第7話-4 Day-6.病院

***


 マリアの病室から足早に立ち去り、天界へと足を向ける。もう一刻の猶予も残されていないのだ。早く、早くしなければ。

 薄暗い病院の廊下に出たところに、黒い影が質量を持って佇んでいた。濃い闇の中から、ずるりと長い紺色のマントが現れる。彗星だ。

「金村マリアの魂を、回収してください。」

透明な声で見えない壁を作るように、彗星が行く手を阻む。

「貴様、いつのまに。」

「あなたが何をしようとしているのか、わかっています。」

青い瞳がベテルギウスを射抜く。その眼差しは鋭く、冷たい冬の空を思い出させた。

「そこをどいてくれ」

押し通ろうとしたオリオン座の一等星だった男を、夜色のマントが遮る。

「金村マリアの魂を、回収してください。」

「聞こえなかったのか、私はどけと言ったんだ。」

 ベテルギウスが声を荒げる。地上で生きていた時でさえ、こんなに攻撃的な声を上げたことはなかった。彼の頭の中は、あの日の光景で埋め尽くされていた。


 病室。カーテン。祈り。届かなかった祈り。

 それはまるで、白百合のような人だった。凛として、透明で、かすかな憂いを含んで。彼女から発せられるすべてのことが、この世界に彩りを与えた。花は綻び、雨音は歌に変わり、陽光は闇を照らす。彼女の頬に落ちる木陰ですら、愛おしい。「この世界は、美しい。」と教えてくれた人だった。

「あなたは、金村マリアに干渉しすぎている。」

「わかっている。」

「あなたは、天則を侵している。」

「そんなこと、どうでもいい。」

「あなたは、天命に背くのか。」

「今はそれどころじゃないんだ。」

「目を覚ませ!あなたは星だ。」

「星だから、何だというんだ!なぜ私を止める。」

 二度も、目の前で失うことは出来なかった。しかも、娘と同じ病気で。


 神よ、なぜ彼女たちを幸せにしてくれないのですか。

  

「それが私の使命だからです。」

「使命だと……?」

 彼が冷静であったなら、ハレー彗星の目が、微かに夏の夕暮れの悲哀を含んだ事に気付いただろう。しかし、星としての自我を失ったベテルギウスには、なぜ彗星が自分を止めようとするのかわからなかった。

「お前に一体何がわかる。」

 絞り出された声は獣の呻きにも似て、穏やかであったはずの顔には険しく皺がよせられている。その顔を見た彗星は、小さく息を吐き、ベテルギウスと向かい合った。

「わかりますよ、誰よりも。」

ぴくりとベテルギウスの眉が跳ねた。


 星を監視する役目を負った者が、愛しいものを想う気持ちを理解できるはずがない。そう、思っていた。その瞳に既視感を覚えるまでは。

「あなたの気持ちは、私が一番よくわかると言ったのです。」

 目の前にいる女性は、ベテルギウスではなく、もっと遠いところを見ているように見えた。彼女の視線に一瞬、懐かしさを感じる。

「お前は……なんだ……?」

 思わず零れた問いに応えるように、悲しみを湛えたサファイアブルーが伏せられた。


「……私は、落ちた星です。」

頭の奥がすっと冷えた。彗星が落ちた星であるならば、それはあまりにも重い罪だ。誰からも忌み嫌われ、災厄の象徴だと言われ、永遠に天を巡り続けることになる。

 窓から差し込む月光が、くっきりと彗星の輪郭を浮かび上がらせた。無機質に照らし出された表情からは何も読み取ることはできない。いや、読み取らせないようにしているように見えた。ただその瞳だけが、彼女の心に秘めた想いを雄弁に物語っていた。

 サファイアは、含有する物質が違えばルビーになるという。その青い瞳の奥には、紅い煌めきが隠れていたのだ。

 

 すぅ、と息を吸い込んでハレーが語る。

「私は、あなたと同じ罪を犯して“星”としての機能を失った。今からあなたがすることを見逃せば、あなたは私と同じ彗星になる資格も与えられず、天から落ちてその魂ごと消えることになる。」

星であった彼女からの言葉は、痛いほどの感情を伴っていた。

「あなたは、転生の機会をも失う。星の名前を残すことも出来なくなる。それほどの罪なのです。」


 星は、その名前を継承する。夜空の星は、その名が受け継がれるかぎり輝き続けることができる。それは裏を返せば、名を残さず燃え尽きた星は、天から消えるということを指していた。


 天落、二度目の死。魂の巡りからは外れ、塵ひとつも残らない。ふ、とベテルギウスの口元に力のない笑みが漏れた。本当は、あの時終りになるはずだった。それならば……

「……なるほど、それも良いだろう。」

 彗星の表情が崩れる。深い憐れみをもって、それでもなお打開の道を探っているように見えた。

「考えを、改めてはいただけませんか?」

「そのつもりはない。」

「落ちても、構わないのですか?」

「私の魂は、消えることはない。」

 たとえ、夜空から”オリオン座のベテルギウス”が消えたとしても、この命は生き続けるだろう。その確信があった。


やり場のない無念さを押し込めるように、ハレー彗星のマントが弧を描いた。

「……残念です。」

 柔らかな、甘い香りを残してベテルギウスの背が闇の中に溶けていく。いつまでも漂う残り香を纏いながら、ハレー彗星は天を仰いだ。今夜は、月がまぶしい。月の光に照らされて、星たちはその姿を失ってしまっていた。

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