第8話
真っ暗になった夜の里山。ぽつぽつと暗い外灯が辺りを照らす。それでも闇の方が幅をきかせている。吹く風は冷たく晩秋を思わせた。澄み切った夜空には下弦の月がちょうど東の空から顔を出したところだ。赤く大きく輝く月が外灯よりも明るく辺りを照らしていた。
鳳龍は莉乃を送ってから、また神社の大銀杏の太い枝の上に戻った。幹に体をもたれさせ、目を閉じて、両手を頭の後ろに組みながら考え込んでいた。口にはエノコログサがくわえられていた。
(ちょっとキツく言いすぎたかなぁ…)
相手は小学生の女の子である。男としての自分の考え方は女としての彼女の考え方とはほど遠い気がしていた。いじめられているなら尚更だ。あのくらいの年頃の子なら、普通は大人に助けを求める。母親や先生に。莉乃はそうすることすらできずに、ただ耐え忍んでいるのだ。それが、見ていて我慢ならなかった。
(
今日の出来事も彼が力であの3人の男児をねじ伏せることもできた。だが、敢えてその方法を取らなかったのだ。あの場を暴力で収め、莉乃を助けることは簡単だ。それが根本的な解決にならないことはわかっていた。根本的な解決に必要不可欠な要素は、たった1つだけだった。
(莉乃ちゃんがそれに気づいてくれないとダメなんだ。この案を成功させるには…)
鳳龍は体を起こして夜空に昇り始めた月を見た。凛として白い光を放つ、秋らしい神々しい月だった。
泣きじゃくっていた莉乃の顔を思い出しながら、彼は再び目を閉じた。
(それでも、気づいてくれると信じて、僕は僕に出来ることをするしかないんだけど)
ざっーと強い風が枝を揺らし、通り抜けていった。彼の長い三つ編みもその風に吹かれ、揺れ動いていた。
部屋の明かりも点けずに莉乃は夕食の後、自室に引き篭もった。勉強机に向かって座り、暗い部屋の中で、今日の出来事を思い返していた。明日のことを考えると気が重くなった。明日など来なければいいのにと思わずにいはいられなかった。行けば行ったでいじめられ、休めば休んだで責められることはわかっていた。もうここから消えてしまいたいという思いが強かった。それでも、それを思いとどまらせていたのは彼との出会いだった。あんなに誰かに優しくされたことはなかった。
脳裏には鳳龍の言葉がずっとリピートしていた。
『僕はもう一晩ここにいるよ』
(フェイくん。ずっといてくれたらいいのに)
それが叶わぬ願いだということはわかっていた。まさかあの場所で再会するなんて思っていなかった。昨日、家から出発してそのまま真っ直ぐ山形まで行ってしまえばいいだけの話なのに。それをせず、莉乃の家のすぐそばにある神社にいたのだから。明らかに気にかけてくれていた証拠だった。
『山形に出発するのはそれからにするから』
鳳龍は彼女の「覚悟」を見届けようとしているのだ。
莉乃は大きなため息をひとつした。そして机の上に置いてあるあるものに視線を向けた。小さなジュースの空き瓶に生けられた小さな花。暗闇の中にいてもその香りは清々しさを放っていた。その香りが自分を変えてくれるような気さえした。
『考えてみて。』
(………)
莉乃は勉強机にある蛍光灯のスイッチを押して、明かりをつけた。透明な瓶に生けられたタイムの花。ボール状に丸くなって見える淡い紫色の小さな花が莉乃の方を見ていた。ほんの少し頭を動かして、自分の方を見ている気がした。
『考えてみて。』
(うん。考えてみる。フェイくんに、そう約束したものね)
莉乃は人差し指で、タイムの可愛らしい花に触れた。触れた振動で花はうなづいたように見えた。『がんばれ!』と言われた気がした。
『考えてみて。』
(フェイくん、何を伝えたかったんだろう?何を言いたかったんだろう?)
『タイムの花の意味はなんなのか』
(タイムの花の意味。どんな意味があるんだろう?)
『どうして奥さんは死んで戻るかもしれない夫にタイムの花を贈るのか』
(十字軍の遠征っていつだろう?)
莉乃は本箱にあった本から「世界の歴史」という本を持ってきた。それで十字軍の遠征の部分を探し、読んでみた。
(十字軍…十字軍、あ、あった!11世紀から13世紀にかけてキリスト教徒が聖地エルサレムを奪還するために行った遠征のこと。200年という期間に7回遠征が行われたが、陸路や海路を使い長い時間をかけてエルサレムに行こうとするけれど病気や戦闘でエルサレムにたどり着く前に亡くなったり、目的も故郷に戻ることも果たせず殉死する人が多かった…)
『どうして奥さんは死んで戻るかもしれない夫にタイムの花を贈るのか』
(何のために花を贈るの?死んじゃう確率が高い旦那さんにタイムの花のを贈る。どうしてだろう?別れの花なのかな?それとも違う意味なのかな?)
もう一度、莉乃は花に自分の鼻を近づけて香りを嗅いだ。自分がどんな気持ちになるのか感じたかった。
(もし、私がこの花をフェイくんに贈るんだとしたら、どんな気持ちで贈るのだろう?今日みたいな出来事が起こることがあらかじめわかっているのだとしたら?あの3人にフェイくんがあんな酷いことをされるとわかっていたら?)
目を閉じて、香りに集中した。この香りが自分にもたらす感情は何なのか知りたかった。きっと香りに答えがあると思った。
(あなたを待っています? あなたが戻るのを信じています? あなたを忘れない?)
なんだかしっくり来ない。自分はまだ恋すら知らない。奥さんの気持ちなどわかるものだろうか?と思いながら、莉乃は首を傾げた。それでもなお、鳳龍の声は彼女の心に響き続けた。
『御守りがわりに』
(守る?何から?何を守る?だれも守ってくれない。私は逃げ出したかった。でも、逃げられない)
『本当に?それが本心?』
(私は我慢するだけ?でも、本当は我慢したくない。)
『でも、Thymosの本当の意味はそうじゃない』
(誰も私を守ってくれない。誰も…。)
『でも、Thymosの本当の意味はそうじゃない』
(フェイくん…)
彼女にはとびっきりの笑顔の鳳龍が見えた。見ているだけで安心する。そんな温かい笑顔の彼が。それと同時に違う顔をした彼も見えた。
『僕なら、敵わないとわかっている相手でも逃げないで闘いたい。闘わずに後悔し続けるくらいなら、闘って負けるほうがいい』
『僕なら、…』
何か強い決意を持った彼の横顔を思い浮かべて、莉乃は不意にある言葉を思いついた。
(あ、フェイくん!そうかっ‼︎)
「わかった!私!」
思わず声をあげてしまった自分に驚いて、反射的に両手で口を塞いだ。しばらくそのままでいた莉乃は時間が経過するごとに少しずつ手を開きながら、小声で呟いた。
「フェイくん、タイムの花の意味を伝えたかったんじゃないんだね。奥さんが旦那さんにこの花を贈るのは…この花を通して、自分の態度を…意志を…はっきりさせる……こと…が」
莉乃の目から一筋の涙がこぼれた。
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