雲の上

増田朋美

雲の上

雲の上

今日も蘭は、仕事の道具を買いに、ちょっとした店を訪れていた。なかなかこういう店は、入りにくいのだが、多くの刺青師たちが、訪れる所として、有名な場所だった。そこでとりあえずインクと鑿を買い求める。

「ここのところ、刺青に対して、ますます厳しくなったよなあ。」

と、腕中刺青を入れた店長が言った。

「そうですねえ。でもなぜか僕のところには、毎日のようにお客さんが来てるんです。金末さんがお店を続けてくれる限り、やり続けますよ。」

蘭は、にこやかに言った。

「そうかあ、最近チンピラは減ってきているようにみえるんだが?」

「いいえ、チンピラじゃありません。若い女の子が多いんです。一見すると、すごく真面目そうで、いい子なんだろうなという感じの子たちです。」

蘭は、現状を報告した。

「若い女の子?そんな真面目そうな女の子が、なんで刺青に興味もつんだろうな?」

金末店長が、蘭に聞くと、

「まあ、大体の子は、社会に出ているんですが、いじめにあっていたり、ご家族とうまくいっていないとか、そういう事で、自分だけが頼りという状況に置かれている子たちですよ。それが、刺青をすることで、誰かが守っていてくれるという状態を作ってくれるらしい。大体の子は、日本の吉祥文様とか、神仏に関係することを入れたがります。今は見捨てられているけど、神様が守ってくれていると思いたいんでしょう。」

と、蘭はこたえた。

「そうかそうか。そういう子が多いのか。何だか、そういう子が少しでも減ってくれるように、といろんな人たちが活動をしているが、其れも追いつかないのか。」

「ええ、そういうことは、すればするほど、反動で犠牲者が増えてしまうような気がするんですが。僕の勘違いだったらいいんですけど。」

蘭は、ちょっと苦笑いした。

「そうかもしれないねエ。何だかおかしな世のなかになっちまったのかなあ。蘭ちゃんもそういう子たちの力になってやってね。」

と、金末さんまでそういうのである。にこやかに話しているが、何か深刻な問題を含んでいると思われる。蘭は、とりあえず金末さんにお金を払って、すみませんと言って店を出て行った。

暫く道路を車いすで移動していくと、腹が減ったのに気が付いた。どこかにおいしそうなコンビニでも無いかと思ったが、コンビニは何処にもなかった。その代わり、「イシュメイルらーめん」とかかれた看板の店があって、何となくだけど、ラーメンの匂いがした。

「よし、しかたない。黄色い讃岐うどんでも食べるか。」

と、暖簾の下がっている、その店に入ってみる。

「あら、蘭さんいらっしゃい。今誰もお客さんは居ないから、すきな所に座って頂戴。」

亀子さんが笑ってそんなことを言った。蘭は、言われた通りに、本箱の前にあるテーブル席に座った。

「蘭さん。ご注文は?」

とぱくちゃんが聞く。蘭は、とりあえず醤油ラーメンをお願いした。本棚の前には、布製のマガジンラックがつけられていた。その中に、A4サイズのチラシが入っていた。その中に、「ピアノ発表会」

と書かれたチラシが入っているのに気が付く。

蘭はそのチラシを取り出して読んでみた。

「ピアノサロンって、これ、マーシーの所じゃないかよ。」

確かに連絡先の番号を見ると、マーシの電話番号だった。

「そうなんですよ、蘭さん。うちの人も出るのよ。全くね、あれからピアノにはまっちゃって、電子ピアノなんか買って一生懸命練習してね、発表会まで出る様になっちゃったのよ。」

亀子さんがそう説明する。

「はあ、、、。一体何を弾くんですか?」

蘭が聞くと、

「きらきら星変奏曲。全くへたくそだけど、一生懸命練習してる。発表会の日は、一日会場に居なきゃいけないから、この店は、臨時休業。」

と、また亀子さんがこたえた。ぱくちゃんが、隣でちょっと照れくさそうに頭をかじった。

「きらきら星変奏曲。そんなのを弾くようになったんですか。あれ、意外に難しいのではないですか?」

そういえば、水穂がその曲を弾いていたなと思い出す。

「まあね、水穂さんには敵わないけど、がんばってやるって、毎日毎日気合を入れて練習してるよよ。おかげで店が終った後に、転寝することも出来なくなって、困っちゃうわ。」

亀子さんは、そういうが、何だか嬉しそうだ。それほど、うまくなったのか、と蘭はおどろいてしまう。頭の悪そうな外国人と思われるぱくちゃんだが、意外に学習意欲がある人なんだなと、蘭は感心してしまった。それなら、ちゃんと日本語を覚えてくれたら、いいのになあと思うのである。

「もしさあ用事がなかったら見に来てよ。入場無料だから。」

蘭はチラシに書かれた日付を見て、

「いいよ、土日は、大体仕事はないですから。」

と言った。

「まあ、蘭さんが来てくれるんだから、もっと気合を入れて練習しなければならないぞ。よし、今夜から、練習だ、練習!」

「まあ、そうなると、余計に寝るのが遅く成るわ。全く、あんまりうるさく弾かないでね。」

そういうぱくちゃんに、亀子さんが口出しをするけれど、それは悲しそうな顔ではなくて、なんだか嬉しそうな感じの顔であった。いい夫婦だなあと、蘭はちょっと羨ましくなった。先ほどの刺青を求めてくる客の顔とは、偉い違いである。ああいう風に、夫婦が、にこやかに笑って話をする光景がもう少し有ったら、客の数も減るんじゃないかなと思われる。

「それじゃあ、発表会、蘭さんが来ると、高野正志先生に言っておく。もしよろしかったら、終演後にある二次会も出てよ。」

蘭は、二次会はでたくなかったが、取りあえず発表会は拝聴するからといった。マーシーがどんな顔をして、会ってくれるのだろうか。

「ぱくさん、マーシー、元気なのか。」

と、蘭がそこだけ聞いた。

「嫌ねえ。そうでなければ、発表会何か開けるわけないでしょ。」

亀子さんがそういいながら、ラーメンを持ってきてくれた。やっぱりラーメンというよりこれは黄色いさぬきうどんではないかと思いながら、蘭はラーメンを口にする。

「どう?蘭さん。少し味を変えてみたんだけど、おいしい?」

とぱくちゃんに聞かれて、まさか黄色い讃岐うどんという訳にはいけないだろなと思いながら、ラーメンを食べる蘭だった。

「味が変わったってどういう意味なんですか?」

「もう、醤油味が濃すぎるから、少し薄くしてくれって、お客さんに言われたんですって。この人、ウイグルの味はみんなこうだって対抗していたんだけど、最近、変わり始めた見たいで。」

蘭が聞くと、亀子さんがそう答えた。

「ピアノを習い始めてから、お客さんが来てくれるようになってね。この人のピアノの仲間なんですって。音楽は仲間を連れてくるっていうけど、それ、本当ね。」

照れくさそうに笑うぱくちゃんと、亀子さん。そうだよなあ、音楽ってうまくいけばそういう風に、仲間を連れてきてくれるのだが、蘭は、それを心から嬉しいという気にはなれなかった。音楽を生業としてきた一人の男が、孤独なまま一生を閉じようとしている。

「どうしたの蘭さん。あ、やっぱり僕のラーメンはまずかったかな?」

蘭が考えていると、ぱくちゃんはにこやかに言った。

「いや、まずくなんかないよ。発表会、楽しみに待ってるからな。」

蘭はそういって、スープを飲み込んだ。

そして、発表会当日。

決して立派なホールではない。ただのコミュニティセンターの音楽室で会は開催されていた。出演者も、十数人の少ない人たちだし、見に来ている客も本当に少ない。発表会というよりサークルで行われる練習会という感じだ。

蘭が入り口から中に入っていくと、

「蘭さんじゃないですか。どうしたんですか?」

と、声をかけた人物がいた。

「浩二さん!」

誰だと思って後ろを振り向くと、後ろに居たのは浩二であった。

「どうしたんですか。こんなところに来て。」

「いや、僕、先日ラーメン屋さんでチラシを見つけたんだ。それでちょっと興味持ってな。君こそどうしてここに来たの?」

質問に質問でこたえるのはちょっと嫌だという人もいるが、浩二はそういう人ではなかったことが蘭には嬉しい話だった。

「いや、高野先生とは、コンクールの会場で知り合ったんです。僕も今持っている生徒を一人コンクールに出させたんですが、その時コンクールの会場に、高野先生も来ていたんですよ。」

あ、そういう事か。つまりマーシーが、見学に来ていたのか。

「ああそうか。見学に来てたのか。誰か出させようと思ったのかな。」

「いや、そうじゃなかったんですよ。高野先生の所に通っていた生徒さんで、96歳のおじいさんが、出演していたんです。それで応援に来たと、高野先生は仰っていました。」

はあ、つまり、アマチュアの生徒さんがコンクールに来ていたのか。

「そうなんですよ。そうしたらですね、その、96歳の方がまたお上手で、グランプリまで受賞されたんです。そうなると指導者も表彰されるんですよね。高野先生は、優秀指導者賞を貰いました。僕も演奏聞きましたけど、素晴らしかったですよ。」

「え、ええー!」

蘭はおもわずびっくりしてしまう。

「その方の演奏をもう一回聞きたくて今日はこちらに来たんです。早くしないと開演しますから、急いで座りましょう。僕がよろしければ、押して差し上げますよ。」

「あ、はい。」

浩二に車いすを押して貰いながら、蘭は音楽室のなかに入った。丁度二人が席に付いたところで、演奏会が開始された。

ピアノの発表会というと、小さな子どもたちが中心になって、演奏するということが多いが、この会では大人ばかりで、しかも中年以上の男性が多いのが特徴であった。すぐに終ってしまうのかなと思われたが、演奏しゃたちは、みな大曲ばかりで結構演奏時間がかかった。ベートーベンのソナタ、シューベルトのソナタといった、格の高くて、奥の深い曲ばかりやっている。音大生がよくやる、見せ場が沢山あって、技巧を売り物にする作品とは偉い違いだが、それでも、ちゃんと和声感もあって、強弱もあって、しっかりと曲になっているので、退屈はしなかった。それに威圧的な人が居ないから、たのしく音楽をきけるのだ。

「蘭さん、あの人です。96歳の方です。」

と、浩二に肩をたたかれて、蘭はハッとする。ピアノの前にたったおじいさんは、確かにおじいさんなのだが、足腰もしっかりしていて、とても96歳にはみえなかった。

「10番、宮本勝男さん、演奏曲は、ショパン作曲、ソナタ、第二番より、第一楽章です。」

司会者が其れだけ言った。特に、出演者の紹介もせず、コンクールでグランプリをとったという話もださない。

宮本さんが一礼して、演奏が開始された。蘭も緊張して、演奏を聞く。ピアニズムにしろ、和声感にしろ、ショパンという作曲家は、ちょっと癖があり、人気のある作曲家であるにも関わらず、非常に難しいものである。でも、それをきちんと弾きこなしていて、しっかりした演奏になっている。美しいところは、美しいメロディがしっかり表現されていた。はあ、ちゃんとしているじゃないかと蘭は、感心して聞いた。演奏が終った時は、みな、感心して大拍手を彼に送った。

「上手ですね。さすがグランプリを取るだけありますね。」

と、蘭が言うと、

「本人はそのようなことになるとは、夢にも思っていなかったそうです。音楽雑誌に偶然、宮本さんのインタビューがありました。彼が若かった時は、戦時中で、ショパンなどを弾きこなすことは、出来なかったんだそうです。それを高野先生は、夢を叶えましょうと言って、一生懸命指導をしてくれたそうですよ。」

と、浩二も感動した顔をして言った。

「上手ですね。僕も、彼の演奏は素晴らしいと思いました。そして、僕はそういう生徒をまだ一度もだしたことはない。そうなったら、高野先生に敗けているという事になります。指導者として、まだまだ自覚が足りないということですね。」

「いやいや、君はまだ若いんだ。まだまだそういう生徒を出せなくて当然だよ。君がもし優秀指導者賞を取るのなら、全国の先生が、必要なくなっちゃうじゃないか。」

蘭がそうおどけてみせると、浩二はにこやかに笑った。

演奏会は、あと一人の演奏が終って、終了した。

「蘭さん、この後の二次会に出てみませんか。演奏会終了後の二次会はまたおもしろいそうですよ。」

蘭はそのまま帰るつもりだったが、浩二にそういわれて、しかたなく二次会に出席してみることにした。何処でやるんだと聞くと、この会場の近くにある、イタリアンレストランだと言った。あるいていける距離だという。浩二は、控室に行って、二次会の枠を増やしてくれるように、頼みに行った。

そういう訳で、二人はイタリアンレストランに、二次会にでることになった。レストランは、本当に歩いて五分程度のところにあった。ラーメン屋の店主のぱくちゃんも、あの、96歳の宮本さんも参加している。みんな音楽のことを楽しそうに話している。いろんな年齢や職業の人がいるが、みな音楽がすきで、ピアノがすきな人たちだった。それを、変な階級制度をつけたりせずに、話を会わせているのが、主催のマーシーだった。

「高野先生、今日はお疲れ様です。」

浩二が、にこやかにマーシーに挨拶すると、

「何のなんの、僕が演奏した訳ではありません。今日の主役はここにいる皆さんですよ。」

と、マーシーはそう返した。

「それでもすごいじゃないですか。あの人を、コンクールで出して、グランプリまでとらせたんですから。」

「いいえ、あれは宮本さんが、ただでたいと言って、努力しただけの事ですよ。僕はただ、やり方

を教えただけです。他には、何もしていません。」

「あれ、高野先生。その言葉、音楽雑誌のインタビューにも言っていませんでしたか?」

ある中年男性が、マーシーを少しからかった。マーシーは、そうですか?と言って、おどけて見た。

「それに僕の事は先生じゃなくて、ただのお節介おじさんという様にと、毎回言っていたじゃありませんか。」

「そうですか、お節介おじさんとしては、随分優秀過ぎるのではありませんか?それにしては、優秀なお節介を宮本さんにしたものですな。」

「先生、その優秀なお節介を僕にもしてくださいよ。」

その男性が言うと、ぱくちゃんまでそういう事をいう。蘭は、お節介おじさんとしてピアノを教えてきたマーシーは、随分しあわせだなと思った。

「きっと、高野先生は、僕たちには出来ないことがあるんだと思います。其れで、皆さんもついてくるんですよ。僕は、音大出で、ピアノのことについて専門的に学んだのかもしれないけど、其れだったからこそ、逃してしまった物を、高野先生は持っているんじゃないでしょうか。まあ世のなかにはいろんな人がいて、いろんな先生を選べる時代になりましたけど、求めている物に応じて、先生を選べばいいんですよね。」

「浩二君、君も、優秀指導者賞はほしくないのかい?」

蘭は、ちょっと俗っぽいことを発言した。

「まあ、ほしくないということもないですけどね。」

浩二が、正直に言うと、

「若いときは、其れでいいんだよ。」

と、蘭はその若者を励ますように言った。浩二君には、是非、優秀指導者賞を貰って貰いたかったが、ふいにふっと、ある人物を思い出す。

「浩二くん、それではマーシーが賞を貰って、水穂は何も貰わずに一生を終えるのかい?」

「まあ、そうなりますかねえ、、、。」

浩二は、そういったが、確かにそうなのかもしれなった。そうなったら、たしかに、水穂はなにも貰わないで一生を終えるということになる。

「磯野先生、最近はどうしているんですか。まだ、おきれないでいらっしゃるんですか?」

浩二が聞くと、

「ああ、もうたいへんな、、、。」

蘭は言うのに詰まってしまう。

「そうですか。先生も、本当に今たいへんなんですね。確かに、高野先生は優秀指導者賞をもらって、磯野先生があれだけ優秀だったのに、何もないのは妙ですね。」

「そうだろう。だから、あいつにも何か言ってやりたいんだが。僕の話ではもう無理で。」

蘭は悔しそうに言った。

「そうですか。僕も、先生に何かしてやりたいですが、それは無理だと思います。僕みたいな若造では多分、先生には手出しは出来ないんじゃないかなと。僕が出来るのは、ただ、磯野先生に一日でも早く良くなって、また演奏にもどってきてほしいというだけの事です。僕だけじゃありません。広上先生も同じ事です。そういう事は、とくべつな関係でもない限り、出来やしないですよ。」

そういうことをいう浩二は、ちょっと大人になったようにみえた。

「僕が、はっきりと、磯野先生にこうしてくれということは、出来ないと思います。でも、磯野先生と、とくべつな関係にある人だったら、ちゃんと話を出来るのではないでしょうか。やっぱりね、こういうことは、しっかりした人でなければ、ダメなんですよ。」

「それでは、君はそういう事を言って、逃げるつもりなのか!」

おもわず浩二の話に、蘭は怒りの言葉をぶつけた。

「逃げるんじゃありません、出来ないことに縋り付いても、意味がないと言っているんです。そういう事は、そういう事をしてくれる人がちゃんといるはずなんですよ、蘭さん。」

浩二はそういったが、蘭は、怒りの言葉が治まらなくて、

「そういうこと言って置きながら、何でいざ関わろうとなると逃げるんだよ!君も、役に立たない教育者と同じなのかい!僕の所に来るお客さんたちは、みなそういう教育者に騙されて、くるしんでいる奴らなんだよ!僕は、これだけは言える。気持だけがあって、口に出さない人間が一番悪いんだ!」

と、我を忘れて怒鳴った。

「だけど、言い出したのは蘭さんでしょう。それに、其れしか出来ない人間だっていっぱいいるでしょ。実際に行動出来る人に、願いを託すしか出来ない人のほうが、世のなかにははるかに多いんですよ!」

浩二も、蘭に言われてそういい返した。蘭は、怒り心頭になって、テーブルをバンとたたく。

「蘭さん。ご自身のことを考えてください。蘭さんは、何か出来るかと言えば、出来る事はなにもないいんです。それは、僕も同じですよ。だから、そっとしてやったほうが、ずっといいんですよ。」

「そうだけど。」

蘭は、やるせないのと怒りに燃えながらそんなことを言った。

「それでは水穂に、何かしてやろうと悩むのはいけないことだろうか?」

「蘭。」

丁度その時、別の声が聞こえてきた。何だろうと思って蘭が顔を上げると、マーシーであった。

「このたのしい時に、そんな話はしないでくれるか。蘭がいくら水穂さんのことを心配するのもわかるけどさ。でも、それは、時と場を考えてな。」

「あ、すみません。高野先生。」

浩二が蘭の代わりに謝罪する。

「蘭は、水穂さんのことになると燃えるんだね。それはやっぱり、変わってるよね。」

マーシーはそういって蘭の隣に座った。

「ごめん。水穂、医者にはもうだめだって言われていて、、、。」

蘭はおもわず涙をこぼす。

「そうだ。おまえならできるだろ。優秀指導者賞を貰うくらい口のうまいおまえなら出来るな。おまえ、水穂に、何とかしてもう一度生きてくれるよう、僕と一緒に話をして貰えないだろうか。」

「蘭さん何ですか。それは当てつけですよ。」

浩二はそういったが、

「そんなに悪いの?あいつ。」

とマーシーが聞いてくれたので、良かったと思う。

「そうなんだよ。僕が一生懸命治療を受けろと話してもやる気を出してくれない。」

蘭がそういうと、マーシーはそれはたいへんだな。と、深刻な顔をしてくれた。

「君は怒るのもしかたないかもしれないな。確かに、水穂さんも何も治療も受けようとしないのはちょっと問題があるよ。それは確かにそうかもね。」

「だろ。頼むよ。僕も必ず何かするからマーシーも協力してくれ。頼む!」

と、蘭が言うと、

「いや、これは浩二くんの方が正しいんじゃないか。そういうことは、ご家族とか、そういう人たちがやるものだよ。」

と、マーシーは答えた。

「僕たちが出来る事は、水穂さんが良くなるように祈るだけじゃないか。」

「なんでお前までそういうことをいうんだ!」

蘭は、怒るより、呆然としてしまった。

「水穂に、逝くのを待てと?」

「しょうがないじゃないか、そういう事は誰にもかえられないよ。僕らはそれに従って生きるしかないのさ。」

「二人とも、なんで!」

蘭は、強い声で息巻いた。

「なんで二人とも、そういうことをいうんだよ、、、。」

あの、宮本という96歳のおじいさんが羨ましかった。というより、羨ましい存在から憎らしい存在に変わった。ああして96歳まで生きられたのも、幸運なんだから、生きられない人に、謝罪をしてほしいという気持になった。

「結局、僕たちは、傍観するしか出来ないんだろうか?」

「結局、そうなってしまうだろうな。」

と、マーシーは結論付けた。宴会は、さらにもりあがり続けているが、蘭は、どうしてもやるせない気持を消し去ることは出来なかった。

とりあえず、二次会は制限時間が来たためお開きになったが、蘭は気が重いまま、レストランを後にした。どうせ僕なんて、何も出来はしないんだ。そういう気持が蘭をやけくそにさせた。

その翌日。

蘭はやるせない思いだった。アリスに何かあったの?ときかれても答えられず、自分だけで何かしなければと思ってしまう。

「僕だけでも何とかしよう。」

蘭は、でかい声でいって、タクシー会社に電話した。タクシーがやってくると蘭は、気合いをいれてタクシーに乗り込む。そのまま、タクシーの運転手に、製鉄所までいってくれるように頼んだ。

製鉄所に、到着して、蘭は、タクシーからおろしてもらう。製鉄所の正門に行ってみると、そこにいたのは、マーシーだった。マーシーは、蘭より先に製鉄所へ来ていて、その正門を眺めていた。

一体何をしに来たんだろうと蘭は思った。

「一体何しに来たんだよ。」

蘭が言うと、

「いや、昨日浩二君から、ここに住んでいると聞いたものですから。水穂さん。」

とだけ言った。

「其れでここへ来たのか?」

「そうですね。僕は、どうせあの右城水穂さんには敵いませんから。僕は、彼にどうのこうのという資格はないと思うんだ。」

「いや、資格なんて関係ない。水穂に、君のほうから言ってもらえないか。君は、音楽のことだって、若しかしたら、あいつ以上に何か知っているかもしれない。あの宮本さんという方の演奏を聞いて、僕は、君が水穂以上にすごい所があると思った。だから、君の方が、僕より説得力がある。お願いだ。水穂に、もう一回演奏をしてくれるように、言ってほしい。お願い出来ないだろうか。」

蘭は、そう懇願した。自分では出来ないことを、誰かにお願いしてしまうのも悲しいが、製鉄所のみんなから嫌われている以上、そうするしかない。

「頼む。お願い。奴はその製鉄所の一番奥にある、四畳半で寝ている。誰かに何か言われたら、水穂に会いに来た、四畳半に連れて行ってくれ、と言ってくれ。身分を聞かれたら、小学校時代の同級生だとこたえてくれ。」

と、蘭は、そういってあらためて頭を下げる。

「わかったよ。蘭。其れでいいんだな。まあ、蘭は事情があるんだな。それでは、代わりに行ってみるよ。」

マーシーはにこやかに言って、製鉄所の正門をくぐった。

正門をくぐると、ブッチャーが、前庭を掃除していた。

「あ、お客さんですかね。一体誰に用があるんですか?」

「あ、あの高野正志というのですが、水穂さんはいらっしゃいますかな?」

ブッチャーに聞かれて、マーシーはこたえた。

「ああ、水穂さんなら今さっきから寝てますが。」

「ちょっと会わせて貰えないでしょうか。実は、伺いたいことがありまして。僕は、彼と小学校時代、同級生だったんです。」

マーシーがそういうと、ブッチャーは、わかりましたと言って、彼をとおしてくれた。マーシーは、蘭に言われた通り、一番奥の四畳半にむかった。

四畳半に行くのにはちょっと遠かったが、それでも何とかしてマーシーは四畳半にたどり着いた。

「すみません。」

と、マーシーは、四畳半のふすまに手をかける。返事の代わりに返ってきたのは咳き込む声であった。

「すみません、右城水穂さんですね。」

水穂は咳き込みながら、うっすらと目を開けた。

「僕のこと、もう忘れてしまっているとは思うんですが、同級生として、お会いしに来た、高野正志です。」

そういってマーシーは、ふすまを開けて中にはいった。水穂のげっそりとした痩せぶりに、ちょっとおどろいてしまったくらいだ。

「右城君、痩せましたね。何だか戦争を知っている僕の生徒さんが見たら、戦時中と対して変わらないと言うかもしれない。」

マーシーはちょっと冗談半分でいったのであるが、例えを知っている人が居たら、その通りだと言ってしまいそうなほど、水穂は痩せていた。その本人は、一生懸命座ろうとしているのであるが、体力がなくて、其れも不自由な様子である。

「座るのたいへんだったら、寝たままで結構です。僕、そんなに気を使われるような身分ではありませんから。右城君が立派な音楽学校に行ったことは、僕も知ってますよ。」

マーシーは、部屋の中を見渡した。その部屋の大部分を占めている、グランドピアノが印象的であった。そのロゴを見て、マーシーはこう言った。

「これ、グロトリアンのピアノですね。すごい高級なピアノですよね。僕の生徒にも、持っている方が居ました。その時は、僕より高級なピアノを持つのかと、何だか笑ってしまいましたけれど、右城君のような方にはふさわしいピアノでしょう。」

そして、ピアノの近くに置かれている、小さな本箱にも目をやる。

「すごいですねえ。さすが右城君だ。ゴドフスキーの楽譜がこんなにたくさん。僕も、ゴドフスキーにチャレンジしたことがありますが、もう余りの難しさに目が回って、右手首を捻挫してしまいました。でも右城君、それほどの作曲家の楽譜が沢山あるのだから、やっぱり大した大学を出ている右城君は違うなあ。」

「其れよりも、どうしてゴドフスキーという作曲家を知っているんです?音楽学校にでも行かないと知らない作曲家なのに。」

水穂が聞くと、マーシーは、

「いやあ、あのね、一度だけ、僕の教室で、取り上げたことがありました。と言っても小品集とかそういう曲ですけどね。それだけでも、本当に難しかったですよ。」

とこたえた。

「お教室されているという事は、高野さんも音楽学校に?」

と、水穂は静かに聞いた。

「いいえ、僕は行ってません。ほとんど独学です。楽譜の見方は中学校までピアノをやっていたので、何とか出来たのですが、それ以降は師事していないので、後はひとりで勉強しました。まあ、演奏レベルは、ショパンの練習曲が、やっと弾ける程度です。学歴は、高校中退。ただ、生活のために音楽教室なぞをやっているという、生ぬるい生き方をやっています。」

と、こたえるマーシー。水穂は、そうですか、といって、静かに黙った。

「どうしたんですか。なんで黙ってしまうのです?」

マーシーにいわれて水穂は、

「きっと僕よりも、すごいことをやっているんではないかと、思ってしまいました。」

とこたえた。

「そんなことありません。水穂さんは、ずっと僕のお手本です。僕は、水穂さんのような、音楽を作っていけたらと、ずっと思ってきたんです。だから、お願いなんですけど。」

マーシーは、そっと水穂を見つめた。

「お願いだから、もうちょっと僕の手本として生きてもらませんか?」

水穂の顔にポロンと涙が浮かぶ。まるで縛られていた何かがするすると解けていくように。

一方、製鉄所の正門のそとで、結果を待っていた蘭は、なぜか自分の顔に涙が浮かんでいるのを、感じとったのだった。

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雲の上 増田朋美 @masubuchi4996

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