ネコと少年とお局と
片田真太
ネコと少年とお局と
ある昼下がりのオフィスの中。
いつものように罵倒のごとく説教の大声が飛び交う。
「何やってんのよ、この伝票の入力何回間違えれば気がすむの?一体何度注意すれば分かるの?これじゃ私にいくつ口があっても足らないわよ。ロボットでももっとマシな仕事するでしょ。」
「あ、はいすみません。」
「すみません、じゃないでしょ。こういうのは謝ってすむ問題じゃないの。そうやって気軽に謝れば穏便にすむみたいな安易な発想してるから、こんなくだらないミスを何度も繰り返すんでしょ?あんたここに来てからまったくといっていいほど成長してないからね。」
怒涛のごとく部下に罵倒を浴びせているのは林凜子というあるIT系請負の中小企業に勤める経理課長代理だった。年齢はすでに40代後半で50代突入が間近に差し迫っていた。「またいつもの説教が始まった」と周りは知らんぷりしているようだったが、怒られている部下はたまったもんじゃないという面持ちで下を向きながらただひたすら上司に謝っていた。
「だいたいあなたね、理解力以前に真剣さが足りないのよ。だからケアレスミスが多いの。仕事をなんだと思ってんのよ?」
「はい、すみません。以後気を付けます。」
「気を付けますって一体何度聞いたか。耳にタコができてんのよ。会社は学校じゃないんだからミスをしたら普通は自分で二度としないようにするでしょ?上司に怒られる前に厳重に気を付けるもんでしょうが。」
「はい、申し訳ございません。」
そんな感じでこと10分ほど永遠と説教が繰り返された。いつものことなので周りはもう平気で気にしてないようだった。これはもういつもの風景で日常茶飯事の出来事といってもよかった。
「もういいわ。あんたみたいな無能に説教してるだけ時間の無駄だから。さっさと下がって。」
「はい。」
そういって部下は心が折れて意気消沈しながら自分のデスクへと戻っていった。
「ったく私の貴重な時間が無駄になるでしょが。」
そういって林凜子は自分のデスクの上に置いてあったペットボトルのダイエットコークを飲みほした。
「あんたたち私これから会議にいくからしっかり仕事してなさい。」
「はい」
部下たちはしぶしぶそう返事して、上司がいなくなる一時を大いに喜んだ。
この会社は渋谷ホールディングスといって、IT系の会社で大手企業や官庁などのシステム開発を一手に請け負っている中小企業だった。そのため開発部門が主流を占めていて、社員のほとんどはSEやプログラマーの男性社員だった。林凜子は大学時代、コンピューターやらIT系の企業など全く興味もなかったが、たまたまそこしか受からなかったから腐れ縁でこの会社にずっと勤めていた。学生時代には特に他にやりたいこともなかったし何となく拾ってくれた会社だからただ働いているだけだった。しかしSEやプログラマーというのはとかく男性がなりたがる仕事らしく、入社したら思いのほか男だらけだということに気づいた。まさに男社会の会社だった。そんなこんなで入社時30人ほどいた同期の中にいた8人の女性社員も最初から出世などほとんど興味がないようだった。ただ腰掛で働いて30歳までに結婚できればいいと考えている女性社員がほとんどだった。そして実際に3人は30までにめでたく結婚して子供を産んで今では立派な専業主婦をしている。30過ぎて結婚した一人も子供こそいないが夫婦共働きで収入に余裕があるのか自分は派遣やパートなど好きな仕事を自由にやりながら夫婦水入らずの楽しい生活をしているようだった。
そして結婚して専業主婦になりたくない派も二人いて、そのうちの一人は元々OLになどなりたくなかったタイプで、「男社会のIT業界にいたって出世できないし意味ないけどここしか受からなかったから仕方なく入社した」と女子だけの夜の同期の飲み会などで散々愚痴っていたかと思いきや、いきなり入社7,8年目くらいの30手前になるくらいの頃に「デザイン会社に転職します。」とか言って転職していった。どうやら会社勤めしながら夜や週末にデザイナーの学校に熱心に通って勉強していたようだった。そしてデザイン会社に10年ほど勤めた後は、独立したようで今や立派にこぎれいなブランドを自ら立ち上げて自分の会社を経営して成功していた。選んだ道がたまたま運よく当たりだったのだ。そしてもう一人の専業主婦になりたくない派だった同期もブライダル業界に転職したいとのことをずっと入社時から飲み会などで愚痴っていて、同じく週末や夜間などにブライダルの学校に通っていて、またも同じく30手前になる頃にブライダル系の会社に転職していった。今でもそこでウェディングプラナーをしてホテルなどの結婚式場の披露宴のプラニングをしているらしい。そして最後の一人の同期は池上香といって唯一凜子と同じくいまだに渋谷ホールディングスに在籍していたが、凜子とは違って開発部門の課長を任されていた。いわゆるこの会社では花形の出世コースだった。男社会の会社で女性社員が管理職になることはあまりなかったのに、うまいことやって出世しているようだった。元々この池上香は同期の中で凜子が最も嫌いなわがままそうなタイプの女だった。入社した頃は同期の飲み会などが頻繁にあったので香とはそこそこ会話をしていたが、その頃から何となく性格が合わないだろうと思っていた。そして、今では彼女とはほとんど疎遠状態だった。開発部門は一つ上のフロアにあったし社員食堂もないような小さな会社だったので普段はほとんど会うこともなかった。凜子も池上香も二人とも相当なヘビースモーカーだったのでタバコを吸ったが、喫煙所はフロアごとにわけられていたので開発部門のある上のフロアの喫煙所などほとんど行くこともなかったのでタバコを吸いながら世間話などをするような機会もなかった。会うとすれば昼休憩に外食で出かけるときや朝の出社時にエレベーターでばったり会うことがごくたまにあるくらいだった。それも出社時間が同じくらいならばしょっちゅう会う社員もいたが、凜子は誰よりも早く出社するタイプで出社時間の1時間前には会社についていたので、池上香がたまたま偶然早く出社する時以外は会うことなどもなかった。
そんなこんなで今はこの池上香だけが唯一の女性の同期なのだが、仲良くもないし会うこともほとんどない。専業主婦になった派の人たちには結婚式には当然呼ばれたし、結婚後も子供が生まれたばかりくらいの頃は何度か会ったりもしたが、彼女らは結婚生活中心で生きていて話題は子供のことばかりで次第に話が合わなくなり疎遠になっていった。転職した派の人たちも凜子は会いたくなかった。何度か会いましょうと誘われたこともあったが、断った。内心嫉妬していたからだ。デザイナーにしろウェディングプラナーにしろ女性が大いに活躍できる仕事で、凜子はそれが羨ましかった。自分にはそういうやりたいことや夢もなかったし、そういう夢を実現させて楽しい人生を送っている彼女らとは到底会う気になどなれなかった。彼女らが転職したばかりの30代前半の頃に一度だけウェディングプラナーになった同期とは会ったが、何やら結婚式の司会進行係の手配をしたりだとか新郎新婦などスピーチをする人たちの順番を決めたりだとか、その他は披露宴中のイベントの計画をしたり式場で流すBGMや音響の選定などやることは多岐にわたるらしく、いきいきとそんな話を聞かされて凜子は憂鬱になった記憶があり、それ以来その同期とは会っていない。
男性の同期もいたしたまに飲みに行くこともあったが、彼らも開発やら営業やらで花形の仕事をしていて最低でも課長ですでに部長に昇進しているものもいた。全員というわけではなかったが大半は家族がいて立派な大黒柱の父親をやっていた。だから男の同期ともあまり話も合わなかったし飲み会に出ても気まずいだけだった。
凜子は孤独だった。社内でも打ち解けられる友など一人もいなかった。そして、経理の課長代理の仕事も億劫で仕方なかった。この渋谷ホールディングスでは開発や営業が花形のメインの仕事なので、経理とはとにかく仕事のできない人間の掃き溜めみたいな場所になっていた。そのためダメ社員の典型みたいな男がたくさんいた。言われたことしかやらないやつ、言われた指示通りにすら仕事ができないやつ、ケアレスミスを連発するやつ、失敗を誤魔化して報告しないやつ。とにかく仕事ができなくてやる気のないダメ男ばかりが集まってきていた。なので、凜子は毎日そんな社員の指導管理をさせられるのはほとほと疲れて辟易していた。この会社は大手ではなかったしそこまで高学歴の優秀な男性社員は入社してこなかったが、それでもいくらなんでもひどすぎるという社員ばかり経理に集まってきていた。そもそもやる気があれば学歴など関係ないのに最初から自分はダメ男なんだと言わんばかりに覇気のない男たちばかりだった。SEになりたくてこの会社に入社したのにダメ社員のレッテルを貼られて出世コースから外された男たちのゴミ捨て場みたいになっていた。凜子も大した学歴ではなかったが、性格がとにかく負けず嫌いで仕事はとにかく何事に対しても真剣だった。だからこそ、経理部にいるダメ男社員たちに腹がたって仕方がなかった。男社会の会社で女の自分がこれだけ頑張っているのになぜこいつらはこんなにもやる気がないのか?と・・・
とにかく渋谷ホールディングスは男社会なので、こういう掃き溜めのような場所には
女性が管理職を押し付けられた。家族のために日々出世コースに進むべく頑張っている男たちにとっては、どうしようもないダメ社員の面倒を見るなんて余裕はないしそんな雑用はみな御免だからだ。
しかも凜子の上司にあたる経理課長は自分に指示をしたり報告を求めるだけで実際の指揮監督はほぼ自分に押し付けてくる始末で仕事のストレスは莫大で凜子の我慢は限界に達していた。部長もいたが役員も兼任していて多忙な人だったのでほとんどデスクにいなかったし、自分の愚痴など聞いてくれそうにもなかった。
そんな事情もあるのなら、なぜさっさと女性が活躍しやすい職場に転職しなかったのか?と誰もが疑問に思うかもしれないが、凜子はわがままできつい性格のため女性からもあまり好かれなかった。そもそも昔から女友達も少なかった。つまりは人生こうなったのは自分のせいでもあり全て自業自得なのだが、しかし、だからといって凜子はプライドが高いのでそれを絶対に認めたくなかった。そして、そんなこんなで渋谷ホールディングスに長年身を置きながらも、自分の会社のあまりの男社会ぶりにいよいよ我慢の限界に達してきていたということなのだった。
「まったく」
上層部への報告会議へ出席した後に喫煙所で凜子は一服した。
「まったく上層部はほんと男ばっかね。」
そう吐き捨てるように言いながら凜子は大きく大胆に煙草の煙を喫煙所中に巻き散らかすかのようにしておおげさにふーっと吐き出した。
凜子はデスクへ戻ると仕事をいち早く片付けて使えない部下たちに一通り指示を出した後にその日はさっさと定時過ぎに帰ることにした。
「あー今日も疲れた」
凜子はオヤジのように疲れた首と肩をゴキゴキと音を鳴らしてまわしながら電車に乗り南青山あたりの行きつけのバーへ立ち寄ることにした。
「久しぶり凜子」
「久しぶり佳奈」
凜子が一人でさびしくカウンター席でジンリッキーを飲み干そうとしていたら佳奈と呼ばれる女がそう挨拶しながら隣に座った。
「私もそれ飲むわジントニック?」
「ジンリッキー」
「そうなの?了解、じゃあ私も。あの、ジンリッキーお願いします。」
バーテンダーに佳奈はそう言った後、鞄からピアニシモのタバコを取り出した。
佳奈は凜子と大学時代の同級生で唯一といっていいくらいの友達だった。凜子は学生時代から友達が少なかったが、それでも大学を卒業してしばらくは何人かの友達と付き合っていた。でも、元々凜子は正直なところ大学時代からの友達とは無理に合わせて仕方なく付き合っていた。それが本音だった。そのため、社会人になってから彼女らとは業界も仕事内容も違うし話題も合わなくなったりしてきて無理に合わせるのが次第に億劫になっていった。中にはもちろん結婚したりする人もいたが彼女らとも話題が次第に合わなくなった。それに向こうにしても、わがままできつい性格の凜子ともこれ以上付き合いきれなくなったという理由もあったのだろう。そんな中で佳奈とはなぜか不思議と唯一性格が合い心の許せる友達だった。わがままできつい性格の凜子に唯一合わせられる友だったともいえる。佳奈も凜子と同じで40過ぎても仕事を頑張ってるキャリアウーマンで「結婚なんかとんでもない」とか言いながら仲良く二人で飲んでいた仲だった。しかし、そんな唯一の友が昨年突然結婚の報告をしてきたときにはさすがの凜子も裏切られたような気分になりショックを隠しきれなかった。
「半年ぶりに連絡してきたと思ったら相変わらず飲んでるんだね。」
「そうよ、前はあんたもよく一緒に飲んでたじゃないの」
「そりゃそうだけど。私結婚した身だからあんまり遅くまで飲んでられないんだよね。昔みたいに。旦那9時前には帰ってきちゃうし。」
「さっそくのろけですか?」
凜子はとっさにそう言い返したくなったのでそう言ってみた。
「のろけじゃありません。結婚生活だってそんな楽じゃないんだからね?旦那の実家の両親とかにも気を使わなきゃいけないし。もう年齢的に子供も産めないからますます気使わないといけないからたまったもんじゃないし。」
「へーそんなもんかね。」
「そうよ。あんたも結婚したら分かるわよ私の苦労が。」
「苦労ってさ。したくて結婚したんでしょ?それにあんただって結婚なんか絶対嫌だっていってたくせにさ。」
「そりゃそういう時期もあったわよ。」
しばらくするとジンリッキーが手元に来たので佳奈はしみじみうつむきながらすすった。
「じゃあ今は?」
「何かね・・・この年まで働いてるとつくづく思わない?女はやっぱり結婚だって。もしくは自分で何か好きな仕事してバリバリ生きるか。あるいは男社会の会社でもふんばって出世してみるか。何かね・・・私も長年広告業界いるけどつくづく男社会だなって。私なんか長年営業やってたのにクリエイティブに長年いたような年下の男の後輩がいきなりやってきて突然部長に昇格よ?ほんとやってらんないわよ。」
「まあ・・・わかるけどさ・・・」
「あんただって経理課長代理なんてやってらんないって前言ってなかった?もういい加減諦めていい人探したら?40代なら頑張れば何とか結婚できるって。まあもちろん選ばなければだけどね。あんたみたいなきつい性格の女は包容力ある年上の金持ちのおじさんなんかいいんじゃない?どのみちその年じゃ同世代の男は厳しいだろうし。」
凜子はちょっと言い方がひどすぎるんじゃないかと思ったが唯一の友であった佳奈にだけは言い返せなかった。嫌われたら唯一の友を失うからだった。ただ孤独になるのが恐かった。
「そうはいってもいい人なんかいないよ。」
「そう?お見合いパーティーとか結婚相談所なんか行けば意外といるもんよ?私も知り合いにいいイベントパーティー紹介してもらってたまたまいい人いたんだから。」
そうはいっても佳奈は実はそれなりの美人だった。超がつくほどではなかったが顔立ちはまあまあ整っていて、おまけに実家は父親が医者を開業していて金持ちのご令嬢だった。美人で家柄がよければいい年したオバサンでも結婚できるんだと改めて思い知らされた。それに比べて自分はごく普通の平凡な公務員の家庭で育ち金持ちとは程遠い環境で育った。おまけに顔も母親似で特徴のない顔立ちで個性的とは到底言えなかった。凜子は自分の顔が昔から好きではなかったので、こんな顔に産んだ親をずっと恨んでいた。
「まあ、でもその年でよく結婚できたよね?相手年下だししかも親の会社ついでるボンボンで金あるんでしょ?」
「まあね。でもそんな大きな会社じゃないけどね。でも何か年上が好きで学生時代から今までずっと年上と付き合ってきたんだって。その話聞いたら何か気を許しちゃったっていうか意気投合しちゃってさ。気づいたら半年もたたないうちに結婚してた。」
「なるほど。そりゃよござんしたね。」
何だかのろけ話を聞かされてるみたいで凜子は次第に腹が立ってきた。そしてこれ以上話を聞くのもバカバカしくなってきたのでジンライムを頼んでもう一杯飲むことにした。
「ジンライムください。」
凜子がそういうと
「私さ、もうそろそろ帰らないといけないから、酒はほどほどにしないさいよ。もう若くないんだから。」
佳奈が遮るようにそうアドバイスしてきた。
「え、もう帰るの?」
「旦那が取引先の大事なクライアントをうちに連れてくるのよ。いわゆる自宅でやる接待っていうか、おもてなしってやつ。まあ料理は簡単に作ってあるんだけどね。それに半分はケイタリンでいいっていうからさっき来る前に頼んでおいたし。じゃあね。」
「うん、じゃあね。」
佳奈はジンリッキーを最後まで飲み干すと自分の分の飲み代をバーカウンターに置いてさっさと出て行った。
一人残された凜子は何ともいえない寂しさと虚しさを感じながら一人ぽつんとその後もしばらく飲み続けた。
家路に帰る途中。凜子はあれから何だかやるせない気分になったため、その後も立て続けに一人で飲み続けて結局10杯近くも飲んでしまったのだった。まさに大酒飲みといっていいほどだった。時刻はすでに11時を過ぎていて辺りは街頭の灯りをなくせば真っ暗闇になりそうだった。もどしそうなほど気持ち悪くなりながらもなんとか家路に向かった。駅から住んでいるマンションに向かう住宅街の途中で電信柱に向かって思わず吐きそうになった。いい年したオバサンが電信柱と格闘するなんてなんともいえず情けない姿だった。人に見られるのが嫌だったので暗がりの中をせっせとマンションへと向かうことにした。
マンションのエレベーターを上っていき3階へ着くと自分の部屋のある305号室へと向かっていった。凜子は吐きそうな気分だったので一番端にはる305号室がやけにエレベーターから遠いと感じた。
そんな中、重たい足取りで部屋の真ん前までくると、ある奇妙な物体らしきものがドアの前をふさいでいることに気がついた。飲み過ぎたせいで一瞬頭が回らなくて意味不明な光景のように思えたが、そこにはたしかに動物がいた。まだ頭がボーっとしていて目の焦点があってなく一瞬気のせいだと思ったがよく目をこらしてみるとその物体は猫だと分かった。凜子は思わず目を疑った。
「猫かい?」
ネコはぎろっとこっちを見た。黒い猫だったが凜子には何の種類だか分からなかった。
「ちょっとそこどいとくれ。部屋に入りたいんだよね。」
しかし猫は一向にどこうとはしなかった。
「ちょっとどきなさいって」
そう言ったものの猫は一向に反応しない。
「にゃー」
ネコは突然鳴きだした。
「ちょっと鳴いてる場合じゃないでしょ。」
しかしネコはこっちの意向などお構いなしに睨んでくるだけだった。
「ちょっと・・・勘弁してよ。明日も早いんだから。」
凜子はただでさえ疲れている上に酔って頭がくらくらしてたのでいよいよ我慢の限界に達した。
「ちょっとおどき」
凜子はついに堪忍袋の緒が切れたので、鍵を開けてドアを手前に引いて猫を無理やりどかしてしまった。
「にゃー」
ネコはやめてくれ、と言わんばかりに大きな声で鳴いたが凜子は部屋に入りたくて仕方なかったのでお構いなしにネコをどかした。
「ごめんよ」
そう言って凜子は部屋に入っていった。電気をつけると部屋が明るくなった。玄関に入るとすぐリビングがあり、その右横にはキッチンがあった。リビングには大きなテーブルとソファーとテレビがあり、キッチンのすぐ横には小奇麗な茶色のテーブルが置いてあってそこがダイニングになっていた。しかし、ノートPCなども置いてあって仕事机にもなっていた。リビングの左横には寝室やトイレやユニットバスのシャワールームがあった。寝室にはクローゼットもついていた。いわゆる普通のマンションの間取りといってもよかった。
部屋の中は相変わらず殺伐として生活に必要な必需品以外はまったくなく仕事の書類だとかが置いてあるだけで女性の色気のようなものはまったく感じなかった。唯一女性らしさを感じるものと言えば寝室に置いてある化粧品くらいなものだった。一人部屋に帰ってくると相変わらず自分は孤独だと思った。
凜子はさっさとシャワーを浴びて髪を乾かしパジャマに着替えると、冷凍庫に入っていたグラタンを解凍した。そして昨日作ったシーザーサラダの残りも冷蔵庫から出して食べることにした。南青山のバーでも軽くスモールサイズのピザだけは食べていたのでグラタンとサラダだけでいいと思った。気持ち悪いときはあまり食べない方がいいのだろうが、シャワーを浴びたら少しだけ酔いも冷めてきたしお腹が少し減っていたのでちょうどよかった。
そしてパジャマに着替えた後ベッドにあおむけになりようやく眠りにつこうとしたときに・・・
「にゃー」
何やらネコの鳴き声がしてきた。
最初は気のせいだと思ったが、その後に何度も鳴き声が聞こえてきたのでいよいよ本物の鳴き声だと気付いた。
「何なのよ・・・」
凜子は鳴き声がうるさくてなかなか寝付けなくて寝返りをうった。
「にゃー」
また鳴き声が聞こえてきた。
次第に凜子はイライラしてきた。
どうやらドアの前にいたネコが鳴き出したようだった。
凜子はほっとけばそのうち鳴きやむだろうと放置することにしたが、一向にネコは鳴くことをやめなかった。
「ちょっといい加減にしてよ」
ついに凜子は起き上がってマンションのドアを開けた。
「いったい何時だと思ってんのよ?」
すでに時刻は夜中の1時を過ぎていた。
ドアを開けるとネコはドアの前でうずくまっていてこっちを見上げてきた。
「ご近所迷惑になるでしょ。」
凜子がそう言うと
「にゃー」
ネコはまたもや鳴きだした。
「にゃーじゃないわよ。あんたね。」
「にゃー」
またもやにゃーという鳴き声に凜子は憤りを覚えた。
「鳴きやまなかったらグーで殴るからね。今度にゃーって言ったら承知しないから。」
凜子はネコに向かって大人げなくそう言い放った。
ネコはしばらく黙っていたがやがてこっちを見てまた
「にゃー」
と言った。
凜子は大きくため息をついた。
「ちょっといい加減にしてよ。わたしもう寝たいのよ。それに隣の人にも聞こえてご近所迷惑になっちゃうでしょ。後で何か言われるの私なんだからね。」
「にゃー」
ネコはこっちのことなどお構いなしに鳴き続けた。
「次鳴いたら近くの空き地かどこかに今すぐ捨てるわよ」
凜子はネコをそう脅した。
「にゃー」
ネコはこっちの言ってることが分からないらしく、同じ鳴き声を飽きもせずにただひたすら繰り返し出し続けた。
「あんたいい根性してるわね。」
「にゃー」
「ちょっと褒めてないわよ」
凜子は呆れてそう言った。
いよいよ凜子は眠くて疲労が限界に達してきたので
「もういいわよ知らない。勝手にしなさい。」
そう言ってドアをバタンと閉めてしまった。
「にゃー」
まだ外で鳴き声が聞こえてきたが、凜子は気にせず寝床に着くことにした。
明日になればいなくなるだろう。そう思いながら・・・
凜子は翌日疲れた体を引きずって何とかオフィスについたが、生きた心地がしなかった。昨日は例のネコのせいで一睡もできなかったからだ。
「まったく何てついてない日なの・・・」
凜子はいつにもましてイライラがたまりだしてついには部下に怒鳴りだした。
「あんたね、この報告書11時までには出しとけっていったでしょ。いい?昼前までに出さないと私がチェックできないの。そうすると課長に午後提出できないし承認できないの。課長は今日午後に外出するって言ったでしょ?ほんとひとの話聞かないね。」
「申し訳ございません」
「何度も何度も言ってるけど謝ればすむ問題じゃないの。いい加減理解しなさい。私をこれ以上困らせるな。私に迷惑かけるな。私をイライラさせるな。」
凜子の怒りは絶頂に達していていつもよりもさらにヒートアップしていた。
「申し訳ございません」
部下はただひたすら申し訳なさそうに謝っていた。
「何か今日はいつにもましてキレてないか?」
「な・・・間宮のやつ可哀想」
遠くの方のデスクの経理部の若手社員たちが凜子に聞こえないようにひそひそと話している。
「もういいわ、あんたみたいなやつにこれ以上言っても仕方ないから。下がりなさい。」
「失礼いたします」
間宮と呼ばれる社員は頭を下げて意気消沈したような顔をして自分のデスクへと戻っていった。
「まったく」
両足を大きく大胆に開いて喫煙所でタバコの煙を「ぶはー」っとおおげさに外に出しながら凜子はそうつぶやいた。
「ほんと使えないやつばっか。」
凜子はそう言いながらタバコを吸い続けた。
「まさかあのネコまた今夜もいるってことないよね?」
凜子は心の中でそう思いながらもタバコの火を消して喫煙所を出て仕事に戻った。
今日は金曜日だったのだが凜子には彼氏らしき恋人もいなく友達も少なかったのでどこかへ寄ることもなく、自分の部屋のあるマンションへと一直線に帰ってきた。それに金曜日は飲み会やら合コンやらデートやらでどこもかしこもにぎやかなので、一人で飲んで帰る気分にはなれなかった。バーなら比較的静かなので落ち着くがそこもカップルが多かったのでできれば避けたかった。
凜子は恐る恐る自分の部屋の前まで向かって行った。
そしてそっとドアの前を見てみた。
しかし、ネコの姿はそこにはなかった。
凜子はほっと溜息をつきながら安心した。
「よかった」
今日は安眠できる。凜子はそう思った。
シャワーを浴びた後に、軽くペペロンチーノのパスタを作りデパ地下で買って帰ってきたツナサラダとともに食べて、しばらくリビングのソファーでドラマを見てくつろいだ後に寝ることにした。昨夜のネコの鳴き声のせいで眠たいはずなのだがなぜだか興奮して眠れなかったのでドラマを見て10時過ぎに寝ることにした。
「なんだかつまらないドラマだったね。来週は絶対みないは」
有名な俳優と女優が出ている話題のドラマだというからとりあえず見てみたがおかしな話で見るに堪えなかったので、途中でため息さえ出てきた。
「よくこんなくだらない話思いつくね。」
ドラマは何やら靴職人を目指している若者の男性とそれを応援する幼馴染の女性の物語でやがて恋に発展するというのが容易に想像つく定番なドラマなのだろうが、その男の方がどうやら極度の年増好きの性癖を抱えていて幼馴染の女性が男性に片想いしていることになかなか気づかないという不自然な設定なのだ。しかし、そのくせ年増の女とやらもなかなか出てこないし、片想いのその女性は優柔不断で他の男性と話すシーンばかりで、いったい何を伝えたいドラマなのかまるで分からなかった。有名な俳優を起用しているだけで脚本がめちゃくちゃで中身がまるでないドラマだった。
「有名な俳優使えばいいってもんじゃないだろ。」
凜子はため息がでそうにさえなりアサヒスーパードライの缶ビールを二本ほど飲んだ後にさっさと寝床につくことにした。
明日は久しぶりに週末だからゆっくり寝られる。この一時だけが今の凜子にとっては唯一の至福の時だった。
「あー疲れた」
ベッドの上に大の字になり横たわってしばらくボーっとして、使えない部下たちや、気に食わない元同僚たちや、いきなり結婚して自分を裏切った佳奈のことや、そんなことを考えておおいに物思いにふけったあとに電気を消して寝ることにした。
そして夜中にさしかかった頃・・・
「にゃー」
いきなりネコの鳴き声がどこからともなく聞こえてきた。
最初は夢の中で聞こえてきたのかと思ったが、やがてその声に誘われるように次第に目が覚めてくると凜子はその音が本物だと気がついた。
「にゃー」
凜子がすっかり目を覚ましてしまうとその鳴き声はさらにはっきりと聞こえた。
「はー」
凜子はまたか、と思わずため息が出てきた。
凜子がドアを開けるとやはりそこには昨日のネコがいた。
「またあんたね・・・」
「にゃー」
ネコはそう鳴いた後にあくびをしながら凜子を見上げてきた。
「あくびしたいのはこっちだよ、まったく」
時刻はすでに夜中の3時くらいになっていた。
「何時だと思ってんのよ」
自分は一体なぜ夜中の3時に自分の部屋のドアの前でネコと格闘してなければいけないのか?わけがまったく分からなかった。
「にゃー」
ネコが鳴きやみそうになかったので凜子はいよいよ
「もう我慢の限界だは・・・あんたを空地に連れてく。」
凜子はネコを睨みつけながらそう言った。
ちょうど凜子の住むマンションの近くに一軒屋を取り壊したばかりの空き地があったので、凜子はそこにネコを連れてくことを思いついた。というか実質捨てるのと同じような意味だった。
凜子はよーし、という感じでネコを抱き上げようとすると
「にゃー」
と言いながらネコはするりと凜子の手を交わした。
「ちょっと・・・」
ネコは意外と素早く凜子からいとも簡単に逃げた。
「いい加減にしてよ」
もう一度凜子がネコを掴もうとするとまたもやするりと間をくぐるように凜子の反対側へと走り去っていった。
「あんた意外と素早いわね。」
凜子はもうこうなったら本気を出すしかないと思い鷲掴みするかのようにネコに襲いかかろうとした。そうするとネコは凜子が恐かったのか急に走りだして逃げていった。
「ちょっと待ちなさい」
ネコは5mほど先の隣の部屋のドアの前まで逃げていってしまった。
「ちょっとそこ違う人の部屋よ・・・」
凜子はそーっとネコに近づこうとするとネコはちょっとずつ凜子から離れて逃げようとしてた。しかし、次第に凜子はあることに気づいた。
ネコは歩きながら何やら足を引きづっているようだった。それはよく見ると足にけがをしているようだった。
「あんたケガしてんの?」
「にゃー」
そうだよ、と言わんばかりにネコは鳴いた。
「まったく・・・」
ネコはケガを負っていて誰か人間に手当をしてほしいから鳴いていたのだろうか?
「でも、私はあんたの飼い主じゃないから知ったことじゃないわよ。」
ケガのことは可哀想だか凜子は眠すぎて自分がいち早く寝床につきたかったので、そういって凜子はネコを再びつかもうとするとさっきよりもやや早いスピードで足を引きずりながらも走り去っていってしまった。
「ちょっと・・・」
凜子はそう言いながら走り去っていなくなってしまったネコの方向を見た。どうやら階段の方まで走っていったようだった。少しだけ心配になったが、凜子はこれでようやく眠れると思って自分の勝利を確信した。
そして凜子はようやく気持ちよく寝床につくことができた。
翌日凜子が目を覚ますとすでに11時くらいになっていた。
「あー寝過ぎたか。」
もうこんな時間か、と思ったが、二夜連続で夜中にネコと格闘したせいで睡眠不足だったので仕方ないとも思った。
パジャマを脱いで着替えたらお腹が少し減っていたので、さとうのご飯をレンジでチンしてご飯と玉子焼きとインスタントの味噌汁を軽く食べた。夕飯の買い出しにでもいくか、と思い髪の毛を少しセットして軽く化粧をした後にマンションを出ようとした。すると、ドアの前であのネコが倒れていることに気づいた。よく見ると足から血が出ていた。そして向こうの階段の方からずっと血がポタポタと垂れた跡のようなものが残っているのも見えた。
「ちょっとあんたどうしたの?」
凜子は慌てて声をかけた。
ネコはもはや気力もないという感じでにゃーとも言わなかった。
「何でケガしたの?」
凜子は慌てて血の跡を追ってフロアの階段の方へ行ってみた。すると2階へと続く踊り場のような場所で大きな血の跡のようなものがあるのに気が付いた。
ネコは昨夜足を引きずりながら階段を降りて行こうとして足を滑らせてケガをしたのかもしれないと思った。
凜子はまたもや慌てて自室の前まで行きネコを再びみた。
「あんた大丈夫?」
そう話しかけたがネコはうんともすんとも言わなかった。
「まさか出血多量で死んだんじゃ?」
ネコは犬と違って体が柔らかいので飛んだり跳ねたりする生き物で、階段なんてひとっ跳びで降りられるのかと思っていたが、足の骨を折っていたため降りれなかったのだろうか?そして昨日は凜子が捕まえようと追いかけたのでビックリして慌てて逃げたために階段で足を滑らせてしまったのかもしれない。
「ちょっとこんなところで死なれたら縁起が悪いじゃない。」
凜子は仕方ないという感じで近くの動物病院までネコを連れていくことにした。
「軽く止血しときました。出血がややひどかったので一応念のため点滴もしておきました。」
近所にある動物病院に凜子はネコを連れて行き、そしてそこにいた獣医がそう説明した。
「そうですか、じゃあ無事なんですね?」
「はい、大丈夫ですよ。ですがね・・・」
「ですが・・・?」
獣医はちょっとだけ深刻な面持ちをしながら
「軽く骨折しているのでギブスを着用してしばらく通院してください。」
と凜子に言ってきた。
「え?通院ですか?ギブス?」
「まあ・・・そんな大げさに考えずに。犬と違ってネコの骨折は治癒がものすごい早いですから。2ヶ月くらい通院していただければ大丈夫ですよ。」
獣医に笑顔でそのように言われても、飼い主でもない凜子がなぜ野良猫の世話をしなければいけないのか。やっと解放されたかと思ったら、こんどは通院?何でこんな目に遭わなければいけないのか?それに一体いくらかかるのだ?動物は保険がきかないのか加入していても治療費が莫大とかそんな話をペットを飼っている知り合いから聞かされたことがあったので、最低でも10万くらいだろうか?と思ったりした。もしそうなら痛い出費だ。こんなことならあのまま見捨てればよかった。どうせあのままほっといてもマンションの管理人か誰かがどの道何とかしてくれただろう。自分の出る幕じゃなかった、と今更ながら思った。
凜子はネコを助けたことをおおいに後悔した。
「今ギブスを巻いているところですからしばらくお待ちくださいね。」
そう言われて10分ほど待合室で凜子は待たされると、左後ろ足にギブスをぐるぐる巻きにされているネコがやってきた。
「はい、お待たせしました。」
獣医のアシスタントなのか看護師なのかよく分からない女の人がそういってネコを凜子に丁寧に手渡ししてきた。
「はい、ネコちゃんですよ。」
大のネコ好きなのか女性は満面の笑みだった。
「にゃー」
久しぶりにネコは鳴いた。やっと元気になったようだった。
「お名前はなんていうんですか?」
「あ・・・いや・・・その・・・」
とっさにそう聞かれた凜子は困ってしまった。まさか飼い主ではないとも言えなかった。そう言えたとしても事情を説明するのがとても面倒だった。夜中にマンションのドアの前に偶然ネコがいてたまたまケガをしていたから助けたなんて世にも奇妙な話をどうやって説明すればいいのだろうか?
アシスタントの女性が不思議そうな顔をしていたので
「メアリーです」
ととっさに凜子は嘘をついてしまった。
「メアリー?」
アシスタントの女性はますます不思議そうな顔をした。
「何か?」
凜子は何がおかしいのかと思って思わず聞いてしまった。
「え・・・だってさっき見えましたよ・・・ついてるのが・・・」
「ついてる?」
それはオスの性器のことだろうか?
凜子はそんなものついていたっけ?と思ったが
「さっきおしっこしてるときに見えたんですよ、その・・・ついてるのが」
やはりペニスのことらしい。凜子はそう思った。
「いや・・・うちはそういう性別とか気にしない主義なんですよ。オスでもこの子の雰囲気が何となくメアリーみたいな感じだったものですから。」
凜子はとっさに笑いながら冗談っぽくそういった。
「そうなんですね。ユニークでいいですね。」
アシスタントの女性も不思議そうに笑いながらそう言った。
「はい」
凜子はなぜだかその場で赤面しそうになってしまった。
お前のせいで恥をかいたじゃないか、と凜子は思いながらもネコを受け取ってマンションの自室まで戻ることにした。
「まったくお前のせいで恥かいたじゃないか・・・」
凜子は仕方なくネコをリビングのソファーにそっと置いた。
「どうしてくれんのよ」
凜子がネコに向かってそう言うと
「にゃー」
と相変わらずにゃーしか返事をしない。
「はーこれからどうすんのよ・・・」
凜子は自分のせいでネコがけがをしたと思い責任を感じて仕方なく病院へ連れていったのだが、骨折のことまで責任を取らされるのはたまったもんじゃないと思った。しかも治療費も莫大にかかるのかもしれない。そもそも今思えば足を引きずってあのマンションの三階までこのネコはよく上ってこれたもんだ。三階の自分の部屋の前まで来たら力尽きてしまったのだろうか?そもそもこのネコはどこからどうやって来てなぜうちのマンションに来たのだろうか?なぜよりによって自分の部屋の前にいたのだろうか?しかも医者の話だと「比較的軽い骨折なので2ヶ月ほどで治癒するはずです。」とは言っていたもののその間自分がこのネコの面倒を見なければいけなくなってしまった。
「しかもお前野良猫だったのか?どこを歩いてたかも分からないから汚いよね。」
誰かが飼っていたのならまだマシだがどこをほっつき歩いてたかも分からないような小汚いノラを自室で飼うなんて許しがたいことだった。おまけにここはマンションの規定でペットを飼うことは禁止になっていた。
「マンションの管理人から何か言われたらお前のせいだよ?」
凜子はそう言った。
今すぐにでも空地に捨ててやりたかったが、見捨てたらこのネコは大変なことになるのが分かっていたので仕方なく断念することにした。
「しょうがないからバレないようにうまくやるからお前もやたらめったら鳴くんじゃないよ?外に聞こえるから。」
「にゃー」
「だから鳴くなっつーの」
「にゃー」
凜子はため息をつきたくなった。
「しかし、お前名前なんていうのよ?」
「にゃー」
「にゃー、じゃなくてさ・・・」
凜子はもうどうでもいいという感じで
「じゃあしばらくメアリーでいい?何か今いいの思いつかないからさ」
と言うと
「にゃー」
と返事をしたので、メアリーでどうやら承諾したようだった。
「でも、骨折が治るまでだからね?治ったら出てってもらうよ?」
凜子はネコ騒動で疲れていたので、その日の夕飯は軽く冷凍のチャーハンと餃子をフライパンで炒めて食べた。夕飯後にまたスーパードライの缶ビールを何本か飲んでいるととっさに
「そういや、ネコって何食べんの?」
と疑問に思った。凜子はネコなど飼ったことがないからまるで分からなかった。そもそもペット自体飼ったことすらなかった。親がアレルギー体質で犬やらネコやらは大の苦手だったので子供の頃に家で飼わせてもらえなかったからだった。最初は小学校の友達などがペットを飼い始めてから自慢しだして、自分も飼いたいと親にだだをこねたこともあったが、親はいつも怪訝そうな顔をしたので次第に凜子も犬やらネコやらを飼うことに興味もなくなっていった。
「まあ、魚とかキャットフードだろうな・・・」
とは言ってももう夜の時間帯だしビールも飲んでしまって少しほろ酔いしていたし、駅前にあるペットショップまで行くのも億劫だった。
とりあえず非常食用のツナ缶が戸棚の奥のどこかにしまってあるはずだった。
凜子は何とかそれらを探し出して新聞紙を広げて分厚く重ねた上に、ツナの缶詰を置いた。するとメアリーは一目散にそこへ向かっていってむしゃぶりつくように食べた。
「お腹すいてたんだね・・・」
凜子がそう言っていると、メアリーはあっという間にツナ缶の中身を全部食べてしまった。
「ちょっとお前早食いし過ぎ」
「にゃー」
と言ってメアリーは凜子を見上げてきた。
「何?まさかまだほしいってか?」
メアリーはさらにツナ缶を要求しているようだった。
「ちょい待ち」
凜子はさらにツナ缶を持ってきて一つ与えるとそれもあっという間に平らげてしまった。
「おい、よっぽどお腹すいてんだな。」
「にゃー」
とさらにツナ缶を要求してきたので仕方なくもう一缶与えるとメアリーはまたもや一瞬で食べつくしてしまった。
どうやら満足したようでそれ以上メアリーは「にゃー」とは言わなかった。
非常食用にたくさん買ってあったのにこれではあっという間にメアリーに平らげられてしまう。
「まったくまた買ってこなきゃ」
そうはいってもツナ缶は人間の食べ物だし毎回買っていたら出費がかかるので、明日ペットショップに行って何かよさげなキャットフードを買ってくることにした。
そして凜子がそのようなことを考えていたら、気づくとメアリーが床にオシッコのようなものをしているようだった。
床がびしょびしょになっていた。
「ちょっと何これ?まさかオシッコ?勘弁してよ。」
ネコのオシッコなど片付けたことがなかったのでどうすればいいか分からなかったが、とりあえずトイレットペーパーで拭いた後に消臭スプレーをかけて、またペーパーで軽くふいた。
「まったく・・・何で私がこんなこと・・・」
凜子はため息をまたついた。
明日ペットショップでついでにネコ用のトイレのことなども聞こう。凜子はそう思った。
次の日の日曜日、凜子は駅前のペットショップに行き、店員にネコにちょうどいいキャットフードやトイレグッズなどを教えてもらい一通り買った。そしてツナ缶などは人間の食べ物で塩分が多すぎてネコの体に悪いのであげないでください、と教えてもらった。そしてネコは水をたくさん飲むので水飲み用の皿もついで買うことにした。
さらに、ネコはミルクも好きだが市販の牛乳は人間用なのでネコが飲むと下痢をしてしまうと言われたので、ミルクを与えるならネコ用のを買ってくださいとも教えられた。
「まったくかなりの出費よ」
凜子はそう言いながらもネコグッズ一式を買ってマンションの部屋に持ち帰った。
そんなこんなであっという間に一週間がたった。
最初はメアリーの食事の時間を忘れてしまったり、トイレの排泄物の後片付けに手間取ったりもしたが、徐々にメアリーとの共同生活にも慣れてきた。ペットショップの店員の話によれば、そもそも犬と違ってネコはトレイのしつけをあまりしなくても自然とできるようになるらしいとのことだった。それに散歩もいかなくていいし犬と違ってほっといても大丈夫なので大分楽だと思った。仕事で忙しい凜子にとってはそれはありがたかった。週末に時々骨折の通院に行かなければいけないのが多少面倒だったが、それもだんだんと慣れてきた。
そして凜子とメアリーの不思議な共同生活も気づけば2ヶ月たっていて、メアリーの骨折も大分よくなりギブスも外されほとんど普通に歩けるようにまで回復していた。
「あんた大分元気になったね・・・よかったじゃん。」
凜子はメアリーにそう言うと
「にゃー」
と返事が返ってきた。「そうだよ」とか「ありがとう」とでも言っているのだろうか?
最初はどうなることかと思ったが、これでやっとメアリーから解放されると思った。
「元気になったんだからもうあんた一人で平気よね?」
凜子はそうつぶやくように言った。
しかし、いざメアリーをマンションから追い出すとなるといったいどうすればいいのか分からなくなった。最初はただの小汚い野良猫だと思っていたが、2ヶ月も一緒に住んでいるとさすがに感慨深いものもあって空地にぽいと捨ててしまうわけにもいかなくなった。
「どうしたもんか・・・」
凜子はほとほと困り果ててしまった。
そんな中また一週間ほど立ち、週末の土曜日に昼食を食べに駅前のレストランに凜子は行った。軽くイタリアンやフレンチの軽食を食べられるこじんまりとした個人経営のレストランだった。そこで凜子はフランスパンとクラムチャウダーを頼んで食べた。食べ終わった後にコーヒーを一杯頼んで自宅に帰ることにした。そして自宅へ帰る途中にマンションの近くの住宅街でふと電信柱や壁などに奇妙な絵のポスターが貼ってあることに気が付いた。最初はへんてこりんな絵だったのでそれが何なのか分からなかったが、どうやら黒いネコのようだった。
「ネコをさがしています」
と絵の下に字が書かれていた。
「大きさは中くらいでくろいネコでみみはたってます。男の子です。」
と書かれていた。
平仮名が多い上に字も汚く子供が書いたような感じだった。その絵も汚くクレヨンか色鉛筆などで描かれているようだった。その絵のネコをよくじっと見るとメアリーに見えなくもなかった。凜子はひょっとしたらと思った。
「これってメアリーのことかい?」
どうやらその黒猫を探したらうちまで届けてほしいとのことでそのアパートの住所が一番下に書かれていた。子供が書いたのか住所が平仮名で書かれていて読みづらかったが何とか解読できた。
「小和田町の三丁目か・・・」
すぐ隣の近所だった。
「そっかこれだ・・・」
凜子はやっと飼い主が見つかったと思った。この偶然に感謝するべきだと思い、そしてそのことに大いに喜んだ。
しかし、今日は会社の仕事を自宅でやる予定で忙しかったのでそのアパートへは明日行くことにした。
夕飯を食べた後にダイニングテーブルでノートPCを広げながら凜子は仕事をしていると、てくてくと床を歩くメアリーが視界に入ってきた。
「あんたもこれで飼い主のところへようやく帰れるね。」
そう言ってもメアリーはまったく無反応だった。
「なんだ、嬉しくないのかい?」
メアリーはまたもや無反応だった。
「あーそーかい。可愛げがないねー。人がせっかく見つけてやったのに。」
メアリーはとぼとぼとリビングの方へ歩いていったかと思ったらソファーの横に置いてある皿に入った水を飲みに行った。
「まったく」
凜子はそう言いながらまたノートPCに向かって仕事を始めた。四半期ごとの決算の時期なので経理部は大いに忙しく週末も仕事を自宅に持ち帰っているのだった。
明日メアリーを飼い主の家まで届ける。やっとネコの面倒から解放されて自由になれる。しかし、凜子は嬉しいはずだったのになぜだか悲しいような寂しいようなそんな感情が自分の心の中に芽生えていることに気がついた。しかし、凜子はプライドが高いのでそんなことは絶対に認めたくなかった。そして、その感情を心の奥底に押し込めて気づかない振りをした。
翌日の日曜日、凜子はメアリーを籠に乗せて抱きかかえながらその飼い主のいるアパートへと向かって行った。近所なのでそう遠くはないはずだった。ポスターに書いてあった住所を書き写したメモを見ながらアパートの場所を丁寧に探しまわった。少し探したがやがて見つかった。
そこは軽く築20年以上は立っていそうな古い感じのボロアパートだった。そこの204号室とのことだった。どうやら飼い主は野上さんという人らしかった。
エレベーターもなかったのでメアリーを抱きかかえながら階段を上っていき204号室の前まで凜子はたどり着いた。
「ここか」
籠から飛び出して落ちないようにメアリーを手で押さえながら慎重に階段を上ったので凜子は少し冷や汗をかいてしまっていた。
「えっと・・・野上佳代子・・・ここだ」
ぴーんぽーん
凜子はブザーを鳴らした。
しばらくしても誰も出てこないのでもう一度鳴らしてみた。
「はーい」
どうやら子供の声のようだった。
ガチャっとドアは開いた。
そこには小学生くらいの小さな男の子が立っていた。
「こんにちは」
凜子は挨拶した。
「こんにちは」
男の子も挨拶をしてきた。
「はじめまして、わたし林凜子っていうものなんですけどね・・・この猫オタクのじゃないかと思って・・・ごめんなさいね、突然お邪魔しちゃって。あやしいもんじゃないんですよ。おたくがポスター貼ってたでしょ?黒猫を探してるって。」
そう言いながら凜子は籠の中にいるメアリーを少年に見せた。
「あ、ミルク!」
少年はメアリーを抱きかかえるようにしてそう言った。
「にゃー」
久しぶりにご主人と会えてメアリーは大いに喜んでいるようだった。
「そのネコ、ミルクっていうの?」
「そうだよ、僕が名前つけたの」
どうやら先約ですでに名前がついているようだった。メアリーという名前は一時お預けになるかもしれないと凜子は思った。
「ありがとうおばちゃん!」
おばちゃんという呼ばれ方は気に障ったがお礼をちゃんと言ってきたので小さい割には律儀な子だと思った。
「でも、どこにいたの?」
少年はそう聞いてきた。
「まあ・・・話すと長くなるんだけどさ・・・まあわたしんちの前にいたんだよ。ケガしてたからほってけなくてさ・・・」
凜子は何となくそう説明した。
「ふーん」
少年は不思議そうにそう言った。
「でもさ、このミルクっていうのかい?何で捨てられてたのさ?」
「うーん、お母さんがね・・・捨てたの」
「お母さんが?」
「うん」
何やら事情が込み入っているようだった。
「ミルクはね・・・僕が勝手に拾ってきたから・・・だからお母さんはずっと反対してたの。このアパートはネコ飼えないんだって。」
「なるほどね・・・そうなんだ」
ようやく話がつながったと凜子は思った。でもそうなるとまた疑問がわく。
「でもそれで何でまた探してたんだい?アパートじゃ飼えないんだろ?お母さんにまた捨てられちゃうでしょ?」
「うん・・・」
少年はどうやら考え込んでいるようだった。凜子は不思議そうに少年をみた。
「どうして?」
少年はまだ考え込んでいるようだった。どう説明したらいいのか頭の中を自分なりに一生懸命整理しているようだった。
「分かんない」
「分かんないって・・・」
答えを待っていたのに返ってきた返答がそれか・・・
「でも・・・またミルクに会いたかったから」
少年のまっすぐなその言葉に凜子は少しだけ胸を打たれてしまった。お母さんが勝手に捨てたネコにまた会いたい一心で頑張ってポスターを描いてあちこちに貼ったのか。健気だった。
「そっか・・・」
凜子はそうつぶやいた。
「でも、じゃあどうすんのさ・・・アパートで飼えないなら」
「分かんない」
少年はまた少し考え込んだ後にそう言った。
「分かんないってさ・・・はるばる来たのに・・・」
「ごめんなさい」
少年はすぐにそう謝った。
「別に謝ることじゃないけどね」
「おばちゃんが飼ってもらえないですか?」
「ちょっと待ってよ。それじゃここまで来た意味ないじゃないの」
それに凜子のマンションもペットは禁止なのだった。
凜子ははーっとため息をついた。これじゃまた逆戻りだった。
「お願いおばちゃん!おばちゃん家に預けてもらえない?僕もたまにミルクに会いに行くから」
「お願いって言われてもね。うちもペット禁止なんだよ」
「禁止って?」
「ペットを飼っちゃダメってこと」
「えー」
少年はだだをこねるようにそう言った。
「無理なものは無理」
凜子はそうきっぱり断るように言った。
「じゃあミルクはどうすればいいの?捨てるの?」
「捨てるって人聞き悪いな・・・」
まるで自分が悪人のような扱いをされているみたいで凜子はとたんにバツが悪くなった。
「おばちゃんミルクを捨てるの?」
「ちょっとそうじゃないってば」
「うー」
少年はうなるようにそう言った。
「困ったな」
凜子はほとほと困り果ててしまった。このままミルクをこのアパートに置いてさっさと立ち去りたかったが、そうもいかなくなってしまった。
「おばちゃんの意地悪」
「ちょっと意地悪って何よ。それとおばちゃんじゃなくて私は凜子っていうの。ちゃんと名前で呼んでよね。」
「名前で呼んだら預かってもらえる?」
中々知恵の働く少年のようだった。
「そういう問題じゃないでしょ」
「うー」
また少年はだだをこねるようにうめいた。
いよいよ凜子も我慢の限界が来て妥協案を提案してみることにした。
「わかったわかった・・・それじゃあね・・・」
「それじゃあ?」
少年は疑るように聞いてきた。
「ミルクの里親を探しましょう。」
「里親って?」
「誰かネコ好きの人で飼ってくれる人を探すの。それまでは私が預かってあげる。それでどう?」
「うーん」
少年は考え込んでいるようだった。
「どの道それしかないよ。」
凜子がそう言うと少年もこくんとうなずいてようやく納得したようだった。
「分かった。そうする」
「OK。これで問題解決だね」
「飼ってくれる人って誰?いつ探してくれるの?」
「それはまだ分からないけど、私が調べるから大丈夫」
「うーん」
少年は何やら不安そうだった。
「まあ、また何かあれば連絡するから。電話番号教えて。」
少年はちょっと考え込んだあとに何かを思い出してアパートの中に入っていった。
「これ番号」
そう言うと電話番号の書いてあるメモ帳みたいなのを取ってきたようだった。どうやら人に聞かれたらこの番号を言いなさいとお母さんに言われているようだった。
「ありがとね」
凜子はその番号を自分のスマートフォンに登録しようとした。
「野上さんでいいんだよね?あと君の名前は?」
「僕の名前?」
「そう・・・」
「清太(きよた)だよ」
「清太君ね。了解。」
そう言って凜子は野上清太の名前と電話番号をスマートフォンに登録した。
「いつ頃電話すればいいの?平日?それとも週末?」
「分からない」
と少年が言うと凜子は
「じゃあ日曜日の今くらいの時間なら君は家にいるの?」
と聞いてみた。
「うんいるよ」
「あ・・・でもご両親が知っちゃったらまずいよね?お父さんやお母さんって土日家にいるの?」
「いないよ、仕事だから」
土日に両親が二人ともいない?なんだか変だと思ったので
「あれお母さんも土日に働いてるのかい?」
と凜子は聞いた。
「お母さんが働いてるの」
「お父さんは?」
「いないよ、もう死んじゃったから」
と少年はそっけなく言った。何だか聞いてはいけないことを聞いてしまったようだっった。
「あ、そう・・・ごめんなさいね。」
「ごめんなさい?」
少年は凜子が謝った意味が分からないようだった。
「いや、何でもないわ。」
凜子は一呼吸おいて
「まあ、じゃあとりあえずまた何か決まったら連絡するから。」
少年がちゃんと電話に出てくれるのかは謎だったが、でなかったらまた直接このアパートに来ればいいかとも思った。
「じゃあねぼうや」
「僕、清太だよ」
「わかったわよ、清太くん」
凜子のことはおばちゃんと呼ぶのに自分はぼうやと呼ばれたくないらしい。なかなか難しい少年だ。とりあえず用は済んだので凜子はまたメアリーを連れて自分のマンションに戻ることにした。
「じゃあね清太くん」
「じゃあねおばちゃん」
自宅に帰ると凜子は何やら面倒なことに巻き込まれてしまったとため息をつきたくなった。もとはと言えばあの時病院なんかに連れてってしまったが運のつきで、それがすべての始まりだったともいえる。
「やれやれ」
ソファーにどすんと座りながら凜子はそう言った。
「あんたもたらい回しにされて色々と大変だね」
ネコに振り回される自分も可哀想だったがこの先どうなるか分からないメアリーの運命も可哀想だった。
「にゃー」
メアリーは凜子に向かって鳴きだした。助けて、と訴えかけているようにも思えた。
凜子は平日は仕事で多忙だったので、メアリーの里親探しは次の週末にすることにした。そもそもネコの里親なんてほんとに見つかるのか?なんの知識もないのでとりあえずネットだと一番手軽に調べられると思い「ネコ 里親探し」で検索をかけてみた。すると意外にもいろんなネコの里親探しのためのサイトがヒットした。実にいろいろな団体がそのような里親探しのためのサイトを運営しているようだった。
あるサイトのホームページを見た感じではそこの団体は「何らかの事情でネコを飼えなくなった人」や「飼い主のいないネコを一時的に飼っている人」と「ネコの里親になりたい人」をつなぐサービスを運営しているようだった。また、そのサイトによれば里親が見つからなくてやむを得ず殺処分されているネコが年間何万匹もいるとのことだった。
「ひどい話だわ。」
凜子はサイトを見ながらもはや世も末だという感じでそう呟いた。
凜子は考えてる場合じゃないとふと我に返り、さっそくよさげなサイトに登録して、メアリーの里親になってくれる人を探すために募集をかけてみることにした。
「見つかるといいね、メアリー」
凜子はそう言ったが、メアリーはまるで無関心のようにそっけなくそっぽを向いた。
「ったくあんたのことなんだかんね?」
凜子はそう言いた。
しかし、もし見つからなかったらほんとにどうしようかとも思った。保健所などへいって殺処分されてしまうのだろうか?それだけは避けたかった。
そしてそれからあっという間に一か月ほど立ったが、いまだにメアリーの里親は見つかっていなかった。一度メアリーの里親になりたいとコンタクトを取って来た人がいたが、「やはり他のネコに決めました」と連絡が来たため急遽キャンセルになってしまった。里親探しもなかなか簡単にはうまくいかないらしい。やはり里親探しといっても需要と供給があるらしくて人気のネコはさっさと里親に引き取られるが、人気のないネコはいつまでもサイトに登録されたまま取り残されていた。
「決まったネコが誰なんか知らないけどあんたの方が絶対可愛いのにね。わかんない里親だね。後できっと後悔するよ。」
凜子はメアリーに向かってそう言った。
昔の凜子だったらこんなことで一喜一憂することはまずなかったが、メアリーとの共同生活もだんだんと長くなってきてネコに愛着がわいてきてしまっているようだった。メアリーの運命は今自分が握っているのだと思ったら、いつまでも里親が見つからないのが気が気でなかった。
「思ったよりもなかなか難しいもんだね。まあ、世の中こんなもんだ。」
世の中思い通りにはならない。凜子が自分の人生から嫌というほど学んでいた教訓だった。
「でも、あんた負けちゃだめだよ?」
凜子はまるで自分にも言い聞かせているかのようにメアリーのそう言った。
そしてまた一週間が立ちそれでも里親がなかなか見つからなかったので、さすがに凜子もそろそろマンションの管理人にばれはしないかと段々と焦ってきていた。
それはそうととりあえず途中経過を報告しようと清太に電話をすることにした。
「もしもし、野上です」
少年の声が電話越しに聞こえてきた。おそらく清太だろう。
「もしもし、清太くん?わたしよ・・・凜子おばちゃんです。」
「凜子・・・?誰?」
誰ってことないだろ?もう名前忘れたのか?凜子は少し呆れてしまった。
「あのね・・・この前ミルクをそちらのアパートに連れて行ったおばちゃんです。」
凜子がそう説明すると
「あ・・・おばちゃん」
とやっと話が通じたようだった。
「元気?」
「うん・・・元気だよ。まあ、それはそうとさ・・・ミルクのことだけどさ・・・」
「あ・・・ミルク元気?」
「まあ・・・元気よ。」
「あ・・・飼ってくれる人は?」
突然思い出したように清太が聞いてきた。だからそれを今説明しようとしてたんでしょうが・・・子供は話があっちこっちに飛んで訳がわからない。自分に子供がいない凜子にとってはそれが不可解だった。子供ってみんなこんな感じなんだろうか?
「それがね・・・まだ見つかってないのよ・・・あのね・・・」
凜子が中々里親が見つからない事情を説明しようとしたら
「え?じゃあまだミルクおばちゃんちにいるの?」
また話が飛んだ。やれやれ・・・凜子は次第に苛立ってきた。しかし子供相手に怒るのは大人げないと思って抑えた。
「そうだよいるよ。」
「え・・・じゃあ今度の土曜日おばちゃんちいっていい?」
「え・・・なんだい急に?」
「え・・・だって行っていいって言ってたじゃん」
そんなこと言ったっけ?そう言えば清太はメアリーに会いに遊びに来たいとは言っていたような気がするけど、承諾した覚えはなかった。
「え・・・そうだっけ?」
「じゃあ・・・決まりね」
決まりって何が?来るの?うちに?
「あ・・・」
清太は急に何かを思い出したようにそう言った。
「でもおばちゃんちどこか知らないや」
やれやれ、と凜子は思った。
「分かったわ今度の土曜日ね・・・清太くんのアパートまで迎えに行ってあげるから」
「ほんと?ありがとおばちゃん」
「うんまあ・・・そうだな・・・昼の1時くらいにはいくから待ってて」
「うん分かった」
「それじゃあね」
そう言って凜子はちゃんと伝わっただろうかと心配になりながらも電話を切った。
次の土曜の一時頃に凜子が清太のアパートまで迎えに行くと待ってましたとばかりに清太はドアの外に飛び出してきた。
「おばちゃんこんにちは」
「こんにちは」
そう言って二人は凜子のマンションの方へ向かった。
隣近所なので歩いて5分もかからない距離だった。
そしてあっという間にマンションについた。
「え、ここがおばちゃんち?でかいね!」
どうやらこのマンション全部が凜子の家だと思ったようだった。
可愛いボケに少しだけおかしくて笑いそうになってしまった。
「違うよ部屋が別々にあるの。ここはマンションだから」
「マンション?」
「そうマンション」
といっても小さい子に意味が分かるのか謎だった。そもそもこの子は何歳くらいなんだろうか?5歳から7歳くらいには見えたが聞かないと分からなかった。
「清太くんって何歳なの?」
「僕?6歳だよ。」
やはりそうだった。凜子の勘は当たっていた。
「じゃあ小学校一年生?」
「うん」
なるほど、と思った。なら平日は学校に行ってるのか。
そんな会話をやり取りしながら二人はエレベーターに乗り凜子の部屋のある305号室の前まで来た。
「ここが私の家よ」
そう言って凜子はドアを開けた。
「さあどうぞ」
「おじゃましまーす」
親の教育がちゃんと行き届いているのか一年生の割にはちゃんと挨拶はできているようだった。
「どうぞどうぞ」
清太は凜子のマンションの中へ入っていくと
「わーけっこうひろーい」
びっくりしたようにそう言った。
自分の年収ではこれくらいの広さの賃貸マンションに住むのがやっとだったので、もっと成功している人からしてみればちんけなマンションだと思っていた。しかし、清太が住んでいるあのボロアパートに比べれば十分すぎるくらいの広さなのだろう。
「まあ別に広かないよ」
少しだけ照れるように凜子はそう言った。
「そこにソファーあるからくつろいでて。今紅茶だしたげるから」
「ありがとうおばちゃん」
「いえいえ」
清太は言われた通りリビングのソファーに腰かけた。
するとキッチンの横の方でうとうとと眠っていたメアリーが突然目を覚まして清太の方へと向かっていった。
「あ、ミルク!」
ミルクことメアリーが自分の足元に方へやって来たので清太は大喜びした。
清太は久しぶりにミルクと会えて心底喜んでいるようで抱きかかえてなでなでしたり、持ち上げて高い高いをしたりしていた。ミルク自身が喜んでいるかは分からなかったが、子供とネコが戯れる姿はとても微笑ましい光景だった。
「ミルク元気だった?」
清太がそう言うと
「にゃー」
とミルクは鳴いた。
「どうぞ」
凜子はソファーの前のテーブルに紅茶を置いて清太に差し出した。
「ありがとうございます」
清太はそう言ってちょっとだけ紅茶を飲んだ。
小学校一年生ならジュースの方がいいかと思ったが、最近買い物にいってないので紅茶のティーバッグしか置いてなかった。
「おいしい?」
と凜子は聞いてみたら
「おいしい」
と清太が言ったので凜子は一安心した。
「よかった」
しばらく清太はミルクと遊んで大いに楽しいひとときを過ごしているようだった。その光景をみていると凜子はなぜだか微笑ましくなった。こんなに穏やかな気分になったのは久しぶりだった。
「そういえばさ・・・何でミルクっていうの?」
凜子はとっさに疑問に思ってそう聞いてみた。
「うーんと・・・忘れた」
「忘れたって・・・だって自分で名前つけたんじゃないの?」
「うーんそうだけど・・・」
清太はまた何やら考え込んでいるらしい。ときどき頭の中を整理しだすととこうなる子らしい。
「あ・・・」
何かを思い出したようだった。
「ミルクはね・・・ミルクが大好物なの」
清太はミルクと鼻をこすったりしながらじゃれあいながらそう言った。
「へーミルクが好きなんかい。」
「そうだよ・・・ネコは好きみたい」
「まあ・・・そうかもね。」
確かにネコはミルクを飲むというのは聞いたことがある。しかし、ミルクと聞いてペットショップの店員から教えてもらった話を凜子はとっさに思い出した。
「ミルクっておうちにある牛乳?」
「うん・・・多分」
「それは多分体によくないよ・・・人間の飲む牛乳はよくないんだってさ・・・ネコの体に。」
「え・・・体って?体によくないって何?」
何やら意味が通じてないようだった。どう説明すればいいのか分からなかった。
「まあ・・・お腹とかをこわしちゃうってことだよ」
「ふーん」
清太は納得したようなしてないような表情を見せると、そんなことどうでもいいという感じでまたネコとじゃれあった。
「しばらく遊んでるかい?私は仕事あるから好きなだけ遊んでな・・・」
「うん・・・ありがとおばちゃん」
清太は時々わがままだったり何を考えてるのか分からない不思議なところもあったが、親のしつけがいいのか普段はとても素直でいい子だった。少なくともいじめっ子にはなるようなタイプではなさそうだった。それだけに会社で人生がうまくいかないイライラを部下にぶつけるような自分が少しだけ情けなくなってきた。いくら使えない部下だらけとはいえいささかやりすぎている自分にも実は気が付いていた。しかし、一度そういう印象がついてしまっているともはや歯止めがきかなくなってくるというか、やめようがなくなってしまっていた。それに男社会のIT企業で女の管理職というと少なくとも毅然とした態度をとらないとなめられてしまうという理由もあった。そういうこともありもはや自分はパワハラをする意地悪お局という称号を社内で与えられてしまっているのかもしれなかった。少なくともそういうポジションにいた。
凜子は2時間ほどテーブルでノートPCを開いて仕事をしていると、清太は少し飽きたらしくて
「ねえおばちゃんお腹すいた」
と言ってきた。
時間は3時半を過ぎていてちょうどおやつの時間だった。
と言ってもお菓子などおいてなかった。週末によく食べるバームクーヘンがキッチンに置いてあったが、それは自分の好物だったのであまりあげたくなかった。
「ねーおばちゃん」
清太がさらに要求してきたのでしょうがなくあげることにした。
「はいよ」
仕方なく凜子はキッチンカウンターの上に置いてある篭に入っていたバームクーヘンを一個清太に差し出した。
「ありがとう」
清太はミルクと一時戯れるのをやめて、バームクーヘンをさっそくおいしそうにむしゃぶりつくように食べた。
「そういえばさ・・・土日はお母さんいつもどこに行ってんのさ?お仕事っていってたけどさ・・・」
清太はバームクーヘンに夢中で話を聞いてないようだった。
「ねえ、清太君?聞いてんの?」
「え、なにおばちゃん?」
本当にバームクーヘンに夢中だったようだった。
「だからさ・・・お母さんは土日お仕事なにしてるのって」
凜子は少しイラっとしながらまた聞いた。
「美容師って仕事だよ」
「へー美容師か・・・」
だから土日にいないんだな、と凜子は思った。その代わり平日とかにお休みがあるのだろうか?
「自分でお店やってんの?」
「自分のお店って?よく知らない」
まあ自営業か雇われかなんて小学校一年生にはまだ難しすぎるか、と思った。
でも、土日に親がいなくてちゃんとお留守番をしていて、それで電話番もしっかりしてるのはすごいと思った。親のしつけがしっかりしてるのだろうか?でも、変な人がうちに来たり電話をかけてくるかもしれないのに留守番や電話番をさせて大丈夫なのだろうか?とも思った。しつかがしっかりしているのか放任主義なのかどっちなのかよく分からなかった。
お父さんは清太くんが物心つく前にはもう死んでしまっているらしいのでお母さんは女手一つで頑張って育ててるんだな、と凜子は感心してしまった。自分にはとてもそんなことはできそうになかった。小学校一年生の母親ということは自分よりもずっと年下かもしれなかった。下手したら20代や30代ってこともありうる。そもそも専業主婦になった元同僚はもう中学生や高校生の子供がいるのだった。つくづく自分が情けないと感じた。
「お母さんはいつも土日いないの?寂しくないかい?」
「うん・・・でももう平気。」
清太はへっちゃらという感じでそう言った。別段強がりのようにも見えなかった。平気ということはもう慣れたということなのかな?と凜子は思った。
「そっか偉い偉い」
凜子は清太の頭を少しだけなでてやった。そして本当に偉い子だと思った。普通はこのくらいの年齢だと親が家にあまりいないとさみしくて反発したりするものだと思っていた。でも心のどこかでやっぱり寂しいときがあるから捨て猫を拾ってきたりしたのだろうか?でもそれはあえて聞かないことにした。どの道小さな子供にそんな複雑な感情が理解できるのか凜子にはわからなかった。
「でも・・・お母さんがミルクを捨てたときは悲しかったでしょ、さすがにね?」
凜子はそういう言い方で聞いてみることにした。
「うん・・・お母さんひどい」
「まあ・・・そりゃそうさね。私が君でもそう思うわ。いくらなんでも捨てなくてもね?」
「うん」
「まあ・・・でもペット禁止なら仕方ないさね。世の中あきらめが肝心ってこともあるから」
「あきらめがかんじんって何?」
「まあ、要はどうしようもないってこともあるさってことよ」
「ふーん」
清太は意味が分からないというような表情をした。
「まあ、大人になれば君もわかるよ」
清太はふーんという感じでまだ意味不明という感じだった。
「まあ・・・そろそろ帰んなさい。私もまだ仕事しなきゃいけないしさ」
「えーもう帰るの?」
清太がまたダダをこねだした。時々ダダをこねる子だった。
「来週も土曜日また来ていいから」
「本当?やったー」
そう言うと清太は納得したようで
「バイバイ、ミルク。」
とミルクにさよならをした。
「にゃー」
ミルクも挨拶をした。
「ちょい待ち。道わかんないでしょ?おばちゃんが送ってあげるから」
「ありがとうおばちゃん」
そうしてまた凜子はアパートまで清太を送っていった。
そして次の土曜日もまた同じようにアパートまで清太を迎えに行き、また自分のマンションまで連れてきて、清太は先週と同じくミルクと戯れた。もうメアリーという名前は死語になっていて、凜子もミルクと呼ぶようになっていた。メアリーは凜子がとっさに嘘をついたことがきっかけで一時的についた仮の名だったようだ。
「ミルクだ、わーい」
清太少年は本当にミルクが大好きなようだった。こうも嬉しそうな顔をされると、ミルクの里親を探すのは次第に気が引けてきた。しかし、自分がわざわざペットが禁止でないマンションに引っ越してまでずっと死ぬまでミルクの面倒を見続けるというのもなんだかなと思われた。
「そんなにミルクが好きなんかい?」
「うん大好きだよ」
「ネコが好きなのかい?」
「うーん、ミルクが好き」
「何で?」
「うーん友達だから」
友達・・・凜子には耳の痛い言葉だった。でもネコが友達とは・・・
「ミルクが友達なんだ?でも学校にも友達くらいいんでしょ?」
「うーん学校にはいない」
「いない?一人も?」
「一人も」
清太はどうやら学校に友達がいないようだった。
「みんな僕の名前が変だって。」
「名前が・・・清太が?」
きよたという呼び方は確かに今風ではなかったし何だか昭和の名前みたいだった。いまどき珍しいからいじめられるのだろうか?それにしてもまだ一年生なのにいじめなんかあるのだろうか?
「いじめられてるのかい?」
「いじめって?」
「からかわれてるってこと」
「うーんよく分からない。でも変な名前だってよく言われる」
「それがからかうってことさね」
どうやら清太は学校でからかわれているようだった。そして友達が一人もいない孤独な少年のようだった。思えば凜子も自分の名前が変わっているせいで小学生のときに少しだけからかわれたことがあった。そして、そんなへんてこりんな名前をつけた両親を恨んでいた。
「じゃあ放課後とかは誰とも遊ばないの?」
「放課後は児童館に行ってるから」
よく両親が共働きだったりシングルマザーの家庭の子供は放課後に児童館に行くと聞いたことがあり、凜子の小学校にも少なからずそういう子がいた。
「じゃあ、児童館に友達いるんだね?」
「うーんいないよ。みんな年上ばっかだし」
「そっか。年上ばっかか・・・そりゃ残念だね・・・」
清太は学校にも児童館にも友達がいない孤独な少年のようだった。それに母親は働いていて夜遅くまで帰ってこない。だから寂しくて捨てネコを拾ってきてお友達になりたかったのだろうか?凜子は何となく清太のことが少しずつ分かってきたような気がした。
「まあ・・・気にしなさんな。まだ小学校一年生だし。これからいくらでも友達作れるさね」
凜子はそう励ますように言った。
「そうなの?」
清太は意味が分かったのか分からなかったのかよく分からないような返答をした。
「おばちゃんもね・・・友達なんていないから」
「おばちゃんも友達いないの?」
「そうね・・・いるようでいないね」
「いるようでいない?」
また難しい言い回しなので清太には意味が分からないようだった。
「まあ、友達なんているようで結局いないってことよ。清太もそのうち大人になれば分かるよ」
「ふーん」
清太は不思議そうにそう言った。
「おばちゃんもミルクと友達になれば?」
清太は突然面白いことを言いだした。
「へ?」
「ミルクがおばちゃんの友達になってくれるよ」
「ミルクが・・・私の友達に?」
「そうだよ」
清太は時々思ってもみたかったような変化球のような不思議なことを言いだす。
「なれるよ・・・おばちゃんなら・・・だってミルクを探してくれたから」
「・・・ありがと」
そう言われても凜子はそう返事をするしかなかった。
何だか急に凜子は涙が出そうになってきた。何故かは分からなかったが、泣きたい気分になってきた。そして気づいたら少しだけ涙がほほを伝ってきた。
「もういいわ、今日は帰んなさい。おばちゃん用事があるから」
凜子は突然清太を帰させるようなことを言ってしまった。
「えーまだ帰りたくない。」
「いいから帰りなさい!」
凜子は突然そう怒鳴ってしまった。
清太は目を丸くして少しびっくりしたようだった。
そう言うと凜子は清太に気づかれないように洗面所に慌てていって顔を洗った。涙が少しだけ出てしまったので目が少しだけ赤くはれてしまったようだった。
そしてその後、清太をアパートまで送っていった。
そして凜子は次の週は清太を迎えに行かなかった。なぜか気恥ずかしくなって会いたくなかったからだった。でもさすがに心配するだろうと思って清太に電話だけはした。
「今日は忙しいから来週にしてちょうだい」
とだけ伝えた。清太はまた「えー」と言ったが、凜子は説明して無理やり清太を納得させた。
そして次の週の土曜にはまた凜子はアパートに清太を迎えにいき、また清太は凜子のマンションでミルクと楽しそうに戯れた。
「ミルクくすぐったいよ」
ミルクのしっぽが清太の首をなでたので幾分かくすぐったかったようだった。
2週間前は突然清太を帰してしまったが、清太はもうそんなことはとっくに忘れているようで楽しそうにミルクと遊んでいた。
「あのね・・・清太くんさ・・・そんなにミルクとずっといたいなら飼い主さん探すのやめようかね?といってもまだ当分見つかりそうにないんだけどさ」
「探すのやめるって?え、じゃあおばちゃんが飼ってくれるの?」
「それは・・・分からないけどさ・・・」
「ふーん」
清太はまた不思議そうな顔をしていたので意味が分かってないようだった。
そしてそんな風にしばらく毎週土曜日は、昼頃に清太がマンションに来てミルクと遊んで行き夕方前に帰っていった。そしてそんな日々が2ヶ月ほど続いた頃に突然清太が「お母さんがミルクを飼ってくれる人を探してくれた」と言ってきた。
それは凜子がミルクの里親が見つかったのに清太のことを考えて断ったことを電話で報告しようとしたときだった。
「え・・・何で・・・お母さんミルクがここのマンションにいること知らないんじゃなかったの?」
「うーん・・・この前夕方帰ったらお母さんもう家にいてどこ行ってたの?って聞かれたの。それでおばちゃんちにミルクに会いに行ってるって言ったの。そしたら、お母さんがそれはダメだって」
何だか話の要点が分かりづらかったが、まとめると清太がこの前の土曜日にミルクと遊んで夕方にアパートに帰ったらお母さんが仕事が早く終わったのかすでに帰っていたと。それで凜子のマンションでミルクを世話してもらっていて、清太は毎週土曜日に遊びに行ってるという話をお母さんに問いただされたということなのだろう。そして、そんな他人に迷惑をかけたらいけない、とお母さんは思っていち早く里親を探してくれたのだろう。それにしてもそんなに早く里親が見つかるとは。自分はなぜこんなに時間がかかったのだろうか?
「何かね・・・お母さんのお友達がネコが大好きだから飼ってくれることになったんだって。」
清太は電話でそう言った。
小学生の話なので要領を得ないが、ネコが好きというのはネコ好きでたくさん飼っているという意味なのだろうか?なるほど、直接の知り合いだからネットで里親を探すよりもずっと簡単だったんだ、と思った。でも、それにしてもそんな知り合いがいるのならお母さんはミルクを捨てたりしないでさっさとその人に飼ってもらうように頼めばそもそもはじめからこんなことにならなかったんじゃないのか?と思った。知り合いといえども猫を代わりに飼ってくれなんてなかなか頼みづらいことだからとっさに捨ててしまったのだろうか?よく事情が分からなかった。
「そう・・・分かった・・・よかったじゃん」
そう言いながらも凜子の声はどこか悲しげに聞こえた。
次の土曜日清太はミルクを自分のアパートへと連れて帰るために凜子のマンションへとやってきた。清太はまたしばらくミルクと戯れていた。
「にゃー」
ミルクも嬉しそうだった。
「清太は寂しいかい?ミルクが向こうにいっちゃうの」
「うーんちょっとだけ」
ちょっとだけか・・・と思った。意外とあっさりとしていたので凜子は驚いた。もっと寂しそうにしているかと思った。
「おばちゃんは?」
「へ・・・私かい?・・・別にそんな・・・いい年したおばさんがネコくらいでさ・・・ちょっと何言ってんのよ」
「ふーん」
清太はまた意味が分からないといった感じでそう言った。
その後もしばらく清太はミルクと戯れて遊んでいると夕方前になったので帰ることにした。
「じゃあね清太くん」
「じゃあねおばちゃん元気でね」
「ミルクも元気でね」
凜子がミルクに向かってそう言うと
「にゃー」
とミルクは眠たそうな目をしていった。
「おばちゃんミルクのこと忘れないでね・・・」
「そりゃ忘れないよ・・・」
「よかった・・・忘れちゃうかと思った。」
清太はほっとした様子でそう言った。
「そりゃこんなことあったら忘れたくてももう忘れられないよ」
「ふーん」
「さ、もう帰んな。もう遅いしお母さん帰ってたらまた心配するだろ」
「うんじゃあねおばちゃん」
何度もマンションに来ているし場所も近いので清太はアパートまで自分で帰れるようになっていた。清太は凜子にもらったネコを入れる篭にミルクを載せてマンションを出て行こうとした。
「清太・・・」
と凜子はとっさに呼び止めてしまった。
「何?おばちゃん」
凜子は少しだけ考え事をしたかのように下を向いたがその後
「ミルクがいなくなってもまたうちに遊びにきなさい。土日しか無理だけどさ」
と清太にそう言った。
「うん、ありがとおばちゃん。ばいばい」
そう言ってドアをバタンと閉めて清太はミルクを乗せた籠を大事そうに手で抱えながらマンションの部屋を出て行った。
「ばいばい」
閉まりかかったドアに向かって凜子は小さな声でそう言った。
そうしてミルクとさよならをしてから凜子は何か心の中がぽっかり空いたような気分になった。ずっとミルクから解放されることを願っていたはずだったのに、気付いたら共同生活者になっていて、そしてその後清太という少年と出会って・・・この短い期間に突然色々な出来事がやってきて、そしてそうかと思ったら急に嵐のようにすべてが去っていった。そしてそれが空しかった。とてつもなく寂しかった。
ミルクや清太と会っていた頃はしばらく会社でも部下に怒ることはなかった凜子だったが、また昔の凜子に戻って鬼お局に戻っていた。
「ちょっと、あんたこんなことも理解できないの?これでよく経理部に来れたもんよね?もう一度大学から勉強しなおして出直してきなさい」
いつにもましておっかない形相で部下を怒鳴り散らしていた。
そして昼休憩中に自販のある休憩室に凜子が入って行こうとすると何やら同じフロアの隣のブースの総務部の若手社員が自分の話をしているようだった。
「あの経理部の課長代理さ」
「あーあの鬼お局ね・・・」
「そうそれそれ・・・あいつがさ、何かしばらく穏やかだったけどまた鬼に戻ったらしいよ。経理部の同期のやつが言ってた。」
「はーまた鬼か・・・経理部のやつら可哀想だな」
「それがさ・・・何か噂によると男に振られたって話らしいよ。社内でもっぱら話題になっててさ」
「はーなるほどね。道理で不機嫌になるわけだ。あの年じゃ結婚厳しいだろうし、最後の望みだったのかな?」
「そうじゃねーの。そんなんでどばっちり受けるこっちの身にもなれっつーの。ってか俺ら経理部じゃないから関係ねーけど」
総務部の若手社員二人はそんな感じで自分の噂をしているようだった。
凜子は気にせず休憩室へ入ってき自販でコーヒーを買った。そしてまた素知らぬ顔で休憩室を出て行った。
「やべ・・・今の聞かれちゃったかな?」
「さあ・・・」
そしてそんな日々が続いて行った。もはや凜子は会社では毎日ガミガミ説教する鬼お局と化していた。部下があまりにも使えないので尻拭いさせられるのは自分だったため、責任を取らされる前に部下たちに説教することも必要だったのは事実だったが、必要以上にあまりに過度な説教をしていたのもまた事実だった。もはや自分の寂しさを埋めるためには仕方ない行為だった。
そしてそんな日々が3か月ほど続いた。
そしてある日曜の午後、突然清太が凜子のマンションへやってきた。
「久しぶりおばちゃん」
「久しぶり」
清太がなぜやってきたのか察しがつかなかったが、とにかく清太はマンションへとやってきた。
「はいどうぞ」
凜子は清太に紅茶を出した。
「ありがとうおばちゃん」
清太はお礼をいった。
「で・・・今日は何の用なのさ?」
「うん・・・」
清太は沈んだ顔をしていた。
「何?早くいいなさいよ」
「あのね・・・おばちゃん・・・」
「いいからもったいぶらないで早く言って」
段々凜子はイライラしてきてそう言ってしまった。
「ミルク病気なの・・・・もうすぐ死ぬって」
「へ?」
病気で死ぬ?何か大病か何かにかかってしまったのだろうか?
「何の病気なのさ?」
「よく知らない。でもがんって病気だって。お母さんが言ってた。」
がんってあの癌?
凜子はそれを聞いて驚いた。
「癌ってさ・・・あと何年生きられるの?」
ネコの癌の余命のことなど知らなかったけど人間の癌と同じくそう長くないのだろうと凜子は思った。
「三か月くらいだって」
三か月?あまりにも短くないか?
「三か月って・・・もうすぐじゃない」
凜子は少しショックを受けた。
「ねえ・・・ミルク生き返ったりしないのおばちゃん?」
清太はそう聞いてきた。
「それは・・・神様にしか分からないよ」
「神様に聞けば分かる?」
「そうだね・・・聞ければね・・・」
凜子はそう言った。
「ミルクにはもう会えないのおばちゃん?」
「いつか天国で会えるさ・・・」
凜子は清太を励まして言っているつもりがいつの間にか自分が泣きそうになってしまっていたのを必死にこらえてそういった。
「今度ね・・・ミルクのお見舞いに行くの・・・今度の土曜日おばちゃん暇?」
今週の土曜は無理だ・・・と思った。今は決算前で大いに忙しかったのでその日は土曜出勤をする日だった。また部下がミスをしでかしたので尻拭いのために出社してやるべき仕事もあったのだった。
「来週の土曜日は行けるんだけどね・・・それじゃダメなの?」
「うん・・・お母さんが連れてってくれるんだけど、今度の土曜日じゃないとダメだって。お仕事あるから。」
「そっか・・・お母さんが連れてってくれるんだ。そのミルクの飼い主ってどこに住んでんのさ?」
「ぎふってところだって」
「岐阜か・・・そりゃまた遠くに行ったもんね・・・」
「ねーおばちゃん来られないの?」
「うーんその日はどうしても仕事があって無理なの。ごめん」
「えー」
「ごめん」
凜子がそう謝ると
「おばちゃんミルクが可哀想じゃないの?」
と清太は聞いてきた。
「そりゃ可哀想さ。でも仕事なんだから仕方ないでしょ」
「えー」
と清太は納得してないようだった。
「ごめんね・・・私は近いうちに自分一人でお見舞いいくからさ・・・場所教えてくれる?」
「わかった・・・」
清太は鞄から何やらメモを取りだした。そこにはその岐阜県の飼い主さんの自宅の住所とミルクが入院している動物病院の住所が書いてあった。おそらく清太のお母さんがあらかじめメモに住所を書いて、万が一凜子の予定が合わなかったときのために渡すように言っておいたのだろう、と思った。
「このメモおばちゃんにあげる」
「え・・・くれるの?」
「うん」
「そう・・・ありがと」
「絶対お見舞い行ってよ」
「うん・・・絶対いく」
「約束だよ?指切りげんまん」
「分かった。約束する」
そう言って二人は指切りげんまんをした。
「指切りげんまん嘘ついたら針千本のーます。指切った」
そう言ったあと二人は指を離した。
それから何週間かたった。相変わらず使えない部下をしかりつけるだけの濛々とした日々だった。あれから清太はその岐阜にいる飼い主さんとやらに会えたのだろうか?ちゃんとミルクのお見舞いにいけたのだろうか?そんなことふと思ったりもした。
でも凜子は相変わらず仕事が多忙でなかなか岐阜まで足を運ぶ気にはなれなかった。そして仕事に熱中している間に段々とお見舞いのことを考えるのが億劫になってきた。何で自分が一人でわざわざお見舞いに行かなければいけないのだろうと思った。清太と一緒に行くのならまだしも何の責任もない自分がなぜ?
そんなこと考えたりもした。
そもそもその後、清太からは何の連絡もなかったので一体ミルクの容態はどうだったのかすら凜子は知らなかった。清太に一度週末に電話をして聞いてみようかとふと思ったりもしたが、逆にもしミルクに万が一のことがあったら?と思ったら聞くに聞けなかった。
そしてそんな風にああでもないこうでもないと考えていたらあっという間にまた2ヶ月たってしまった。
そしてある日の日曜日、気づいたら岐阜へと向かう新幹線のホームに立っていた。
「来てしまった・・・」
名古屋行ののぞみ15号がホームにやって来たので凜子は切符に書いてあった指定席へと座った。
しばらくすると新幹線は発車した。
新幹線に乗るのは実に久しぶりだった。凜子は経理部の課長代理をしているが内勤が多いし営業などとは違い滅多に出張などなかった。休みの日に一人で旅行をすることも若い頃はたくさんあったが、最近では一人旅も虚しさしか感じなくなり新幹線にのってまでわざわざ遠出をすることもほとんどなかった。
窓から眺める新幹線の光景はやけに懐かしかった。
「ミルク元気かな?」
凜子はふと心の中でそうつぶやいた。
そして名古屋で東海道本線へと乗り換えて岐阜へと向かった。岐阜駅に降り立つと、凜子は背伸びをした。
「あーやっと着いたか」
岐阜駅は意外と栄えていて東京の駅とさしてにぎやかさは変わらなかった。凜子は岐阜へは旅行に来たことがなかったのでその繁盛ぶりに少し驚いた。
そして駅前でタクシーを拾ってミルクの飼い主の元へと向かった。
その飼い主は駅からかなりはずれた郊外に住んでいた。周りは農家が多くかなり田舎のような雰囲気の場所だった。木造の家だらけでその飼い主の家も木造だった。
「こんばんは」
凜子は呼び鈴を鳴らした。
しばらくすると家の人が出てきた。
50代か60代くらいの年齢の男性だった。
「こんばんは」
凜子は軽く会釈した後に
「こんばんは、はじめまして。わたくし林凜子と申しまして、野上清太くんの知り合いでネコのミルクのお見舞いに伺いました。」
そう挨拶をした。
しばらく家主さんは黙って凜子を不思議そうに見ていたが
「ああ・・・野上清太くんのね・・・何だ誰かと思ったから。」
そう納得したように言った。
「ええ・・・野上清太くんとはミルクを通して知り合いになった仲でして・・・以前はミルクを預かってたときもありまして。」
凜子は何となくそう説明した。
「そうですか・・・それはそれは・・・ってことははるばる東京からいらしたんですよね?ありがとうございます。えっと・・・ミルクですがね・・・まあ、私は官兵衛って呼んでたんですが・・・」
家主さんはやや深刻な面持ちでそう言った。そしてどうやら知らない間にミルクはまた別の名前が付けられていたようだった。
「ミルクは今病院で治療してるのですか?」
凜子は単刀直入に聞いてみた。
「え・・・とまあ・・・それは・・・」
家主さんはバツが悪そうな顔をして黙ってしまった。
「ミルクに何かあったんですか?」
凜子はさらに聞いてみた。
「・・・亡くなりました。ついこの間」
「え・・・?」
凜子は突然家主から出てきたその言葉の意味を理解するのに少し時間がかかった。
「亡くなったって癌でですか?」
「ええ・・・つい5日前ですかね。」
凜子は突然頭に何か大きな衝撃をくらったかのような感情に襲われた。
「そうなん・・・ですか・・・」
「ええ・・・わざわざ東京からお見えになったのに申し訳ないですが・・・」
凜子はその場でだんまりしてしまった。家主さんはそのことを察したのか
「気を落とさないでくださいね・・・・」
と元気づけるように凜子にそう言った。
「私も大のネコ好きだからお気持ちはよく分かりますよ。ネコが好きだからこうやってネコのブリーダーをしたりネコの里親みたいな仕事をしてるんですよ。」
清太の話がよく分からなかったのでそのあたりの事情を凜子はあまり知らされていなかったが、どうやらこの飼い主さんはペットショップなどにネコを販売するブリーダーや、長時間家を空けてネコの世話をできない人のために一時的に自宅でネコを預かる商売をしたり、ネコの世話ができなくなった人や捨て猫のために里親などをやっているようだった。
「清太くんのお母さんとは直接の知り合いではないんですがね・・・共通の知り合いがいてたまたま頼まれたんですよ。でも、こんなすぐ癌になってしまうなんて思いもしなかったですよ。動物は人間と違って我慢強いですし症状があまりよく分からないですからね・・・よく観察してないと分からないんですよ。」
家主さんがそう説明してくれたので凜子は事情をだいたい理解した。でもあまりのショックでもはや言葉が出てこなかった。
「あがって・・・いかれます?お茶でもお出ししますから。」
家主さんは親切な人のようで、せっかく凜子がはるばる東京から来たのだから家に上がってくださいと誘ってくれたが、凜子は丁重にお断りして
「ありがとうございます」
とお礼をしてすぐに東京へ帰ることにした。
再び新幹線に乗って東京へと戻ってきて、凜子はさっさと地元の駅へと降り立ち駅前の洋食レストランでエビフライとコンソメスープを頼んで夕食を食べた。
どれもおいしい料理のはずだったのにあまり喉を通らなかった。口に入れて味わおうとしても何の味がするのか分からなった。そして食べている間中上の空だった。周りの団体客は騒々しく楽しく食事をしていたが、凜子だけその場でただ一人孤独の空間の中にいるようだった。
自分のマンションの部屋へと戻ってくると凜子はソファーの上にどすんと座った。どっと疲れがでてきてまたボーっとしてしまった。何を考えるでもなくただひたすら無気力状態でボーっとしていた。
翌日、凜子は昼過ぎに目を覚ました。一度朝に目を覚ましたのだったが、会社は有給を取って休む事にした。凜子は滅多に有給を取ることはなかったが、ベッドから起き上がる気力すらなかったのでとっさに会社に休むと電話をしてしまった。
「もうこんな時間か・・・」
凜子は重たい体を起こして着替えた後に駅前のどこかで昼飯を食べに行くことにした。
駅前の洋食風の軽食が食べられる喫茶レストランへ入った。
駅前の喫茶レストランは今時珍しい昔の昭和風で、シックでレトロな内装の店だった。
凜子は窓際のカウンター席に座り、オムハヤシライスを注文した。
レストラン内にある鳩時計をみると時刻はすでに13時50分になっていた。
しばらく窓際でボーっとしているとやがてオムハヤシライスが来たので凜子は食べることにした。
オムハヤシライスを食べながらも時折カウンター席の窓から外の景色を眺めた。駅前だが繁華街からは少し外れていて窓からは住宅やコンビニくらいしか見えなかった。月曜日なので駅の方へ向かう会社員やOLの歩く姿が時々見えた。
そして、オムハヤシライスをもう少しで食べ終わりそうなときにふと窓の方に目をやると、清太が横切っていく姿が見えた。
凜子は慌てて外に出た。
「清太!」
レストランの入り口のドアの外から凜子は大声で叫んだ。
清太はどこから声が聞こえてくるのかよく分からないといった感じであたりをきょろきょろと見まわしているようだった。
「清太!こっちだよ、こっち」
もう一度凜子がそう言うと、清太はやっと声の聞こえる方向が分かったのかこっちを向いてきた。
「おばちゃん!」
清太は驚いた様子でそう言った。
「元気?」
清太はちょっと考え込んだ後に眩しそうにこっちを見てきた。昼下がりだから太陽が眩しいのだろうか?
「おばちゃんも元気?」
「まあまあ・・・かな」
「ふーん」
また清太お得意のふーん、だった。
「今からどこ行くのさ?」
そう言えば今日は月曜日だ。学校はないのだろうか?
「今から?家に帰ってお弁当食べるところ」
清太はそう言った。確かに清太は手にコンビニのビニール袋をぶら下げていた。
「へー今日学校は?」
「学校?お休みだよ」
「へ?学校の記念日とか?」
今日は祝日でもないし何だろう、と凜子は思った。
「もうすぐね・・・僕引っ越すの。だから学校やめて先週からしばらくお休みなの。」
「そうなのかい」
なるほど、と思った。
「引っ越すってどこに?」
「ぎふってところだって」
どうやら岐阜のことらしかった。
「あのね・・・お母さんのおばあちゃんがそこに住んでるの。」
お母さんのおばあちゃん?お母さんのおばあちゃんと言ったら清太の曾おばあちゃんだろうか?そうすると90過ぎくらいでものすごくお年ではないのか?と凜子は思った。なので、おばあちゃんとはお母さんの母親のことなのか、お母さんの祖母のことなのかよく分からなかったが、なるほど、お母さんのご実家でもあるのだろう。そうか、岐阜県が地元なんだな、と思った。だからミルクの里親さんとも知り合いだったのか。きっと地元つながりの知り合いか何かなのだろう。
「お母さんの地元なの?」
「地元って?」
「故郷ってこと」
「ふるさと?」
清太はふるさとの言葉の意味が分からないようだった。
「あーいいや何でもない・・・気にするな」
凜子は手を横に振りながら何でもないという感じでそう言った。
おそらく清太のお母さんは女手一つで子供を育てるのが大変なので地元に帰るつもりなのだろう、と思った。そして、清太とお母さんはしばらく引っ越しの準備で忙しかったのだろう。
「学校は転校するの?」
「転校って?」
「学校が変わるってこと」
「うん」
どうやら向こうの学校に転校するようだ。
「じゃあこの街ともお別れだ」
「街とお別れ?」
「この街とバイバイってこと」
「バイバイ?」
「この街から出て行っておばちゃんとも会えなくなるってこと」
「うん・・・おばちゃんどうすればまた会える?」
清太はしばらく考え込んでからそう言った。
「まあ、また場所教えてくれたら会いにいくよ」
清太はまだ小学生だから東京に一人で来るのは無理だろう、と凜子は思った。
「うん」
清太はそう言ってこくりとうなずいた後に、背負っていたリュックから何かを取り出した。
「あのね・・・おばちゃんこれあげる」
そう言って清太は凜子に写真を渡した。
「これって・・・」
それはミルクが元気だったころの写真だった。場所はどうやら清太のアパートの中らしかった。
「ミルクだよ」
「・・・うん」
言われなくても分かったが、凜子はしばらくその写真を眺めていた。
写真の中でミルクは上目使いでカメラの方を向いていた。その表情は穏やかでとても幸せそうだった。
しばらくその写真を眺めていたらいつの間にか目から涙が溢れそうになってきた。
気がついたら目の中にたんまりと涙がたまっていた。
そしてしばらくすると頬に伝ってきて口のなかにしょっぱい水が入ってきた。
とてもしょっぱかった。
「う・・・」
思わずすすり泣くような声が出てしまった。
「おばちゃん泣いてるの?」
清太にみられてしまったようだった。
「別に泣いてやしないよ。目にゴミが入っただけさね」
「ふーん」
「さあもう帰りな。帰ってお弁当食べんだろ?」
「うん、じゃあねおばちゃん」
「さよなら」
バイバイっと手を振った後、清太は後ろを振り返りコンビニ弁当をぶら下げながらてくてくと歩いて行った。その姿をしばらく凜子は眺めていた。
「清太!」
凜子はそう叫んだ。
清太はまたこっちを振り返った。
「向こうで・・・友達できるといいね」
凜子はとっさにそう言った。
清太はしばらく眩しそうな目をしてこっちを向いていたがやがて
「うん」
と返事をした。
「じゃあもうお行き、バイバイ」
「バイバイ」
また少しだけ手を振って清太は再び振り返り歩いて行った。
その後ろ姿を見ながら凜子はずっと手を振っていた。その姿が見えなくなるまで・・・
清太が角を曲がり姿が見えなくなると凜子は食べかけだったオムハヤシライスを食べるためにまた店の中へと入っていった。
またそれから何週間かたった。
相変わらず多忙で凜子は仕事の鬼となっていた。
「ちょっとこれ取引先にメール送っとけっていったでしょ?いったいいつまでかかんのよ?何であなたはいちいち言われないと行動できないの?私に何度も同じこと言わせるな」
相も変わらずビシビシと説教をしていた。
「申し訳ございません」
昼休憩になり凜子はまた休憩所にある自販にコーヒーを買いに行くと
「なーあの経理課長代理さ・・・」
「あー鬼お局ね・・・」
「何かさ・・・デスクにネコの写真飾ってるらしいぞ」
「ほんとかよ・・・」
「ほんとだって・・・経理部の同期から聞いたし」
「男に振られてついにおかしくなったんじゃねーの?」
「あー言えてるな・・・そうかもしれない」
総務部の若手社員の連中がまたもや自分の噂話をしているようだった。
いつも通り気にしないで凜子は自販で缶コーヒーを買うと素知らぬ顔で休憩室を出て行った。
「おい、今の聞かれちゃったかな?」
「さあ・・・」
昼休憩が終わり凜子はまた仕事に戻った。
「あんたたち私これから管理職会議があるからしっかり仕事してなさいよ」
そう叫ぶように指示を出すと凜子は会議室へと向かっていった。
廊下を歩いて会議室の前までくると
「失礼します」
そう言って凜子は部屋の中へと入っていった。
経理部の社員たちは鬼上司がいない間ほっと安心するかのようにお互いに顔を見合わせながら少しだけ喜んでいた。そしていつも通り仕事に戻った。
経理部は一番奥に部長席があり、その隣の両側に向かい合うように課長席と課長代理席があった。凜子は今会議に出席中なので課長代理席には誰も座っていなかった。デスクの上はきれいに整理整頓されていて必要な書類以外無駄なものは何一つ置いてなかった。ただミルクの写真だけが綺麗な色の縁をした写真立てに飾られてデスクの端に置かれていた。
ミルクはとても幸せそうな表情をしていた。
ネコと少年とお局と 片田真太 @uchiuchi116
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます