第5-1話 コハルの修行 前編

 イルダムたちの特訓を受けることを決めた翌日の昼過ぎ。

 コハルは元武闘家だというウリカに連れられて、家の近くの広い建物──道場へと来ていた。

 ウリカ曰く、いつもここで子どもたちに簡単な武術を教えているらしい。

 コハルとウリカは、2人でいるには広い部屋で向き合っていた。


 「それじゃあコハルちゃん。あなたがどれくらいの強さか知りたいから、とりあえず全力でかかってきてくれないかしら?」

 「え? でも……」


 ウリカのにこやかな言葉に対して、コハルは逡巡する。

 理由はウリカを心配してのことだ。

 自分の本気の拳や蹴りは硬い岩をも砕く事ができる。そんな攻撃を老体のウリカに当ててしまえば、ウリカを殺してしまうかもしれない。コハルは本気でそう心配していた。

 コハルがそうためらっていると、その心中を察したウリカが笑って言った。


 「ふふ、コハルちゃんは優しいのね。私の事を心配してるんでしょ?」

 「うん……コハルおばあちゃんに怪我させたくないの……」

 「あらあら、これじゃ特訓はできないわね……それなら──無理やりその気にさせちゃいましょうか」

 「え──」


 ウリカが悪戯っぽく笑った後、目に見えない衝撃がコハルの全身が総毛立たせた。


(──死んじゃう⁉︎)


 衝撃の正体は、ウリカが発した純然たる殺気だった。

 氷のように冷たいそれを全身で感じたコハルは、反射的に後ろへと大きく跳び、ウリカから全力で距離を取って戦闘の構えを取った。

 ただ後ろに跳んだだけだというのに、コハルの心臓は激しい運動をした後のようにバクバクと脈を打ち、息もそれに合わせて激しく乱れていた。

 それに対しウリカは、先ほどと変わらずどこにでもいる老婆のように穏やかな笑みを浮かべていた。

 しかし今のコハルの目には、もうウリカは優しい老婆ではなく、強大な化け物にしか見えなかった。

 警戒心を剥き出しにして戦闘態勢を取り続けるコハルをしばらく眺めた後、ウリカはにっこりと微笑んだ。それと同時に、コハルが感じていた肌を刺すような殺気も幻だったかのように霧散した。


 「良い反応ねコハルちゃん! それでどうかしら。コハルちゃんが私に全力でかかってきても大丈夫って分かってもらえたかしら?」

 「…………う、うん」


 コハルは考えるよりも先に、自身の本能がウリカの強さを感じ取っていた。

 何が殺してしまうかもしれないだ。

 殺されるかもしれないのは自分の方だった。


 「そう、なら良かったわ! それじゃあ、まずは組み手から始めましょうか」


 ウリカが腰に回していた両手をほどき、静かに構えた。

 ゆったりとした構えなのにどこにも隙はなく、口を開けた巨大な狼を思わせるような迫力がウリカからにじみ出ていた。


 「さぁどこからでも来ていいわよコハルちゃん。私に一撃でも入れられたら合格よ」


 巨狼ウリカが静かに微笑んだ。

 



 コハルとウリカが組み手を始めてから2時間が立った。

 コハルが体のあちこちに青あざや擦り傷を作り、さらに目に見えて疲弊しているのに対して、ウリカは組み手を始める前と変わらずに、息切れ一つせず涼しい顔でコハルの猛攻をさばいていた。


 「やっ!」


 コハルが鋭く右足を踏み込んで左拳を突き出した。

 ウリカがそれを難なく受け流し、同時にコハルの体勢を崩す。コハルはそれに無理に抵抗するのではなく、その流れに乗って踵を下から振り上げてウリカの顎を狙った。


 「甘いわよ、コハルちゃん」

 「あっ、わわっ⁉︎」


 ウリカは振り上げられたコハルの足をがっちりと受け止め、そして流れるようにその足を両手で掴み、背負い投げした。


 「あぐっ⁉︎」


 振りほどく暇もなく、コハルは背中から思い切り道場の床に叩きつけられた。

 肺から無理やり空気が吐き出され、胸が苦しくなる。コハルは叩きつけられた痛みをこらえるように体を縮こませた。


 「コハルちゃん、あなたの身体能力と運動センスは素晴らしいわ。でも、それを活かすための技術が圧倒的に足りないわ」

 「うぅ……技術……?」

 「そう技術。敵の防御を打ち崩す技術、反対に相手の技を受ける技術、相手の動きを読む技術、技を繋ぐ技術。色々と足りていないわね」

 「……どうすれば、その、色んな技術? ができるようになるの?」

 「うーん、口で説明してもいいのだけれど、コハルちゃんはそれじゃ退屈よね。だからひたすら組み手して、私の動きを真似してちょうだい」

 「ウリカおばあちゃんの真似?」

 「そうよ。とりあえず、夕ご飯の準備まではまだまだ時間がありますから、もう少しだけやりましょうか」

 「うぇ……まだやるの?」


 コハルがガーンと効果音が聞こえてきそうなほど、悲しげな表情を浮かべる。

 すでに2時間もウリカにボコボコにされたのだ。体のあちこちが痛みで軋んで、腕を動かすことすら嫌になるほどだった。


 「強くなりたいのでしょう?」

 「っ! ……うん」


 そうだ。自分は強くならなくちゃいけない。

 牛頭魔人アルタウロスや正神教団のアレニウスに、自分はまるで歯が立たず、みんなが危険な目に遭った。

 レイルナート山脈で佑吾とサチが川に落ちた時は、2人が死んじゃったんじゃないかと胸が潰れるほど不安になった。

 もうあんな気持ちになりたくない。みんなを守れるくらいに強くなりたい。

 コハルは痛む体に鞭を打ち、何とか立ち上がった。


 「ウリカおばあちゃん。私……特訓がんばるよ!」

 「ふふ、良い顔ですね。それじゃあ再開しましょうか」




 「ふへ〜お湯が沁みて痛かった……でも気持ち良かった〜」


 ウリカとの地獄の組み手の後、夜になって湯浴みを終えたコハルは火照った体を冷ますために家の庭に出ていた。

 ひんやりとした夜風が吹き、コハルの白い髪が風にたなびく。

 風が火照った体を冷ますように撫でて気持ちがいい。

 白い犬耳と尻尾をゆらゆらと揺らしながら、夜風を楽しんでいると外からこちらへ歩いてくる人影が見えた。


 「コハル? こんな所で何しているんだ?」

 「佑吾!」


 人影の正体は佑吾だった。


 「お風呂が温かかったから、体を冷やしに来たの! 佑吾はまだ特訓してたの?」

 「ああ、エルードさんに剣の稽古をつけてもらってたんだ。エルードさんすごく強くてな……全然歯が立たなかったよ」


 コハルがよく目を凝らして見てみると、佑吾の体も自分と同じように傷だらけだった。


 「佑吾、すごくがんばったんだね!」

 「はは、みんなをちゃんと守れるくらいに強くなりたいからさ。今のところはまだダメダメだけどな」

 「ううん、ダメダメなんかじゃないよ! だってみんなのために佑吾は頑張っているんでしょ? それはすごい事だと思うし、私は佑吾のそんな所が好きだよ!」

 「そ、そうか? そう真っ直ぐ言われると何だか照れるな……」


 コハルの言葉に、佑吾は恥ずかしそうに頬をかいた。


 「よーし私も佑吾に負けないようにがんばるぞー! それで私もみんなを守れるくらいに強くなるんだ!」

 「おっ頼もしいな。それなら2人でみんなを守れるように明日からも特訓頑張るか!」

 「うん──へくちゅっ!」


 コハルが笑顔で答えた後に、可愛らしいくしゃみをして体をぶるりと震わせた。


 「ああ、体が冷えちゃったか。早く家に戻ろう。風邪を引くといけない」


 佑吾がコハルの手を取り、家へと向かう。

 コハルの体は確かに冷えていたが、佑吾に握られたその手だけはじんわりと温かった。

 その温もりを嬉しく思いながら、コハルは明日からの特訓もがんばろうと意気込んだ。

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