第7話

自分が人殺しの技を持つものだとは言えなかった。

それは彼女には伝えられない彼の本性だったから。そうやって小さい頃から香港で育てられてきた。鳳龍は小さかった頃のことを思い出したのか一瞬目を閉じた。

また、普通に立つと莉乃の方を見た。彼女はようやく泣き止んだようだった。

「だって血も出てる」

「血のほうは莉乃ちゃんの肘の血がついたんだよ。アイツら酷いことするな。待ってて、今、手当てしてあげる」

鳳龍は大銀杏の根元に置いていたバッグを持ってくると莉乃に手を差し伸べた。

「また怪我しちゃったね」

「うん…」

彼女を引っ張り起こすと神社の横にある白木の胡床に座らせた。彼女はうつむいていた。彼は彼女の肘を見て、またバッグからペットボトルの水を取り出し、手当てを始めた。手際良く進める彼を見ながら、ぽつぽつと彼女は語り始めた。

「あのね、私」

傷口を洗い水で流してから、また手拭いで押さえた。

「いじめられてるの。学校でずっと。なんでかわからないけど、あの3人がずっと意地悪してくるの」

察しはついていたので、あまり驚かなかった。だが、彼女が知られたくないことを自分に話していることはわかっていたので、真剣に聞いていた。

「じゃ、膝の傷も?」

「うん。いきなり突き飛ばされて…」

「……そうか」

大きな絆創膏を貼り、膝の上に静かに彼女の両手を戻した。

「誰かに相談した?」

「ううん。」

鳳龍は片膝をついたまま、彼女の顔を見つめていた。彼女はうつむいたまま、グッと両手に力を入れて肩を震わせた。

「誰にも言ってない。言えない!怖くて!言ったら何をされるかわからないから!だから…」

涙が彼女の手の甲に雫のように落ちていった。

「どうして私なの?どうして私だけなの?私がいるだけでムカつくって言われる。私が同じ空気を吸うことが許せないって言われる。教室にいることも、仲の良い友達と話すことも見ているだけでイライラするって言われて。そのうちみんなが私を避けはじめた。誰も口を聞いてくれなくなった。物を隠されたり、みんなと違う連絡をされたり。泣くのが面白いって言われて。泣かないように我慢してると泣くまで叩かれて。私、私、いなくなった方がいいのかな?もう、嫌だ!学校には行きたくないよ!」

最後のほうは叫び声のようになっていた。

「学校なんて、地獄だよ。誰も助けてくれない。みんな見て見ぬ振りしてる。助けてって言っても誰も助けてくれない。誰も!」

彼女はようやく顔を上げ、訴えかけるように彼の顔を見つめた。そして、またうなだれた。

「もう、やだよぅ…。フェイくん…」

消えそうな声でそうつぶやき、両手で流れる涙を拭うしかなかった。

莉乃の言葉が途切れてからずっと彼は黙ったままだった。沈黙が鉛のように重かった。その沈黙が莉乃に後悔の念を生ませることになった。話さない方がよかったのではないかと。きっと彼は自分の話を聞いて怒ってしまったのではないかと。

また、それとは反対に心の何処かでは、彼に優しい言葉をかけてほかったのかもしれない。2度も自分の怪我を治療してくれた彼なら、自分の気持ちをわかってくれるのではないかという期待に似た気持ちもあった。だが、鳳龍から発せられた言葉は莉乃の予想を覆すものだった。ただ真っ直ぐに彼女を見て、素直に彼女に問いかけるものだった。彼女の真意を知りたかったからだ。

「莉乃ちゃんはそれでいいの?」

「え?」

「このまま、あいつらのやりたい放題でさ」

「だって…私じゃ敵わない。力じゃ、敵わない」

「ただずっと気持ちを殺したまま、我慢し続ければ、それでいいの?」

「だって…そうし続けるしか」

「本当に?それが本心?」

(本心?私の?)

「……」

彼女は黙り込んだ。自分の本心は嫌というほどわかっていた。でも、それは彼には告げられなかった。

鳳龍は彼女から視線を外すと、独り言のように呟いた。それはいつもの笑顔を向ける彼ではなかった。

「僕なら、敵わないとわかっている相手でも逃げないで闘いたい。闘わずに後悔し続けるくらいなら、闘って負けるほうがいい」

そう言い終わると彼は立ち上がった。

「そう思っちゃうのは、僕が武人であり、格闘バカだからなんだろうけど。それを莉乃ちゃんに押し付けちゃいけないよね。ごめん」

苦笑いをしながら、頭を掻いた。そして踵を返して突然走り出すのだった。

「ちょっと待っててね」

境内には様々な木々が手入れされていた。そのうちの1本の木の根元に群生する草の所に走っていった。もこんもりした緑の絨毯のように見えるその草の中から何を選んでいる素振りを見せた。右手で数本の草を摘んで、また走って、彼女のところに戻ってきた。

「はい!」

「!」

莉乃の目の前には高さが10cmほどの草花があった。花はかすみ草より小さく、しかし芳香を放ちながら球状になっていた。

「さっき、目に入ったんだ。珍しい草じゃないんだけど、この時期に花をつけるのは珍しいから。これ、莉乃ちゃんにあげる。御守りがわりに」

小さな紫がかった白い花がたくさん集まって球状の花を茎頂にだしていた。葉は対生し、1cm程の卵形をしていた。本当に小さなブーケのように見えた。

「御守り?なんていう花なの?いい匂いがする」

「Thymos. 小さいけれどシソ科の花だよ。学名はThymust。日本名はタイム。ハーブで知られたタイムだよ。タイムの花」

「タイム…」

「こんなお話があってね。昔、十字軍遠征に行く夫と別れる時に奥さんがこのタイムの花を贈る風習っていうのがあったらしいんだ。無事を祈ってね」

鳳龍は莉乃の手にタイムを持たせた。彼女は両手で大事そうにその花を包んだ。

「でも、Thymosの本当の意味はそうじゃない…」

「どういう意味?」

知りたそうに聞き返す莉乃に鳳龍はにっこり微笑んだ。そこは聞くところじゃないよと言うように。

「そこは莉乃ちゃんが考えてみて!とりあえず、家に帰ろう。送っていくから。また、おぶって行こうか?」

悪戯っ子のように笑いかけた。莉乃は恥ずかしくなって頬を赤らめた。

「だ、大丈夫。歩けるよ」

莉乃は自分の手の中に残った小さな花の香りをもう一度嗅いでみた。すう〜っと気分が穏やかになるような清々しい香りだった。

「考えてみて。どうして奥さんは死んで戻るかもしれない夫にタイムの花を贈るのか。タイムの花の意味はなんなのか」

「……うん。考えてみる」

「僕はもう一晩ここにいるよ。山形に出発するのはそれからにするから」

こくっと彼女はうなづいた。

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