第4話-1 Day -7.病院
Day -7.病院
病院の夜は意外とうるさい。家を思い出して泣く子供の声、ナースコールに駆け回る看護師の足音、窓の向こうから届く救急車のサイレン。様々な音がマリアを取り囲む。目が見えない分、周りの音に敏感になっているのだ。また今日も眠れないな、とため息をついて少女は硬いベッドに潜り込んだ。明後日の今頃は、手術が終わっているだろうか。麻酔の深い眠りから、目が覚めてしまうのだろうか。漠然とした不安がマリアを包み込む。神様は意地悪だ。手を握って欲しくても、望む相手はもういない。光を捉えないマリアの目の奥がじんわりと熱くなった。泣いちゃダメ。全部私のせいなんだから。そう心の中で何度も繰り返し、震える手を自分で包み込んだ。その時だった。
ベッドの傍に、ふんわりと温かい空気を感じた。看護師だろうか?いや、ドアの開く音は聞こえなかった。マリアが眠っていると思ったのだろう。傍に立つ“なにか”はポツリと言葉を漏らした。
「十歳とは、気の毒に。だがこれも天命だ。来世では、幸せに」
息が止まりそうだった。その声は、大好きなあの人にそっくりだった。もう聞くことができない、きらきら星変奏曲を弾くことを喜んでくれたあの声に。
「おやすみ」
何度となく聞いた声。いつもマリアが眠れない時、不安を取り除いてくれた、あの優しい声だった。
「パパ?」
話しかけたら消えてしまうだろうか。それでも、声をかけずにいられなかった。
「……私の声が聞こえるのか。」
「いやだパパ、何変なこと言ってるの?ちゃんと聞こえるよ。」
もっと声が聞きたい。たとえ本人じゃなくても構わない。
「これは、驚いた。」
「驚いたのはこっちよ。こんな夜遅くに来るなんて。看護師さん達に怒られなかった?」
どうか、どうか声を聞かせて。ほんのちょっとでいいから。
***
オリオン座のベテルギウスは、伸ばした手を止めた。眠っていると思っていた少女に声をかけられたからではない。そういう事は、過去何度かあった。「星」は寿命を迎えた魂を回収するのが仕事であるが、魂の波長が合ったり第六感が強い人間には見えてしまうこともある。長く「星」を務めている彼にとって、姿や声を認識されるのは些細な出来事に過ぎなかった。いのちの蝋燭の管理を信頼する部下に任せ、数年ぶりに魂の回収任務に就いたベテルギウスの手を止めたのは、少女の胸に咲く花だった。一輪の白い百合。
現世にある人間の魂は、花の形を取る。星は、その花を摘み取って天に運ぶのだ。花の種類は人生を模していると言われている。白百合は、ベテルギウスにとって特別な意味を持つ花だった。凛として、透明で、かすかな憂いを含んで。柔らかな春の雨のように笑うあの人を思い出させた。きっと、彼女の花も白い百合だったに違いない。そんなことを考えている間に、魂を回収されるはずだった少女がベッドに起き上がっていた。脳腫瘍により視界を失っているためか、父親の声だと勘違いをしたのだろう。「パパ」と呼び、親しげに語りかけてくるその姿が今度は向日葵のような笑顔と重なった。今日はいやに昔のことを思い出す。
「そうだ。私、パパが来てくれたら読んでほしい本があったのよ。どこだったかなぁ?」
回収の対象者、金村マリアがぴょんとベッドから飛び降りる。目が見えないことを構いもしない大胆な動きに驚きつつも、彼女の仕草や言動が二十年前に亡くした一人娘をいちいち思い起こさせて目が離せなかった。ベッドの手すりを持っていた手が外れ、マリアの足元がふらつく。とっさに体が動いた。手を伸ばし、傾いた身体を受け止める。小さな手とベテルギウスの手が重なった。瞬間、景色が変わった。
病院。点滴。窓。カーテン。声。名前を呼ぶ声。健二さん。満。ごめんね。大丈夫。今日は星座がよく見えるわ。あれは?オリオン座。それくらいしか知らないの。私もだ。健二さん、満を幸せにしてあげてね。約束しよう。夜風。髪がなびく。祈り。陽光。届かない祈り。窓際。花瓶。白い百合。カーテン。声。微かな声。ありがとう。笑顔。さようなら。
最初は何が起きたのかわからなかった。あたりは夜の病室に戻っている。首をかしげる少女をベッドに座らせ、先ほど起きた出来事を反芻する。あれは、遠い記憶。胸の奥に焼きついた最愛の人との別れの記憶。耳にかすかに残る、柔らかな声。手のひらの温もりを確かめる。ああ、君は本当に……
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