第2話 Day -7. 病院

Day -7. 病院


  遠い空の向こうに、飛行機が飛んでいく音が聞こえる。アラームが午後三時を告げた。時間の流れが遅い。

 

 大上総合病院の四階、小児科病棟の一番西側個室。そこが金村マリアの全てだった。

 マリアがここに入院して、すでに半年が経つ。脳腫瘍で視界を失った少女は、投薬治療を続けながら手術の順番を待っていた。ただ淡々と朝を迎え夜が過ぎ、そしてまた朝がやってくる。主治医の大上先生は「早く順番が来るといいね」と言っていたが、マリアはそうは思わなかった。手術が終わって、目が見えるようになったら自分が独りだと言うことを嫌という程思い知ってしまうからだ。


 この小さな世界への訪問者は、看護師と大上先生だけ。両親の海外転勤が多く、友達を作る間も無く転校を繰り返していたから、お見舞いに来るような友人もいない。たくさんの愛で包んでくれていた父も母も、自分のわがままのせいで星になってしまった。この目も寂しさも、神様が与えた罰なのだ。


 どうせなら、このまま星になってしまえばいいのになと思いながら十歳の少女は手探りでCDのデッキを再生した。軽快な音楽が流れ出す。モーツアルト作曲の「きらきら星変奏曲」。子犬みたいに跳ね回る音符と戯れるように指を動かす。目が見えていた頃、これはマリアの曲だった。賞を狙って、一日何時間も練習したことを今でも覚えている。結局、聞いてもらうことはできなかったのだけど。


 からから、と乾いた音がした。病室のドアが開く音だ。近寄ってくる特徴的な足音とふわっと香る洗剤の匂いで、それが主治医だとわかる。息が切れている。どうやら走ってきたらしい。大人が走るのは、あまり良いことが起きなかったときだ。ジワッとした嫌な予感を抱えて、訪問者に声をかけた。


「先生、どうしたの?」

「大ニュースだよ、マリアちゃん!」

いつもより、声のトーンが高い。大上先生はここの院長の息子さんなのよ、と看護師さんに教えてもらったことがある。

看護師は話好きだ。だからマリアは、彼が独身であること、弟が交通事故で亡くなったこと、長男としてプレッシャーに日々押しつぶされそうであることを知っている。普段話しかけてくるとき、ちょっと緊張しているのは、未来の院長であることを意識しているからなのだろう。真面目で不器用なこの主治医のことを、マリアは意外と気に入っていた。

「大変だ。君の手術の日程が決まったよ!」

「え、いつ?」

「明後日!急に執刀医の出張がキャンセルになってさ。ずっと待たせちゃって悪かったね。」

はあと気の抜けた返事をすると、息を荒くした主治医はバタバタと病室を出て行った。少しの時間の後パタン、と音がして引き戸が閉まる。

やっぱり、大人が走って来た時は良いことがない。


***


 遠い空の向こうに、飛行機が飛んでいく音が消えていく。腕時計を見ると、午後三時を過ぎていた。時間の流れが早い。

 

 大上総合病院の四階、廊下。窓からは建物の全景が見える。この病院は、大上悟の全てだった。

 父は「お前がこの病院を継ぐんだ」といってゆずらなかった。それが苦痛だと感じたことはなかったし、跡継ぎになることは自然の摂理のように受け入れていた。

弟は父に反発し、家を出ていったが七年前に交通事故で命を落とした。連絡のあった横浜の病院に駆けつけてみると、遺留品の中に指輪を見つけた。婚約者がいたらしい。それを見て、弟にも家族になろうとした人がいたのだということを知った。初めて彼の人生に興味が湧いた。その時から、彼の医師観は少し変わっていた。それまでは病を治すことにのみ気をかけていたのだが、患者の向こうに生活を見るようになった。

今の自分があるのは、弟のおかげなのかもしれない。そんなことを考えながら歩を進めた。


 長い廊下に足音が響く。途中すれ違った看護師に「走らないでください」と怒られたが、今はそれにかまっている暇はない。自分が担当している少女の手術が決まったのだ。

本当なら自ら執刀したかったのだが、彼女の病状はそれを許さなかった。脳の下垂体腺腫。しかもかなり大きい。入院する直前から、視野を失うほど視神経を圧迫していた。これを取り除くことができるのは父である大上総合病院の院長だけだったが、多忙な彼の予定を抑えるのは困難を極めた。やっとの思いで予定を滑り込ませた時には、入院から半年が経っていた。


 彼が担当する「金村マリア」は十歳にしては達観した様子の少女だった。看護師たちの噂話によると昨年飛行機事故で亡くなった稀代の名ピアニスト、金村時治の一人娘らしい。

マリアはいつも一人だった。入院してから一度も笑顔を見せたことのない彼女のことを、病棟にいる他の子供たちは疎ましがって話しかけなかった。いや、彼女はむしろ、それを望んでいるように見えた。擦り切れた絵本を抱え、ピアノの音に埋もれ、ただ静かに終わりが来るのを待っている。それはまるで、一輪の白百合のようだった。凛として、透明で、かすかな憂いを含んで。十年という短い人生のどこに、その要素があったのだろうかと不思議に思うような空気を纏っていた。

 この娘に、もう一度世界を見せてやりたいというのは自分のわがままだろうか。ふと頭に浮かんだ考えを振り払うように頭をかき、窓の向こうに広がる青空を見ながら、悟は手術室に向かう足を急がせた。資料と機材の準備をしなければ。明後日は、待ちに待った手術なのだから。

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