第六節 ◆在りし日の宝物/王子 エピメテウス

 冷えた夜気が気管を突き刺す痛みで、エピメテウスは意識を取り戻した。鉄錆びた香りをまとった濃密な闇の中、少年は痛みの残滓に呻きながら辺りを見渡す。

 しかし、一向に視界が暗闇に慣れることはなく。……疑問に思ったのもつかの間。彼は、瞼に走った鋭い痛みに小さな悲鳴を上げた。


 ――視界が、閉じられている。


 ……否、封じられていたのは視界のみにならず。――何か鋭利なもので強制的に塞がれているのか。金属質な糸で縫合された唇から、流れ出た血が口内を満たしていく。反射的に吐き出そうとして失敗したエピメテウスは、気管支に流れ込んだ血で無様に噎せた。

 このままでは窒息してしまう。とにかく気道を確保しようと仰向けの状態から横向きへ体を倒した瞬間、エピメテウスはおのれの鼻先の感覚が無いことに気がついた。……鼻までも、削がれている。どうりで鼻が床を擦った感覚が無いわけだ。

 冬の冷たい石畳の上に、無造作に放置されてからどれぐらいの時間が経ったのだろう。真冬の凛々たる寒さの中、凍えた体を震わせたエピメテウスは僅かな唇の隙間から、悴んだ指先に吐息を吹きかけた。

 だが、悲しいかな――彼には悴む指先どころか、両腕すらも残っていない。行く当てもない白い息が、血と闇に噎せ返る牢の天井に弱々しく昇って掻き消えただけだった。

 絶望するエピメテウスを横に、鉄格子の扉を解錠する音が鼓膜を叩いた。恐怖の色に染まった悲鳴を思わず呑み込む。足音からして5、6人の成人男性。その中の一人に、エピメテウスは聞き覚えがあった。


「……連れて行け。」


 流麗で透き通った、凛とした声。今は既に睨みつけることも叶わぬ怨敵――憎き家族の仇たる白亜の男が、そこにいた。



 ――約五〇〇年前。

 エリュシオンの王都”大王の冠”の中心、サトゥルヌス宮殿。

 アリオト・ミザール・ベネトナシュの三つの大都市から構成された大都市国家ティターン朝エリュシオン。アリオトの南には、厳格さと剛健を兼ね備えた石造りの建築物が冠を象るように円状に立ち並ぶ。その中心にしてひときわ目立つ、趣きのある大きな城。黄金と白銀の豪奢な装飾――この極彩色の神韻を帯びた荘厳な建築物こそ、アリオトの最奥に位置するティターン朝エリュシオンの大王クロノスの居城だった。七階からなる城の最上階、天守閣には大王の玉座が鎮座する。

 しかしながら、城主の姿はそこには無く。黄金に彩られた玉座の前には、俯いて泣きじゃくる幼い少年と、そんな彼に困り果てて腕を組む青年が佇んでいた。

「いつまでも泣いている場合か、エピメテウス」

 長身で肩幅の広い青年が、呆れたように眉間の皺を寄せる。赤地に金の刺繡が施された、ゆったりとした絹の衣装。細身ながらも体格に恵まれた逞しい偉丈夫は、険しい朱色の双眸に厳しさを秘めながらも清廉な高潔さに満ちていた。腰まで垂らした黒い三つ編みの長髪を苛立ちに揺らせると、青年はエピメテウスの腕を掴んで立ち上がらせる。

「これは当初より既に決定していたことだ。だというのに、お前ときたら何をそんなに感情的になるのか――オレにとっては理解に苦しむ」

「そういうお前の態度こそ感情的だと思うがな、プロメテウスよ」

「……パンドラ」

 大王の間の入り口にある柱の陰から、金と蒼のドレスに身を包んだ一人の少女が現れる。蒼い宝石を散りばめた白金の小さな冠。そして頭部を覆う薄いベールの下には、三つ編みに編み込まれた闇色の髪がかすかに覗いていた。その容姿は可憐の一言に尽きるほど見目麗しく、瑠璃色の瞳には儚げな憂鬱さを湛えている。しかし、野に咲く一輪の花のような見た目に反し、パンドラと呼ばれた少女の声は氷柱のごとき鋭さと冷たさが宿る美しさだった。

 そんな近寄りがたさを身に帯びた少女に遠慮することなく、朱い青年・プロメテウスは歯をむき出しにする。

「……そもそもオレたちは、主たる”衰滅をもたらす者”の宿主――肉体に万が一の事態が起こった場合に備えた代替機。

 であるのに対し、こやつは些か宿主の人格に寄りすぎているのではないか?」

 やや乱暴におのれの頭に手を置いた兄に、エピメテウスは小さな体を縮ませる。しかし、その力強い手の温もりに、胸中を覆う不安が解れていった。

 そんなプロメテウスの熱さに融けること無く、姉のパンドラはその氷の美貌を保ったまま冷ややかな音で言葉を紡いでいく。

「所詮、我らは人の皮を被った異物に過ぎぬ。人を滅ぼす天士でありながら、人との共生の道を選択した我らが大王。しかし、どれだけ上辺を取り繕ったとしても――人と交わり、暮らし、深く関りを持っていくほどに。……異物としての、その中身は露わになっていく。だからこそ、大王はエピメテウスのこの在り方を良しとしたのだろう」

「――何が言いたい」

「人と共に生きていく上で、人間らしい天士がいてもいいのではないかということだ」

 冷然と告げたパンドラはエピメテウスのもとまで歩み寄ると、彼の目線の高さに合わせるように屈む。少女の華奢な指先は、震える少年の小さな手を取ると優しく包み込んだ。白雪の肌に、淡い桜色の整った爪。冷淡な印象の彼女からは想像もできない、その手のやわらかな温かさ。

 おのれよりもほんの少しだけ背の高い少女が、エピメテウスの鶸色の瞳を覗き込む。

「いいですか、エピメテウス。我が同胞、我が唯一の伴侶にして小さな末の弟よ。私たち冠の五星は、これより大王の具足となるお役目に務めることと相成りました。人の姿をして貴方とこうして顔を合わせるのも、互いに今宵が最後です」

「パンドラお姉さま……」

 幼い少年は、思わず俯いた。


”――離れたくない。”


 その一心で、弱々しく少女の細い手を握り返す。そんな弟に、パンドラは仕方がなさそうに優し気な声色で語りかけた。

「顔を上げなさい、エピメテウス。――”離別をもたらす者”を大王が封じた今、これは必要な犠牲です。……全ては、いずれ来たる宿敵・白亜の鷲の降臨者を打ち倒すため。今度は貴方が、大王と共にこの国と民をお守りするのですよ」

 パンドラに言われるがまま、エピメテウスは眼を赤く腫らした面を上げる。……そこにいたのは、静かに微笑むパンドラの姿。

 少年が姉の笑顔を見たのは、これが初めてにして最後であった。

 慈愛を含んだ眼差しは、ただそれだけでエピメテウスに、一王族として国のこれからを担わなければならない責任と覚悟を問うていた。

 そんな二人を前にプロメテウスはつまらなそうに鼻を鳴らすと、焦らされるのには飽きたとでもいう顔をした。

「――エピメテウスよ。その頭部についている口は、舌は、声帯は何のためのものだ。……いい加減、我らに言い残す言葉があればさっさと申してみよ」

 プロメテウスの不機嫌な顔は相変わらずであったものの、先ほどまでの厳しさはとうに消え失せている。エピメテウスは涙を拭くと、上ずる声を振り絞っておのれの願いを口にした。


「プロメテウスお兄さま、パンドラお姉さま。……どうか最後に、ぼくの手を握ってくださいませんか」


 兄・プロメテウスの熱く力強いその手は左手に。姉・パンドラの優しくあたたかな手はその右の手に。長兄たる大王クロノスを除いて、誰よりも自分を案じ、接してくれた家族との思い出――宝物を、エピメテウスは小さな手のひらの中へ大切に包み込んだのだった。



 ――しかし、それからおよそ四五〇年後。

 ティタノマキアにて、クロノス大王が連合国総帥ユピテルに敗れたすぐ後のことだった。相討ちになったはずのユピテルはどのような手品を使ったのか――数日と経たずに復活すると、再びエリュシオン・アリオトへ進軍を開始した。

 大王の弔い合戦として勃発したギガントマキア。エピメテウスは主将となって応戦するも、次第にステラを手にした人間たちに追い詰められていく。

 だが、エピメテウスはここで挫けるわけにはいかなかった。……そもそも、彼には挫けることすら許されなかったのだ。


”――姉、パンドラ王女の遺志を継ぐ。”


 国と民を守る誇り高き使命は、もはやエピメテウスを縛り付ける呪いの鎖と化していた。それが後に仇となるとは、少年王子は思いもしなかったのだから。

 エピメテウスの運命が狂い出したのは、宿敵であるユピテルが終戦への和平交渉を持ちかけてきた時だった。突然のオリュンピア連合からの提案に勿論エピメテウスたちは疑うも、その内容はエリュシオン側にとって決して無視できないものだったのだ。


『エピメテウスの身柄と引き替えに、エリュシオン民たち全ての命の保証を約束する。』

 

 後にも先にも進む道も帰る道も塞がれた、エピメテウスに与えられた究極の選択肢。家族と交わした約束が、果たすべき自分の信念と誇りが今ここで縛めとなって立ちはだかる。それは国か、民か――彼が守ることができるものは、ただ一つだけ。


 少年王子の答えは考えるまでもなく、最初からとっくに決めていた。


「……民あってこその国である。――喜んで、この身を差し出しましょう」


 エリュシオン最後の王族エピメテウスは、ひとり単身で敵陣に投降する。己が命ひとつで自国の万民を救わんとする、幼い容姿をしながら一国の主将たるその果断は、オリュンピア連合軍でさえも一部の者たちが彼に敬意を表したほどだった。


 帝歴一一九四年、十一月二十二日。

 初氷が荒野の地を覆う、冬の澄んだ星月夜。類い稀なる圧倒的な王威を誇るクロノス大王が鬼才のもと栄華を極めたティターン朝エリュシオンは、この日を以って事実上の敗戦をしたのであった。




 オリュンピア連合国へ身柄を拘束されたエピメテウスは、かつてエリュシオン領であったミザールの闘技場――アルコルの地下牢へ投獄される。

 そこは、主に剣闘士の敵役として処刑される受刑者の中で最も罪の思い罪人が収容される場所だった。石畳の床に金属質な――ステラでできていると思われる材質の強固な竪穴式の檻。

 昼間は日光がほとんど射すことのない、外界と遮断された空間。この暗闇の中で、エピメテウスの世界は瞬く間に暗鬱とした苦しみの日々と化していった。

 

 まず彼が最初に奪われたのは、立ち上がる意志と両脚だった。

 

 牢獄を覆うステラの力によって、天士の能力のうち七割を封じられたエピメテウス。外見の通り、非力な幼子同然になった少年王子を凌辱したのはミザールのごろつきたちであった。剣闘士にも、連合軍の兵士にも選ばれることの無かった何者にもなれない”余り者”。

 彼らにとってエピメテウスは、不満と欲求のはけ口をぶつけるに値する恰好の弱者だ。その名ばかりの拷問はやがて純粋な暴行へと発展し、エピメテウスは心身ともに惨苦を味わうこととなる。

 時には殴り、蹴られ――またある時は腹を裂かれ、内臓を全て掻き出された。夜は集団で嬲り者にされるなど、惨憺たる日常が絶え間なく続く。

 姉に似て可憐だったその美貌は見るも無残に窶れ果て、烏の濡羽色だった艶やかな髪は褪せて抜け落ち、痩せた体にはいくつもの傷と痣が刻み付けられていく。加えて、天士の驚異的なまでの自己修復機能が、その苦痛をさらに永続的な、苛酷なものにしていったのだった。


 ――およそ人間が考えた思いつく限りの全ての醜い悪逆の数々が、そのあまりにも小さな身体へ無尽蔵に注がれていった。


 それでも尚、エピメテウスは繰り返される夥しい暴力の嵐をその身に受け続けても、決して屈伏することは微塵も無かった。誰もが目も背けたくなるほどの屈辱に、ただただ、ひたすらに耐えてみせた。

 遠いあの日の、尊い思い出――大好きな家族から託された大切な宝物を、交わした約束を守り抜く。

 たったそれだけが、目に見えぬ無形の理想と夢だけが。……エピメテウスの堅固なまでの精神力の源だったのだ。

 しかしながら、そんなエピメテウスに対し、ミザールのごろつきたちも流石に苛立ちを募らせる。いくら痛めつけても、犯しても、命乞いのひとつすらしない――エピメテウスへの暴力行為に変化も面白みも感じなくなった男たちは、水面に一石を投じるが如く新しい趣向を思いついた。


 男たちが凶行に及んだのは、満月が昇る、やけに明るい晩のことだった。


 冷たく鬱蒼とした牢獄の壁を、男たちの手にする燭台の灯火が不気味に朱く照らす。彼らはまたいつものように、刃物に形成された拷問器具代わりのステラを携えている。手入れもされず黒ずんでこびりついている切っ先が、鈍くおぞましい光を映した。

 エピメテウスは、不快な笑みを浮かべ醜悪な汚物を屹立させた悪漢たちに囲まれる――満足するまで終わることのない、骨肉を貪る残酷で残忍な宴が幕を開ける。

 

 しかし、その晩は禍々しい狂気の輪にひとりの見慣れぬ客が訪れた。――正しくは、連れてこられたというべきだろう。

 拷問の主格たる大柄な男が、粗雑に担ぎ上げていた少女を倒れ伏していたエピメテウスの目の前に勢いよく落として見せたのだ。

 衣服も剝がされ、冷たい石床に叩きつけられる少女。衝撃に揺らめいた蠟燭の焔に浮かび上がったその容姿と特徴に、エピメテウスは困惑した。

 銀の髪に、褐色の肌。苦痛に歪むその紅い瞳は、まぎれもなく半天士――エピメテウスが守ると誓ったはずの、エリュシオンの民だった。

 驚愕から硬直するエピメテウスに構わず、男たちは少女を寄ってたかって力に任せて袋叩きにし始めた。

「……なにを、しているんだ」

 興奮冷めやらぬ下卑た声が、少女の叫びに混じって骨を砕く音とともに乱舞する。

「――やめろ。今すぐその女の子を放せ……!その娘は、ぼくの民だぞ…っ。やめろ、やめて……早く、やめてよ……っ!」

 悲痛なエピメテウスの制止にさえ耳も貸さず、男たちはけたたましく手を叩き、笑い、地獄の凶乱に踊り狂う。

 男たちの足の隙間から覗く、殴られて腫れあがった瞼の奥底。……紅色に輝く、少女の瞳と目が合った。

 少女は、息も絶え絶えにエピメテウスへ震える手を伸ばす。

「……あ、……ア…テミ――」

「――――――っ!!」

 エピメテウスがその傷だらけの手を取ろうとしたその瞬間。少女の頭上から鉈――ステラが、容赦なく振り下ろされた。


「…………どうして」


 ひび割れて血の滲む唇から、掠れた弱々しい声が零れ落ちた。

 ――エピメテウスは、そう呟くしかほか無かった。

 抵抗もできぬまま、誰かの名を呼んだであろう少女の頭蓋は叩き割られ、傷口から鮮血が溢れ出す。目の前にいた自分へ救いを求めて差し出した手を取ることのできなかった無力な腕が、虚しく空を掴んだ。

 凍てつく石畳の床、その溝を伝って少女の骸から流れ出た血がエピメテウスに届く。

 ――先ほどまで生きていた命の熱が凍える全身に染み渡り、ついに少年王子の怒りを解凍した。

「――どうして、この娘を殺したんだ。ぼくが……ぼくがここにこうしている限り、エリュシオンの民の命は、保証するという約束だったじゃないか……っ!!」

 そんな必死のエピメテウスの叫びを聞いた男たちは、耳も塞ぎたくなる胴間声を上げて嘲笑う。

「約束、約束、約束約束約束ねえ……!アンタのその頭のお花畑っぷりには呆れて笑いが込み上げてくるよ、全く……ッ!」

 大柄の男はそう吠えると、エピメテウスの腹を思い切り蹴飛ばした。エピメテウスは口から薄桃色の泡を噴いて、痛みのあまり胴をくの字に折り曲げるも、頭を掴まれてそのまま床に何度も乱暴に打ちつけられていく。頭部が床から離れて意識が遠のく瞬間、また間髪入れずに次に襲い掛かる痛みで無理矢理覚醒させられる。

 ――悲鳴を上げる余裕すら、エピメテウスには与えられない。

 ゲラゲラと笑う大柄の男は、締めに一発、エピメテウスの顔面を膝で蹴り飛ばした。とりまきのミザールの男たちは畳み掛けるように、エピメテウスの前でわざわざ少女の骸を弄ぶ。

「だいたい、王子サマが仰る約束とは何だ?そもそも約束とは、人が人へ結ぶものだろう?――人ではないアンタに、約束を貫かねばならぬ道理があるものかよ!!」 

「そうだ。俺たちは、ただ貴様という天士を”破壊し尽くせ”と命じられただけなんだからな!」

 自分がいなくなった後のエリュシオン民の置かれている真実を知り、エピメテウスは初めて絶望に打ちのめされた。オリュンピア連合国――ユピテルは、最初から自分との約束を守るつもりはさらさら無かった。そればかりか、すでにとうの昔に破っていたことに激しく憤り、傷ついた。

 悔しがり涙を浮かべたエピメテウスの目を見た途端、大柄の男は悪声を上げて嗤笑する。拍手を止め、吐き気を催しそうな悍ましい――恍惚に満ちた笑顔を浮かべた。心身ともに傷つき、身動きが取れぬエピメテウスに跨ると、おもむろに右肩を鷲掴みにした。

 顔を近づけた男は掴んだエピメテウスの肩から上腕部、そして手首まで嫌らしい手つきで肌を滑らせる。その一連の動作で、全身の鳥肌が総立ちしたエピメテウスは、想像もしたくなかった最悪を察知する。

 清々しく晴れやかな醜悪に尽きる微笑みを張り付けた男が、耳元で囁いた。


「――そういえば。……腕の方はまだだったな、王子サマ?」


 瞬間、耳障りな声が機となって、あらゆる屈辱に耐えてきたエピメテウスの不屈の

精神が恐怖に変じ、一気に決壊した。

「いや……いやだ!いやだ、いやだ……!それだけは――!」

 頭を振り乱しながら、エピメテウスは拒絶し泣き叫ぶ。しかし、その必死の懇願は眼前の男たちの凶暴な獣性へ火に油を注ぐだけだった。

「やめてください、お願いです……っ!目でも鼻でも口でも、いくらでもこの体を切り刻んでも構いません…!でもどうか、この腕だけは――!」

 暴れる小さな非力の体を、男たちは圧し潰すのも構わぬ力で押さえつける。……唾と狂笑を撒き散らしながら、少女の命を奪ったステラを――今度はエピメテウスの腕へと振り降ろす。


”たったひとつの大切な思い出さえも、守らせてくれないのか――!”


 悲痛な絶叫が、糠星までもが眩い煌めきを放つ澄んだ霜夜の闇に響き渡る。


 帰る場所も、誇りも失ったエピメテウスに唯一残った、家族との思い出――希望は、粉々に砕けて砂塵と化して消失した。




 ――エピメテウスが両腕を失った翌晩。

 達磨の少年は、おのれから何もかもを奪い尽くした男たちの手によって数年ぶりに外へ連れ出された。視界は閉ざされ、物言う言葉を取り上げられた――暗闇の世界で過ごすことを強制されたエピメテウスに、もう時間の概念は無いに等しかった。

 残った鼓膜が、おおよその状況を把握させる。荒野に吹きすさぶ風が、波の音を誘う。

”――磯の、生臭い匂いがしない。おそらくは、アリオトの東に位置する湖”星の涙”だろう。”

 衰弱したエピメテウスは為す術もなく、金属製の匣――ステラに詰められると、そのままあっけなく放り投げられた。匣の中、ゆっくりと湖底へ沈んでいく音だけがただただ脳内に反響していく。

 このままどこまでも沈んでいって、深い底に落ちたなら……二度と朝陽を拝むことは叶わないのだろう。……そればかりか、愛しき兄や姉たちが、大王が愛した民たちにも――。


 ”――ごめんなさい。”


 後悔と罪の意識に苛まれたエピメテウスは、失った光の残滓たちへ、ただひたすらに謝罪を繰り返す。


 

 ”――ごめんなさい、ごめんなさい。ぼくは約束を守れませんでした。”


 ”――息を引き取る直前まで、助けを求めて伸ばした少女の手さえも取ってあげられませんでした。”


 ”――必ず守ると誓った国も、民も、みんなみんなみんな、ぼくのせいでなくなってしまいました……!!”



 エピメテウスは、暗い湖底で静かに泣き続けた。――涙を拭うことすら叶わない。その孤独の懺悔は誰にも聞こえることはなく、また彼を覚えている者は時の流れの中で次々と去っていく。

 いつしか彼の存在は、文献から人の記憶まで……歴史もろとも風化され、泡沫となって弾けて消えていったのだが――。



 忘れ去られた王子の悲しみと怒りを再び呼び覚ましたのは、甘い芳香だった。



 気がついた時には既にエピメテウスは匣から解放され、湖の底より上陸していた。視界は相変わらず閉じられたままではあったが、辛うじて残された触覚、聴覚と嗅覚が久方ぶりのアリオトの風をエピメテウスに知覚させた。

 意識を酩酊させる、重くかぐわしい香気が導くままに。彼は、憤怒の化身と生まれ変わる。


 ”――恨めしい。自分から大切な宝物を全て、何もかも奪った人間たちが。”

 ”――憎たらしい。他者を呼吸のごとく傷つけて、その痛みと嘆きを悦楽とし嗤う心の無い、くだらない命が。”


 こうしてエリュシオン最後の王子の生涯は、静かに幕を閉じた。

 地につく脚すら無い、浮遊する憎悪の異形――覚醒体に転身した天士エピメテウスは、腐敗した怨念を糧にアリオトを彷徨い続ける。

『――そうだ……!くろのすおにいさまがみつかりさえすれば……ぱんどらおねえさまも、ぷろめてうすおにいさまも、みんな、みんなみんなもとどおりになれるよね…!』

 ユピテルによって討たれた所在不明のクロノス大王の首を求め、手の天士は失った宝物を探す旅に出る。幸せだった、満たされていた思い出に焦がれて、夢想の手を伸ばす。

 ……しかし、摩耗した心は目的と行動を反転させ、殺戮の暴威へと成り果てる。

 兄姉たちを追い求め、憎き仇の命を摘んで嘲笑う――人類の脅威、天士・エピメテウスの誕生であった。



 時は現在――。

 破軍・アルテミスに貫かれた天士エピメテウスは、走馬燈より在りし日の宝物と自らの身に降りかかった悲劇を思い出す。

 黄金の光に呑まれる直前――アルテミスが口にした、たった一言がエピメテウスの擦り切れた善性を蘇らせた。


”………ごめんな。”


 小さな、今にも掻き消えそうな苦しい謝罪。自身が、湖底で何度も何度も反復した言葉。

 ――それだけで、エピメテウスの内包した闇の世界が晴れ、光を取り戻す。  

 アルテミスが、腹の口を貫いた黄金の剣をそっと引き抜いた。……嘔く口腔から、鶸色の体液が溢れ出す。

『………ごめんなさい…っ!ごめんなさい、おにいさま…おねえさま……!こんなすがたになってまで、もういちど、てをにぎってほしいなんて……あなたたちに、あいたいなん、て……いえないのに…ッッ!』

「――エピメテウス」

 アルテミスはステラ・アトラースを解除すると、革手袋を外し、目の前で泣きじゃくる少年の頭を優しく撫でた。その手の熱が、エピメテウスの浮腫んだ肌に吸い込まれていく。

「……貴方の境遇に、私は同情いたします。貴方の……御身の不幸に加担した身で申す立場では無いのは、承知の上だ。……罵ってくれて構わない。

 しかし、もしも――もしも、貴方が…貴方を傷つけた者たちを赦してくださるというのなら。家族のもとへ連れていくと、約束しよう」

 ステラ・パンドラが淡く蒼い光を放つと、小さな立方体に刻まれた幾何学模様が白金に輝き始めていく。黒髪の戦士の言葉に泣き止んだエピメテウスは、わずかに胸に射し込んだ希望の光へ、縋るように訊ねた。

『――ほんとうに…?ほんとうに、みんなのところにつれていってくれる……?』

「必ず。もう、痛い思いも、苦しい思いもしなくていい。……みんな、貴方に来て欲しいって」

 アルテミスは、蒼い立方体を持ち上げて少年の頬にそっと当てた。……そのやわらかな温もりに、エピメテウスの胸に愛しさと懐かしさがこみ上げる。

『……あのね、ほんとはね、ぼく…まもりたかったんだ。みんなみんな、まもりたかったんだ……!』

 家族の匂いを感じ取ったエピメテウスは、ステラ・パンドラへしゃくりあげながらその思いを吐露する。

『まもりたかったんだよ……っ!!』

 少年の小さな叫びを受け取ったステラ・パンドラが、白金の光線をエピメテウスの胸の中心に照射する。

『――敵性対象天士の無力化を確認。これより核座標を固定しますので、速やかに回収作業を行ってください。』

苦しみに渦巻く日々の中でも、狂気に呑まれても決して忘れることがなかった――心から会いたかった少女の声。

 エピメテウスが愛する彼女がいま、彼のすぐ隣にいた。

 アルテミスは、ステラ・パンドラが指し示した座標に彼女を押し当てた。瞬く間に展開した白金の幾何学模様が、少年の小さな体に描き出されていく。

「守れるさ、絶対に。――今度は、姉さんや兄さんたちと一緒なんだから。この破軍が約束する。」

『――やくそく、だよ……。』

 苦悶の表情から一変、穏やかに微笑んだエピメテウスは静かに息を引き取った。彼の胸から鶸色のあたたかな光が、ゆっくりとステラ・パンドラに吸い込まれていく。

『――天士エピメテウスの核回収・完了を確認。……破軍・アルテミス。あなたに、感謝を。』

「………え?」

 アルテミスは思わず、ステラ・パンドラが最後に発した言葉に耳を傾けた。しかしながら、それはあまりにも小さな声だったため、荒野の風音に紛れてしまい残念ながら聞き逃してしまったのだが――。

 間もなくして、エピメテウスの骸はひび割れると乳白色の石と化していく。


 ――天士は、土に還れない。

 そもそも異星生命体である天士は、この星の生物ではない。故に天士に寄生された宿主の肉体も変質した結果それに当てはまり、命を落とした彼らはガイアの自然秩序から弾き出される。

 その結果が鉱石化現象であり、死んだ天士の肉体と心臓――「核」たちはこうして朽ちることなく野に転がっていくのだ。


 アルテミスは光の消えたステラ・パンドラを抱きしめる。国と民をその一身に背負った王子の骸に、黙祷と敬意を捧げたその瞬間――。

 白き骸の首に、一振りの黄金の切っ先が穂を突き立てる。細い首はいとも簡単に砕けると、中から鶸色に輝くガラス光沢のある繊維状の結晶が零れ落ちていった。

 顔を上げたアルテミスは、王子の骸を侮辱した凄まじい殺気を放つ眼前の人物を見据えてみせる。

 ――そこには、ステラ・イアペトスを携えたザウラク公が、憤怒の渋面を浮かべて立っていたのだった。

「――その核をこちらへ渡していただきたい、破軍・アルテミス殿」


 黒く濁った脈打つ肉塊を背負う、ザウラク公――彼の体からは、あの甘く不快な芳香が立ちこめていた。

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