スコール

@toukaosanai

スコール

 健くん、ジュースが飲みたい。喉が渇いてきてしまいました。

 買い物袋を右肩から左肩によいしょっと担ぎ直した後、健くんは離れていくお母さんに遅れないよう後ろをやや早歩きで追いかけ始めましたが、すぐにその足取りは重くなります。それに気付いて慌てて小走りで追いつき、もう一度買い物袋を担ぎ直してから、お母さんを見上げると、お母さんは優しそうに笑っていました。健くんはそれを見ると下を向き、再び歩き出すお母さんのかかとがコツコツと交互に前へ進んでいくのを目印によたよたとついて行きます。

 黒いサンダルの上のかかとは白く、そこから上は裾口の広いズボンの爽やかな青がすらりと伸びています。そしてお腹のところできゅっと締まって、その上からは白いブラウスが柔らかく膨らんで涼しそうです。肩までかかる真っ黒な髪にあてがわれる腕にはピンクのブレスレットがはめられ、耳には銀のピアスもしてあります。ブレスレットは可愛いなと思うのですが、ピアスはどうしても痛そうだな、と健くんはいつも思ってしまうのでした。

 お母さんはきれいです。健くんの自慢のお母さんです。怒るとちょっと怖いけど、ほんとは優しいお母さんだって健くんはちゃんと知っています。お料理も上手で、お母さんの作るハンバーグはいくらでもお代わりできてしまいそうなくらいの好物なのですが、健くんはお母さんがハンバーグをこねている姿も好きなのでした。あの気持ちの悪いひき肉(あのべたべたは今でも覚えています!)をつぶして、混ぜて、手は薄赤く汚れていくのに、どうしてかお母さんの手は細くて白くて全然汚くないのです。それどころか、ぐちゃぐちゃの中の手はかえってきれいで、そのきれいな手で練られていくうちに、粘土みたいなぐちゃぐちゃもどういうわけか、おいしそうに見えてくるのです。

 そして今、その指には指輪がはまっています。お母さんはいつも指輪をしています。ブレスレットは銀の輪っかのであったり、数珠みたいのであったり、今日みたいなピンクの花のついたのであったり毎日変わるのですが、どういうわけかその指輪だけは変わらないのです。健くんにはそれが不思議でなりませんでしたし、いつもいつもそれが指にはまっているのが何だか面白くありませんでした。ハンバーグをこねている姿が好きなのは、その指輪がお母さんの指から外れている数少ない機会だったからなのかもしれません。

「健、ガンバレ、ガンバレ」

 お母さんの声援が聞こえてきます。

 顔が熱くなるのが分かりました。両手で担ぎ、振り返ったお母さんの前まで転びそうになりながら急いで追いつきました。

「やっぱり重かったかな?」

 健くんはドキドキしながら小さく首を振ります。背中にはもうびっしょり汗をかいて、掌も痛くなり始めていましたが、ここでお母さんに持ってもらうわけにはいきません。

「持つ」

 床をじっと見つめながらそう返事をします。

「大丈夫?」

 頭の上でする声は楽しそうでした。笑っているかもしれないと思いました。つるつるの床は店内の明るすぎる照明を反射しててかてかに光り、お母さんの青いズボンの影を映し出しています。少しずつ視線を足元に向けていくとその影も長くなりますが、お母さんの顔は見えてきません。買い物袋の持ち手をきつく握り、懸命に床をのぞき込みます。ちょっと後ろに下がってもみます。あ、また少しだけ影が伸びました。健くんの背はますます曲がり、細い眉の間にはしわもできています。それでも見えてきません。お母さんは本当に笑っているのでしょうか。

「なにしてんの?」

 健くんの足が止まります。実に変な姿勢で止まってしまったことを健くん自身戸惑いつつも、その姿勢から動けないのでした。今度はつるつるの床も見えていません。靴の先なのか、膝小僧なのか、どこか分からないけれどもそれを見つめていなければならない気がして、曖昧な空間をじっと見つめています。

「疲れちゃった?」

 その声で顔を上げると、目の前にお母さんの眉毛がありました。毛の一本一本が目の上の丘の上に生えて、うっすらと何か黒い粉をかぶっています。

「健?」

 突然その二つの曲線が形を変え、持ち上がりました。健くんはその生き物がきゅっと縮む様に驚きました。残念なのは両手がふさがっていてそれに触りたくても触れないことです。あの黒いのはどんな感触がするのだろう。指が沈み込むくらい柔らかいのだろうか、それともあんなに縮むのだからやっぱり硬いのだろうか、硬いんだったらどのくらい硬いんだろう。ニケの毛より硬いんだろうか。ニケというのは健くんの家で飼っている猫の名前です。健くんは可愛くて仕方がないのですが、ニケはいつも気ままです。健くんの腕の中で喉をゴロゴロ鳴らしているかと思うとするりとそこから抜け出し、猫じゃらしで誘ってもまるで見向きもしないか、脚の下をくぐり抜けて最後にこちらを振り向いたきり、夜になるまで帰ってこなくなることもあるという有様です。その尻尾の動きはニケの気ままさをそのまま映し出したようにあるときにはくねりくねりと曲線を描き、あるときには行儀よく水平に空を切り、またあるときには触れると破裂しそうなくらい緊張しているのです。健くんはその尻尾を何度もなでてきました。しかしその感触はいつも違っていて、思い出そうとしても硬かったのか柔らかかったのか分かりません。

 突然目の前が黄色くなり、視界が激しくかき乱されました。黒い毛が消えます。と思うと現われました。消えます。また現れます。ちかちかと目まぐるしく明滅する景色。

「おーい?」

 波が静まりますと、ほっそりとした指の間からお母さんの顔が現れました。お母さんでした。お母さんの顔なのでした。

「いくよ」

 自動ドアが開きます。もう一つの自動ドアを潜り抜ければ外です。蝉の声、車の音、人の声。

 この間、洋二が地べたに転がって泣きわめいている様が目に浮かびました。ちょうどあそこでした。泣いて泣いて泣いて、絶叫して、それはもう健くんがかっこ悪いと思うくらい駄々をこねたのでした。そのときお母さんは怒りました。当然です。無駄遣いなんかできません。家にはお金がないのです。出入り口で大勢の人が見ていると思うと健くんは恥ずかしくて先に車のところで待っていたのでした。アスファルトのごつごつした石をいつまで見ていたか分かりませんが、気付いときには洋二は汚い顔で笑って飲みかけのオレンジジュースを片手に、お母さんと手をつないで戻ってくるのを見ました。車の中で大事そうにジュースを抱えながら眠りこける洋二の顔があれほど憎らしく思ったことはありません。大体地面に寝転がっちゃいけないのです。だから健くんは決しておねだりなんかしません。決して。そんなのお兄さんじゃありません。

 ああ、あの自動販売機が見えてきました。

 赤い背の高い自動販売機。得意げにふんんぞりかえっています。

 誰が洋二みたいにおねだりするもんか。

 しかし、健くん、自動販売機をにらみつけているうちに、だんだんと心細くなってきてしまいました。

 どっしりと構えている大きな機械は、健くんの気持ちなどどこ吹く風、それどころか「そんな風に僕をにらみつけるなら、もうジュース上げないよ」と、のんびりとした口調でそう言っているようにすら感じられるのでした。

 健くんは先ほどの元気はどんどんしぼんでいって、とうとう下を向いてしまいました。

 健くんは知っています。あの中には飲みきれないほどたくさんのジュースが入っているということを。コーラ、オレンジジュース、お茶、スポーツドリンク、それからもうちょっと大きくなったら飲んでみたいコーヒー。それらがもう二度と、一滴も口にすることができなくなるなんて……。

 健くんはおずおずと顔を上げました。

 自動販売機は先ほどと変わらず、そこに立って、たくさん並んだ飲み物を照らしています。

 気付くと、喉が鳴っていました。しかし健くんはかぶりを振ります。

 いけません、いけません。無駄遣いはできないのです。

 目をつむりました。輝くような赤は消えます。これで一安心。健くんはお兄さんです。

 しかし困りました。眼をつむったら前に進めません。お母さんはずっと先のほうにいるのでしょう。もしかしたらこうして目をつむって立ち尽くしている間に車に乗って健くんを残して一人で帰ってしまうのかもしれません。健くんは怖ろしくなり、目を開けました。

 すると……

 いました。まだ、すぐそこに、ちゃんと。

 息もつかずに走り出しました。自分がこんなに早く走れるのに驚きましたが、荷物があまりにも大きな音を出したので、心配になって小走りになりました。

 家に帰れば麦茶が待っています。ほんの少しの我慢です。

 これで本当に外へと続く自動ドアが開きます。暑い暑い蝉の声。べったりとした重い空気。

 健くんは肩越しにそっと振り返りました。

 自動販売機はそこに立っていました。これから健くんは暑い中へ出て行きます。自動販売機のところは涼しいでしょう。その表面に触れれば冷たくて気持ちがいいでしょう。健くんの好きな白い炭酸。高い位置にあるそのボタンは健くんの身長では届きません。しかしお母さんにだっこしてもらってそのボタンを押すと、ガチャンと音が鳴って、いつの間にか取り出し口にはジュースがあるのです。そのペットボトルの冷たさ! 表面の水滴も冷たくて、中のジュースがどれだけ冷たいか想像するだけでワクワクします。キャップをしっかりと握り(ここは慎重に、です。落としたら大変ですもの)、ゆっくりと開けます。プシュ! 中を覗き込みますと、小さな粒が白く湧いてきます。プチプチ、プチプチプチ、いい音がする。そしてペットボトルを両手でしっかりを握り、震えながら口元へ持っていき、上を向いてそれを傾けますと――

 ああ!

 健くんはもう一歩も前へ進めません。お母さんのほうを見やると、数歩先です。自動ドアが閉まり、お母さんの黒い髪が白く濁りました。喉は張り付き、熱い息だけが絶え絶えに漏れてきます。

 おばあさんが乳母車を押して自動販売機のそばを通り過ぎます。後ろで一つに結んだ白髪は半分ほど抜け落ちて茶色い頭皮が見え、顔はしわくちゃ、目も口もしわの中に埋もれています。叱られて、ごめんなさいと言いたくて言えないまま帰っていくかのように。立ち止まることもなく、急ぐでもなく、下を向いて足元にまだ地面が続いているから仕方なくそれを選び取っているかのように。

 自分の荷物がにわかに重くなったような気がしました。健くんはうつむきます。おばあさんの乳母車と、その不規則で規則的な足取りを遠くで聞きながら。

 何がしたいんだろう。家に帰ったらいいじゃないか。こんなところでジュースなんか買ってもらうのなんていけないことだ。お母さんが困るじゃないか。洋二はずるいなあ。いっつもなんか買ってもらって。でもなんでお母さんもいっつも買ってあげるんだろう。僕には買ってくれないのに。洋二のほうが好きなんだろうか。それとも僕のこと嫌いなんだろうか。嫌いだったらどうしよう。そんなんだったら絶対ジュースなんて買ってもらえないなあ。

 おばあさんが通り過ぎるのを眺めながら、どろどろの空気が体の中にまでしみ込んで重くなっていくのを感じていました。

「健?」

 ちゃんということを聞こう、そう思いました。

「どうしたのお?」

 あ。

 しかし、お母さんは健くんの同じ眼の高さで笑っていました。白い肌に赤い唇、黒い目に黒い眉。ふさふさ、ふわふわ。

 喉が渇いてきました。

「健?」

「うん」

 健くんはお母さんの白い首元を見つめ、もぞもぞと答えます。

「お母さん」

「なに?」

 そのとき、風が流れました。お母さんの髪がわずかに揺れるほどの柔らかい風。わんわんとがなり立て、全ての輪郭をくらませる夏の中で、その風は少しひんやりとして、優しいものでした。それは一瞬だけのものでしたが、健くんの中の湿った重い空気を少し溶かしてくれました。その隙間を埋めるように、ちりちりとしたものが沸き起こってきて、喉からせりあがってきます。

「お、おかあ、さん」

「なに?」

 もう喉元まで出かかっています。しかし、健くんはなかなか言い出せません。

「ん」

「なあに?」

 横隔膜がこわばってきました。健くんだって早く言ってしまいたい。ここはまだ店内ではありますが、涼しいというほどでもありません。出て行くお客さん、入ってくるお客さん、その度ごとにドアは勝手に開き、健くんが今いる場所を曖昧な暑さにしていきます。荷物を持つ手だってもう限界。それでも健くんはサンダルの中で足も指を曲げたり伸ばしたりするばかり。

 ジュース買って。ジュース買って。

 自動販売機の低い音が聞こえます。それにそっと目をやって、それから反対側の店の入り口をじっと見つめました。自動販売機は視界の片隅でいつまでたってもそっぽを向いています。ドアが開きました。人が出てきました。女の子とそのお母さんのような気がします。ドアとドアがぶつかる銀色。それは最後の隙間をちょっと急いで、ぶつかります。

 ジュース買って。買って、ください。

 ぶうん。

 自動販売機の音が大きくなってきます。健くんはたまらなく暑くなってきて、荷物を片手に預けてお腹や首や腕などを掻き始めました。右手で掻いたら次はその手に荷物を持ち替え、左手で掻き切れなかった箇所を。爪の中に黒いものがたまっていくと、それを親指の爪で掻き出し、親指の爪は人差し指で掻き出します。掻いても掻いても黒いものは出てきて、その際限なく出てくるために健くんはさらに強く速く掻いていきます。

 ぶううん。

 低い音は今や健くんの頭の中全体で鳴っています。健くんは掻き続けます。音が大きくなるたび、音が頭蓋骨を揺らすたび、強く、深く肌にこすりつけられる爪。床の上には眼に見えるほど垢が散り、荷物にもたくさんこびりついていきます。痛みを感じても、たまっていく汚いものを見つめながら、健くんはそれを止めることはできませんし、それどころか奇妙な面白ささえ感じてくるのでした。

 頭が変になりそうです。もはや振動は頭だけでなく心臓にまで達し、吐き気さえこみ上げてきます。そこから逃れようとするかのように健くんはどうしようもなく自分自身を削り取っていくのでした。

 一つ、また一つとかすがたまっていきます。クリーム色の床に移る黒い斑点。均等に散っているのでもなく、その偏った散り方は見ていても落ち着かないものでした。もしかしたら健くんはその落ち着かなさを埋めるためにこうしてせっせと垢を落としているのかもしれません。先の見えない完全性に向けて、せっせと。

「健、掻き過ぎ」

 不意に健くんの腕がつかまれました。

「どうしたの、言ってごらん、ほら」

 お母さんの顔は健くんの方を向いていましたが、一瞬だけ腕時計をちらと見ました。

「ほら、どうしたの?」

 健くんはもう怖くて仕方ありませんでした。今さらのように全身を掻きむしっていたことを後悔し始めます。

 と、そのとき。

 ピッ。ガコン。

 女の子がジュースを飲んでいます。オレンジジュースです。隣ではそのお母さんがニコニコしながらそれを見守っています。

 健くんはもう呼吸ができませんでした。目の前で刻々とその形と硬さを変えていく黒いふさふさと、女の子がさっきまで立っていた空間を交互に見つめながら、足元が揺れるのを感じていました。外から差し込まれる太陽の光はますます白く、広く健くんの視界を奪っていきます。黒も赤も色を失い、時間すらも死んでいくようでした。

 このまま死んじゃうんじゃないか。そう思ったとき、お母さんの手が肩に触れるのを感じました。

 お母さんの指は固く、かと言って乾いているのではなく、ひんやりとしていて、中に芯がある柔らかさもありました。それでも健くんの心臓の鼓動は今までにないくらい激しく脈打っていますし、お母さんの手の中にいることがかえって、健くんを目覚めさせたまま気を失わせているのかもしれません。そしてそのある種夢見心地の段階にまで緊張が高まっていったとき、遠くで雷が鳴りました。健くんはその鼓膜の底まで響く音にハッとしてガラス窓から空を見上げますと、空は真っ青でどこにも雷雲がないことに不思議さを感じました。それは音というより揺れと言う感覚に近いもので、健くんはもう一度その揺れを感じたいと思い空を凝視しました。自分の体の中心から揺すぶったものに魅せられて、健くんの眼は大きく見開かれました。

 そしてふと我に返ると、

「ジュース買ってください」

 あんなに苦しかった固まりが、するりと喉から抜けていったことに気がついたのです。これには健くん自身驚きました。目の前に濃く立ち込めていた霧がさあっと晴れていくみたいに、それまでも健くんの目の中に映っていたはずの外の景色が、本当に健くんの中に戻ってきました。一方のドアの外からは蝉が激しく鳴きしきり、もう一方からは音楽と人の声が聞こえます。太陽の光に何もかも真っ白に塗りつぶされていた世界は、再び色を取り戻しつつありました。赤が赤であることをこんなに鮮明に感じたことは今までに一度もありませんでした。そして黒。ふさふさ、ふわふわの――

「んー。駄目」

 では、ありませんでした。カチカチでした。

 先ほど晴れていった空間に吸い込まれていくように、むかむかした気持ちが入り込んできました。

「麦茶あるでしょ、帰ったら。ほら、早く帰るよ」

 細い白い手が丸い黄色い手を取ります。

 なんて冷たくて、硬い手なんでしょう。

 手と手が触れている箇所がかあっと熱くなり、そこから全身に向かってその熱が広がっていきます。冷たい手が冷たいほど、反発するように熱を帯びていきます。

 健くんが手を振りほどきます。

「やだ、買って」

 もう健くんはカチカチ以上にカチカチです。絶対に買ってもらうと決めました。

「買って!」

「駄目」

「何で!」

「家に麦茶があるって言ってるでしょ!」

「何で!」

「だから」

「何で!」

「だから、言ってるじゃん!」

「買って!」

「駄目!」

 お母さんも次第に声が大きくなります。健くんはちらと思いました。お母さんが僕のことを嫌いになったらどうしよう。嫌いになって、僕のことをここに置いて行ったらどうしよう。

 洋二が駄々をこねたとき、お母さんは最後には「じゃあ置いてくからね!」と言って背中を向けていってしまうのです。その瞬間洋二はぶたれたように新しく泣き喚いてお母さんに抱きついていきます。お母さんの脚に縋り付いて、「嫌だ、嫌だ」とこの世の終わりのように泣くのです。健くんは、それを見ていてちょっと洋二のことが可愛そうになると共に、健くん自身怖くなってくるのでした。しかしそういうことが起こることはまれで、大抵はお母さんが根負けします。洋二は欲しいものが手に入ってくしゃくしゃの顔で笑いを浮かべ、お母さんもまだ声は怒っているのに、顔はもう怒っておらず、それどころか笑っているようにも見えるのです。

 健くんは怖かったのです。本当に置いて行かれてしまったらどうしよう。一人この生ぬるい、吐き気すらこみ上げてくる場所。知らない人がたくさんいて、その人らすべてが自分のことを立ち止まることもなく、それでいて抜け目なく見ている。そんな場所に独りぼっちにされるのはとても耐えられません。そして置いて行かれた後は、その後は、一体どうなってしまうのでしょう。それ以上考えることができませんでした。だから時々声が弱くなるのですが、それでも自分の主張を相手にぶつけます。

「だってさ、いっつもさ、洋二ばっかり買ってもらってさ」

「だからどうしたの」

 洋二はずるいです。でもお母さんもずるいです。健くんは次第に涙声になってきました。

「いっつもさ、僕喉乾いてんのにさ、お母さん何も買ってくれないんだもん。でも洋二には買って、僕には買ってくれないだもん」

「分かった、じゃあ今度から洋二にも買わないようにするから」

「そうじゃない!」

「じゃあどうだって言うの!」

 思い返せば健くんは今日、とても頑張りました。お母さんに朝起こされることなく、お父さんよりも早く一人で起きて、お母さんの代わりにお父さんも洋二も起こしてあげました。お昼ご飯には苦手なトマトが出ましたが、それも残さず食べました。さらに買い物に行くと言われた時、洋二はお父さんと遊ぶと言ってきかなかったのに対し、自分はお母さんについていきました。本当は自分だってお父さんと家で遊んでいたかったけど、買い物を手伝ってお母さんを助けようと思ったのです。そして買い物の間中、カートを押したりしましたし、重い買い物袋だって今も落とさずにちゃんと持っているのです。ビニールの持ち手が手の平に食い込み、もう限界でした。

 その時、小さな鋭い思いがひらめきました。

 捨てちゃえ。

 しかしその考えが浮かんだ瞬間、健くんはドキリとしました。買い物袋の中には卵があったのです。このまま手を広げれば、袋はずり落ちて、卵はきっと割れてしまうでしょう。「日曜日は卵が安いの」そういつもお母さんは言っています。今日スーパーに来たのも、言ってしまえばこの卵を買いに来たのであり、この卵を駄目にしてしまうことはつまり、今日の買い物全てを駄目にしてしまうことになるんじゃないか、と健くんはそう思いました。たとえそうでなくとも、食べ物を無駄にするのは悪いこと。これもお母さんがいつも言っていることです。卵が割れて黄色のどろどろが袋の中に溜まって、他のものまで汚してしまう光景を想像して、健くんはぞっとしました。

「ジュースなんていつでも買ってあげるじゃない。ほら、早くしないとお肉腐っちゃう!」

 そんなことしたら絶対にお母さんに嫌われる。

 また心臓が縮こまるのを感じました。

「知らない!」

 しかし、お母さんの怒鳴り声に耐えている内に、少しずつ健くんの中に勇気がむくむくと沸いてくるのを感じ始めていました。お母さんの声の勢いが衰えてきているのが分かってきたのです。そうと分かると、健くんはちょっとずつ声を大きくしたり、身振りをより大胆にしたりしました。その上、わざと危なっかしくした腕の動きから、買い物袋が落ちやしないかとハラハラして、自分の要求を呑んでくれればいい、とさえ思いました。

 お母さんは僕の言うことをこれっぽっちも聞いてくれないのに、こっちだけがいちいちドキドキしたり、申し訳ない気持ちになったりするのは不公平だ。そう健くんは考えるようになってきました。自分のことを悪い子だという風に叱り、自身も自分が悪い子のように感じるたびに、心がゴムボールになったかのように、僕は全然悪くない、いつもいい子にしてるのに全然ジュースを買ってくれないお母さんの方が悪い、という反対の気持ちが跳ね返ってくるのです。そしてその気持ちは、お母さんが強く言えば言うほど、また健くん自身が強く罪悪感を感じれば感じるほど、同等の強さで飛び出してきました。

「ほら早く、帰るよ!」

「いやだ!」

 今や健くんは、帰るよ、と言われれば帰らない、帰らない、と言われれば帰る、という具合に、天邪鬼になっていたのでした。

 ですから、

「もう、健、危ないでしょ!? ちゃんと袋持って! 落ちたらどうすんの!」

 と言われた時、

「知らない!」

 健くんが荷物をぞんざいに抱え直そうとして、半ば意図的にそれを地面に落としてしまったのも、当然と言えば当然のことでした。

 白のビニール袋が嫌な音を立てて床に落ちた時、健くんを襲ったのは圧倒的な後悔の念でした。今度ばかりは取り返しのつかないことをしてしまった。一生お母さんから嫌われることになったのだ、と。もしかしたらお父さんに言いつけるのかもしれません。いえ、きっと言いつけるに決まってます。健くんでも、洋二くんでも、言うことをちっとも聞かない時にお母さんは必ず、お父さんに言いつけるのでした。そしてそれを聞いたお父さんは、太い眉毛を怒らせてゆっくりと近づいてくるのです。「言うことを聞かないなら外へ放り出すぞ。いいのか?」と。その様子に健くんは怖くなって言うことをちゃんと聞くのですが、生意気な洋二はたいてい訳の分からないことを叫び返します。するとお父さんは素早く洋二を捕まえて、ごめんなさいと泣き叫んで必死に謝っているのにもかかわらず、玄関から外へ放り出して、鍵をかけてしまうのです。健くんがお父さんやお母さんの言うことを聞くのには、こうした洋二の様子を見て、もしそれが自分の身に降りかかったら、と恐れていたためでもありました。

「ああ! 何やってんの!? なんでちゃんと持っとかないの!?」

 そして一際高い声で叫ぶお母さんの声を聞いて、健くんは、もう駄目だ、と思いました。

 夜になれば毛深いごつごつした腕で持ち上げられて、抵抗もむなしく、涙と鼻水で顔中汚くなりながら、外へと放り出されるのです。どれだけ戸を叩いても、呼び鈴を押しても中から返事はなく、固い冷たい玄関口の階段の上で所在なく足踏みし、その足の裏には砂利がくっつきます。玄関の明かりが届かない真っ暗な空間もそうですが、何より恐ろしいのは、街灯の明かりによってうすぼんやりとしている中を人が通っていくことです。いつか二階の窓から洋二の様子を見たことがありますが、通行人は皆、洋二のことを見ていくのです。ある人は一瞬だけ、またある人は首を回してずっと見ていきます。健くんにはそれが恐ろしくてならなかったのでした。

「あーあー、卵割れてたらどうすんの!? ねえ、健、聞いてんの? ねえ!?」

「知らない!!」

 しかし、健くん自身不思議に感じたことに、一際怒気を帯びたお母さんの甲高い声を耳にすると、先ほどと同じように反射的に言い返していました。絶望的な気分が変性し、自暴自棄とも呼べそうな卑屈さが健くんの中に生まれてきていたのでした。

 どうせもう外に放り出されることは決まってるんだ。どうせ僕なんか悪い子なんだ。みんな僕のこと嫌いなんだ。

 そしてお母さんのことがたいそう憎らしくなってきました。洋二や、お父さんや、お友達の皆に対してはとても優しいくせに、健くんにだけはなにかと用事を言いつけ、それができないと不満そうな顔をするお母さん。洋二の面倒、おもちゃの後片付け、お勉強、お手伝い。できることが当たり前。

 お兄ちゃんだからできるよね?

 その笑顔は嘘です。

 今目の前にある顔がそれを証明しています。

 健くんはその裏切りをとても許せない気持ちでいました。これから降りかかる罰なぞ知ったことかと思いました。


 昼下がり、眠りを誘う陽炎は、直視を許さない圧倒的な太陽と共に姿を隠し、残酷で優しい豪雨が地上に降りてきました。空気中のちりやほこりを洗い流し、物の輪郭をはっきりさせる一方、小さな声をかき消し、届かぬ声を更に届かなくさせます。

 白々とした照明の下、自動販売機のモーター音が、閉ざされた音の中でうなります。その大人しい低音を押しのけて響き渡る叫び声が二つ。

 背の高い女の人は半ば疲れ切った様子で、その腰くらいの高さの男の子は無茶苦茶に腕を振り回したり、足を踏み鳴らしたり、頭を振ったり、半狂乱の体で怒鳴っています。

 そして、女の人が一言、高らかに宣言して背を向けると、男の子は一瞬黙りました。

 が、次の瞬間、何かがはじけたかのように一段と大声で鳴き始めました。体の動きはますます激しく、自身の体力など構うことなく暴力的なものになっていきました。

 そして、その足が、足元に落ちていたビニール袋を蹴飛ばしました。

 女の人は少し狼狽しました。が、すぐに気を取り直し、今の行いに対して新たな叱責を加えました。しかし男の子はそれに構うことなく袋を蹴り続け、やがて踏みつけ始めました。腕をつかまれてもそれを振り払い、押しとどめられ少し後退させられても、その白い袋だけはどうしてもこの世から消し去らなくてはならないかのように、死にもの狂いで足を伸ばします。

 とうとう、男の子の頬に平手が入りました。

 鋭い音が鳴ると、それまで渦巻いていた暴力的な音はぴたりと止み、束の間、静かな、規則的な音だけが流れました。その後、一匹の獣は慟哭し、それがあまりにも哀れであったせいか、女の人はそれをそっと抱きしめ、許しを請い始めました。

 雨は止みました。陽の光が気を狂わせんばかりの蝉の声を呼び戻します。空は高く澄み渡り、平和な時を作っていましたが、それは、やがてまた眠気を誘うようなあの熱気が、地面から立ち込めてくることをも意味していました。ただ、これまでと少し違うのは、単調な油蝉の中に交じって、ひっそりと蜩の声がし始めていたことでした。消え入りそうになりながら、どこにも行く場所がないかのように、それでもそこにしかいられないかのように。哀れっぽい、実に哀れっぽい声でした。


 風が鳴っています。窓ガラスには、外の景色がただ映っています。近くの車や家は速く、遠くの山は遅く、ただ後ろに流れていきます。

 ちらとのぞいたバックミラーの中のお母さんの顔からは何も読み取れませんでしたが、ただ一つ分かるのは、健くんが一度も見たことのない顔だったということです。健くんはまた目を、自分の腕の中の冷たいペットボトルに戻し、シートに深く身を沈めました。

 健くんはついにジュースを買ってもらいました。

 しかし、不思議なことが起こりました。あんなに欲しがったジュースが全然いらなくなってしまったのです。

 涙と鼻水を拭いてもらい、ほこりを払ってもらい、手を貸してもらってしぶしぶ立ち上がった健くんは、「どれ?」と言う声に対して黙って一つを指差そうとしました。しかしどれを選んだらいいのか分からなくなってしまいました。コーラだろうがオレンジジュースだろうがお茶だろうがコーヒーだろうが、どれも同じに思えてきたのです。それどころか、買う必要を感じなくなりました。喉は渇いていましたが、飲み物が欲しいという感じが全くしません。家に帰って、それでもまだ喉が渇いていたら麦茶を飲もうとさえ考えてしまいます。しかしここまで来たら買ってもらわなくてはなりません。急に面倒くさくなりました。

 低い音を鮮明に聞きながら、自動販売機の見本を何度も見まわしました。その音は数え切れないほどたくさんある音の中の一つとして、健くんの鼓膜に正確に届いていました。それだけでした。健くんはじっくりすべての表面を目でなぞった後、ようやく一つの炭酸飲料を指差し、お母さんに買ってもらいました。取り出し口に手を入れてつかんだそれはとても冷たく、すぐに表面に水滴がつき始めました。仕方なく健くんはその場でそれを開け、正確に七回喉を鳴らしてふうと息をつき、また閉め、濡れた指をずぼんで拭ってから、もう大丈夫だというように下を向きました。

「はい、じゃ帰るよ」

 健くんは下を向いたまま、お母さんのかかとだけを見て、車までたどり着きました。

 電柱が通り過ぎていきます。窓枠に切り取られた風景は、棒が同じ速度で大きくなったり小さくなったりしながらいつまでも後ろへ流れ続けていく単調な動画でした。二の腕に触れる冷たい液体が、一つの意思をもって、車内の揺れに逆らうかのようにちゃぷちゃぷと動いているのが感じられました。しかし、それは炭酸が抜けて、ぬるくなって、ただの甘ったるい水になってしまうだけだということも分かっていました。家に着いて冷蔵庫に入れても無駄です。あと半分以上も飲まなければならないことがひどく億劫でした。


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