第6話 芸術的
俺、坂上優希(さかがみ ゆうき)は二十八歳にして念願であった異性とのデートを初体験……したかはどうかは怪しいが、デートに限りなく近い何かをしたことには変わりないだろう。
六月十九日。詩織さんと出会った翌日。
布団の上で昨日のことを思い出すと、まるで夢のように思えた。デートに限りなく近い何かではあったが、女性と一緒に歩くことなんてないまま一生を終えることを覚悟していた俺からすれば奇跡に近い。シンデレラも城に行った翌日はこんな気持ちだったのだろうか、なんてメルヘンチックなことを考えてしまうほどだ。……落ち着け、俺はアラサーの男でシンデレラではない。
普段は「バイト行きたくないよ~もっと寝ていたいよ~」と独り言をぶつぶつ言いながら起きるのだが、この日はあっさり布団から出ることができた。
今日はなんだか前向きだ。詩織さんも頑張っているんだし、俺も頑張らなければ。結果的に元気が出たことを考えれば、恋人募集の書き込みをして良かったと思える。酔っぱらっていた俺、ナイス。今朝も見知らぬアダルトサイトの登録確認メールが届いていたけど。
起きてすぐに支度を済ませて、徒歩でバイト先へ向かう。住んでいるアパートから徒歩十五分ほどにあるコンビニは都内にしては利用客が少なく、割と楽な仕事ではある。この日も九時~十七時までシフトが入っており、いつもと変わらない日常が始まった。
「坂上っち、なんか良い事あった?」
レジでぼーっとしている俺にそう話しかけてきたのはバイト仲間の麻島(あさじま)さん。二十代前半の派手な金髪に肌が若干黒くてメイクが濃い女性。つまりギャルだ。最初、麻島さんを見た時はめちゃくちゃ怖かったが、今のようにフレンドリーに話しかけてくれる。バイト仲間の中では一番会話が多いかもしれない。向こうは俺のことをどう思っているのか分からないけど、意外にこういう派手なギャルの方が俺みたいな人間に優しく接してくれるというのはあるあるだと思う。
「え? 顔に出ていた?」
「なんかニヤニヤしてて気持ち悪かったから」
たまに棘のあることを言うが、基本的には優しい人なんだ。嘘ではない。
「サボってないでちゃんとやれ」
俺と麻島さんを注意してきたのが店長。歳は知らないが多分俺と同じぐらいで、パーマのかかった茶髪に長身の男性。言葉遣いも人使いも荒くて、正直苦手なタイプではある。でも嫌いかどうかと訊かれたら、そこまででもないかな。たまにムッとなる時もあるけれど。
「は~い」と麻島さんが欠伸しながら返事をすると、店長は「ったく」と吐き捨てて店の奥へ行ってしまった。
いつも通りにレジを打ち、商品を並べて、店内を清掃する。ただ普段とは違うのは何をしていても昨日の光景を思い浮かべてしまうことだ。詩織さん、めっちゃ綺麗だったなー。
そうこうしているうちに午後五時になり、この日のバイトが終わった。今日はやけに短く感じたし、昨日から調子がいい。
仕事中に詩織さんからメールが届いていて、それを読みながら帰り道を歩く。
『昨日は色々とご迷惑をおかけしてすみませんでした。
1さんと色々な場所に行けて楽しかったです。
パンケーキは甘さと酸味のバランスが絶妙でとても美味しく、あんなに美味しいパンケーキを食べたのは初めてでした。
映画は主人公が親指を立てながらロケットに乗り込むシーンでウルっとしました。それと主題歌が良かったですね!
プラネタリウムは子供の頃によく行っていたので、数年ぶりに行けて良かったです。あの星空は都会ではなかなか見ることができませんよね。小さい頃に鹿児島で見た星空を思い出して、ノスタルジックな気持ちになれました(涙)
美術館もチケット代を出してもらって申し訳なかったです。正直、絵はよく分からなかったのですが、難しい顔をしながら見ている1さんを見て私も勉強しなくちゃ!と思いました。
本当に昨日はありがとうございました。100万円は命にかえてでも必ずお返ししますので、お待ちいただけますと助かります。 詩織』
うん、メールに書いてあることをデート中に言ってほしかった感が半端ないけど、楽しんでもらえたのなら何よりだ。家に帰ったら、真っ先に返信しよう。
女性からメールが送られてきたのが嬉しくて、つい駆け足になってしまう。なんだかネトゲでメッセージのやり取りをしていた頃を思い出すな。
などと、スマホを手に持ちながら浮かれていた時だった。
手からスマホがスポッと抜けて、芸術的な軌道を描いてから道路に落としてしまった。バキッと嫌な音がして、すぐに拾いに行くが、そこに車が通って……
バキバキ!
「う、うわああああああ!?」
俺は叫びながら、スマホの下へ駆け寄る。
五年以上愛用していた俺のスマホは木端微塵になってしまった。いや、一応原型は留めているし、そこまで粉々になっているわけではないけれど。でも画面がヒビだらけになっているし、電源がつかない。困ったってレベルじゃない。
何よりスマホがなければ詩織さんと連絡が取れない。これはまずい。
家に帰らずに、そのまま駅前にあるスマホ修理店に向かった。明らかに年季の入ったビルの中にある、その店はちょっと怪しげではあったが、ビルの前を通る度に「格安!」とでかでか書かれた看板が目に入り、「何かあったらここに来よう」と思っていた。スマホを買った時に補償サービス的なのには入らなかったし、入っていたとしても期限が切れているだろう。公式よりはこういう店の方が安いはずだ。
狭い店内には眼鏡をかけて口元に髭を生やした受付スタッフと思われる三十代くらいの男性が一人だけ。おそらくあの男性が修理するのだろう。
「あの、すみません。スマホを修理してほしいのですが」
俺がスマホを見せながら訊ねると、男性は顔をしかめて「こりゃ酷いなぁ」と呟いた。
「これなら修理より新しい機種に買い替えた方がいいんじゃないかな。いらないなら無料で引き取るけど」
ヒビだらけのスマホを見ながら、呑気な声で言う男性。
「それが中に大事なデータが入っていて……なんとかなりませんかね?」
大事なデータというのは詩織さんのメールアドレスと色々と見られては困る画像フォルダのことである。
「……なんとかならないわけでも、ないが」
「本当ですか! お願いします!」
男性はスマホを受け取り、「そこまで言われちゃ仕方ない。明日の夕方までには直しておこう。修理費は……そうだな」と言って電卓を打ち始めた。
その電卓に表示された数字を見て、俺は腰を抜かして倒れそうになった。
「え? こんなするんですか?」
「あのねぇ、お客さん。画面を交換するだけならともかく電源がつかない原因も探らなきゃいけないの。技術料を含んでこの値段はうちしか無理だよ?」
格安の文字はなんだったのかと一瞬思ってしまったが、確かに俺のスマホは普通の壊れ方ではない。どこもこれくらいするのかもしれない。
「うちで修理するのやめて、公式サポート店に行ってもいいけど、向こうの方が高いよ? 向こうはデータを完全に消されるし、混雑していて順番待ち状態。どうすんの?」
「……お願いします」
俺は財布からなけなしの金を払って修理を頼んだ。正直に言ってしまえば、支払いに使った金は絶対に手をつけてはいけなかった。
何故なら俺も詩織さん同様に催促状が届いているからだ。
明日中に支払わないとガスと水道が止まる。そして今、スマホの修理代を払ったことで両方払えなくなった。
100万円貯まったのが約十日前で、ほぼ全財産だった。それとは別に財布にもある程度入っていたが昨日のデート擬きでほとんど使ってしまっていた。だから、必要最低限の金しか残っていなかったのだ。
仕方ない。ガスや水道が止まろうと、スマホを直すのが最優先だ。スマホがなければ詩織さんと連絡が取れないし、バイトにも支障をきたす。
それにスマホがあればなんとかなる。昨日の帰り道、詩織さんは100万円で滞納している光熱費と母親の治療費を払い、仕事が見つかるまでの間に必要な生活費を引いた分はすぐ返しますと言っていた。貸してから二日で返してほしいと言うのは恥ずかしいが、返してもらった金でガス代と水道代を払えばOKだ。
問題は修理が終わるのが明日の夕方ということ。ギリギリすぎるし、普通即日で直せるものじゃないのか。と言ってもあの状態じゃ無理か。
とにかく詩織さんが明日の夕方以降空いているかどうか分からないのが怖すぎる。詩織さん頼みではなく、俺の方でも出来る限りなんとかしてみようと思う。
急いで家に帰り、大量の漫画本を中古を扱う本屋に持っていき、買取に出してみた。
「いやぁ~、どれも値段つかないっスね」
バイトの若い男性は苦笑いしながら、そう言った。
撤退。
プランBに移行する。
「いらっしゃいませ~……ってお前かよ」
バイト先に戻った俺を見て、店長は眉間を寄せた。
「あのすみませんが、お金を貸していただけないでしょうか?」
「は?」
店内には他のバイト仲間がいたので、俺と店長だけで休憩室に行き、二人で話す。
「お前、いきなり金貸せってどういうことだよ。なんか理由でもあんのか?」
「それが……」
俺は店長に「ネットで出会った女性に金を貸したが、スマホの修理代で光熱費が払えなくなった」とダイレクトに言った。流石に恋人募集や詩織さんの家のことなどは話さなかったが。
「坂上……お前……」
店長は目を大きく見開いて、俺を見る。
「やっぱり馬鹿だわ、お前」
「はい?」
呆れたような顔で俺を見る店長。
「お前、その女に騙されたんだよ! つーかネットで知り合った女性に金を貸すか、普通」
「いや……本当に困っていたようですし、騙されてもいないかと……」
「騙された、騙されてないとかこの際どうでもいいわ! 初対面の奴に金を貸すことが問題なの!」
詩織さんはそんな人間ではないと思うが、確かに店長の言っていることは正しい。
「で? その女にいくら貸したわけ?」
「えっと……10万……?」
この流れで「100万貸した」なんて言えず、嘘をついた。
「じゅ、10万!? お前……本当なにやってんだよ……」
俺は涙ぐみながら店長に抱きついた。
「お願いします! この袋に入っている漫画全部あげますから!」
「やめろ、抱きつくな! それにお前、マイナーな漫画しか読まねぇだろ!」
散々、やり取りをした後、店長は頭を掻きむしりながら財布を取り出した。
「あ~分かった! 1万円だけな!」
そう言って一万円札を俺に差し出した店長は、今まで見てきたどのツンデレヒロインよりも光り輝いて見えた。
「ありがとうございます!」
「絶対に返せよ!」
これでガス代か水道代のどちらかは払えるようになった。ちなみにプランCは存在しない。やれることは全てやった。あとは詩織さん頼みである。
翌日、バイトを終えた俺はスマホ修理店に駆け足で向かった。
「昨日、スマホの修理を頼んだ坂上ですけど」
「あぁ、坂上さんね。ちょっと待っていて」
店奥でごそごそと音がした後、戻ってきた男性の手にはスマホがあった。
画面にヒビがなく、新品のように見える。
「一日で直ったんですね! ありがとうございます!」
「いやぁ、久々に徹夜で頑張ったよ。感謝してくれよな」
俺は早速、スマホの電源を入れてみた……が、なんか画面が黄ばんでいるように見える。
そして何よりも――データが消えていた。
「あのデータが消えているんですけど……?」
「あぁ、なんか芸術的な壊れ方していてデータは戻らなかったんだ。ごめんね」
てへぺろ☆みたいな言い方をする男性に俺は食らいつくように言う。
「ごめんね☆じゃなくてデータがないと困るんですけど!」
「うちは非正規の店だし、失敗することもあるわけよ。それにちゃんとここに書いてあるでしょ」
開き直りながら男性は壁に貼ってあるポスターを指差した。そこには小さく不測の事態が起きても一切責任を負わない的な文章が長々と書かれていた。
「いやいや、こういうのは最初に言っておくものでしょ!」
「私は最初に言いましたよね?」
いや、言ってない。
けれど、ここで水掛け論を繰り広げたところで何も進展しない。
確かなのは、最後の頼みであった詩織さんとの連絡手段を失ったこと。
正確には俺の使っていたメールアドレスはネット上に存在するフリーメールアドレスで、メールを確認するのにもログインが必要だ。いつもログインする時にパスワードを直接入力せず、スマホの指紋認証で自動的に入力していた。俺自身はパスワードを暗記しておらず、全て指紋認証に任せっきりだったから、そのデータが消えてしまった今、詩織さんとのやり取りを確認することも、向こうからのメールを待つこともできない。つまり……、
――詩織さんとの連絡手段が完全に断たれてしまった。
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