6: HONDA VFR800F

樹里じゅり、おめでとう。だが、これからが人生の本番だ。二人で力を合わせて頑張りなさい」


 高橋たかはし信吾しんごは、今日結婚式を挙げる次女に向かってそう言った。


「ありがとう、お父さん。樹里は、お父さんの娘で幸せでした」


 ウェディングドレス姿の樹里が、信吾に抱き着きながら泣き出す。

 そんな二人を見て、信吾の妻である麻里まりと長女の香里かおりも涙を流しつつ微笑んでいた。




「お疲れ様でした、あなた」

「ああ、キミもな」


 結婚式も恙無つつがなく終わり、新郎新婦やその友人たちは二次会へと突入して行き。

 長女夫妻も、娘――信吾たちにとっての孫娘を連れてホテルの部屋へと退散した後。


 信吾と麻里は、ホテル地下のバーで一献傾けていた。


「これで二人とも片付いたか。寂しい事は寂しいが、肩の荷が下りた気分でもあるな」

「なんだかんだで30年、あっと言う間だったわね」


 二人の娘を嫁に出し、数十年振りに二人きりの生活になる。

 長年連れ添った夫婦は、しんみりと想い出に浸った。


 信吾は今年で53歳になる。麻里も同い年だ。

 二人は25歳の時に友人同士の結婚式で知り合い、付き合い出してから5年で結婚した。

 信吾の仕事は商社の事務方であり、地味ではあるが真面目な仕事ぶりを評価され、50前に部長職に就いている。

 1.5流程度の企業規模なので年収は800万程だが、家のローン以外はなんとか大きな借金もせずに娘二人を大学までやり、堅実に貯金も続けていた。

 また、仕事一徹で家庭を顧みないという事も無く、妻との仲も良好であり、反抗期に多少手を焼いたものの、二人の娘とも上手くやって来たのだった。


「麻里、ありがとう。キミが家庭を支えてくれたおかげで、二人の娘が立派に育ってくれた」

「いいえ、あなたこそ仕事が忙しいのに子育てや家事に協力してくれて、本当に助かったわ。あの子たちが素直に育ったのも、あなたの背中を見ていたからよ」


 この夫婦は、お互いを愛し尊敬しあいながらやって来れた、ある意味稀有な夫婦であるのかもしれなかった。


 そのまま、静かにグラスを傾ける二人。

 決して話題が途切れたわけではなく、心地の良い沈黙。

 カラン、とグラスの氷が澄んだ音を立てた直後。

 沈黙を破ったのは麻里であった。


「ねえ、あなた」

「ん?」


 グラスを持ち上げ、ウイスキーを口に含んだ信吾が麻里を見る。


「もう、乗っても良いのよ?」

「……?」


 麻里が口にした言葉の意味が解らず、グラスを傾けた状態で戸惑う信吾。

 グラスをカウンターに下し、熱い液体をゴクリ、と飲み干してから信吾は尋ねた。


「乗るって、何に?」


 信吾の問いに、麻里は微笑みながら応える。


「オートバイ、よ」

「オートバイ……バイク、か」


 その瞬間、信吾はかつて自分がであった事を思い出した。



 

 それは、信吾が麻里と付き合い出した頃――


 大学生時代、信吾はホンダ・VF750Fを駆り、時にはステップを擦りつつ峠を駆け抜け、時には大荷物を積んで日本中を旅していた。

 もちろん、主にデート用としてホンダ・シビックくるまも持ってはいたが、一人の時に乗るのはほとんどがVF750Fだったし、まさに相棒と言える存在であった。

 麻里をタンデム・シートに乗せて二人でツーリングもしたが、信吾は麻里と会えない週末には必ずVFで遠出していたものだった。


 当時、抜群に速いのだが、出力特性がフラットすぎる、またV4独特の排気音が直列4気筒に比べあまり良くない等の理由で、日本での人気は今ひとつであったVFシリーズの中核を占めるVF750F。

 しかし信吾の性には良く合い、動く限りはずっと乗ろうと思っていた程である。


 だが、信吾が就職し麻里との付き合いが4年を超え、そろそろ結婚を意識し始めた頃。


 信吾の親友が、バイク事故で逝ってしまった。


 夜の国道を愛車であるカワサキ・GPZ400Rで走っていたところ、禁止区域でのUターンを強引に行ったトラックに巻き込まれてしまったのである。


 信吾を始め、バイク仲間は嘆き悲しみ、彼の告別式は涙に包まれた。

 そして、告別式後の居酒屋で


「俺たちはアイツの為にも絶対事故らないようにしよう」


 と誓いを新たにしたのだが。


 事故から1ヶ月程たち、ある程度冷静になった信吾は愛車VFで事故現場に赴き、花を供えた。

 そして、そこで事故の状況を思い浮かべてみて。

 過失は当然トラックにあるが、避け得ぬ事故では無かった、と信吾は思った。

 だが、自分とVFだったら避けられただろうか?

 恐らく、50パーセントくらいの確率で避けられただろう。

 もし巻き込まれたとしても、なんとかVFから離れるカタチで転倒して、死ぬことは無かったかもしれない。

 信吾は1時間ほど、事故状況をシュミレートしながら考え込んだ。


 出された結果は、恐らく避けられる。だが、それは100パーセントではない、というありきたりなモノであった。


 だが、その結果に信吾は戦慄を覚えた。

 

 見知らぬ他人の身勝手な行動により、過失などほとんどないライダーが死に至らしめられる確率の高さと、それが己自身にも起こり得ると言う現実に。


 一人者どくしんであれば、まだ良い。

 いや、良くは無いが、それでも責任を持つ対象が格段に小さくなる。


 麻里と結婚し、子供が生まれた時。

 信吾がバイク事故で逝ってしまったら。


 信吾が創り上げるつもりの幸福な家庭が、一瞬にして崩壊する。

 信吾が愛する者たちと過ごすであろう、何よりも大切な未来を喪ってしまう。


 信吾は呆然と立ち尽くしたまま、1時間は動けなかった。


 

 そして、3日後。

 

 信吾は悩み抜いた末に一つの決心をし、VFに跨った。

 いつものようにエンジンを掛けると、V型4気筒がボヒュボヒュとアイドリングを始める。

 ふと、オド・メーターに目をやると、そこに刻まれた数字はおよそ4万キロ。

 新車で買ってから5年。その数字は、信吾がVFと共に日本全国を走って来た確かな証左である。


 いろんな所へ行ったよな……いろんな奴らと競ったよな……


 信吾の脳裏に、これまで旅して来た場所や、峠でバトルして来たライバルたちの姿が過ぎる。

 

 楽しかった。お前と走れて良かったよ。


 信吾はVFのタンクをポン、と叩くと。

 当時はまだ少数派であった油圧クラッチを切り、1速にシフトし。

 V型4気筒の咆哮を上げさせつつ発進した。


 信吾は、馴染みのバイク屋へと向かいVFを走らせる。

 夕焼けの中、信吾は少しだけ遠回りをしていつもの峠へと向かう。

 軽く、流す程度に峠を往復した信吾はバイク屋へと赴いた。


 そして、バイク屋から出て来た信吾の手には幾ばくかの金が握られており――


 信吾は、その日を持ってVF750Fバイクを降りたのだった。


 その次の週末。

 VFの売却代金に給料3か月分を加え、信吾は相場よりもワンランク上の結婚指輪を調達し、麻里にプロポーズをした。


 その結果、見事OKを勝ち取り喜ぶ信吾に麻里はこう言った。


「本当に、VFバイクを売っちゃったの?」


 その問いに、信吾は既に答えを用意している。


「バイクより、キミとの未来を選んだんだ」


 麻里は嬉しそうに、だが少しだけ寂しそうな表情で微笑み、信吾にキスをしたのだった――





 

「バイク、か」


 信吾は、もう一度そう言った。


「ええ。私と娘……家族のために、あなたはオートバイを降りたわよね。あの時、私はあなたがそんなにも真剣に私たちのことを考えてくれたのが嬉しかった。でも……」


 麻里がそこで、言葉を切る。


「でも?」


 信吾は促すように、麻里の言葉尻を復唱する。


「……とても嬉しかったし、バイクは確かに危ない面もあるから安心もしたけれど。でも、少しだけ、哀しくも有ったの」

「……何故だい?」

「それはね、ふふ。バイクに乗っている時のあなたが、とてもカッコよくて、輝いていたから。あの時の笑顔は、私も、娘たちでも引き出せなかったから」


 麻里の言葉に、信吾は面食らう。

 なぜなら、バイクは確かに楽しかったが、麻里や娘たちとの思い出も、決して優るとも劣るものではないからだ。


「そんな事は無かった、と思うが……」

「責めているわけじゃ無いわ。でもね、私たちに向けてくれた、夫や父としての優しい笑顔と、バイクに乗っていた時の少年のような無邪気な笑顔。それは間違いなく別物よ」

「……」

「あなたは父親として、娘たちを立派に育て巣立たせたわ。もう、家族を護ると言う責任のほとんどは果たしてくれた……だから、本当にやりたいこと、楽しみたいことの一つや二つをする権利と資格が有ると思うの」

「麻里……」


 信吾は、なんといっていいのか解らずに妻の名を呟く。


「それにね、私もまたあなたの後ろに乗ってバイクで旅をしてみたいわ。あの頃みたいに、ね」


 そう言って、悪戯っぽくウインクする麻里は、まるで出逢ったばかりの頃のように見えた。


「麻里、ありがとう」


 その笑顔の向こうに見えたのは、タンデムで一緒に行った海辺だろうか、それとも高原の美術館だったか。

 信吾は、胸の鼓動が高まって来るのを感じた。

 それは、という自分が、自分の中に還って来た事を知らしめる音の様であった。





 樹里の結婚式から少し経ち、夫婦2人の生活にも慣れて来た頃。

 信吾は近所の自動車教習所で、リターンライダー・トレーニングを数回受講していた。


「よし、そろそろいいかな」


 トレーニング・マシンはCB400SF。非常に素直かつ扱いやすいこのマシンにより、信吾はかつての感覚を取り戻しつつあった。

 そして、全5回のプログラムを終了した翌週末。


 信吾の姿は、都内の居酒屋に有った。


「悪いな、突然呼び出して」


 信吾と同席しているのは、髭に包まれた顔を晒す一人のむくつけき男。

 

「なに、構わんさ。おまえと会うのも久しぶりだからな」


 髭の男は、そう言って笑うと生ビールを一気に煽った。


「で、どうした。樹里ちゃんも無事に片付いて気が抜けたか。そう言えば、結婚式に出られなくてすまなかったな」


 髭の男が誰何と共に謝罪する。


「ああ、お祝いを送ってくれてありがとう。樹里はお前に会いたがっていたが、海外に居たんじゃ仕方ないさ」


 信吾も生ビールを飲みながらそれに応え。


「それで、だ。実は、またバイクに乗ろうと思ってさ……」

「ほう! そうか、子供が手を離れたから、麻里ちゃんから許可が出たか」


 本題に入った途端、図星を着かれて絶句してしまった。


「……麻里から聞いたのか?」

「ああ、こないだ電話があってな。お祝いのお礼と一緒に、お前の相談に乗って欲しいと頼まれたよ。あ、これバラしたの麻里ちゃんには内緒な」


 悪気も無く笑う悪友に、信吾は呆れながらも笑い返す。


「ま、そこまで解ってるなら話は速い。で、だ。最近のバイクってどうなんだ? 正直、ネットで情報漁ってもブランク長すぎてイマイチ掴めなくてさ」


 古い悪友の髭面を眺めつつ、信吾は単刀直入に訪ねる。実際、情報があふれかえっているネットを漁っても目移りするばかりで、現在の自分に合いそうなバイクが解らないのだ。


「お前の事だ、もうVFR800Fは調べたんだろ?」


 髭面の男は、かつての信吾の愛機を受け継ぐバイクの名を口にした。


「ああ、まっさきに調べたよ。だが、俺もVF降りてからは敢えてバイクから距離を取ってたからなあ。正直良く解らん。まあ、とんでもなく進化しているのは解るがね」

「そうだな。だが、VFR800FはまさにVF750Fの正常進化型だぞ。っつーか、VFR-Fのミドルクラス……750と800は、あの時代80年代から途切れることなく正常進化して来た稀有なシリーズだから、かつてVFに乗っていたお前が乗るにはベストチョイスの一つだと思うぜ。もし、歳喰って前屈ポジションがキツイなら、VFR800Xっていう選択肢もあるしな」 



 ミドルVFRシリーズ――


 

 それは、ホンダの技術の結晶ともいえるモーター・サイクルである。

 いつの時代においても、その時のホンダが持ち得る最新の技術と装備を与えられ生み出されるインテリジェント・スーパー・スポーツ。

 オン・ロードにおけるフレキシブルさにおいて、このモーター・サイクルの右に出るマシンは、世界中を見廻してもそう多くは無い。


 いや、排気量や価格に対するコストなどを総合的に鑑みれば、ある意味では右に出るマシンは一台も無いと言える。

 

 本来であれば、同クラス他車を圧倒的に凌駕しえるポテンシャルを持つにも係わらず、それを敢えて抑え様々なシチュエーションの公道走行にベストマッチさせた動力性能。

 ABS・TCSなど、アクティヴ・パッシヴ共に高水準で纏められた総合的な安全性能。

 そして、それらを高い次元においてパッケージングした上で、見事に表現されたライディング・プレジャー。

 また、それなりのチューニングを施し、サーキットに駆り出せば水を得た魚のように秘められていたレーシング・ポテンシャルを発揮する。

 

 それらの驚くべき走りは、当然のことである。このモーター・サイクルには、かつてTT-F1からスーパーバイクまで様々なロードレース・シーンを席巻したホンダの自信作・ForceV4の血が色濃く受け継がれているのだ。

 その真祖は、4ストで2ストを打倒するべく創り上げられた、空前絶後のオーヴァル・ピストン楕円を持つ悲運のGPマシン・NR500まで遡る。


 レシプロ・エンジンのピストンとは、丸いものである――


 そんな常識を打ち破り、理論上では同排気量で2倍のパワーを発揮する2ストローク・エンジンと同等以上のパワーを持つ4ストローク・エンジンを創る為に。

 V型4気筒・1気筒当たり8本ものヴァルヴを配したDOHC32ヴァルブ・楕円ピストンと言う、レシプロ・エンジンの概念を根底から覆す驚異のメカニズムを持って2ストを凌駕しようとしたNR。

 もし、熟成する時間が与えられ、完成の域に辿り着けていたなら、現在の4ストローク・エンジンそのものが全く違うになっていた可能性すら有る程の意欲作であった。


 そんなNRを始祖とし、様々なレース・シーンで栄光をほしいままにしたホンダ・V4を最新の技術で構築し与えられたVFR。

 決して目立つ存在ではないが、史上最強クラスのポテンシャルを納めた上で公道走行に最適化されたモーター・サイクル。

 

 その最新作・VFR800Fはホンダ・Fコンセプトの具現車として現代に存在する。


 また主流であるFに加えてクロスオーヴァ―・コンセプトを取り入れたXをラインナップしたミドル・VFRシリーズは、ツーリングからスポーツ走行までのニーズにおいて最適解と言えるモーター・サイクルなのである。






「あれだけVF750Fにほれ込んでいたお前なら、きっと気に入るはずさ。とりあえず、ホンダ・ドリーム店で試乗してみたらどうだ?」

「……そうだな。明日にでも行ってみるか。良ければ付き合ってくれないか?」

「ああ、良いぜ。VFRの試乗車が有る店は、と……うん、都内じゃ楽しめないだろうし、ちょっと遠いが八王子だな。じゃあ明日の朝、八王子駅に集合な」


 その後、しばらくバイク談義を楽しんだ後、二人は帰宅の途についたのだった。


 翌朝。10時頃に八王子駅で落ち合った二人は、至近のホンダ・ドリーム店へと向かう。ちなみに、信吾は電車、髭の男はバイク――ホンダ・フュージョンのド初期型である。


「まだ乗ってたのか、それ」


 信吾が笑いながら言う。髭男のフュージョンは、それこそ信吾がVFに乗っていたのと同時期から彼が所有しているバイクだ。

 2000年代初頭、狂乱のように吹き荒れたビッグ・スクーターブーム時に何度か盗難されかけたものの、辛うじて難を逃れ走行距離も10万キロに喃々とする古強者である。


「まあな、もう腐れ縁さ。別にBMWメインで来ても良かったんだが、中年男二人でミッション車にタンデムしてたら気持ち悪いだろ。コイツなら、密着せずに済むしな」

 髭男が、リア・ボックスから取り出したジェット・ヘルメットとグローブを信吾に渡しつつ苦笑する。


「なんにせよ、タンデムとはいえ公道でバイクに乗ること自体が久しぶりだ」


 信吾は、そう言いながらヘルメットをかぶると、フュージョンのリア・シートに跨った。


 久しぶりに感じる、教習所内のクローズド・コースとは違うオープン・エア・ライディングに、信吾の胸は高鳴る。


「やっぱ、良いな。バイクは……」


 そんな、信吾の独り言は誰に届くことも無く、風に巻かれて行った。




「こちらの誓約書にご記入をお願いします。あと、免許証のコピーを頂いても宜しいですか?」


 信吾は、スタッフに渡された書類に必要事項を書き込み、免許証を渡す。

 かつて、信吾がVFに乗っていた時代に通っていたバイク屋の、良く言えばフレンドリー、ぶっちゃけて言えば適当なそれとは雲泥の差の対応に軽く衝撃を受けてしまう。

 

「まるで四輪外車のディーラーに来たみたいだ」


 スタッフが書類を処理する間、出されたコーヒーを飲みつつ髭男にむかって信吾がごちた。


「そうだな、その辺は改善……と言うべきかは解らんが、近代化されたな。特にこの10年くらいの間に」


 髭男もコーヒーを飲みながら同意する。

 

「ま、そこらの個人バイク店はほとんど変わらないけどな。だが、そう言った店ではホンダの250㏄以上の新車は扱えなくなったりしてるし、これも時代ってヤツさ」

「そうか……」


 そんな、益体も無い事を話していると、スタッフが試乗車の準備が出来たと知らせて来た。また、試乗コースとスイッチ類など車両各部について、事故などトラブルの際の対応も説明される。

 久しぶりの公道運転に緊張する信吾をニヤニヤと見詰める髭男が、


「ま、気楽にいけよ。TCSもABSも付いてるから、立ちごけ以外に心配することはないだろうさ」


 そう言って、純白のVFR800Fに跨った信吾の肩をポン、と叩いた。


「ああ、じゃあ行って来る」


 クラッチを握り、セルボタンを押す。と、PGM-FIインジェクションによりいとも簡単にV4が目を覚ます。かつての愛車VFは、チョークを引き、アクセルを少し開けたりして調整しつつご機嫌を取るようにしないと中々掛からなかった事を思い出し、こんな所にも時代を感じてしまう信吾である。

 自動制御されるエンジンから吐き出されるアイドル音は、ボヒュボヒュとした昔のV4独特のそれに比べて相当に抑えられている。


「よし」


 必要ないのは解っていても、ついつい多少暖まるのを待ってしまった信吾は、軽いクラッチを繋いで走り出す。

 スムーズに、だが確かなトルクを感じさせつつ純白の車体が加速する。


「おお……!」


 あの、スムーズかつパワフルなVF750Fのそれを数段階増幅したような加速感と、あっという間に乗っていくスピード。


「この感覚……VF750Fあいつによく似ているな……」


 VFよりも少しだけ前屈に感じるライディング・ポジションだが、信吾の体にはすっとハマる。トレーニングのおかげもあるが、肉体はしっかりと覚えてくれていたようだ。

 並木通りを軽く流すと、VFRは静かに、ジェントルに疾走する。

 それは快適そのもので、信吾の視界はキラキラとした木洩れ日に溢れた。


「ああ、これだ。この感覚だ……」


 目を三角にして走るだけではなく、こうやって何気なくバイクで走るだけでも最高の気分になれる。

 疲れた時やイラついた時、こうやって流すだけで気分が浄化されていく。

 これこそが、バイクの醍醐味ではなかったか。


 そして、コイツに乗って遠くへと行ってみたい――

 

 ずっと抑えていた信吾の旅心が、うず、と疼きだすのを実感する。

 この時点で、信吾はVFR800Fを手に入れる事を決めた。


「だが、もう少し……」


 そう、VFRのもう1つの顔。

 それを味わうため、信吾は街中を離れていく。

 そして、説明された試乗コースのうち、峠道エリアに差し掛かった時。

 少し大き目の排気音を立てた、如何にもと言った感じの国産四輪スポーツが信吾の後ろにピタリと張り着いた。


「ふむ……」


 無理をする積もりは微塵も無い。が、くっ付かれたままじゃ面白くも無い。


「どれどれ」


 信吾は、年寄り染みた呟きと共にアクセルをワイド・オープンする。

 と、アルミツインチューブに抱かれたV4が咆哮し、弾丸の様に加速したVFRは、あっという間に四輪をミラーの点へと変えた。

 そのまま、信吾は体に染み付いた技術をもって峠道を駆ける。

 ヘアピンではステップのバンク・センサーが接地してしまい少し慌てたが、VF750Fのそれとは比較にならない程高いスタビリティのおかげで、不安や転倒しそうな感じはほとんどなかった。


「なんだか、バイクに乗せられてるようにも感じるな」


 苦笑気味に信吾はごちる。


「だけど、これなら若い頃より体力・気力が衰えた俺でも大丈夫そうだ。それに、何より……」


 愛妻をタンデム・シートに乗せて走るなら、安全であるに越したことは無い――


 

「さて、何歳いくつまで乗れるかな」


 峠道を上り切った所にある自販機で、何年振りかに買った缶コーヒーを飲みつつ信吾はVFRを眺める。


 その純白のボディに、赤と白のVF750Fかつての愛車の面影を重ねた信吾は、これから再び始まるライダーとしての人生を想い、少年の様にときめくのだった。






Fin.








 




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