい。


 あと五日で給料日なんだ。もう少しの辛抱だ。



 七月七日。夕方。


 この日は十七時から二十二時までシフトが入っていた。朝起きた時は体調が良くなったんじゃないかと喜んでいたが、夕方になるにつれて咳が増え始めて熱も上がっていった。ふらつきながらバイト先に着いた頃には立っているのもやっとで、意識が朦朧としている……気がする。


「坂上っち、顔がめっちゃ赤いけど、大丈夫?」


 麻島さんの声に親指を立てて答える。いや、全然大丈夫ではないんだが。


「おいおい、大丈夫かよ」


 店長の声が聞こえたが、膝に手をつく形で前屈みになってしまい、顔を見れない。俺はそのままの姿勢で、なんとか声を出す。


「あの……店長。今日はお休み……ごほっごほっ! お休みを頂いていいですか……?」


「いいも何も今のお前を店に入れられるわけないだろ……。さっさと帰って寝ろ!」


「ごほっごほっ! ……すみません」


 背中を丸めて咳をしながら、よぼよぼな百歳手前のおじいさんみたいな歩き方で来た道を引き返す。背負っているリュックサックが普段より重く感じられる。バトル漫画とかで主人公が重りを背負って修行するシーンあるけど、まさにこんな感じなのかな……なんて考えるのはいつもの癖で、俺は弱っている時ほど心の中で口数を増やす。ノリツッコミをしたり、馬鹿なことを考えたり。無心になってしまったら一人ぼっち感が強くなって余計にメンタルが弱ってしまうから、自分を励ます為の自分に向けた自分なりのエールみたいなものだ。


 しかし、普段はポンポンと出てくるノリツッコミも糞どうでもいい馬鹿なことも全然思いつかない。ただ布団が恋しい。今すぐ横になって寝たい。体が重くて、足を踏み出すのがしんどすぎる。


 ……救急車を呼ぶか? でも、そんなことしたら金かかりそうだな。救急車を呼ぶなら家から出なければよかったし、なんだか悔しい……いや、今の状態でそんなことは言っていられない気がする。


 電信柱にもたれかかりながら、もう一度考える。


 救急車を呼ぶべきか、このまま歩いて帰るべきか。


 ……無理だ。やっぱり呼ぼう、ケチって死ぬなんて馬鹿だ。


 俺はポケットに入れたスマホを取り出そうとした。


 けれど、ポケットにスマホが入っていない。


 そういえば、スマホをポケットに入れた記憶がない。多分、具合が悪くて着替えるだけで大変だった俺はスマホを持たないまま家を出たんだ。


 その瞬間、気力が尽きてしゃがみ込んでしまった。


 あれ? これ結構やばくね?


 助けは呼べないし、周りに通行人は見当たらないし、なんか知らないが涙が出てきた。


 おいおい、二十八にもなって風邪で泣くなよ、俺。


「ごほっ! ごほっ!」


 ひょっとしてマジで死ぬ手前なんじゃないのか。風邪でも死ぬことあるって聞いたことあるし。


 いや、それは絶対にあってはいけない。


 こんなところで死ぬわけには、


 だって俺はまだあの人に、


 シロネコさんに、一言もお礼を言えてないのに……。


 もうダメだと覚悟を決めかけたその時、いつの間にか目の前に人が立っていた。


 力を振り絞って見上げると、女性だった。


 というか――詩織さんだった。


「1さん……ですよね……?」


 俺の顔を見下ろす詩織さんの顔はこちらから見ると陰がかかっていて、不安と心配と驚きが入り混じったような表情が一段と濃く見えた。


「詩織さん……なんでここに?」


 自分でも聞き取りづらいと思うほどのガラガラ声で尋ねる。


「お借りした一部をお返ししたかったのですが、メールの返信がいただけないので、ご自宅の方に伺おうとしていたんです」


「……住所教えていましたっけ?」


「いえ、お借りしたお金が入っていた封筒の裏に住所が書かれていたので、行くだけ行ってみよう、と」


 あぁ、一人暮らしを始めた時期に「俺も懸賞生活をやってみるぜ!」って馬鹿なことを考えていたっけな。小さい頃に見た「懸賞で当てた物だけで生活する」って番組と同じことをしようと、はがきや封筒を馬鹿みたいに買って自分の住所だけ書いていたんだけど、封筒で応募するタイプの懸賞って応募券とかが必要ではがきと比べて出番が少なく、そもそもまったく当たらなくて使い切る前に挫折。その余りの封筒に一万円札を入れて貯金していたんだった。


「お金を返しにわざわざ来てもらって申し訳ない。スマホのデータが消えてしまったもので」


 女性の前でしゃがみ込んでいるわけにもいかず、なんとか立ち上がる。フラフラな俺を見て、詩織さんは「大丈夫なんですか?」と戸惑いながら訊ねてくる。


「ちょっと風邪をひいてしまって……」


 無理やり笑みを作って強がってみるが、詩織さんの表情は変わらず。


「救急車呼びましょうか?」


「……いえ、家までもう少しなので大丈夫です」


 大丈夫ではないが、女性の前で救急車に運ばれるのだけは避けたくて気力を振り絞って歩き出す。安っぽい男のプライドだ。あんな書き込みをしている時点で、守る価値なんてないのに。


 詩織さんに「あの、リュック持ちましょうか?」と心配してもらいながらも「大丈夫です」と強がり、歩き続ける。


 なんとか家に辿り着き、全身汗だくのまま布団の上に倒れ込んだ。


 布団の上で苦しげに呼吸する俺の姿は、傍から見たら陸に上がった魚と変わらないだろう。ただ、横になったことで、さっきより楽になれた。


 ボロボロのアパートに、散らかった四畳半の部屋。女性を連れてくるような部屋ではない。詩織さん、ドン引きしているんだろうな……。


 ところが、詩織さんは俺の顔を上から覗き見て心配そうな顔を浮かべる。


「何かお手伝いできることありますか?」


「いえ、本当に大丈夫なのでお気遣いなく」


「でも……」


「風邪をうつしてしまったら悪いですし、せっかく来てもらって悪いんですけど今日は帰ってもら……あ、その前にスマホのデータが消えてしまって詩織さんのアドレスが分からなくなったので、そこらへんにある紙に書いておいてもらえますか」


 テーブルの方を指差して、力尽きたように目を瞑る。これ以上、醜態を見せるわけにはいかないし、風邪をうつしてしまいかねない。アドレスを書いてもらったら帰ってもらおう。


 と考えていた時だった。


 あることに気付いて慌てて詩織さんを呼び止める。


 しかし、間に合わなかった。


 詩織さんはテーブルの上に置いてあった供給停止と書かれた紙を見ていた。


「1さん、これって……」


 紙を手に持ったまま詩織さんが泣きそうな顔をして、なんて言うべきか悩んだ。


「あの、もしかして私にお金を貸したから……」


「ち、違くて、そういうんじゃなくて……えっと……払い忘れただけですよ」


 誤魔化そうとしたが、詩織さんは黙り込んでしまい、自分の咳き込む声がさっきよりうるさく聞こえた。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 詩織さんは涙をぽろぽろと流し、叱られた子供みたいに泣き出してしまった。


「いや、本当に払い忘れただけなので、そんな泣かないでください」


 子供を慰めるように声をかけるが、詩織さんの泣く声は大きくなっていく一方で、なんだか本当に子供みたいだった。


 目の前で跪き、必要以上に謝る詩織さんの姿は、本当は言ってはいけないけど、少し憐れで、それでいて自分に近いものを感じた。なんだか生きづらそうだな、ってそう思った。


 俺はなんとか布団から手を伸ばして、詩織さんの肩を軽くぽんぽんと叩く。


「そんなに気にしないでください。詩織さんが謝る必要ないですよ」


 手で何度も、何度も涙を拭いながら詩織さんは声を震わせながら言う。


「私、人に迷惑ばかりかけて……本当に駄目な人間なんです。その上、臆病で泣き虫で……」


 見た目からは全く想像できないけれど、詩織さんはとても卑屈な性格なのかもしれない。


「何言っているんですか。こうしてお金を返しに来てくれたじゃないですか」


 詩織さんは首を横に振って、否定する。


「返しに来ただけじゃないんです。仕事が見つからなくて、どうすればいいのかアドバイスが欲しくて……頼れる人もいなくて……私。なのに、1さんに迷惑かけていて……」


「そんなの俺も同じですよ」


 嗚咽を漏らしながら喋る詩織さんに、自然と話しかけていた。


 普段の俺だったら気の利いた言葉を何時間探したって出てこないのに、この時だけすぐに出てきた。


「俺も周りに頼れる人がいなくて七年近くひきこもっていたんです。でも、ある人に出会えて変われました。ほら、掲示板にも書いていたでしょ? ネットのゲームで恋をしていたって。引かれるのを覚悟で言いますけど、本気で恋していたんですよ、俺。それで、あの人に会えるぐらい恥ずかしくない自分になりたい、と思ったら意外にも頑張れたんです。まぁ、ニートからコンビニバイトになっただけですけど……」


 コンビニバイトでも俺にとっては大きな一歩だった。その大きな一歩を踏み出せたことを一度でいいからあの人に、シロネコさんにお礼が言いたかった。


「だから、詩織さんも一人で抱え込まず、頼ってください。俺で良ければ……今の状態じゃ厳しいですけど、元気になったらいくらでも相談に乗れますので」


 咳き込みながら言い終わると、詩織さんは涙ぐみながら俺の顔を見た。


「それだと……1さんにもっと迷惑かけてしまうことに……」


 そんなこと気にしなくていいのに、と口元を緩めて俺は言う。


「俺は全然気にしませんから、どんどん頼ってください」


 詩織さんはまたグスグスと泣き始めてしまい、その後に「ありがとうございます」と小さな声が聞こえて、そこで俺は限界を迎えて眠りについた。



 目が覚めた時には外は真っ暗で、二十三時を過ぎていた。


 額には冷却シートが貼られていて、テーブルの上に十万円と風邪薬と置手紙が置いてあることに気付く。


 置手紙にはメールアドレスの他に「冷蔵庫にゼリーが入っているので食べてください 詩織」と書かれていて、俺はしばらくその手紙を手に持ったまま眺めていた。



 翌日から熱が下がっていき、給料日である十日には完全復活。休んでいたことを店長やバイト仲間に謝り、滞納していたガス代も支払い、平穏な日常が戻ってきた。


 あと冷蔵庫に入っていたゼリーがめちゃくちゃ美味かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る