第12話 さいごの日

 宝飾店で指輪を購入した数日後、冬休み真っ只中の12月23日。僕は自室で綺麗に梱包された包みを見る。その中には、先日購入したシルバーに黄水晶が埋め込まれた指輪がある。そう、指輪。ネックレスでもピアスでもなく、指輪だ。

 多分、大方は結婚するときに指輪を贈るだろう。それなのに、大した記念日でもなく結婚するわけでもないのに指輪なんて。個人的にはいかがなものかと思う。でも、渡したいから渡す。それでいいんじゃないかなと思うことにした。

 勿論、これで不安をビルキースの払拭できたらという気持ちもある。だけど、これで彼の懸念がなくなるなら、こんなにも長期間に渡り不安が燻ることはないと思う。

 彼の不安が恋人に愛されているかどうか、によるものではないということは理解している。彼が懸念しているのは周囲の目だ。いくら僕が「愛してる」と言おうと、それで全てが解決する訳でもない。

 同性愛が決して合法ではなく、家庭を持って漸く一人前という感覚もあるこの世の中。同性の恋人がいる者は肩身の狭い思いをするのに、僕の目指す職業が法学関係ともなれば、彼が不安に思うのは寧ろ当然のことなのだ。例えば、裁く側の者が悪事に手を染めているようなもの。

 だけど、僕はそろそろ彼の不安を払拭したい。僕は、君と共に歩めるならどんな茨の道でも構わないのだといっそ伝えてみるか――


「……流石に、それは、恥ずかしいか」


 誰に言うでもなく独り言ちて、指輪が包まれた箱を机の引き出しにしまって、外出の準備をして部屋を出た。

 長い廊下でボールドウィン兄さんと鉢合わせする。兄さんは茶色のコートを着込んでいて、外出するみたいだ。あ、と短く声を上げた僕に気づいた兄さんが、よお、と小さく手をあげる。


「ソロモン、お前も外出か。ビルキースくんとか?」

「はい。彼の家でのパーティーのための買い物です」

「そっか、なんかお前も向こうに馴染んだな……。それはいいけど、充分気をつけて行けよ。何があるかわからないからな」

「はい。ボールドウィン兄さんも」


 穏やかに言葉を返した僕に、兄さんは笑みを浮かべながら手を振った。今までの経験から僕も充分気を付けようと、兄さんの言葉を頭の片隅に置いて、僕はビルキースとの待ち合わせに向かう。



 外でビルキースと合流して、クリスマスに向けた装飾が施された街中を二人で歩く。今回の目的はビルキースの家で行われるパーティの買い物だ。本来ならば僕は関係ないのだけど、一度ビルキースの親御さんに「ギリェルモビルキースととても仲がいいから」と彼の用事を手伝わされたことがある。それを契機に、こうして共に買い物をすることも多くなった。これも兄さんの言うように僕が彼の家に馴染んだということなのだろう。

 途中、何故かビルキースの顔色があまり良くないことが少し気になったのだけど、本人は元気だというので、極力気にしないことにした。

 その最中さなか、ビルキースがふと明後日の方向を見つめていることに気づいた。つられて見やると、通路の端で突っ立っている顔色の悪い青年が、僕たちを見てぶつぶつと何かを呟いていることに気が付いた。表情の多くを隠そうとするフードがついた真っ黒い服は少々薄汚れ、まるで浮浪者のよう。底知れない不気味さに背筋がゾッとしたが、気がつけば姿を消していた。見間違いかもしれないと、気にせずに街を歩く。

 その後、僕たちは立ち寄った雑貨屋でパーティー用の飾りやきょうだいへのプレゼントをいくつか買って、品物を確認し合う。


「買い忘れはないですか?」

「あぁ。あとはまた今度でいいだろ」

「そうですね。では、買い物も終わりましたし、どこ行きましょう?」

「そうだな……」


 ひゅう、と吹く冷たい風を感じながら、僕はこのまま家に誘ってしまおうかとも考える。品物は彼の家に置きに行き、どこかでタイミングを見計らって家に来てもらうか。「渡したいものがある」といえば、彼は普通に来てくれるだろう。

 そんなことを考えていると、突然大柄な男性とすれ違いざまに衝突した。


「あっ、ごめんなさい」


 そういった際に見上げた先にあるのは、こちらを睨みつける鋭い金色の瞳。まるで猫の目のようなその瞳は、一瞬ほんの僅かに目を見開いたかと思うと、僕に根深い恨みでもあるかのように鋭くなる。どう見てもただぶつかっただけとは思えない反応に反射的に身震いしたが、怪我があるわけでも何かを盗られたわけでもないのだからと、気に留めないことにした。


「大丈夫か?」

「えぇ、はい」


 実は少し怖かったということは秘匿して、ビルキースの後を追おうとしたその時、後方から誰かの足音が聞こえて――僕の背に、何かがぶつかったような気がした。

 重苦しい痛みと妙な感覚にすぐさま目線を下げる。そこには何もないけれど、体から何かが引き抜かれた感覚に、足元から力が抜けて、勝手に表情が歪み、糸が切れたようにどさりと崩れ落ちた。僕の目線が一気に地面に近くなる。なにかに躓いたのかと体を起こそうとするが、また何かがぶつかる感覚がして、立つことができない。というかそもそも、頭がまともに働いている気がしない。

――なんだこれ。何が起きた? 夢?

 理解が追い付かない頭でそう考えて、僕はここで漸く周囲の音を拾い上げる。「ソロモン」と僕の名前を叫んでいるビルキースの声と、女性の悲鳴、そして「男が刺された!」「警察を呼んで来い!」と慌てふためく知らない男性たちの声。そこで漸く、漸く僕はしっかりと今の状況を理解した。

――これ、僕、刺されたから立てないんだ。


 頭で理解した瞬間、背中から発生した痛みが全身に広がって、それまで認識できていなかった熱と鋭い痛みが体を支配する。苦痛により堪えきれなかった汗が、額から溢れ出し視界が歪む。

――痛い痛い痛い、痛い、なんで、どうして。

 全身から血の気が引いていく感覚の中、助けを求めるように必死に唇を動かした。だけどその声は出ているのかそんなことも分からない。ビルキースがやめろと叫ぶ声がする。他の通行人が騒ぐ声もする。活気づく街中は、一気に悲鳴で埋め尽くされていく。

 そんな中で僕は殆ど体を動かすことができずに、鋭い痛みをその身に受ける。グサグサと何度も体が刺されるたびに僕の力が奪われていく。痛くて痛くて仕方ないのに、逃げることも声を上げることすらできない。逃げようとして手を動かそうとするのだけど、新たに与えられる冷たい痛みが僕の行動を阻害した。見えなくなりつつある視界の中、僕はなんとか顔を上げて、ビルキースの名を口にする。だけど、呼んでも反応はない。

 こうなるともう彼が今何をしてるのか僕にはわからない。次第に周りの音だって聞こえなくなってきて、もう顔を上げることも、手を伸ばすこともできない。段々痛みも鈍くなってきた気がする。次第に、僕は、指輪という心残りを胸に、ただゆっくりと眠るような感覚で目を閉じた。




 大通りから外れたとある路地裏。暗く寒く静かで、大通りの賑やかさとは真反対の場所。そこに足を踏み入れた真っ黒い服で身を包んだ青年は、深淵のごとき目をぎょろりと動かして周囲を見る。

 ぎゃあぎゃあとうるさいカラスの鳴き声を背景に、路地裏を進んでいた青年が見つけたのは、長いコートを着込んだ一人の大男。大きな体を曲げてしゃがみ込む彼の周りには、様々な毛色の野良猫がたむろしており、彼は何やら話しかけながら野良猫達を撫でていた。


「■■■■・■■■■・■■■■■・■■■・■■■■■」


 青年が名を呼ぶと、男はゆっくりと振り向く。その拍子に女のように長い黒髪がふわりと靡いた。青年を確認した男は眉間に皴を寄せ嫌そうに舌打ちをする。


「なんだお前か。毎回やたら長いフルネームで呼ぶなよ」


 僅かな怒りを孕む声色に青年は動じない。ただ光のない瞳を向けて石ころのような無表情を浮かべて立っているだけである。

 男も金色の瞳で一度ひとたび睨むとまた猫の方へと視線を戻す。会話をする気はない、帰れと背中が物語っているようでもあったが、青年はその意を汲むことなく薄い唇を開く。


「……逃げないのか?」

「見てたのか」

「俺はそういうものだからな」

「そうだったね。それで、逃げないのか、だっけ? 逃げないよ。だって、あいつらみんな僕に気づかないじゃないか」


 猫から手を離して立ち上がった男は、青年が大きく見上げるほどに大柄だった。そんな彼は青年同様に無表情で相手を見やる。敵意も嫌悪もないが、好意もない冷めた瞳で、胸に片方の手を当てて、誇示するような仕草と共に話す。


「だって見てよ。そこらの男よりずっと大きな体に、女みたいに長い髪してるんだよ、僕。これ、とってもわかりやすい特徴じゃないか。それなのに、誰も僕に気づかない。その辺の群衆じゃ誰も辿り着かない」

「……あの女のせいか」

「彼女のお陰だよ」


 妙の楽しそうな男の言い方に、青年は大仰に顔を顰めると短く問う。「何故、殺した」と。その疑問に男は迷いなく言い切った。


「憎いからだよ。それ以外に、理由必要?」

「ソロモン・マスグレイヴに、他者から恨まれる理由があるようには思えない」

「君がそう思ってるだけで、僕の中にはある」

「……これだから、貴様らみたいなやつは、嫌いなんだ」

「だったらわざわざ見に来るなよ」


 嘲笑するように答えた男は、長い髪とコートを翻して、路地裏の奥に消える。続けて、見送った青年も霧のように霧散して消滅した。




 あの痛ましいから数日後経ったある日のこと。ビルキースの家をとある男性が訪れた。白を基調とした背広の上にグレーのコートを身に纏った背の高い見知らぬ男性に、応対した母親は少々動揺した。どちら様でしょうか、と恐る恐る訊ねた母親に、男性は帽子を手に静かに名乗る。


「初めまして。僕はボールドウィン・マスグレイヴといいます。……ソロモンの、兄です」

「あ、あぁ! ちょっと待ってくださいね、ギリェルモ、呼んできますからね」

「え、あ、あの……?」


 男性――ボールドウィンがソロモンの兄だと分かった途端、母親は大仰な程に驚いた声を上げると、慌てて息子の名を呼びながら家の中へと消えていく。

 一方で、一瞬困惑した様子のボールドウィンは、母親を止めようとして行き場を失った手を呆然と携える。しかし暫しの後現れた複雑そうな面持ちのビルキースを目にしたボールドウィンは、驚きの声をあげた。


「え? あれ、ビルキースくん?」

「……どうも、葬式ぶりですね、ボールドウィンさん……」

「そう、だね。久しぶり……あれ、ギリェルモって、君のことなのかい?」


 数日ぶりに会った者への挨拶もそこそこに、母親が呼んでいた名と一致しない人物の登場に疑問符を浮かべる。その様子にビルキースは察したように彼の問いを肯定する。


「はい。俺、ヒスパニア出身なので……、母はいつも俺をヒスパニア名で呼ぶので……」

「あぁ、ああ! そういや随分前にソロモンに聞いてたかもしれない……ごめんね思いっきり忘れてたよ」

「いえ、別に大丈夫です」


 しまったと言わんばかりに口にして、ボールドウィンはジェスチャーで謝罪を示す。しかしビルキースにとっては些細なこと。であるし、自分も似たような状況になったらきっと困惑するだろう。母もこういう時くらい違う呼び方をしてもいいのにと頭の片隅で思った。

 だがそんなことはもうどうでもいい。今のビルキースは何故ボールドウィンがこちらにやってきたかという方が重要だ。


「それより、今日は何故こちらに?」

「あ、そうだ。君に渡したいものがあってね」


 ビルキースの言葉に、本来の目的を思い出した様子のボールドウィンは慌てて鞄を漁る。彼に手渡されたのは掌に収まる程の小さな箱だった。丁寧に包まれた藍色の包みに貼り付けられたメモには、『ビルキースへ』とソロモンの丁寧な字が綴られている。

 

「なんですか、これ」――ビルキースの疑問に、ボールドウィンはゆるりとかぶりを振る。

「ごめん、それは僕には分からない。この間ソロモンの部屋を片付けていた時に見つけたんだ。ビルキースくんの名前が書いてあるから、持ってきた方がいいかなと」


 君、次いつ来るか分からないし――そう付け加え、眉を下げたボールドウィンから箱を受け取る。やはり掌に収まる大きさだが、それは一体なんなのだろうか。恐らくクリスマスパーティの際に渡す予定だったのだろう、プレゼントが手元にあることは嬉しく思うが、その中身に至ってはビルキースにはとんと予想がつかず、ただ首を傾げた。これは開けて中を確認するしかなさそうだ。


「ありがとうございます、ボールドウィンさん。こうして、持ってきていただけて、嬉しいです」

「いや、いいんだよ、気にしないで。――それじゃ、僕はこれで。またいつでもうちに遊びにおいで」

「……はい、ありがとうございます」


  軽く手を振ったボールドウィンを見送って、ビルキースは慌てて自室に戻る。なんだかとても気持ちが逸る。母親に用事はなんだったのかを聞かれて、ソロモンからのクリスマスプレゼントと簡潔に返す。

 自室に戻り鍵をかけ椅子に腰を下ろし、少しだけ胸を高鳴らせながら、紐を解いていく。包まれた紙を広げると、現れたのは白い箱。それを開けると、そこには深い青色の、シンプルながらも高級感ある箱があった。


「……まさかな」


 その箱の形状には見覚えがあった。自分宛にと貰ったのは初めてではあるが、昔身内が宝飾品を買った時、こういう箱があったと認識した。その中に入っていたのは、確か――

 そこまで考えて、淡く滲むそれを否定する。そんなわけは無い。何故婚姻すら叶わない相手に渡さなければならないのか。

――そんなことあるわけない。多分もっと違うものだし、なんであれソロモンからのプレゼントだ。喜んで受け取ろう。

 ふぅ、と息を吐いて心を落ち着かせ、ぱかりと箱を開いて、つい瞠目した。そこにあったのは紛れもなく銀色に輝く男性向けの指輪だったからだ。幅のある側面には黄に煌めく小さな石が埋め込まれており、大きさも含めてどう見ても女性に渡すような指輪ではない。

 己の推測が当たり暫し絶句するビルキースだったがが、やがて引きつったように口角を上げ、喉を震わせる。


「は、はは……あいつ、馬鹿だろ、俺なんかに、こんな立派なもん渡す予定してたとか……こういうのは、っ、未来の嫁さんに渡すもんであって……っ」


 声を震わせながら、ビルキースは片手で顔を覆う。胸の内から込み上げる大きな感情の詳細はよく分からない。喜びなのか哀しみなのか、自分はどう思っているのか分からないまま、涙となって溢れ出す。

 ソロモンがどういう意図でこれを買ったのかももう分からない。指輪自体に深い意味があるのかどうかももう何もわからない。ただ、己が気にかけていた事項などどうでもよかったのだと物語っているように感じられた。

 あれから七年。その指輪は白の手袋の下に隠しながら、右の薬指に静かに煌めきを添える。ビルキースは、これを自らの意思で無くすことはないだろう。嘗て、いや、今も愛する恋人からの、大切な贈り物なのだから。

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