第10話 Day-6.病院
夢を、見ていた。
柔らかな新緑の匂い。あたたかい春の日差しに露がきらきらと光る。私を撫でる人。前髪に隠れて表情はわからないけれど、口元は微笑んでいる。ありがとう、と囁くような声が聞こえる。パパ……?いや違う。やや灰がかった髪をかきあげる。トパーズの瞳が陽光を受けた。なんて強い。きっとその目には、美しい世界が映っているのだろう。大きな背中を見送る。何故だか、胸がいっぱいになった。
***
「マリア、大丈夫かい。」
さっきの夢と同じ声だ。肩に置かれた手からじんわり温もりが伝わる。ああ、この人は……
「パパ?ごめんなさい、私眠っちゃったみたい。」
「気分はどうだ?」
そういえば、引きずり込まれるような眠気は消えている。頭の奥にかかっていた靄が晴れたようだった。
「大丈夫。なんだかとってもスッキリしてる。」
ベッドの端から、安心したような吐息が漏れた。
「パパが、治してくれたの?」
なんだかそんな気がしていた。この人の近くにいると、不思議なほど安心感がある。
「いや、私はお祈りしただけだよ。」
「だれに?」
「神様。」
マリアが、顔をしかめた。神様はきらいだ。望めば望むほど、辛い現実を突きつけてくる。祈っても祈っても、大好きな人たちが帰ってくることだってなかった。
「わたし、神様って好きじゃないわ。」
「おや、どうして。」
「だって、ひどいこといっぱいするじゃない。」
隣の病室の子も、向かいの病室の子も、両親が迎えに来て退院していった。自分にそんな日が訪れることはないのだとわかっていても寂しくてしょうがなかった。もし神様がいるのだとしたら、なぜこんなことをするのだろうと恨んでさえいた。
「そうかもしれないな。しかし、わたしも神様から使わされてきたんだよ。」
びっくりした。そんな、お伽話みたいなことが起こるなんて。
「マリア、すまない。私は嘘をついていたんだ。」
「うそ?」
そんなこと言ったら、私だってウソツキだ。
「私は、君のパパではないんだ。」
ごめんなさい。こんな真っ直ぐな人に、ずっと嘘をつかせていたなんて。
「……知ってたわ。」
「そうか。」
彼の声の端に、安堵が漏れる。どうして怒らないのだろう。私がパパのふりをさせていたのに。教会で神様に懺悔をするように、心の内を吐き出した。
本当のパパとママは去年亡くなったこと、自分のわがままで事故に遭ってしまったこと、どうしてもピアノの発表会を聞いて欲しかったこと、家族の時間が欲しかったこと、一緒のベッドで眠りたかったこと。
頬に添えられた手と、ひとつひとつに答えてくれる相づちが温かくて優しくて、ポロポロと涙と後悔が溢れてしまう。
「マリア。」
名前を呼ばれると、胸が苦しい。大好きなパパの声、違う人だけど、それでもやっぱり好きだった。いや、この人のことが大好きなのだ。
「ありがとう、パパ。大好きよ。」
「ああ、私も、君のことが大好きだ。ありがとう。」
ぎゅ、と抱きしめられる。お日様の匂いがした。このままずっとこうしていられたらいいのにと思うけれど、それは叶わないのだということは何となくわかっていた。ゆっくり、ぬくもりが離れていく。
「さあ、そろそろ仕事に戻らなくてはいけない。君が元気になって良かった。」
泣いているのだろうか?声が震えている。わたしと同じように、ずっと一緒にいられたらと思ってくれていたらいいのに。
「パパは、何のお仕事をしているの?」
「神様にお仕えしているんだ。」
「それじゃ、天使さまってこと?」
「同僚には自分のことを、そう呼ぶものもいるな。」
少しはにかんだ様子がくすぐったい。きっと、他の天使さまたちのことをとても大事にしているのだろう。彼と共に過ごせる人たちが、羨ましい。
「……また、会える?」
どんな形でもいい。声が聞こえなくても良い。
両手をそっと包みこまれた。少しもゆるぎない穏やかな心地の良い音が降ってくる。
「君が、空を見上げれば。」
今の私には、空を見ることができない。手術しても、治るかわからない。不安で力を込めた手を、もう一度握り返される。
「大丈夫、明日の手術はきっと成功する。君の目が治ったら、夜の空を見上げてごらん。オリオン座の右の肩、一等あかるい星が見える。それが、私の星だ。」
その星のことは、よく知っていた。冬の夜空で一番有名な星座の、いちばんきれいな星。赤く大きく輝くオリオン座の一等星。
「……ベテルギウス?」
彼が嬉しそうに笑った、気がした。
「そうだ、君は物知りだね。君が生きている間は、ずっと光り続けているだろうから」
とても喜んでくれているのが分かって、自分も嬉しくなる。彼は天使さまというよりお星さまだったのだ。
そっとたいせつなものに触れるように、頭を撫でられる。人は幸せがあふれると泣きたくなるということを、初めて知った。胸がいっぱいで頷くことしかできない。
「マリア、この世界は美しい。前を向いて生きていきなさい。」
夢で見た、トパーズの瞳を思い出す。彼と同じ世界を見たい、と心から思った。
「わかった。わたし、ピアノがんばるから、聞いていてね。」
「ああ、もちろんだ。」
星は、太陽の光で見えなくてもそこにあるんだよ。といつかパパが教えてくれた。いつも空に彼がいる。そう考えるだけで、勇気が湧いてくる。大丈夫、ひとりだけど独りじゃない。
「約束よ。」
「ああ、約束だ。」
やさしい嘘つきたちの、秘密の約束。オリオン座のベテルギウスは、小さな体をもう一度しっかりと抱きしめた。文字通り魂を分け合った、星と少女の最期の言葉が交わされる。
「さよなら、マリア。」
「さよなら、パパ。」
地上の誰にも知られることなく、ただ静かにその奇跡は起きた。ベテルギウスが去った後の病室に、甘い芳香が残る。マリアは、いつまでも花のような香りに包まれていた。朝日が昇る頃、彼女が幸せな夢に誘われるまで。星の欠片が冬暁の光を浴びて、きらきらと反射する。中庭の白い椿が、綻んだ。
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