7: YAMAHA セロー XT225

「大自然のふところへ、か……」


 とある日の昼休み。

 木村きむら幸一こういちは、オフィスの自席でバイク雑誌、月刊モーター・サイクリストを読みながら呟いた。


「え? なんですって?」


 と、隣席で弁当を頬張っていた同僚の坂巻さかまき美由紀みゆきが、幸一の呟きに反応してくる。


「いや、なんでもないよ。それより美由紀ちゃん、良く食べるねぇ」

「ええ! 食べ盛りですもん!」


 幸一の言葉に元気良く応える美由紀。

 これが現代であれば、下手をするとセクハラになり兼ねない幸一の言葉だが、この時代――1980年代半ばであれば何の問題にもならない。

 女性社員は男性からのセクシャルなものも含むからかいを笑いながら交し、給湯室でお茶を淹れて配るのが仕事の一つで。

 周りでは、食事を終えた同僚たちがタバコをふかし、オフィスには薄い雲が掛かったようにすらなっている。

 だがそれは当然の光景であり、責める人間などどこにもいはしない。


 それが良いかどうかは別として、そう言う時代であったのだ。


 今年でちょうど30歳を迎える幸一は、輸入雑貨を扱うこの会社に入社して6年となる中堅社員であり、隣席にて食事を続ける美由紀の教育係でもある。

 幸一の趣味はバイク・ツーリングで、週末に家にいる事はほとんどない。また、週末の夜の飲み会にもほぼ参加せず、さっさと家に帰って旅の準備をする。

 もちろん、忘新年会、歓送迎会などの重要なイベントには参加するが、それ以外の飲み会やら合コンやらには興味を持たず、バイクでの旅に夢中なのであった。


 そんな幸一なので結婚はおろか彼女もおらず、上司の悩みの種となっている。

 これで仕事が出来ないのであれば飼い殺しになる所だろうが、成績は同期トップクラスを余裕で維持しているので、会社としてもそう言う訳にはいかない。

 この時代の暗黙の了解として、役職を与えるには既婚者であることが大前提となっている。つまり、いくら仕事が出来ても独身のままでは引き上げる事がままならないのだ。

 幸一本人は給料さえ増えるのなら出世には興味が無いのだが、会社としてはとっとと結婚させてバイクなどと言うから卒業させたい所であった。


「先輩、何読んでるんですかー?」


 食事を終えた美由紀が、給湯室から自分と幸一二人分のお茶を淹れて持って来ながら訪ねる。


「お、サンキュ。ああ、バイク雑誌だよ」


 幸一は、お茶を受け取って礼を言いつつ美由紀に答えた。


「またですかー。先輩、本当にバイク大好きですよねー」


 少し呆れたように美由紀が言う。が、幸一は気にした風も無く雑誌を読み続ける。


「俺の唯一の趣味だからね。美由紀ちゃんはバイクに興味無いんだっけ?」

「高校の頃はスクーター乗ってましたし楽しかったけど、今はそんなに興味無いですかねー」


 独特の、語尾を延ばすようにした喋り方をする美由紀は顔も可愛らしく、その小動物めいた雰囲気や小柄ながら抜群のスタイルで男性社員からの評価が高い。

 有名私大を卒業後、伯父が役員を務めるこの会社に結婚までの腰掛け感覚でコネ入社したという噂だが、地頭が良く英語、フランス語、ドイツ語を日常会話レベルで扱えるフォースリンガルなので、輸入雑貨を扱う仕事への適応力も高い。


「そっか。まあ、女の子だしバイクは危ないからな」

「そうですねー」


 幸一と美由紀の会話はそこで途切れ、幸一がお茶を啜る音が響き出す。

 少し離れた課長席では、二人の会話に耳を欹てていた住山すみやま課長がふう、と小さくため息を吐いてハイ・ライトに火を点けた。

 

 美由紀の教育係に幸一を付けたのは、もちろん仕事を教えるという事が前提では有るが、幸一と美由紀をくっ付けるのが本来の目的であった。

 これは美由紀の伯父で常務の坂巻大吉だいきちの指示であり、幸一の能力を高く買っている大吉は、二人を結婚させて幸一を親族とした上で、将来的に幹部へと引き上げる事を目論んでいるのだ。


 おかげで、常務から二人をしっかり見るようにと念押しされた住山課長は、二人の関係がなかなか進展しない事と、人気の高い美由紀を狙って粉を掛けて来る若手社員の牽制に気を使うハメになり、胃薬が手放せない状況に陥ってしまったのだった。


「……で、先輩さっきなんか言ってましたよねー」

「ん?」

「ほら、大自然がなんとかって」


 しばらくの沈黙の後、美由紀が幸一に声を掛けると。

 

「ああ、大自然のふところへ、か。これだよ、ほら」


 それに対し、幸一はモーター・サイクリストの表紙を開いてすぐの広告ページを見せつつ応えた。


「なんですか、これ。山の中にバイクとおじさん……」


 そこには、山中の木立が開けた場所――まるで、登山の末に辿り着いたかのようなブッシュに佇む一台のオフロード・バイクとバックパックを背負った髭のライダーが写っており。

 写真の上部に書かれているコピー……

 それが、幸一が口にした『大自然の、ふところへ』というものだったのだ。


「これ、なんて読むのかなー? えーと、セ……セーロウ? セローウ?」


 『SERROW』と独特なフォントで書かれた車名。


「セロー、って読むんだよ。ヒマラヤに棲むカモシカの事だそうだ」

「あー、そんな感じのイラストが有りますねー。なるほどー」


 車名ロゴの左上に、3本に分かれた角を持つシカらしき動物の半身がデザインされており、それを見た美由紀は得心したように頷いた。




 ヤマハ・セロー225――




 XT225という機種名を持つそのオフロード・バイクは、当時ヤマハから発売されていたトレール・XT200と、トレール・XT250Tの間を埋めるかのように設定された225cc(正確には223ccだが)という中途半端とも思える排気量を持って登場した。

 しかし、その排気量が意味するものは中間モデルとしてのの隙間埋めなどではない。

 必要であるから与えられた、のであり、『マウンテントレール』というセローのコンセプトに基づいて熟慮を重ねて決定された排気量なのである。

 それは、パワーや単純なトルク増を狙ったものではなく、『粘り強さ』を得るための『25㏄』なのだ。


 セローが目指した世界もの


 それはキャッチ・コピーに全てが表されている。


 強力なエンジンと足の長いサスペンションを持つモトクロッサー・レプリカやフルサイズ・トレールのように荒れ地を走破するだけではなく。

 軽い車体と適度なパワーを持つエンジンで扱いやすさを狙った小排気量トレールのようにまろやかなだけではなく。

 無駄を極限まで削ぎ取ったトライアラーのようにロック・セクションをクリアして行くだけではなく。


 すべては山の奥へ、谷の向こうへ、大地の果てへ。


 そう、大自然のふところへ。


 まるで歩くかのごとく、奥深く到達する為に。

 それすらも『ツーリング』のための機能として、組み込むために。


 ヒマラヤ・カモシカが四足を持って信じられない様な急峻な崖を登り降りするように、人の2足とバイクの2輪を使い、2輪2足であらゆる道を走破するために。


 今まででは行けなかった、もう数歩奥の世界へと到達する機能を備えたモーター・サイクル――マウンテン・トレールとして産み出されたのだ。


 それは、ヤマハ・トレールの元祖である『DT-1』が目指したと同じでもある。


 イメージ・モデルとなったヒマラヤ・カモシカの名をそのまま与えられて生み出されたセローは、瞬く間に大人気に……とは行かなかった。

 もちろん、そのあまりにもユニークな思想とコンセプトを世に問うたヤマハへの賞賛は、主に業界人から殺到したものの、世は既にレーサー・レプリカ全盛期に入っており。


 その波は、オンロードだけではなくオフロードにまで及び始めていた。


 各メーカーから発売されるオフロード・マシンは、2ストローク・エンジンを持つ純然たるモトクロッサー・レプリカは当然の如く。

 250ccフルサイズの4スト・トレールにおいても高出力化とサス・ストロークの増大が図られていき。

 それは125・200ccと言ったビギナー向けとされるクラスも同様の傾向となって行った。


 しかし、セローはそれらに真っ向から反旗を翻し、一般的な未舗装路用途での扱いやすさを求めたエンジン、適度なサス・ストロークによる低シート高などによる、マウンテン・トレールというオリジナルアイデンティティを持って独自の走破性の高さを獲得したのだ。

 もっとも、特に最初期モデルにおいてセルスターターの未採用やトライアルマシンにちかいフットポジションなど、セロー独特な扱い難さも多少見られたものの、静かにブレイクして行く中でヤマハ得意の熟成が図られ、1989年にリリースされた2台目モデルでセル・スターターを装備したことにより爆発的な人気を得て、その存在を際立たせることに成功する。


 それまでの、『オフローダーにセルは不要』と言う常識を打ち破り、後に続くオフロード・モデルのほとんどにセルが装備される切っ掛けとなったのは、間違いなく2代目セローであるだろう。

 通常、オフロード・バイクの機能は『走る』『曲がる』『停まる』の基本に加え、『上る』『下る』『飛ぶ(ジャンプ)』などが有る。

 だが、セローはそこにもうひとつ。機能としての『転ぶ』を組み込み、更に『起こす』を付け加えた。

 これにより、特徴的な各部のガードやグリップが装備され、林道の終点や山肌の斜面でわざと転ばせて引き廻したり、大きな段差などで引き上げ・引き下げが出来るようになったのだ。


 それから30数年が経った2019年現在でも、250にスープアップされた上でセローはラインナップされている。これこそが、セローが主張し続けて来たマウンテントレール・コンセプトが正しく世に受け入れられている確かな証左であろう。


 また、ガソリン・タンクに書かれたカモシカのイメージイラストだが、最初期に描かれた3本に枝分かれした角は本物のカモシカの角の形状と異なり、鹿の角の形状であった。ちなみにカモシカと鹿は別種の動物であり。カモシカはウシ科である。

 それを指摘された後、分かれているのではなく直接頭部から生えた二本角へとイラストが修正されたと言う面白エピソードも有るのだった。







「かわいいですねー、これ」

「ん? ま、まあね」


 美由紀はセローのデザインイラストが気に入ったらしく、いつの間にか幸一の手から本を奪い取ってはしゃいでいる。


「先輩、セローこれ買うんですか?」


 そして、キラキラとした黒目がちな瞳を向けつつ誰何した。


「うーん、そうだなあ……」


 セローの値段はかなり抑えられており、幸一の貯金であれば余裕で買える。だが、幸一は半年ほど前に林道ツーリング用のホンダ・XLX250Rを新車購入したばかりであり、メイン・マシンであるカワサキ・GPz750F、通勤と普段の足を兼ねたスズキ・GS125Eを合せれば既に3台ものバイクを所有している。

 アパートの大家さんはバイクに理解が有るので何とか置き場所も確保出来ているが、保険やら税金やらを考慮すればこれ以上増やすのはさすがに厳しい。


「とりあえず、週末にYSPに行って、実車を見てみるか」

「わいえすぴー? なんですかそれー」

「ああ、ヤマハスポーツプラザ、略してYSPって言ってね、要はヤマハのバイクの特約店さ」

「へえー。私もセロー見てみたいなー。先輩、着いてっても良いですか?」


 それまであまり興味も無さそうだったバイクに対し、なぜか美由紀が食いついてくる。


「あ、ああ。別に良いけど……」


 そんな美由紀に戸惑いながらも、幸一はその申し出を了承したのだった。



 そして週末。


 幸一はGPz750Fのタンデム・シートに美由紀を乗せ、YSPへと向かった。

 始めはレビンで迎えに行くつもりだったのだが、美由紀からバイクにタンデムしてみたい、と要望が出されたのだ。


 美由紀を迎えに行ったところ、なぜか常務が出て来て


「姪をよろしく頼むよ」


 と真剣な顔で言われて幸一はビビッてしまったのだが。


 美由紀は高校時代に使っていたという赤いジェット・ヘルメットとグローブを用意しており、服装もブルゾンにジーンズと言うバイクに乗るのに適したスタイルで楽しそうに待っていた。


 街中を走る事30分ほど、目的のYSPへと到着すると、店頭に飾ってあるのはRZ250Rや350R、FZ400Rなどの最新鋭レーサー・レプリカだ。

 だが、それら花形モデルの陰に隠れるようにだが、『新発売』のポップをシートの上に乗せられたグリーン・ホワイト2トーンのイメージ・カラーに身を包んだセローが端の方に鎮座していた。


「おおー! これがセローちゃん!!」


 美由紀は、スタッフの挨拶に笑い返しながらチョロチョロとセローへと近付いて行く。


「思ったよりもコンパクトだな」


 そんな美由紀の後を追いつつ、幸一はセロー実車の第一印象を呟いた。


「彼女さんとセローを見に来たんですか?」


 幸一たちに着いた、30代前後とみられる男性スタッフが声を掛けて来る。


「彼女じゃないんですが……ええ、雑誌広告や特集を見て興味が湧きまして」


 幸一はそう答えつつ、ほうほうと歓声を上げている美由紀を見て苦笑した。

 

「先輩! この子小っちゃいですねー!」


 こちらの話など耳にも入らないのか、美由紀が興奮気味に叫ぶ。


「そうだな、思ったよりもずっと小さくて軽そうだな」


 幸一もそれに応える、と。


「この子なら私も乗れるかなぁ」


 などと言い出す美由紀。

 幸一は何とも言えずに黙っていると、スタッフがチャンスとばかりに声を掛けて来る。


「良ければ、試乗してみますか?」

「えっ! 良いんですかー!?」


 美由紀は嬉しそうに答えるが。


「おいおい、美由紀ちゃん中免持ってないだろ?」


 それを聞いた幸一が慌てて諌めた。


「あ、そうだったー!」


 美由紀は片目をつぶり、自分の頭にコツン、と軽く拳を落としつつ小さく舌を出す。現代でいう所のテヘペロであり、非常にあざとい。

 それを見た幸一の胸が、ほんの少しだけ『キュン』とした。


「そうなんですか、まあ、跨ってみるだけでもどうですか?」


 スタッフはめげずにそう言い募り、


「はいー!」


 美由紀は嬉しそうに返事をするのだった。 


「では、こちらへ。彼氏さんは試乗しますよね?」

「いや彼氏じゃ……」


 再び、幸一が否定をしようとしたが。


「もちろんしますよねー! 先輩、行きましょー!!」


 美由紀が腕に抱き着き、スタッフに着いて歩き出す。

 幸一は、腕に感じる柔らかな感触、大いに困惑しつつ、引き摺られるようにして連行されるのだった。


 試乗用のセローは、展示用のそれとは異なりホワイト・レッドの2トーンだ。

 

「私はこっちの色の方が好きかもー」


 美由紀は、そんな事を言ってはしゃぎつつセローに跨る。

 意外に軽い身のこなしでヒラリとセローに跨った美由紀には、小柄なセローがピッタリと似合っていた。


「セローちゃんって軽いし足も全然着くし、すごくいいかもー!」


 楽しそうな美由紀を眺めながら、幸一はセローの各部をチェックする。

 

「構造的には、なんの変哲もなく見えるけど……」


 しいて言えば、ヘッドライトカウル下に取り付けられたスタンディング・ハンドルが目立つくらいか。

 しかし、思ったよりも本当に小さく、幸一の所有するホンダ・XLX250Rと比べると二回りは小さく思える。まあ、XLXが大柄な所為も有るだろうが……


「先輩、試乗しましょうよー!」


 そんな声にふと顔を上げると、そこにはヘルメットを二つ抱えてニコニコしている美由紀の顔が有った。


「美由紀ちゃんも乗るのか?」

「ハイ! 先輩の後ろにですけどー!」


 美由紀の、あまりのニコニコっぷりに幸一はため息を吐きつつもヘルメットを受け取る。

 そして二人してヘルメットをかぶると、スイング・アームに付けられたタンデム・ステップを引きだしてから、まずは幸一が跨ってキックでエンジンを掛ける。


「右足、マフラーに気を付けて」

「はーい!」


 そして美由紀を促してタンデム・シートに乗せ。


「じゃあ、気を付けて!」


 スタッフの声を受けつつ、幸一は軽いクラッチを切り1速へとギアを入れ、セローを発進させた。


「うわ……なんだこれ」


 しかし、1速のあまりのローギアード振りにエンジンはすぐに吹け上がってしまい、幸一は戸惑った。

 即2速に掻き上げると、ようやく普通に加速して行く。


「この1速なら、歩くくらいの速度でもエンストしなさそうだな……」


 なるほど、これが2輪2速の為の装備か、と納得する幸一。


「先輩、やっぱセローちゃんじゃ二人乗りキツイですねー」


 と、後ろの美由紀がそんな事を言いつつムギュ、と幸一の腰に廻した手に力を込めた。


「!?」


 となると、もちろん幸一の背中には美由紀の豊かな胸が押し付けられることになる。


「あははー! バイクってたーのしー!!」


 セローのタンデム・シートでではしゃぐ美由紀と裏腹に、幸一はそれ以上セローの走りに集中する事が出来ず、背中の柔らかさしか印象に残らない試乗となってしまったのだった。




 それから一か月ほど経ち。


「はい、はい確かに……では、こちらが領収書と軽自動車登録証と自賠責保険証です」


 幸一と美由紀の二人は、YSPを訪れていた。

 今日はセローの納車日であるのだ。


「えへへー、私のセローちゃん!」


 そう、幸一の、ではなく、美由紀のセローの納車である。

 あの試乗の後、美由紀は


「私もちゅーめん取ってセローちゃん買います―!」


 と宣言し、あっという間に中型限定二輪免許――略して中免を取得し、ホワイト・レッド2トーンのセローを契約してしまったのだ。

 幸一はと言えば、XLX250Rをバイク仲間に譲ってセローを買う積もりだったのだが、


「パチンコで負けて金がないからちょっと待ってくれ」


 と言われて待ちぼうけ状態である。


 また、美由紀の中免取得のサポートやら何やらをしている間になんやかんやと有り、幸一から告白してOKをもらい、2人は公認カップルとなっていたのであった。


「コーちゃんのセローはいつになるのかなー?」

「ぐぬぬ……」


 美由紀から煽られて唸る幸一。


「早く林道ツーリングつれてってねー!」


 だが、新車のセローに跨り、とても楽しそうに笑う美由紀を見ていると、幸一の顔はニヤケてしまうのであった。





 なお、目論み通りに幸一と美由紀がくっ付いたとはいえ、まさか美由紀までがバイクに夢中になるとは思わなかった伯父の大吉は、半分負けたような気分になってしまったのだった。







fin.






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