第8話-3 Day-6.管理棟
***
本当は、最初から嫌な予感がしていた。先生に君に任せてよかったと言ってもらえたのは、素直に嬉しかった。彼は、お世辞を言えない人物だということを知っている。だから、後継者として認めてもらえているという事が、ただ誇らしかった。しかしなぜか、漠然とした不安に襲われてしまったのだ。
「それで、本当に今日はどうしたんですか?やっぱり、抜き打ちですか?」
いや、と返す先生の目は、どこか遠いところを見ているように見えた。
「ああ、夕飯のリクエストですか?今日は、プロキオンがどこかからレモンを持ってきてくれたので、レモンジンジャーソースでも作ってみようかと思っていたんですが。」
背後から迫ってくる影をはねのけるように、日常を引き止める。今日もみんなで食卓を囲むはずなのだ。リゲルとプロキオンと、そして先生と。そうだ、リゲルの満期のお祝いをしなければ。嫌な予感は、予感のまま過ぎてしまえばいい。
ややあって、ベテルギウスの目がこちらに向いた。強い、意志の宿った黄玉がシリウスを捕らえる。
「実は、君に頼みたいことがあってね。」
「なんでしょう?」
いつもどおりの返事をするのに必死だった。白々しいな、と自分でも思う。
「管理棟を開けてくれないか?」
思いもよらない言葉だった。管理者でなければ立ち入ることを許されない、いのちの聖地。前任者であれ、厳重に制限がかかることを彼はよく知っているはずだ。
もしかしたら、自分がなにか重大なミスを冒したのではないだろうか。背中に冷や汗が伝った。
「確認したい蝋燭があるんだ。」
「もしかして、僕何か見落としてました……?」
「昨日、一つ消える筈だった蝋燭があるだろう。」
昨日の巡回業務は、滞りなく終了した。深夜に行われる任務は、翌日確認するのが慣例だった。
「ああ、ありますね。確か最初からすごく短かったやつ。」
「それを確認させてもらえないか。」
バサバサと蝋燭の管理簿をめくる。見つけた。幾多の蝋燭の中でも、特に印象的だったひとつ。二〇八七〇七番“金村マリア”。
途端、シリウスの目が大きく見開かれた。蝋燭番号が赤く変化している。『未回収』の印だ。
「……それ、まだ回収されてないですね。」
心臓が早鐘を打つ。指定日に回収されない魂は、死神に喰われる可能性が非常に高くなる。そうなってしまえば魂は消滅し、巡ることは叶わなくなる。
「すみません!ちゃんと回収の確認までしていませんでした。まずいな、もう一日経っちゃうのに。……あれ?」
初めは、見間違いかとも思った。行がずれているのではないか、番号が違っているのではないか。何度確認しても、その名前は、そこにあった。
『回収担当 オリオン座α星 半規則型変光星 ベテルギウス』
周りの空気が一気に薄くなった気がした。
「……どうした?」
落ち着いた声が、聞こえる。管理簿から顔をあげた先に見える人物は、驚くほど静かだ。
「いや、これ、担当が先生の名前になってるんですけど、」
なんの返答もない。じっとこちらを見ていた少し色素の薄い瞳が伏せられる。ヒュッと喉が詰まった。
「おかしいですよね、先生、こっちの総括ですもんね。魂の回収はやらないですよね。」
嘘だ。書類を渡したのは自分なのだ。出かけていく背中を見送ったのも、自分だ。
「万が一担当が先生だったとしても、間違いですよね。先生が回収し忘れる事なんてありえないですよね。」
どこからか、ありえないことはありえないのよ、という声が聞こえた気がした。聞いたことのある、でも知らない声だ。頭の中が真っ白になる。目の奥に、かすかな痛みを覚えた。
ただゆっくりと瞬きをするベテルギウスは、何も答えない。
「……先生?」
レンズ越しに、目が合う。深い深い、複雑な色の目だ。彼は、もうどこか別の世界に行ってしまっているように見えた。
「間違いではない。」
先生に限って、そんなことはあり得ない。誰よりも、星と、蝋燭と、この世界を愛していたオリオン座の一等星が天命に背いたなどと誰が考えるだろうか。
「何か、あったんですか?」
「詳しく話している時間はない。蝋燭はこの先だったな。」
マントの端を残し、ベテルギウスが迷うことなく歩を進める。この先は、管理者以外立ち入り禁止の区域だ。天の指揮者であるカノープスの許可がなければ、たとえ統括と言えど出入りすることは許されない。
「待ってください。先生、何をするつもりですか」
その背を追いかけ、回り込んで進路を遮る。相対する師匠の眉間に深い皺が刻まれた。
「君には関係のないことだ。」
彼の目に、自分が映っていないことは明白だった。しかし、引き下がるわけにはいかなかった。
「関係ありますよ!僕は、蝋燭の管理者です。」
その証拠である白い手袋は、ベテルギウスが注文してくれた揃いのものだ。誓って、その名に恥じることは出来ない。
「君は何も知らなかったと言えばいい。」
「やっぱり、何かおかしいですよ。先生、どうしたんですか。」
シリウス、と深く響く声で名前を呼ばれ、動きを止める。よく知っているはずなのに、まるで知らない人のような顔をしたベテルギウスがそこにいた。この人は、誰だ……?
「いのちの蝋燭は、何できているか知っているか。」
「え?ええ。……人間の魂ですよね。」
現世に生きる人間は、その生を受けた時に寿命の長さを持ったいのちの蝋燭が現れる。それに灯る炎は魂の生命力を示し、火か消えるか蝋が尽きれば現世での生は終わりとされる。蝋燭は命そのものなのだ。
「だとしたら、我々星の魂も蝋燭になり得るということだな。」
星は、元は現世の人間だ。燃え尽きた蝋は魂に固定され、転生する際には蝋燭棟へ帰っていく。
シリウスの思考が、一つの可能性にたどり着く。大罪だ。星は、蝋燭に触れることは許されない。管理者が白い手袋を着用しているのも、業務中に接触してしまう危険を避けるためだ。心臓の、音がうるさい。
「先生、まさか蝋燭を伸ばす気ですか……」
漠然とした不安は、はっきりと形を持ってシリウスに覆いかぶさった。
この人は、消えるつもりだ。直感的にわかった。わかって、しまった。ずっと、彼を追いかけてきたのだから。自分がなんと言おうと、何度止めようとその意志が揺らぐことはないと知っている。
すまない、と目を伏せるベテルギウスにシリウスが縋りついた。
「駄目です。僕はあなたに落ちてほしくない。」
「……私は、彼女を二度も死なせるわけにはいかないんだ。」
二度もという言葉に疑問を持った瞬間、視界が歪んだ。足元がふらついて、立っていられない。ぐらぐらする頭を抱えながら床に膝をつく。衝撃で眼鏡が滑り落ちた。
「……先生?」
ぐにゃりとした視界の隅に、労いのコーヒーを捉えた。嘘だと言ってほしかった。口の中が苦い。
「すまない、シリウス。」
横を通りすぎていくマントの端に、手が届かない。
薄れゆく意識の中、シリウスは自分の叫び声を聞いた。
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