第9話-2 Day-6.事務所

***


 視界が、ぼやける。どのくらい意識を失っていたのだろう。まだふらつく頭を無理やり起こし、時計に目をやれば、半時も経っていなかった。しかし、このわずかな時間がどれほどの意味を持っているか、シリウスにはわかっていた。蝋燭棟に繋がる扉は、ぴったりと閉ざされている。普段と変わらないその様子が、かえって恐ろしさを助長していた。

 ずるり。体を引きずって蝋燭棟へ向かう。足がうまく動かない。無数の蝋燭の中、明らかに他とは違うものを見つけた。二〇八七〇七番“金村マリア”。昨日の夜回収されるはずだった燃え尽きた蝋燭は、柔らかい満月のような白と、金が混ざった美しい姿へと変貌していた。嫌な予感は、最悪の形で的中した。


 蝋の移植。それは魂を分け与えることと同等の意味を持つ。天から与えられた寿命を意図的に変化させる行為。大罪だ。そして、蝋を移植したものの寿命は尽きてしまう。せんせい、と呟いてシリウスは力の入らない足で駆け出した。


 管理棟の事務所を出ると、真っ白い廊下が続く。壁には植物の蔦のような模様が彫刻され、金色のモールドが縁取りをする。高い天井は夜空を移しているが、暖かく柔らかな光を届けている。壁にすがりながら、天と現世を繋ぐ扉へと急ぐ。もしかしたら、まだ間に合うかもしれない。

 薬が残っているのか、うまく焦点の合わない目を擦り、いうことの聞かない体を意志の力だけで動かす。手が壁を掴み損ねた。そのまま床に投げ出される。握りしめていた眼鏡がカラカラと音を立てて転がった。

「先輩?!」

驚いた声の方から、誰かが走り寄ってくるのが見える。声から察するに、オリオン座のリゲルだ。さっきの連絡から、ずいぶん時間が経っている。

「ちょっとやばい!先輩?!生きてますか?いや待って生きてないけど、生きてますか?!」


 任務から帰ってきたばかりなのだろう。廊下にはヒヤリとした空気が残っていた。

「お前、先生を見なかったか」

「え、先生なら今ここで会いましたけど……。」

「どっちに行った」

あっちに歩いて行きましたよ、とリゲルが指差した方には、現世への扉があった。間に合わなかった。

「どこへ行った」

「え、わからないです。」

リゲルの顔に困惑の色が浮かんでいる。先生は、何も告げずに去ったようだった。シリウスが深く項垂れる。

「くそ……何なんだよ一体……」

答えの得られない呟きが、真っ白い廊下に飲まれていく。やっとピントの合ってきた目が、リゲルの泣き出しそうな顔を映した。

「どうしたんですか?」

「……それは俺が聞きたいよ。」

そう答えるのがやっとだった。事実、何もわからない。ただ、先生が大罪を冒して天界を後にしてしまったということ以外は。


「事務所に戻ろう。とにかく上に報告しないと」

「何が、あったんですか?」

「まだよくわからない。でも、お前も巻き込むことになると思う。ごめんな。」

 願わくば、北の空全員でリゲルを送り出してやりたかった。先生とプロキオンと彼女が大好きだった料理を用意して。それも、もう叶わない。

「顔、真っ青ですよ。休んだ方がいいですよ。」

心配そうに顔を覗き込んでくる彼女には、何が起きているのか全く想像も付いていないだろう。しかし今は、一人ではないということだけが救いだった。

 先生から貰った眼鏡と手袋を握りしめる。彼から任された仕事を、投げ出すわけにはいかない。

「いや、俺がやらないと。俺がやらなきゃいけないことなんだ。」

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