台風が来る日、シャッターの下ろされたガレージの中で

夏越理湖

第1話

 空はいつの間にか濃い灰色の雲に覆われていた。玄関から一歩踏み出した俺の髪を風が弄ぶ。さいわい雨はまだ降っていないけれど、今日の夜から明日の早朝にかけて関東に直撃するとうわさの台風が、いよいよ本気を出し始めたようだった。鍵を閉め、足早に数歩移動する。さしものの俺も、天候が悪化する中どこかへ行くほどバカではない。目的地は家のガレージだった。

 スマホに入れてある専用アプリを操作してシャッターを上げる。重い音を聞いていると、メッセージの通知が目に入った。

《高村瑠璃 今から行くから待ってて》

「……まじか」

 反射的にとなりの家に目をやってしまう。もともと一つの土地だった場所に無理やり家を二つ建てたらしく、距離はあまりない。俺の住む一戸建てと似た形のクリーム色の家、その玄関が開いて、中から見なれた女の子が飛び出してきた。

「おはよ、航平。入れて?」

「高村瑠璃さんはいま起きたんですか?」

「何それむかつく」

 そう言いながらも瑠璃は嬉しそうに笑っていた。頭の高い位置で結ばれたポニーテールが風になぶられている。入っていいでしょ? と、俺の肩の高さまでシャッターが開いたガレージを指差すので、しぶしぶ頷いた。

「もっと開ければいいのに。頭ぶつけたらどうすんの?」

「うるせ」

 文句を垂れながらも、瑠璃は腰をかがめてガレージに入っていった。俺は背負っているリュックを下ろし、腕に抱えて彼女に続く。

 ガレージの中はがらんとしていた。わが家の愛車は昨日から初心者マークを貼りつけられ兄貴に乗り回されている。台風が来るというのに出かけていった兄貴は真正のアホだと思う。帰ってこられなくなればいい。

「龍平兄ちゃん、八月に免許取ったんだよね?」

 瑠璃が目をキラキラさせるのを適当にあしらいながら、俺はアプリでシャッターを閉めた。その間に瑠璃は電気をつける。すっかり慣れたものだった。振り返ってにやりと笑う。

「ふふん。……二人っきりだね?」

「はいはい」

「反応うすーい」

「ほぼ毎日言われてたら薄くもなるだろ」

 意に介さず、リュックからノートパソコンを取り出す。充電を満タンにしてきたので、二時間は使えるはずだった。開いて電源を入れ、ガレージに置いているニトリで買った低い机の上に載せ、自分は地べたに座った。瑠璃はキャンプ用の折りたたみ椅子を引っ張り出してきて、俺の向かいに腰かける。

「っていうか、今日は龍平兄ちゃんいないのに、何でここで書くの?」

「こっちのほうが集中できるから」

「ふむふむ。かわいい私がいると筆が進む、と」

 わざとらしく目をぱちぱちさせてかわいさをアピールしている瑠璃をわずかに見上げる。高村瑠璃。俺の幼なじみの女の子は、かわいい。俺と瑠璃が通う公立中学には、一学年に女子が七十人ほどいるが、その誰よりも彼女はかわいかった。ひょっとしたら一年生や三年生を合わせた中でもいちばんかわいいかもしれない。黒目がちでまつげが長く、色白で、バレー部で鍛えた身体はすらりとしている。学年に一人はいるマドンナ的存在で、幼なじみである俺はうらやましがられたりやっかまれたりすることも多い。

 だから俺は、そのかわいい顔を見ながら宣言した。

「お前の顔がかわいいことは認める」

 途端に瑠璃はむっとした。むっとしてもかわいい。かわいいが。

「それ。女子にお前っていうのはやめて」

 俺はこれ見よがしにため息を吐いた。

「一言多いところはかわいくない」

「わたしをお前呼ばわりする人に何を言われても痛くもかゆくもない」

 テーブルをはさみ、両者がにらみ合う。瑠璃はこういうときに一歩も引かない。学校では、争いごとになりそうなときには譲ったり仲裁に回ったりしているのに、俺に対しては頬をふくらませて挑んでくる。こっちが素だとわかっているので、俺は瑠璃を見かけ通りのかわいい子だとは思えない。

「だいたい何なの? 他の女子は苗字にさん付けで呼んで、丁寧すぎてキモいって言われてるくらいなのに」

「キモいは余計だ。傷つくだろ」

「わたしが言ったんじゃないし。それより何でわたしだけお前呼ばわりされなきゃいけないわけ?」

「それはだな」

 書きかけの小説のファイルを開きながら、俺は答える。言いたいことは遠慮なく言わせてもらおう。

「お前だって」

「ちょっと」

「高村瑠璃さんだって、俺にはやけに突っかかるじゃねえか。他の奴らには超ニコニコするのに」

「それは……」

 瑠璃が黙り込んだので、俺は執筆を始める。

 ガレージで小説を書くことと、そのときになぜか瑠璃が付いてくることは、この一年半で日常となった。俺がわざわざガレージで執筆するのは、秘密基地みたいでカッコいいからだが(異論は認めない)、彼女はここにいたがる理由をはっきりと言わない。タイピングの音を聞いていたら落ち着く、と言っていたが、それはほんとうの理由ではないだろう。

 しばらく書き進めていると、シャッター越しに雨の音が聞こえてきた。瑠璃がチラリと出口のほうを見る。

「お前、傘持ってるの?」

 こちらをはっきりと見たのに答えないので、俺は言い換える。

「学年でいちばん人気があって二学期に入って二週間しか経ってないのにもう先輩から告白された高村瑠璃さんは」

「ちょっと! それは言うなって言ったでしょ」

 ツン、とそっぽを向くのに合わせてポニーテールの毛先が躍る。

「傘、持ってないよな。いっつもは本持ってきて読んでるのに、それすらないし」

「急いでたから」

 シャッターの上がる音を自室で聞いて、急いで階段を下りて来たのだろうか。熱心なことだ。

「まあいいや。送っていくから、帰るときには言えよ」

「五秒もかからないから、いい」

「俺が嫌なんだよ」

 この幼なじみは、俺にだけ口が悪く態度が大きくて、顔以外はかわいくないけれど、雨に濡れられると思うと寝覚めが悪かった。瑠璃はしばらく何かを言いたそうな顔で黙っていたが、言葉にはならないようだった。

 俺のこの中途半端な優しさが瑠璃を惑わせていることは、何となくわかっていた。瑠璃が男子からの告白を断り続けている理由が「好きな人がいるから」なのは知っているし、瑠璃の友だちから直接「瑠璃はずっとあんたのことが好きなんだよ」と言われたこともある。けれど瑠璃は俺に何も言わなかったから、俺は黙ったままでいる。

 それを意地悪だとなじる人もいるだろうか。でも、俺が知っていることをきっとわかっていて口を閉ざしている彼女の気持ちを尊重するべきだと、俺は信じている。

「ねえ、航平。明日、休校になるよね?」

 キーボードをたたきながら、反射的に口を開く。

「ならないだろ。台風は早朝に関東を抜けるらしいぞ」

「ううん。まだ警報が出てるはず」

「お前な……」

 強い口調で言う瑠璃を見上げる。俺とて一中学生として、休校になってほしい気持ちは山々だが、台風の針路はそう簡単に変わらないだろう。そう言おうとして、口をつぐんだ。幼なじみは泣きそうな顔をして俺を見ていた。

「ねえ。賭けをしよう。明日、休校になったら、わたしは好きな人に告白する」

 何を言い出したのか、すぐには理解できなかった。賭け? と聞き返した声が掠れていてみっともない。瑠璃のまなざしにひどく動揺している自分がいた。

「航平は、休校にならないほうに賭けて」

 乗る必要のない賭けだった。ただ、次第に強くなる雨音と、ガレージを揺らしてしまうのではないかと錯覚させるほど大きな風の音が、俺の判断力を鈍らせた。

「じゃあ、俺は休校にならないほうに、七二六円賭ける」

「……その中途半端な金額は何? っていうか、ここでお金を賭けるのはおかしくない?」

 眉をしかめた瑠璃の声は少し震えていた。俺は努めて平静を装って告げる。

「俺のいまの全財産だ。昨日、買い物をしたレシートも付ける」

「それはいらないけど」

「好きな人もいないからな。お前の想いと釣り合うものは、俺の中にはなかった」

 瑠璃は何事かを考え込んでいたようだったが、やがて微笑んで頷いた。いろいろと聞きたいことはあったが、瑠璃が笑っているならそれでいい。俺は小説の続きを書き始める。

 明日もし休校になれば、瑠璃は俺の家の玄関をたたいて告白しに来るのだろうか。そのとき俺はどう応えるのだろう。そもそも彼女をどういう風に想っているのか、それすらきちんとわかっていない俺が、彼女の言葉を聞く資格はあるのだろうか。いや、わかりたくないだけなのかもしれない。瑠璃とはただ幼なじみでいるのが気楽だという俺のわがままが、とっくに生まれていた想いを認めないだけなのかもしれない。

 瑠璃の気持ちを直接たしかめないのが俺のわがままだなんて、そんなこと、とっくにわかっていたはずなのに。

 激しい雨風の音にキーボードの音がぽつぽつとまじる。瑠璃は静かにまぶたを閉じている。そのきれいな顔を見ながら、今日は執筆には集中できなさそうだなと、俺は思う。夜に眠れるかさえ怪しい。いままで見て見ぬふりをしてきたつけが回ってきたのだろうか。

 台風が一刻も速く過ぎ去ることを、俺は切に祈った。

(了)

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