11: SUZUKI GSX1300R 隼

「これで、良いかい?」


 自宅のリビングで、妻――いや、元妻と向かい合った男が呟くと。


「ええ、これですべて終わりね。お疲れ様でした。じゃあ――さよなら」


 つい先日まで男の妻であった女は満足そうに、そして少しだけ寂しそうにそう応えて、男が捺印した書類を封筒に入れてバッグに仕舞うと椅子から立ち上がった。

 そして、リビングから出ようとした女は、ふ、と足を停め。


「……子供たちに、何か伝言は有る?」


 と、振り返らずに男に問うた。


「……元気でやりなさい、と伝えてくれ」


 男は少し考えた後、そう答える。


「ええ、伝えるわ。あなたも、元気で」

「ああ、キミもな」


 そんなやり取りを最後に、女はリビングから出て行き。

 パタン、と玄関のドアが閉まる音がした。


「……」


 男――足立あだち照久てるひさは大きなため息を一つ吐くと、ガランとした何もないリビングを見廻す。


 一か月ほど前まで、まだそこには家族4人の生活が有った。

 4ドア冷蔵庫、電子レンジ、6人掛けテーブル、食器棚、食洗機。ソファー、ローテーブル、50インチテレビ……

 24畳の広いリビングには、所狭しと物が溢れていた。

 しかし今、そこに残っているものは6人掛けテーブルと、椅子が4対のみ。

 それも、間もなくリサイクルショップの店員が取りに来るはずだ。


「……ガレージから、出しておくか」


 そして、男が所有している1台のバイク――スズキ・GSX-R1100Wも、間もなく馴染みのバイクショップの店長が引き取りに来る。

 男はガレージのシャッターを開くと、白と青に彩られた大柄なスーパー・スポーツを家の前へと引きだした。

 キーを差し込んで廻し、ランプ類の点灯を確認してからチョークを引き、セルボタンを押す。

 と、キョカカカカ、と少し長めのセルモーター音が響いたのち、図太い排気音と共に水冷4気筒エンジンが目覚めた。

 それまでの油冷エンジンから水冷エンジンに換装され、155馬力を発生するこのモンスター・バイクを新車で手に入れてから3年。

 オド・メーターに刻まれた距離は5000キロに満たず、昨年車検を取ってからはほとんど走っていない。


「……お前も、全然構ってやれなかったな」


 仕事と、仕事上の付き合いで土日も含めほとんど家に居なかったここ数年を思い返すと、現在の自分の状況が当然であることが理解出来る。


 妻や家族とのすれ違い。

 

 そう言ってしまえば簡単だが、すれ違うなどと言うと語弊がある。

 そう、すれ違ってなどいない。照久が、一方的に離れていただけだ。


 子供たちの進路についての相談すら面倒だと妻に丸投げし、稼いでくればいいだろうとばかりに仕事に没頭していた。

 子供が高熱で魘された時、救急車を呼んで妻を同行させた後、得意先とのゴルフへと出かけて行った。


「こんな父親や夫など、必要無くなって当然か」


 照久は自嘲気味に苦笑する。これまでの己の所業を思い返すほど、その笑みは苦くなってゆく。ふ、と顔を上げると、GSX-Rのアイデンティティでもある2灯式ヘッド・ライトが、レンズの奥から照久を責めるように睨んでいるような気がした。


「……最後に、ちょっとくらい距離が増えても大丈夫だろう」


 照久はガレージからヘルメットとグローブを出して来て装着すると、暖気の終わったGSX-R1100Wで走り出した。家の鍵も、ガレージのシャッターも開け放しだが、盗られるようなものは残っていない。

 家から数キロ離れた高台に辿り着いた照久は、エンジンを止めヘルメットを脱ぎ、見慣れた我が街を眼下に収めて溜息を吐いた。

 数分程景色を眺めていた照久は、再びGSX-Rに火を入れると、最期の家路へと着く。


「……これから、どうしたものかな」


 照久の呟きは、GSX-Rのエグゾースト・ノートに掻き消され。

 その答えが、どこにあるのかも解らなかった。



 足立家の離婚については協議により行われ、照久が妻側の要求を全面的に認めたこともあり、スムースに終了した。

 照久はこの時42歳。一流企業の部長代理を務めていたので年収は高く、預貯金も8桁中盤程あり、また都内の一等地に建てた家や高級車、そして先述のGSX-R1100Wなどの売却金額も含めれば9桁を越える資産が有った。

 夫妻どちらにも不貞などは無かったので慰謝料などは発生しなかったが、二人の子共の養育費や財産分与を一括で支払う事を照久が希望したため、最終的に妻側の取得分が8割を超え、照久の手元に残ったのは2000万を少し超えるほどの現金。


 そして、一連の離婚騒動が収まった直後に突然訪れたのは、それまで業績好調だった会社の経営破綻。バブル期のツケを払う事になった会社は、呆気ないほど簡単に潰れてしまったのだ。


 辛うじて支払われた退職金も、本来貰えるはずだったそれとは比較にならない少額であったが、照久は貰えるだけマシだと納得した。


 だが、離婚のあとはそれまで以上に仕事に没頭していた照久は途方に暮れた。

 仕事に没頭することで紛らわせていたやるせない気持ちを持て余し、夜はバーやクラブで酒を浴びるように飲み、昼は安アパートの万年床で惰眠をむさぼり、ひたすら無為に3年ほど過ごした後。


「さて、これからどうしたものかな」


 さすがにこのままではまずい、と起き上がりつつ、離婚した直後に愛車GSX-Rへと語り掛けた言葉を繰り返す。

 しかし、答えてくれる者はおらず、ましてや己自身で答えを見出す事など出来ない。そして、銀行口座に残った金は僅かである。


「……仕事、しなくちゃな」


 休職手続きをした後、失業給付も受けずに一度たりとも足を向けなかったハローワークへと向かうため、照久はカバーに入れて壁に掛けたままだったスーツをクリーニングに出し、一週間ほど酒を断ち。

 晴れた月曜日の朝、ハローワークの受付へと並んだのだった。



「そうですね。足立さんのご経歴であれば、本来なら良い条件の会社が狙えるとは思いますが‥‥…」


 ハローワークの職員はそう言い淀みつつ、手にした求職票をめくる。

 だが、バブル崩壊による景気の悪化も長引いており、前職と同等の条件などは望むべくもない。

 結局希望する条件・職種のものは見つけることは出来ず、照久は半年近くもハローワークへと通う事になってしまい、とにもかくにも働かねば喰うにも困るという寸前の状況になってから、ようやくそこそこの商社に潜り込むことが出来たのだった。


 だが、再就職した先は現在でいうところのブラック企業であった。

 まともな指示も無く押し付けられた仕事をなんとかこなしても、言われた覚えもない事をやっていなかったと言うだけで年下の上司に叱責され、人生そのものを否定されるような罵詈雑言を浴びる毎日。

 かつては24時間闘えていた昭和世代のモーレツサラリーマンだった照久にとっても、これはかなり応えた。


 ただ、幸いにも残業手当を始めとして、報酬・手当はまともに支払われる会社であり、元々仕事も出来て社内政治にも手慣れていた照久は、業績を横取りしようとした年下上司に逆ねじを喰らわせて追い落とした上で這い上がり、入社5年目にして課長へと昇進したのだが。


「……これでは、あの頃と同じことを繰り返しているだけだな」


 かつてのように、ひたすら仕事に打ち込んだ結果が再び出たことに満足感を覚える一方で、果たして自分の人生はこれで良いのか? と言う疑問が照久の心の奥底から湧き出て来たのだ。


「私が……いや、俺が本当にしたかった事は。生きたかった人生とはなんだったろうか?」


 離婚から8年経ち、照久の年齢はいよいよ50の大台へと乗ろうとしている。

 定年までの約10年、今の会社で時代遅れのモーレツ社員をするのも良いだろう。

 だが、所詮は中年の中途入社であり、昇進しても部長が限度である。社内政治も上手く渡っているとはいえ、それによりゴリゴリと削られる精神力もバカには出来ない。そして、不摂生な生活による各種の肉体赤信号と体力の低下は如何ともしがたいレベルに入りつつある。


「俺は、どうすべきだろうか……」


 照久の悩みは業績にも現れ始め、社内での立場も微妙なものになりつつあった。

 所属する派閥の専務からはしっかりしろと叱咤され、目の前に迫っていた部長への昇進を延期される始末だ。

 それでも、かつてのような仕事への情熱が戻って来ず、業績を上げる事が出来なくなった照久はとうとう窓際的な業務を行う部署の課長へと配置転換され、残業も無く定時での帰宅が続くようになる。当然ながら給料も駄々下がり、異動前と比べ比喩ではなく半減してしまったのだ。

 だが、それは照久にとって良い方向への変化でもあった。


「俺がやりたいこと。好きだったこと……」


 窓際部署での穏やかな日々は、照久に自問自答する時間と心の余裕を齎せてくれた。また、そこに所属する部下たちも、新たにやって来た元モーレツ管理職であった照久に最初は恐々としていたものの、照久がモーレツだったころとは一線を画す穏やかな性質に変化していたのを見て、徐々にだが気さくに接するようになっていった。

 そして、照久が移動してから1年ほど経った頃。


「課長って、昔バイクに乗っていたんですか?」


 金曜夜ハナキンに恒例となっていた軽い飲み会の席で、部下の一人である高梨友梨佳たかなしゆりかが驚いたように声を上げた。


「あ、ああ。もう10年くらい昔だけどね……」

「えー意外です! 課長ってバイクとかに興味が有るようには全然見えませんでした」

「うんうん、確かに」

「あ、実は自分もバイクに乗ってます! ホンダのCB400スーパーフォア」

「俺も原付持ってるぜ。ヤマハのジョグってやつ」

「私の父親はBMWのR1100ってバイクに乗ってます。めっちゃ大きいやつ」

「へー、R1100 のなに?」

「でっかい風防付いたやつ。たしか、RTだったっけな?」


 それまで静かに飲んでいた課員たちが俄かに騒がしくなり、照久は苦笑した。


(みんな、 意外とバイクに興味が有るのかな……?)


 どうしてバイクの話になったのか。それは、最近になって友梨佳の彼氏がバイクの免許を取り、給料安いのにホンダの大型バイクを購入したと言う愚痴を聞かされていた時、照久が何気なく自分も昔乗っていた、と口に出したからだった。


(ホンダの大型か……CBR1000Fだろうか?)


 バイクから離れて久しく、最新の情報にも疎い照久が課員のおしゃべりを聞きつつそんな事を考えていると。


「このバイクです! 彼氏が買ったの!」


 友梨佳が、最新型のカメラ付き携帯電話の画面を見せて来た。

 そこには、CBR1000Fと全く異なる異形のカウルを纏ったバイクの写真が有る。画像は荒いが、明らかにこれまでのホンダのビッグバイクとは違うそのシルエットに、照久は興味を引かれまじまじと見詰めてしまった。


「あーCBR1100XXブラックバードね。ついこの間まで世界最速のバイクだったけど、スズキからもっと速いのが出たんだよな」


 その画像を横から眺めて声を上げた、CB400SFスーパーフォアに乗っていると言う課員の言葉に、照久はザワ、と胸が騒ぐのを感じた。


「へえ、なんていうバイクなんだい?」


 だが、そんな様子など露ほども見せずに、気楽な感じで尋ねると。


「GSX1300R……ハヤブサって言うんですよ。全く手を加えない市販状態そのままで、余裕で300㎞/h出るらしいですよ」

「ほう……そりゃ凄いね」


 そこから、照久は課員たちと何を話したのかほとんど覚えていない。

 ただ、久しぶりに高鳴ってくる鼓動に戸惑いながら、自分が本当にやりたかった事、好きだったモノを思い出していた。


(そうだ、俺は……またバイクに乗りたい!!)


 翌朝、目覚めた照久はシャワーを浴びて身支度を整えると、かつて足しげく通ったあのバイク店――離婚した時、GSX-R1100Wを売却した店へと向かった。


「いらっしゃい…‥あれ、もしかして足立さん?」


 表に飾ってある、何台かのスズキのバイクを眺めつつ入店すると、あの頃よりも少し老けた店長が驚いた顔で迎えてくれた。


「久しぶりだね、店長」

「いやー本当に久しぶりだ。10年ぶりくらいか」


 懐かしそうに照久を見る店長は、カウンターの椅子に座るように促すとコーヒーを出してくれた。


「で、どうしたの? またバイクに乗りたくなったとか?」


 照久はその言葉に頷くと。


「ああ、実はそうなんだ。店長、ハヤブサって実車見れるかな?」


 昨夜の飲み会で耳にして以来、頭を離れないバイクの名前を口に出す。


「なるほど、スズキフリークの足立さんならハヤブサは気になるよね。今この店には在庫ないけど、系列店から持ってくることは出来るよ」

「出来れば頼むよ。実車を見てみたい」

「ああ、試乗車もあるはずだから手配しよう。来週末くらいで良いかな?」

「うん、お願いするよ」


 店長と色々な会話をしつつ1時間ほど過ぎると、他の客が来店し始めたので、照久は店を後にした。

 その帰り道、書店にて最新バイクカタログ的な雑誌を買い求めた照久は、家に帰って雑誌を貪るように読み耽った。

 その雑誌の巻頭特集として、最新型で注目の的であるハヤブサとそれまでの最速マシン・CBR1100XX スーパー・ブラックバードの比較対決記事が掲載されていたのだ。




 スズキ・GSX1300R ハヤブサ――


 かつて、21世紀を目前にした頃。

 モーターサイクルはその性能を人間が操れる極限に近い所まで高めていた。それは、21世紀を迎えてから四半世紀を過ぎる現代から見ても遜色のないレベルである。

 そして、規制により縛られてしまい、実質300km/h以上出す事が出来なくなるこの後の時代を鑑みると、公道走行マシンとして最高速度においては未だ破られることのない記録を持つモーターサイクル。

 それこそが、スズキ・GSX1300R。


 そう、初代ハヤブサである。


 ハヤブサが登場する以前、その完成度の高さから絶賛され、最高速度・加速能力など、あらゆる性能において世界最速を誇った市販モーターサイクル――CBR1100XXスーパー・ブラックバードと言う、燃料供給に気化器キャブレターを使用したものとしては究極のオンロード・メガスポーツを超えるために産み出されたハヤブサは、その期待を裏切ることなくブラックバードを追い落とし、世界最速の座に就いた。

 また、ブラックバードと同じくただ速いだけではなく、扱いやすく居住性にも優れたハヤブサは、ロングツアラーとしても高い評価を受け、世界中のライダーに愛されて二代目・三代目と開発が続けられ、永きに渡り続いていくブランドとなったのだ。





「凄いバイクだな……」


 特集記事を読み終えた照久は、溢れ出る興奮とともに呟いた。

 照久は極度のスズキフリークであり、これまで乗って来たバイクは全てスズキ車だった。

 高校時代、原付免許を取って始めて手に入れたRG50Eに始まり、GSX250E、GSX400F、GSX-R400、GSX-R750、そして油冷のGSX-R1100から水冷のGSX-R1100Wと、まさにスズキに……中でも、GSXシリーズに強いこだわりを持って乗り続けて来た。

 そんな照久が再びバイクへの情熱を取り戻した時、究極の”GSXスズキ”であるハヤブサに強く惹かれるのは当然の帰結であっただろう。


 まるで少年のようにワクワクする気持ちを抑えきれないまま、翌週末の土曜日を迎えた照久は、朝一でバイク店へと足を運ぶ。と、店頭に待ち受けていたのはそれまでに無い斬新なイメージのカラーリング……カッパーシルバーという異色のツートン。それも、スズキの”S”をイメージしたデザイニングに彩られたGSX1300Rハヤブサであった。


「うおお……」


 入店するのも忘れ、ハヤブサの周囲をぐるぐると回りつつ観察する照久。

 しばらくすると、その様子に気付いた店長が苦笑しつつ現れて声を掛けた。


「足立さん、何やってんの」

「いやー、すごいねこれ」

「とにかく、試乗手続きしてよ」


 店長は目をキラキラさせている照久を店内へと引っ張り込み、試乗誓約書を書かせている間に試乗用ヘルメットとグローブを用意する。

 そしてハヤブサの前で操作説明を一通りした後。


「コースは適当でいいし、1~2時間乗って来なよ。久しぶりのバイクだろうから、とにかく気を付けて」


 照久は店長の言葉に頷きつつ素早く装備を身に着けるとハヤブサに跨り、クラッチを握りセルボタンを押す。と、キョカカカカ、と言う懐かしきセルモーターの音の後に図太い排気音を奏でつつ、1300㏄4気筒が目を覚ました。


(ああ、この音……スズキの四発だ!)


 かつて、聞かない日が無いほどに愛したあの排気音と同じ音質。

 それは、これまでに乗ったGSXバイクのどれよりも図太く逞しいその排気音は、照久の耳に馴染んだあの排気音おとと変わらぬを感じさせるものだった。


 久しぶりのバイク……それも、これまで乗ってきた中では最大級のモンスターに照久は少々緊張しつつ、意外と軽いクラッチを握りギアを一速へとシフトする。そして、そろそろとクラッチを繋ぐとズオー、と言う逞しい排気音とともにハヤブサはグイっと力強く走り出した。


(うお……すごいトルクだ!)


 かつての愛車たちの中で、最も低速トルクが太かった油冷R1100と比してもなお二回りほどは逞しく感じる発進時のトルク感に照久は驚嘆した。その、有り余るトルクに任せ、体とバイクを慣らすためにスロットルをほとんど開けずに法定速度でゆっくりと走る。

 のんびりと流しつつふとハヤブサのオドメーターに視線を向けると、既に2000kmほどの距離が表示されており、もう慣らしは終わっているようだ。


 そして、ここで初めてメーター・パネルをまじまじと見つめた照久は、スピード・メーターに表示されたとんでもない目盛りにようやく気付いた。


(メーター、350㎞/hまで刻まれているな……!)


 これはハヤブサ最初期型のみの特徴的な装備である。

 実際に数値が表示されているのは340km/hまでだが、その先にもう一つ目盛りがあるのだ。

 現実的にはさすがにそこまで出せないにしろ、ハヤブサの底知れぬ実力を感じさせるエクイップメントの一つであるのは間違いない。

 ちなみに、照久が以前に乗っていたGSX-R1100Wのスピードメーターは300km/hまでの表示であり、ハヤブサも2001年モデルで規制を受けた後は300km/hまでの表示となってしまった。


(……こいつの加速は、いったいどれほど凄いんだろうか)


 そんなことが脳裏に浮かび、思わずアクセルをワイドオープンしたくなる気持ちが湧いてくるが、そこは大人としてグッと堪え。


「もう少しのんびり走って、俺の体も暖めないとな」


 照久はあえて口に出して呟いて昂る気持ちを静めると、しばらくは流れに任せて流すことにした。

 そう考えてから十分ほど、エンジンも車体も充分に暖まり、照久の肉体も完全には程遠いもののかつての感覚を取り戻しつつはある。

 そして交差点を左折して入った一桁国道の片側三車線あるバイパスは、まだ土曜の朝の時間だということもあり、走る車もまばらでかなり空いていた。


(よし、ちょっと開けてみるか)


 照久は、パトカーや白バイなどがいないか充分に周囲を確認した後、中央車線にレーンチェンジしながらスロットルをグイっとワイドに捻った。が、次の瞬間。


「うわっ!?」


 ドン、という衝撃とともに、とてつもない加速Gが照久の体に掛かり、ハヤブサは猛烈なダッシュを開始した。

 照久は思わず後方にのけ反りそうになったが、何とか堪えてスクリーンに上身を潜り込ませる。一瞬スロットルから手を放しかけたおかげで加速が緩まらなければ、フロントタイヤが大地を離れて高々と天に舞い上がるか、リアタイヤがスライドを起こしていたかもしれない。


「なんて加速だ……!」


 全身から噴き出した冷や汗を感じながらも、照久は強烈に興奮していた。

 初代ハヤブサには、現在では一般的になっているTCSトラクションコントロールABSアンチロックブレーキなどの電子デバイスは搭載されておらず、シンプルにライダーの技量そのものでしかコントロールされない。


 だからこそ、難しくも楽しくも有るのだが。


 急激なアクセルワークはしないように気を付けつつ、ジワリとスロットルを開けて行く照久。視界が狭くなるのを感じてふ、とスピードメーターを見ると、その針はとても口には出せない速度を指し示していた。


「おっとヤバイ……」


 慌ててスロットルを戻し常識的な範疇にまで速度を落とした照久は、バイクに乗り始めた頃のように胸がときめいているのを自覚した。


(そうだ、俺が欲しかったものは……これだったんだ)


 照久の脳裏を、これまでの人生がぎる。

 間違ってばかりの人生だったと自覚はしている。特に、去って行ったかつてのに対しての罪悪感と後悔は消えはしない。が。


(Let it be、だな……)


 そう、なすがままに。


(これからの人生、あの頃のときめきを蘇らせてくれたハヤブサコイツ疾走はしってみようか……)


 照久の心には、そんな思いが浮かぶ。


「まずは、契約しないとな」


 スズキのフラグシップで、逆輸入車であるハヤブサは決して安い買い物ではない。しかし、他に何の使い道も無く貯める一方だった照久の預金通帳には、余裕で賄えるだけの額は入っている。


(ハヤブサの納車慣らしツーリング、どこに行こうか。そう言えば、昔ツーリングで訪れた鳥取のどこかに隼って名前の駅が有ったような……夏休みは久しぶりに北海道へ行きたいな。フェリーか自走か。悩ましい所だが)


 照久の頭には、既にこれからのハヤブサとの蜜月が浮かんでいる。


「よし、まずは隼駅がどこだったか調べて行ってみるか。鳥取なら往復で2000キロ超えるだろうが……なに、ハヤブサコイツならあっという間だろう」


 照久はそんな事を呟きながら再びスロットルをワイドオープンし、HAYABUSAの加速に酔い痴れるのだった。









 Fin.



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Anthem Of MotorCycles. 羽沢 将吾 @Showgo_Hazawa

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