第4話-2 Day -7.病院

***


 人は死ぬと星になる、と教えてくれたのは誰だっただろうか。もしそれが本当なら、今本を読んでくれているのは誰なのだろう。宮沢賢治の「双子の星」、夜空の星座を双子の兄弟がめぐっていく、マリアの大好きな童話。

 父親と同じ声をしている不思議な人は、思ったより朗読がうまい。落ち着いた、静かな声でほしめぐりが紡がれていく。これが夢なのだとしたら、目が覚めない方が幸せなのかもしれない。

 マリアは、隣に座る“誰か”の服をぎゅっと握りしめた。どうしたのかと問うように、背中に置かれた手が温かい。ウソをついたことが知れたら、嫌われてしまうだろうか。パパのフリをしてくれているこの優しい人には、もう会えなくなってしまうだろうか。知らない人だとわかっているのに、何故だかとても安心する。まるで、昔からよく知っている人のように。


 ふたごの星は、めいめいのお宮に昇り、東の空が黄金色になって夜明けを迎えた。早朝の空を「金色」にするこの話の終りが、マリアはとても好きだった。

「ああ、とっても素敵なお話だった。私ね、この星めぐりの歌大好きなの。」

そうか、と優しい声で返される。彼が答えてくれることが、たまらなく嬉しかった。

「歌も覚えてるのよ」

今は見ることのできない夜空の星を思い浮かべながら、星めぐりの歌を口ずさむ。


あかいめだまのさそり

ひろげた鷲のつばさ

あおい目玉の子犬

ひかりのヘビのとぐろ

オリオンは高く歌い

つゆと霜とを落とす


この歌を歌うと、頭の中にどこかの風景が浮かぶ。窓際。花瓶。白い百合。カーテン。声。不思議な感覚だが、嫌な気持ちになることはないので特に気にしなかった。そう言えば、この人の声はあの声にも似ている。

「……きれいな声だ。」

「ほんと?」

「ああ」

 目が見えなくても、彼が微笑んでいるのが分かる。今までに感じたことの無い多幸感がマリアの胸いっぱいに広がった。魂が喜んでいるようだった。まったりとした幸せに包まれた体が眠気を誘ったのか、まぶたが重たくなってきた。ああ、勿体ない。もっと話していたいのに。


***


 人は死ぬと星になる、というお伽噺が真実だと知ったのは十五年ほど前のことだっただろうか。妻に先立たれ、男手ひとつで育てることを決意した一人娘も脳腫瘍で亡くし、世界を呪うかのように生きていた。最後の記憶は何だっただろうか。あの天井は、どこだったのだろうか。

 傍らで瞼をこする十歳の少女は、小さく欠伸をした。眠気に逆らう少女をなだめ、明日の約束をする。来るはずのなかった明日を、迎えさせてしまう。胸に咲く白百合が、彼女の寿命が尽きていることを美しく見せつけている。彼女のいのちの蝋燭はすでに燃え尽きようとしていた。


「……私も、死んだら天使になれるのかな?」

うとうととつぶやくマリアに布団をかけ、頭を撫でる。ふふ、とほほ笑んだ口元に、彼女の面影を感じてしまう。きっとこれは、神の悪戯か悪魔の仕業なのだろう。幸せな時間を過ごしてもらいたい。そう願うのは間違いであると、ベテルギウスは知っている。わかっていても抗えないものが、世の中にはあるのだ。

「さあ、おやすみ。」

オリオン座の一等星ベテルギウスは、その花を摘み取ることなくマリアの病室を後にした。


 このままでは、もってあと一日。魂を回収されなければ死神に食われてしまうかもしれない。死神に食われた魂は消滅してしまう。それだけは絶対に避けたかった。

 病院の長い階段を抜け、中庭に降りる。月の明かりが葉の少なくなった木々をくっきりと映し出していた。絡み合う枝の影がベテルギウスにまとわりつく。曲がりくねった青鈍色の格子から逃げるように、月に背を向けた。


「彼女の寿命は、尽きているはずですよ。」


 誰もいないはずの闇の中から響いた硝子のような声に眉を顰め、ぐるりと周囲を見渡す。中庭にぽつりと伸びた外灯の下、浮かび上がったのは一人の女性だった。

 星のない夜空のようなドレスに身を包み、顔には黒いレースのヴェールが影を作っている。その佇まいはこれからヴァージンロードに歩を進めんとする花嫁か、あるいは墓標に祈りを捧げる修道女の様にも見え、うっすらと笑みを浮かべた口元だけが嫌に目立ってその異質さを際立たせていた。

「こんばんは。オリオン一等、ベテルギウス。」

りん、と煌めく声に名を呼ばれ、ベテルギウスの眉間の皺がさらに深くなる。しかし闇の中をどう探っても、夜に溶け込んだ女性の顔を伺うことはできなかった。


「何者だ。なぜ天と星しか知り得ない情報を知っている。」

「そんなに怖い顔しないでくださいよ。はじめまして、私はハレー。」

 黒いヴェールがするりと肩に滑り、サファイアの瞳に捉えられる。ベテルギウスの背筋に、ぞくりとしたものが走った。あまりに美しいものは恐怖さえも感じさせる。


「ハレー……まさか、彗星か。」

「よく、ご存知ですね。」

唇が、赤い三日月を形作った。忌み嫌うべき存在のはずなのに、彼女から目を離すことができない。

「聞いたことがある。星が落ちるときに、迎えに来るものがいると。」


 “落ちる”。それは星にとっての二度目の死を意味する。

 天の規則に背き、大罪を犯したものに課せられる最も重い刑『天落』を、星たちは恐怖と自戒を込めてこう表現するのだ。落ちた星は、転生することも夜空に輝くこともできず、魂は燃え尽きて消滅する。その手引きをするのが『彗星』だと、星の輝きを亡くし夜の闇に引きずり込むのだと、天界では都市伝説のように語られていた。


「いやだな、それは悪評ですよ。正しくは『星を監視する星』です。」

ベテルギウスの顔が、怪訝な表情に変わる。それを見た彗星は一瞬目を伏せ、哀しげな青い眼を彼に向け、憂いを含んだ声でこう告げた。

「あなたは、天の規則に抵触している。」


それは、俄には信じられない言葉だった。あの日、春の優しい木漏れ日の中で見た美しい世界を守り抜くとあの人と約束して天に昇った。その誓いが破られてしまったというのだろうか。

「私は、落ちてなどいない。」

 じわりと湧いた不穏な考えを撥ね付けるように言葉を発しても、月影に吸い込まれてしまう。父親のふりをし、金村マリアの魂を回収しなかったことは紛れもない事実なのだ。天の統治者である北極星の透明な声が蘇った。


――たいせつなものはね、時に心を縛ってしまうことがあるの。


 病室に揺れる白百合と、マリアの笑顔が頭をよぎる。

「猶予は明日の夜。ゆめゆめ、変な気を起こされぬよう。」

 視界の隅で黒いレースと夜空色のマントがふわりと翻り、暗がりへと溶けた。

 絡み合った枝の影が、深い闇の中からベテルギウスに手を差し出している。ジリと後ずさり、踵を返した純白のマントの裾は、灰色に汚れていた。

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