第9話
翌日。莉乃は休まず、学校へ行った。
昨日と同じように6校時まで授業を受け、帰りの会が終わってから同じように帰路に着いた。
学校にいる間は不思議とあの3人は行動を起こさなかった。それが莉乃には一層、気味悪いものになっていた。外はそんな莉乃の心とは裏腹に秋晴れの良い天気だった。暑くもなく寒くもなくよい気候だった。
昨日と同じルートで歩き、鳳龍がいるはずの神社に到着した。朝晩の冷え込みで葉先が黄色や赤に紅葉し始めた樹々が莉乃を迎えてくれた。こうも空が澄んで青空が見えると、空気もキラキラと煌めいているように見えて心が軽くなる気がした。
そう、あの瞬間までは。
御手水をしてから、拝礼するために社殿の前にやって来た。辺りをきょろきょろしながら鳳龍の姿を探したが、昨日いた大銀杏の枝には居なかった。
(フェイくん、どこかな?会いたいな)
彼に聞こえることを祈って、鈴緒を大きく揺らした。静かな境内に盛大に金属音が響いた。二例二拍手一礼をして、莉乃は静かに祈った。昨夜のことも思い巡らせ、その思いを神様に聞いてほしかった。自分が感じたこと、考えたこと、気づいたことを心の中でそっと呟いた。
しばらく、手を合わせてから、莉乃はポケットに手を差し入れた。そしてハンカチを取り出すとそっとそれを開いた。ハンカチの間には、御守りのようにタイムがひと枝だけ包まれていた。莉乃は鳳龍の笑顔を思い出しながら、それを大事そうに見つめると右手で触れてみた。彼の言葉が蘇った。
(私、フェイくんの 言いたかったことを本当に理解したのかな?…話したいな、フェイくんと…)
「やあ〜っと来たか」
「待ちくたびれましたよ」
「やっぱり、言った通り、ここに来ましたね!さすがです!」
「あったりめーだろ。こいつの行動なんざお見通しさ!」
「ま、バカのひとつ覚えってヤツですよね」
「バ、バカはどっちよっ」
莉乃はあまりにもからかわれたので昨日より声に力が入った。タイムを挟んだハンカチを気づかれないように、ポケットに収めた。そこから勇気をもらえるように、心の中で
3人は追いかけもせずに、余裕の表情で莉乃の背中を見送った。その顔つきは、これから狐狩りを楽しんで追い詰めてやろうというものだった。
「おーw 一丁前に反抗してるよ」
指差しながら背の低い男児が嘲笑った。
「やっぱり、そこは教えてやらないとダメですかね?」
「ああ、そのためにここ来たんだから」
「俺たちに向かって『バカ』なんて言葉をほざくような奴にはヤキを入れないとな」
「ですねw」
3人は莉乃の後をわざとゆっくり追いかけた。そして彼女を取り囲むように背後から近づいた。彼女は大銀杏の前で動けずにいた。次第に距離が詰められていく。莉乃は両手を胸の前でギュッと力を入れて組んだ。男児が近づいてくるたびに指に力が入っていった。
「ほら、昨日みたいにお前の弱っちい彼氏を呼べよ!」
「………」
「助けて〜私、ボコられる〜」
そう言うと大声をあげてもの真似して見せた。莉乃は何も言わず彼らの顔を睨みつけるだけだった。
「………」
莉乃は唇を真一文字にして、噛み締めた。
「あはは、それ、いい!似てる似てる!」
莉乃の真似をした男児の声を聞いて他の2人も大笑いしていた。
「まあ、助けに入っても昨日みたいに俺らにヤられるのがオチだけどな」
「………」
自分のことを罵られるのは、まだ耐えられた。しかし、鳳龍のことを言われるのは我慢ならなかった。彼らは本当の彼を知らない。知らない人に勝手なことを言われている。ありもしないことを並べ立てられて。さもそれが現実のように語られる。莉乃に「恐れ」ではなく、初めて「怒り」という感情が芽生えた。だんだん頭に血が上って、頬が熱くなり、顔も紅潮していった。握った両手は力が入りすぎて、折れそうだった。
(フェイくんは、フェイくんは、そんなに弱くないもん!)
泣くための涙ではなく、悔し涙で目がいっぱいになった。こんな言葉、彼には聞かせたくなかった。
「2度も俺らにやられたら、立ち直れないんじゃないですか?」
「それもそうか。この状態になっても莉乃を助けにこないところをみると、お前、見捨てられたな!」
「その確率、濃厚ですね!」
「ぎゃはははw ざまあみろw はははは!」
品の悪い笑いがこだました。
莉乃は心の中で歯軋りした。鳳龍は関係ない。これは自分自身の闘いなのだと。そう思った。そう思った途端、握っていた両手が開き、2つになった。彼女の両手は拳になっていた。怖さと怒りが入り混じり、腕が震えた。敵わないと分かっていても、これ以上、彼を侮辱されるのは嫌だった。
莉乃は目の前の3人を睨みつけた。
「もう、あんたなんか。あんたたちなんか!私は!!」
莉乃は勢いよく、駆け出した。両手を前に出して、五分刈りの男児に思いっきり突っ込んでいった。男児は腕組みをしたまま、仁王立ちになり動かなかった。まるで莉乃の体当たりなど平気だと言わんばかりだ。
「ふんっ」
「あっ‼︎」
男児の腹部をめがけ自分の持てる力の限り突進し、突き飛ばそうとした。
しかし、彼女の力では身体の大きい男児を後ろに一歩下がらせることすらできなかった。逆に、彼女の方が反動で後ろに吹き飛ばされてしまった。そのまま尻もちをついて男児の顔を見上げた。
「バァ〜カ‼︎お前なんかのやることなんか、お見通しなんだよ!」
地面にへたり込んで、下から見上げる男児の顔はそそり立つ鬼の形相に見えた。男児は鼻で笑いながら、彼女を斜めに見るとほくそ笑んだ。莉乃は再び立ち上がった。
(負けられないっ)
男児は右手を拳にして、莉乃に殴りかかろうとしていた。
その瞬間、莉乃と男児の間に「何か」が音もなく上から降ってきた。神社の屋根から飛び降りてきたようだった。地面に着地する音は聞こえなかった。まるで猫が重力に逆らって着地するように、トスっというかすかな音しかしなかった。真っ直ぐ莉乃に向かって伸ばされた男児の腕を彼は左手で払い除け、右手で拳を握って止めた。
「僕の友達に…触るな。」
「フェイくん!」
莉乃は黒いチャイナ服の背中と長い三つ編みを見て、驚いて声を上げた。それは紛れもない鳳龍だった。
「あん?」
「これ以上やるなら、僕が相手をする…」
男児は自分の拳を鳳龍に当てようと力を込めるが、握られた拳はびくともしなかった。微動だにしない。前に押し込むことも、左右に振ることも、後ろに逃げることもできなかった。何かをしようとするたびに彼の節立った指が拳にギリギリと食い込んでいくのみだった。骨の軋む音が聞こえそうだ。
「はぁ?カッコつけてんじゃねえぞ、コラァ。昨日みたいにボコられたいのか?」
それでもなお、男児は悪態をつき、自由になっている左手を握って繰り出してきた。
「……言いたいことは、言葉じゃなく、拳で語れ」
彼は握っていた手を離すと、いったん距離を取って、離れた。男児も右手を押さえながら後退した。
莉乃は鳳龍に近づいていこうとしたが、足が前に進まなくなったことに気がついた。彼の背中が彼女を寄せ付けない雰囲気を漂わせていた。今まで見たことのない姿だった。屈託なく笑う彼ではなかった。見えない緊張の糸がピンッと張り詰めていた。
「彼女はお前らなんかに負けない。本気で闘うって決めたんだ」
彼は前に出していた両手を体に引き寄せて、腰のあたりで止め、拳にして握っていた。呼吸の回数は極端にゆっくりになり、深くなっていく。声を荒げるわけでもなく、静かな口調で話していた。
それは男児に話しているのと同時に、莉乃に向けられた言葉でもあった。莉乃は、鳳龍の口から「友達」と言われて泣きたくなるくらいうれしかった。誰も分かってくれなかった自分の決意を理解してくれる人がいてうれしかった。それを言葉にしてくれて、認めてくれてうれしかった。
「友達がそう決めたんなら、僕は…莉乃ちゃんの盾になる」
鳳龍はさらに拳に力をいれ、右手を前に差し出した。気のせいか力が込められた拳は元の拳の倍の大きさになっているように見えた。
「お前らに昨日の借りを返す!」
「昨日と同じようにしてやるぜっ おいっ!」
男児は両サイドにいる2人に顎を振って、「行け!」と合図した。2人はコクっとうなづいた。昨日と同じように、1人がタックルをしようと突っ込んできた。鳳龍はぐっと腰を低くして構え、組み合うように両手を絡め取った。そしてそのまま自分の体を相手の体の下に瞬時に潜り込ませると背負い、両足を踏ん張って投げた。男児の体は大きく弧を描きながら、空に舞った。
いつもの鳳龍の投げ技ならこんなに長い滞空時間にはならない。すぐに地面に叩きつけられているはずだ。その上、落ちていく頭に蹴りを入れるのが普通だ。頸椎の辺りを狙って蹴りを入れる。そうすれば首の骨が折れる。
だが、今回そのどちらもしなかった。地面に頭落ちる刹那の瞬間、彼は首元にそっと手を添えたのだ。莉乃はそれを見て驚いた。投げられた男児は頭から真っ逆さまに落ちていくように見えたのに、鳳龍の一瞬の動きで、まるで何事もなかったかのように地面に寝そべらされていた。投げられた本人も訳がわからなかった。投げられたので体を強張らせて、防御姿勢を取ったにもかかわらず、気がつくと地面の上に寝ていたのだから。両目がパチパチいっていた。
鳳龍は2人目を手招きした。「さあ、来いよ」とでも言うように。挑発されて頭に来たのか、殴りかかっていった。彼は次々と繰り出されるパンチをすんでのところで見切っていた。ほとんど体を動かしていないのに、なぜかパンチが当たらない。どこに繰り出しても蝶が風にふわふわと舞うように避けられていた。まるで魔法だ。鏡に姿を映しているのか?あるいは幻影と戦っているのか?
「何なんだ!この野郎!」
パンチではなく手を開いて、鳳龍をつかもうと手を伸ばした。彼はすかさず左手でその手首を掴むと腕を上に持ち上げ、更に一歩踏み込んで半身になり、男児の懐に入り込んだ。2人の動きが突然止まった。
「あ…」
「……」
鳳龍の右肘が、男児のみぞおちの手前、触るか触らないかの所で寸止めされていた。
男児は急に怖くなって、その場にへたり込んだ。このまま打ち込まれていたらと思うと冷汗が顔や体から吹き出て、止まらなくなった。昨日、3人で袋叩きにした相手なのかどうかわからなくなった。本当に同一人物なのか。明かに格が違うと思い、背筋が凍りついた。
鳳龍は掴んでいた手を離し、男児からすっ…と離れて真っ直ぐ立った。そして残った最後の1人に視線を送った。
五分刈りの男児は歯軋りしながら突進していった。
「ふざけやがって!」
「……」
「お前、昨日は俺らにわざとやられたなぁ」
鳳龍は繰り出されたパンチを右手で払い除けた。バシッ!と物凄い音が響いた。そのまま手を離さないで、手首を取ると内側に捻って男児の背中に回した。関節を決められているので痛みが走る。男児は顔を歪ませた。
「どう思われてもいい。僕は不要な争いは好まない」
「くそぉ!」
強引に振りほどいて、また距離を取った。強引にとは言っても、鳳龍が手を離したのだが。無理に締め上げ続けると男児の手首の骨が折れてしまうからだ。
「ふざけやがって!チクショー」
両手を高く上げて覆いかぶさるように彼に襲いかかった。鳳龍は驚くわけでもなく、すっとしゃがみ込んで、片足を出したまま体を回転させた。いわゆる、足払いだ。男児はものの見事に足元をすくわれ倒れこんだ。ズシーンと重い音がした。男児はどうして自分が倒れ込んだのかわからなかったが、理解した頃には、鳳龍が馬乗りに近い形でそばにいた。右手は平手ではあるが丁度、心臓の上に乗せられていた。左手は拳のまま喉元に押し付けられていた。鳳龍は動きを止めた。本来であれば拳のまま心臓部分に入れ打突+喉元に打撃を入れ呼吸を止めさせる攻撃だ。本当にそのまま拳を叩き込めば、死んでしまう。空を仰いでいた男児の頬に彼の三つ編みがふわっとかかった。上から男児の顔を覗き見る鳳龍の目は冷酷な様相を見せた。人殺しの目だ。
「まだ、やるかい?」
男児は微かに首を横に動かした。だが、鳳龍は拳を退かさなかった。
「これから先、昨日と同じようなことを莉乃ちゃんに、もうしないって約束してくれる?」
「……」
「しないのなら、」
鳳龍は両手を男児の体から引き上げると、右正拳を打ち放った。鈍い音が響いた。男児は思わず目を固く閉じた。音が響いてしばらくしても体に痛みがないので不思議に思い、恐る恐る目を開けると男児の右耳の横、石畳に深く鳳龍の拳がめり込んでいた。時間をおいて、ようやく彼が石畳から拳を戻した。右手には傷ひとつ付いていなかった。恐ろしいほど硬く、鍛えられていることがわかった。
「こうなるけど」
男児は何度もうなづき、起き上がると2人の仲間と共に脇目もふらず走って逃げていった。
鳳龍は短いため息をついて、すくっと立ち上がった。
(誰も怪我しなくてよかった)と胸を撫で下ろしながら心の中で呟いた。
莉乃は鳳龍の姿を見て、全てが終わったことを悟った。走り去った3人はもう自分の脅威ではなくなったことを理解した。自分に欠けていたものは、「立ち向かう勇気」だったことを改めて認識した瞬間だった。それが、彼がタイムの花に託して伝えたかったことだということも分かった。
鳳龍は踵を返すと、大銀杏の根元に置いてあったボクサーバックをひょいと背負い、莉乃のそばまでやって来た。
「じゃあね。莉乃ちゃん、僕、行くよ」
「フェイくん」
「うん?」
「元気でね。あの…友達って言ってくれて、ありがとう」
「莉乃ちゃんとは友達だよ」
「うん。」
「また、どこかで」
満面の微笑みを見せると、「負けるなよ」と言うように彼は拳を握って差し出してきた。莉乃も同じように拳を差し出した。そして自分の拳と彼の拳と静かに重ねた。
莉乃は鳳龍の背中が遠く、見えなくなるまで見送った。
それからポケットからハンカチを取り出して、大切に包まれたタイムの花を見た。小さな小さな薄紫色の花。この香りに包まれるたびに、今日のことを思い出そうと思った。
(私は決してあなたを忘れない。私に立ち向かう「勇気」をくれたから…)
秋の風が大銀杏の根元に咲くタイムの花を揺らして、青空に消えた。
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