第七節 ◆在りし日の宝物2/アルフェラッツ

 ――半年前。


 ザウラクが談話室の扉を開けると、そこには浅葱色のドレスを着た一人の少女が西の大窓の側に佇んでいた。


 オリュンピア帝国、その帝都からおよそ南に位置する大公領地メラク。

 緩やかな山に囲まれた自然豊かな温暖地域であり、主に牛馬などの畜産業を主とする大公領地だ。その中心都市の一角にある小高い丘に、メラクの領主ザウラク公の邸宅はあった。

 黒が基調の角張った石造りの城には、質実剛健を現したがごとく落ち着いており、装飾がほとんどないと言ってもいいほど遊び心というものが非常に欠けている。丁寧に整備された庭園があるとはいえ、質素で真面目な領民性をそっくりそのまま具現化していたのであった。

 そんなこの城にも、浅葱色の木綿生地の布に、紫色に染め上げられた絹糸による刺繡で描かれた、メラクの象徴たる唯一の華やかさとでもいうべき馬と紫苑の七星剣章旗が正門前に掲げられているはずなのだが――。

 ザウラク公の父であり七星剣・巨門――先代領主が亡くなってからというもの、その旗は長らく日の目を見ることは無かった。

 七星剣は世襲制とは限らず、その大公領地を皇帝と共に正しく治めることができる者ならば適任者が誰であろうと問題は無い。このメラクでもそれに例外ではなかったが、多くの領民から慕われている先代の嫡子ザウラク公に白羽の矢が当たるのは当然のことだった。だが当の本人と言えば、皇帝、そして民からの希望に首を縦に振ることをなかなか許さない。

 なぜならば、ザウラク公自身がおのれが七星剣の席に座るに値する覚悟と器を持っていないと、頑なに遠慮し続けていたためであった。

 ――しかし、それももうこの日で終わりを告げる。


「母のことを思い出していたのか、アルフェラッツ」

「……お父様!」

 ザウラクは、静かに外を眺める少女に声をかける。アルフェラッツと呼ばれた少女は憂鬱そうな表情から一変、向日葵を思い起こさせる明るい笑顔を取り戻した。

 装飾の少ない落ち着いた浅葱色の衣装に身を包む少女は、パッと振り向きドレスの裾を軽く摘まむと、父親のもとへ駆け寄った。ゆるやかな曲線が特徴の、よく手入れが行き届いている長い金髪を弾ませる。

 西の大窓に見える夕日が逆光となり、少女の背後から微かに射し込む目を刺すような光に、ザウラクはつい目を手の甲で覆う。ゆっくり沈みゆく西日は、あっという間に談話室の乳白色の壁、黒い書棚と、彼ら二人を赤く染め上げた。

 ザウラクは赤銅色の瞳を輝かせるアルフェラッツの笑顔から、西の大窓に視線を移動させる。彼女と同じ色をした壮年の男の瞳は窓の先を越え、庭の小さな馬小屋を映していた。

 しかしそこには肝心の馬は居らず、紅葉に色づいた楓の木々の庭園の中にひっそりと寂しく馬小屋は建っていた。

「……あいつとあの馬が亡くなってから、もう三つも秋を迎えてしまった」

 亡き妻の愛馬――三年前、妻が亡くなったと同時に、その主の後を追うように息を引き取った青毛の牝馬。その馬の死により伽藍の堂となった小さな小屋は、せめて当時の思い出だけでも残そうという使用人たちの心遣いから、毎日の掃除を怠っていない。

 とは言ったものの、やはり誰もいない小屋はザウラクにとっては愛しき者を失った心に空いた虚を埋めるよりも、その深さをより一層、明確に知覚するだけの空しい存在であった。

 ――それは、おそらくアルフェラッツも同様だとザウラクは呑み込んでいた。

「まったく!お父様ったら、またそんなお顔をして!!」

 ザウラクは顔を曇らせたことに対しアルフェラッツの注意を受けると、泣くのを堪えていたことを隠そうとつい虚勢を張った結果、掠れた声を振り絞った。

「――そんなに、ひどいかね?」

「ええ!星へ還ったお母様だって、もし生きていらっしゃれば今のお父様を見たらさぞかし心配なさるに違いないわ!」

 アルフェラッツはそう言うと、にっかりと無邪気にはにかんで見せた。口元からのぞく白い歯に、ふっくらと持ちあがった特徴的な笑くぼ。死んだ妻にうり二つのその笑顔からは、目の前の少女がすっかり一人の女性へ成長していたことを嫌にでも認めざるを得ない。

 自分がいかに子離れができないことを自覚させられ落ち込んだザウラクは、床に視線を落とす。静かにため息をつくと、より眉間の皺を深く刻み付け、その恵まれた巨躯からは似つかわしくない小さな声をこぼした。

「我輩も、お前が、心配だ」

 それを聞き逃さなかったアルフェラッツは、一瞬だけ目を丸くして驚いてみせた。だが、それはすぐに笑顔に戻るとクスクスと肩を震わせる。一方で、その整った両手は赤らめた頬の熱を隠すように覆っていた。

「……やだ、お父様ったら。これでも私、とってもドキドキしていてよ?だって、あのユピテル帝の第十夫人に選ばれたのですもの!」


"なんて光栄なこと!"


 そう幸せに満ちた微笑みで喜びを隠さぬアルフェラッツ。

 ザウラクはそんな彼女を祝福すべきか、はしゃぎ過ぎるなと窘めるべきなのか複雑な思いを胸中に抱いていた。

「アルフェラッツ。お前の少々お転婆で……なんだ、その、何かと危なっかしいところがあるにしても、お前が正しき善良な娘であることは我輩が一番理解している。

 だからこそ、善を尊ぶ白亜の雷帝もお前を后に選んだのだろう。――だが、だが」

「お父様」

 不安に震えるザウラクの手を、アルフェラッツが握りしめた。

 ――熱い。燃えるように熱く、力強く握りしめられた彼女の手。傷一つないその手を、ザウラクもまたひとまわり大きな剣ダコまみれの手で強く、そして優しく握り返す。

「……心配なのだ、アルフェラッツ。お前までも、我輩の側から離れていってしまうのかと思うと――」

「私は大丈夫よ、お父様。たったほんの少し、一緒に過ごせる時間が少なくなるだけだもの。決して、二度と会えなくなるということではないわ」

「わかっている!わかってはいるのだ、ただ――」

 ――言えるわけがない。大の大人が、よりにもよって娘に”離れたくない”などと。

 逆ならば然り、親と子の立場からザウラクは自尊心と羞恥からその一言を口にできずにいた。

「では、こうしましょう!」

 娘の突然の大きな声に驚いたザウラクは床から顔を上げると、目に涙を溜めた父の姿をよそにアルフェラッツはいつになく真剣な眼差しで見つめて言った。

「月に一度、お父様にお手紙を差し上げるわ!それなら、寂しくはないでしょう?」

「なっ……!?さささ、寂しいなどと――!」

 真面目な声色から転じ、意地悪そうにニヒヒと微笑んだ娘に勝てぬと言葉に詰まったザウラクは、ついに参ったなと呟き、項垂れるとようやく観念した。

「……ああ、ああそうとも。ああ、我輩は、お前が嫁に行ってしまうことがとても寂しい!」

「むふー!正直でよろしい!」

 満足して勝ち誇ったかのようにふんぞり返るアルフェラッツの姿に、ザウラクは、娘は一体誰に似たのかと頭を掻く。さすがに厳つい自分と比べ、貞淑そうで清楚な外見は母親似ではあるものの、負けず嫌いで頑固なところ。一度こうと決めたことは絶対に曲げないところこそ、若いころの自分にそっくりである。そう思うとザウラクは、それが内心うれしく、非常に喜ばしかった。

 二人でおかしく笑い合った後、アルフェラッツは微笑んだままではあったが少し困ったような顔をした。そして、再びザウラクを真っ直ぐ見つめ、彼女はおのれの決意を口にする。

「誤解なさらないでね、お父様。……私、こう見えて自分の意志で皇帝陛下のお傍に行こうと決めたのです。

 ……陛下は、これまでに何人もの身寄りを亡くした戦災孤児や伴侶を失った人々を家族として迎え入れて来られた立派なお方だわ。私が皇室へ嫁ぐことによってメラクの領民、そして我が帝国オリュンピアに更なる堅い結束をもたらすというのなら、願ってもないこと。

 ――私は。アルフェラッツは、次期七星剣が一振りたる巨門ザウラクの娘であることを、心から誇りに思います」


 見つめ合う赤銅色の互いの双眸が、陽が沈むにつれ、次第に夕闇に濡れていく。

 半年前に交わした、愛する一人娘とのささやかな約束と眩しい思い出。


 ――しかし、帝都オリュンポスへ送り出した彼女からの手紙がザウラク公に届くことは一通も無く。


 ザウラク公がアルフェラッツの顔を見ることができたのは、この日が最後であった。

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