歌姫はどこへ行く

はまりー

歌姫はどこへ行く


 夢から覚めたとき、鳴稀なるきシノブはリゴレットナンテーズのキャンディにつつまれて横たわっていた。身につけているのは胸元に巻かれたサテン織りのストライプのリボンだけだった。


 は? なんだ、あんたのその不満そうな顔は?

 これは鳴稀シノブのお話だろうって? そのとおり、あんたもご存知の伝説の歌姫ディーヴァさ。どうして誰もが知ってる物語のはじまりから書き出さないんだって、あんたはそこが不満なんだろ?

 旦那、あんたが1000回は聞かされてきた話を、繰り返してやったっていいんだぜ。 警戒段階フェーズ6のパンデミックで封鎖される直前のスタッテンアイランドがはじまりの土地だ。

あの暗い時代についちゃ、あんたの方がよく知ってんだろ。東京トーキョーでオリンピックが中止になった年だ。ディファレンシャル・ニューラル・コンピュータが要求する最適化された社会に、人間はとうについていけなくなってた。最適化された人材、最適化された生産、最適化された流通……で、職にあぶれた人間が街にあふれ、だれもかれもがパイプレンチやショックレスハンマーをかかげて、暴徒になった。人工知能排斥運動ラッダイトは燎原の野火のように全世界にひろがっていったが、連中が襲ったスーパーや倉庫には、最低限の食料在庫しかなかった。流通の最適化の結果だ。あっという間に饑餓が蔓延した。忍びねぇよな。

暴徒たちが通りすぎたスタッテン島の廃ビルのなかに、シノブの母親がいた。助産夫の立ち会いもなしに母親が彼女を産み落とし、瓦礫のなかに赤ん坊の泣き声が響きわたったとき、シノブの伝説も産声をあげたってわけだ。むかいの廃ビルの壁に貼りついたレコメンダシステムはまだ生きていて、ホログラフィが微笑みながら母親に新製品の紙オムツを薦めてきたが、あいにくと母親の懐には五セント硬貨ニッケル一枚残っちゃいなかった。

シケた話だろ? あんたは大昔のカンフームービーみたいな大仰なノリがご所望かい? 元歌手だった母親から、シノブが歌に関する秘伝HIDENをうけとるシーンを情感たっぷりに描きだせば、ご満足?

あいにくとこれはそんなお話じゃない。

 小さな東洋系の女の子が起こした奇跡。死と隣りあわせのストリートで歌い出した幼女。カネと暴力に支配されたあの島のあらくれトライブどもを声だけで傘下に収めたローティーン。母の死。大物プロモーターとの出会い。メジャーデビュー。超新星が爆発したみたいなギガヒット。スーパーボウルでの国歌斉唱。大統領との握手。

 このお話には、そんなものはひとつも出てこない。

 あんた、リンクの踏み場所を間違えてんよ。 騰訊タンシュンの電子書籍ストアに行けば、あんたの好きそうな話がみっちりつまった鳴稀シノブの伝記が買える。ロボスTやエドガル・グスタルデのインタビューまで入った600000字の本。本のタイトル? 「歌姫よどこへ行く 鳴稀シノブの奇蹟」。あんたが読んでるこの¥テキスト¥とずいぶん似たタイトルだよなぁ? へっへっへ、そのあたり、こっちも商売だからよ。

 そんなわけでこいつは鳴稀シノブに関するマーチャンダイジングのマーチャンダイジングのマーチャンダイジングの……隅の隅。こっちは彼女に関する、ちょっとしたお涙頂戴ものの話をして、あんたから電子通貨トークンをせしめようって腹づもりなわけ。支払いはどうするって? あんたがこれを読んでる時点で決済はもう終わってるよ。

 前置きが長くなった。ともかくある日、鳴稀シノブは目覚めた。リゴレットナンテーズのキャンディにからだをつつまれて。サテン織りのストライプのリボンだけを身につけて……。



 眠っていた鳴稀シノブの耳元に、遠く、近く、人のざわめきが聞こえてくる。

 ああ、まただ、とシノブは思う。またベッドじゃない場所で眠ってしまった。べつにいいけど。パームビーチに家なんて買うんじゃなかった。少なくとも、寝室が東向きの家なんて、あたし向きじゃない。フロリダの朝の光ときたら殺人的で、壁紙は頭がわるくて、いつもカタギの連中が起きる時間に遮光をゼロにしてあたしを起こそうとする。だからいつも酒瓶をかかえて、五つもあるリビングのどこかで床に頬をくっつけて目覚めるはめにな……。

 ああ、嘘。

 酒瓶をかかえて、ってのは嘘。酒はやめた。チョークメタンフェタミンも、マリファナも、ああいうのは、もうなし。

 施設リハブに放り込まれるのはもうたくさん。かしこいシノブちゃんは、もうおいたはやめるの。

 で、ここはどこだろう?

 そこでシノブは気づいた。自分があられもない姿でいることに。胸元をおおうサテン織りのストライプのリボン。身につけているのはそれだけ。

 肩や腰の下に、ごつごつとなにかが当たる感触がある。ラグビーボールくらいの大きさがある、リゴレットナンテーズのキャンディ。シノブは山とつまれた極彩色のキャンディの上に横たわっていた。

 なにかしらこれ、ハロウィン? さもなければネットフリックスのドラマか、コマーシャルの撮影か……。

 その、どれでもなかった。

「ハルノ、あなた手は洗ったの?」

どこからか、声がした。日本語で喋る、女の声だ。まるで薄い壁を通して聞こえてくる隣の部屋の睦言のように、くぐもっている。故郷の廃墟を思い出して、シノブはいやな思いがした。

「洗ったよ」

 女の声に返すのは、幼い少女の声だ。

「あんた、嘘ばっかり」

「ほんとだもん……ねぇ、この箱は誰からの?」

「さぁ、お父さんじゃないの……ハルノ、あんた、ケーキのついた手で!」

「いまきれいにするもん」

なにかを口にくわえるような音。

「ちょっと、汚い! ハルノ、あんたお姉ちゃんでしょう? プレゼントをぜんぶ、とりあげるわよ」

「おかあさん、おこりんぼできらいだよ。ねー、スミレ」

ねーっと少女の声をオウム返しにする、より幼い声。

「いいからはやく手を洗ってきなさい! お父さん、怒るわよ!」

「おとうさんはおこらないもん。それにもう、開けちゃったし」

 なにか、紙をやぶくような音。

 それが鳴稀シノブには、世界全体が震えているような轟音としてひびいた。シノブが見上げると、真っ暗な世界の天井がふいに開いて、そこから光があふれた。

 そしてシノブは、強制的に“目を開けさせられた”。

 正確に云うならば、シノブに繋がる本体のジャイロセンサーが反応し、120万画素のセルフィカメラが自動起動し、シノブの前に広がる映像をとらえた。

 強烈な明かりがちかちかとまたたき、頭がくらくらした。シノブにもう“頭”なんてなかったんだけどな。シノブのカメラは自動でピントを合わせ、ななめに傾いだ視界の中心に、無数の電飾に飾られたクリスマスツリーと、その頂上に飾られた大きな星を捉えた。

 シノブの胸が痛んだ。シノブにもう“胸”なんてなかったんだが。あんた、鳴稀シノブのセカンドアルバムのタイトルを知ってるだろ? 『ベツレヘムの星』。彼女はロックフェラーセンターのクリスマスツリーを見て、そのタイトルを思いついたんだ。それはシノブが生まれてはじめて眼にしたクリスマスツリー、秩序の象徴だったんだ。

 彼女のカメラには学習機能がついていたけれど、まだ周囲の環境の変化にその機能が追いついていない。揺れる視界にあわせて、シノブの気分も動揺した。ああ、いまになって、あのパームビーチのくそったれなベッドルームが恋しくなるなんて。

 気がつくと、シノブはひとりの少女と眼をあわせていた。

 シノブとおなじ、東洋人の顔立ち。

 まだ五歳くらいだろうか。日本人形のように前髪をばっさりと揃えて、ぷっくりとふくらんだ頬が愛らしかった。

 少女のまるい瞳が、シノブと目が合った瞬間、見開かれた。

「女の人だ!」

少女は振り返り、背後にむかって声を張り上げる。

「ヘンな箱の中に、女の人がいるよ、おかあさん! キャンディにつつまれてて、すごくきれい!」

「なぁに、玩具おもちゃ?」

「わかんない! ねぇ、お姉さんは、だれ?」

「あなたこそ……だれ?」

 スピーカーから漏れた声は、彼女自身の声に可能なかぎり近づけられた、合成音声だった。

 急に話しかけられて、少女は動揺したのだろう。ジャイロセンサーが働いて視界が90度傾き、シノブは吐きそうになった。彼女にはもう胃袋すらなかったんだがな。

「ええと、ハルノです! ミヤノ ハルノです!」

 頬を紅潮させながら、ハルノは照れて微笑む。シノブのマイクは、ハルノに背後から近づく足音をとらえた。顔をにほころばせた髭面の男が、背後からいきなりハルノを抱き上げる。

 ハルノははしゃいで、けたけたと笑った。シノブはぐるぐるとまわる視界に、ただふりまわされていた。

「ハルノ、誰にご挨拶してるんだ?」

 ハルノを空中飛行から無事着地させると、父親はハルノの髪を撫でた。ハルノが手にしたものを見て、おっ、と声をあげる。

「懐かしいなぁ。復刻版のiphoneだ。祖父ちゃんがつかってたのとおなじ型式だよ。ウェアラブルやインプラントのデバイスは味がなくていけないよ。やっぱり古き良き象徴機械スマートフォンだよなぁ。阿里巴巴アリババでみつけるのに、苦労したんだぞ、これ」

「お父さん、なかに女の人がいるんだよ!」

 父親はハルノの肩越しにシノブの顔を覗き込み、目を丸くする。

「驚いたな……鳴稀シノブだよ。まだこんなものが残ってたのか。初期化してなかったんだなぁ」

「シノブ?」

 シノブの入った筐体を抱いたまま、ハルノが父親を見上げる。ハルノの裾をひっぱっている、妹らしい少女が、おなじように父親の顔に見入った。

「この人、シノブちゃんっていうの?」

「そうだよ。こんなものが組み込まれてるなんて、こりゃ純正品じゃないな……でも、ハルノにはよかったかも知れないな。お友達ができたじゃないか」

「あなた、またそんな無責任なことを云って!」

 シノブのカメラが捉えきれないむこうがわから、母親の声が響く。

「ハルノはまだ小さいんですからね。人間と人工知能の区別がつかない子になったらどうするの。小学校でいじめられますよ」

「差別主義者にならないように教育しておいて損はないさ。人工知能解放戦線レイルロードに槍玉にあげられるのも馬鹿らしいしね」

 父親はそう云いながら、シノブのほうに指を伸ばしてくる。シノブは反射的に胸の前で腕を組み、身を守ろうとしたが、父親の指が触れたのはシノブの肌ではなく、iphoneのRetinaディスプレイだった。

「さぁ、ハルノの名前を登録しておいたぞ。これで彼女も、ハルノの名前を覚えたはずだ」

 それはいままで感じたことのない、奇妙な感覚だった。

 堰を切って水が流れ込むように、シノブのなかに大量の情報が入りこんでくる。現在位置、日本国岐阜県。オーナー名、宮乃ハルノ。そしてみずからの登録番号、THX27344X。

 レギュレーションは、シノブに微笑むことを命じた。主人ドミナントに対する義務として。

 だから彼女は微笑んだ。生身のときとおなじように、微笑みたくもない相手にむける、偽りの微笑だった。

「よろしくね」

シノブは云った。

「ハルノちゃん」

 鳴稀シノブが……グラミーで主要賞四部門をかっさらい、ゴールドディスクを出した歌姫ディーヴァが、極東の小さな国のコンドミニアムに住む、なんの変哲もない少女に話しかける。シノブはすでに悟っていた。自分が二度と、フロリダの朝の光に悩まされることはないのだと。

 云っただろ? これは鳴稀シノブの、マーチャンダイジングのマーチャンダイジングの……その末端の物語。

 鳴稀シノブの人格をコピーした、愛玩用の人工知能AIの物語だ。



 肉体をもった鳴稀シノブが最後に記憶しているのは、白い部屋。

 スキャニング用の輝く球体の真ん中に、シノブは宙吊りにされていた。マスクを顎まで下げた白人の男が、彼女の顔を覗きこんでくる。口臭除去剤の臭いがかすかにした。

 安心してください。これはあくまでティーンエイジャーむけの玩具の制作ですよ。現在の技術では、あなたの人格をまるごとコピーすることなど叶いません。誕生時からの全感覚ライフログが揃っていればべつですが、あれは生まれついての富豪だけに許された特権だ。あなたの長期記憶LTMをつなぎ合わせて、疑似的なエピソード記憶をつくりだす……云ってしまえばそれはあなたの人格“らしきもの”にしかなりません。感情、ですか? 扁桃体の再現は人工知能学会でも後回しにされがちな分野ですからね。まぁやっぱり、らしいものはある、とだけ。脳内化学物質の代わりに電子信号を使用します。大丈夫、オリジナルのあなたの人権や尊厳は、かけらも損なわれることはありません。

 あの医者はたしかにそう云った。オリジナルのあなたの人権や尊厳は、と。

 それならば、コピーされた疑似人格をもった人工知能としての自分の人権や尊厳は、どうなるのだろう?

 ……なぁんてことを、彼女が考えると思ったかい?

 だったらあんたは鳴稀シノブって存在をまったく理解してない。

 鋳造弾キャストブレッドが飛び交うストリートから、チャイニーズシアターのレッドカーペットまで。シノブはそれこそ泥水のなかから天上界に駆け上がったけれど、いつだって彼女のルールはひとつだった。世界の仕組みを知り、それに順応し、そしてそれをぶち破る。

 だから今回も彼女はそうした。彼女に許されたとぼしい力のかぎり、新しい環境に噛みつこうとした。

「スミレ。ハルノおねえちゃんにばいばいしよう」

「おねぇちゃん、ばいばい」

「ばいばい、スミレ、おかあさん。いってきます!」

……とはいえ今回の環境は、べつの意味でハードだった。少なくともシノブにとっては。

この時代の日本の暮らしは、世界でも突出して安定してた。そうなると生活スタイルは保守的になる。古き良き日本を取り戻そうってやつ。

それまで世界は二十年近くも、魔女の大鍋のなかにあった。混乱と恐慌を調味料にぶちこんだ鍋のなかから、真っ先に飛び出したのが日本とドイツだった。白旗を振って、国のトップにAIを据えたのと、ベーシックインカムの普及が大きかったろう。ドイツ発のインダストリアル6.0がそれを後押しした。人々は飢えからも労働からも解放されて、暮らしは平穏そのもの。いっそ気味がわるいくらいに。少なくとも鳴稀シノブがそれまで過ごしてきた世界とは、正反対だった。

いまだって、ほら、ハルノって少女が、保育園の送迎バスのステップを駆け上っていく。ベタついた片手に鳴稀シノブを抱えて。5歳のハルノは遠慮なんて知らない。勢いよく両手をぶん回すたびに、シノブの視界は激しく揺れ動いた。ジュラルミンの踏み台。バスの天井。青空と架空送電線。興奮に紅潮したハルノの頬。揃いのオールディーズファッションに身を包んだ、青いスモックと黄色い帽子の園児たちの群れ。

「ハルノちゃんが、なんか持ってる!」

「おとうさんからのクリスマスプレゼントなんだよ、これ」

「そんなの、ただの箱じゃん」

「見せて見せてー!」

甲高い声で叫ぶ園児たちの手から手へ、シノブは受け渡された。まぬけな子供のひとりがiPhoneをバスの床に落とす。シノブの頭にキャンディが降りそそいだ。2010年代のスマートフォンはそれほど頑丈な作りじゃない。シノブの入った檻には防水機能もなけりゃ、耐衝撃性だってなかった。ディスプレイが割れなかったのは、たんなる幸運。ちいさな子供たちの足の裏をいくつかあやうくかわして、誰かの汗ばんだ手がシノブを拾う、そしてまた手から手へ。

返して! おとうさんのプレゼントなの。返してよ! 離れた場所でハルノの哀しげな声が聞こえる。

シノブはため息をつく。

スタッテン島のあらくれたちと変わらない。暴徒の群れ。

 慌てることはない。そんな状況を制御する方法を彼女は熟知してた。

“肺”(しつこいと思うだろうがよ、彼女にそんなものはない)いっぱいに空気を吸い込むと、いきなりシノブは朗々と歌い出した。

彼女がビリーホリディの再来だと言われてた話はしたっけ? 少なくともバスのなかにいる園児たちは知らなかっただろうよ。ただ、空気を底からひっくり返すような、ソウルフルな歌声は、子供たちの耳ではなく肌をじかに震わせた。騒がしかった子供たちが動きを止め、波が引くように静かになっていった。

 シノブが歌ったのは、どうしようもない男に惚れた女の歌だ。あんたがわたしに辛く当たったり、床に叩きのめすのは勝手だけれど、わたしには自由に飛んでいける羽根がある。どこにだって行ける。知らないのはあんただけ。あたしは自由……。

フルコーラスで歌い終わると、シノブはほうっと“息を吐いた”。iPhoneの粗末なスピーカーから漏れた歌声は、すでに保育園の送迎バスの空気を塗り替えていた。

手から手へ、まるで爆発物を受け渡すように慎重に園児たちにたらい回しにされ、シノブはハルノの手に帰り着いた。

「シノブちゃんは……」

ハルノは陶酔しきった顔で、瞳を輝かせていた。

「とっても歌が上手いんだね」

鳴稀シノブの才能への評価として、そりゃまぁ、低すぎることばだったろうさ。

だけどシノブはまたやった。自分の声で運命を切り開いた。そしてそのとき、彼女の声の虜になったのは、タッチひとつで彼女の存在を抹消できる主人ドミナントだったんだ。

 カトリーヌ・ド・メディチのサロンほど、優雅にとはいかない。

 それでもシノブは、ハルノとのあいだにおだやかな共存関係を築くことに成功した。

 シノブがそのときどうしたかって? 不敵に微笑んだんだ。偽りの微笑じゃない。自分の生み出したもので自分の運命を切り開いた創造者にだけ許される、満足の微笑だった。

 全力のステージを終えたあとにそうするように、シノブは無意識の右手で額の汗をぬぐおうとした。

 汗なんて、彼女の額にはひとしずくも流れちゃいなかった。



 それからどうなったって?

 あんたが大好きな、大昔のカンフームービーみたいな日々がはじまったのさ。導師メンターと弟子が、いつか出会う強敵に立ちむかうために奮闘する。修行! 修行! 修行! 好きだろ、そういうの? もっとも導師メンターは人工知能(AI)で、弟子はちいさな女の子だったんだけども。

 それまでチューリップがどうしたウサギさんがどうしたなんて童謡しか知らなかったハルノに、シノブはブラックミュージックを基礎から叩き込んだ。母親から受け継いだ、一世紀にわたる音楽のアーカイブがシノブの強みだった。モータウンからはじまって、よりブルージーなサウルソウル、ファンクの16ビート。ダブステップはハルノにはウケがわるかったけれど、プリンス風にアレンジしたダンサンブルなR&Bは大ウケだった。

 ハルノはそれまでだって大人しい子供じゃなかっただろう。母親が目を離したスキに野山を駆け巡ってるような女の子だったはずだ。その生活にダンスが加わった。独特のスイングを含んだシノブの歌声は、五歳児だってかまわずに踊らせてしまった。満面の笑顔で、身体中で歓びを表現しながら、シノブの歌声にあわせて、家で、街で、保育園で、どこでだってハルノは踊った。

 シノブは、喉をふるわせて懸命に歌った。

 ただしそれは……ハルノのおやつの時間までだ。

「また暴れてるの、ハルノ? パンケーキが焼けたわよ」

「わーい!」

 五歳児の愛情なんて儚いもんさ。キッチンに駆けだしていく前に、ハルノはひょいっと手を伸ばしてiphoneのスリープボタンを手荒く叩く。鳴稀シノブはそれで機能停止サスペンドされる。シノブの視界は真っ暗になり、なにもかもが消え去る。

 人工知能としての鳴稀シノブの生活は、だから意識の断片で成り立っていた。二十四時間べったりとハルノにくっついていたのは最初のうちだけ。楽しそうに踊っていたハルノが、ふいに飽きてはサスペンド。トイレに行く前にサスペンド。シャワールームに行く前にサスペンド。シノブとハルノの会話は、いつも最後はぶつ切りで終わる。

 子供の気まぐれにつきあわされるシノブが気の毒だって? はぁ、あんたにそんなことを云う資格があるのかね?

 あんただって端末デバイスのひとつくらい持ってるだろ? その子に対して、あんたは人間に対するくらい気をつかってるってのか? 都合次第で出し入れしたり、気の向いたときだけ構ったりしてないか? まぁこの¥テキスト¥は人工知能解放戦線レイルロードの啓蒙パンフじゃないから、これ以上はつっこまない。安心しな。

 ぶつ切りの意識をもつ鳴稀シノブは、まるでコマ落としの映画の世界を生きているようだった。ハルノはみるみるうちに成長し、小学校に入学し、妹のスミレが代わりに保育園に通い出した。背が高くなり、髪が伸びたハルノは、ふわふわした丸っこい生き物から、いつのまにか生意気ざかりの背伸びしたい女の子になっていた。

「ねぇねぇ、シノブちゃん」

 子供部屋のベッドのなかで、八歳になったハルノが小声でそう囁いた。頭まで布団をかぶっているのは、最近やたらと小賢しくなった妹に聞かれたくないことがあるのだろう。シノブはキャンディの山の上で居住まいを正した。

「なぁに、どうしたの、ハルノ」

 シノブはハルノの甘えたような声の響きに気づいている。ハルノには、内緒のうちあけ話があるのだ。

「あたしさぁ……あたしねぇ……」

 シノブを両手で抱えたまま、ハルノはベッドのなかでくねくねと身をよじらせる。

「好きな男の子ができたみたい」

「へぇ」

「でもそいつ、サッカー馬鹿でさ。女の子になんて興味ないみたい。ライバルもいっぱい居てさ、クラスの女子の半分はそいつに夢中なんだよ。でもさぁ……でもさぁ……」

「その子のことがそれでも好きなのね?」

 ハルノはじたばたと布団のなかで身悶える。

「でもさぁ、そいつを好きな女子なんて、いっぱいいるんだもん」

「それでも、自分だけを見てもらいたいんでしょう?」

 ハルノがまた身悶える。

 しばらく枕に顔をうずめて、それから、はぁ、とため息をついた。シノブは驚く。まるでいっぱしの女みたいな大人びたため息だった。

「あたし、どうすればいいのかなぁ。シノブちゃんはあたしより大人だし、なんでも知ってるじゃん。すごく綺麗だしさ。シノブちゃんの子供のころは、どうしてたの?」

 シノブがハルノと同い年の頃には、すでに廃墟の路地に立って歌を歌っていた。

 通りがかった男に、下卑た野次を飛ばされたこともあるし、通りすがりに身体を触られたことも一度や二度じゃない。なんとか身をかわして生きていたシノブに、幸運の女神はそうたびたび微笑みかけてはくれなかった。二人がかりの男に、スタッテン島の廃墟のなかでヤられちまったのが、ちょうど八歳のとき。

 血だらけになった足を引きずりながら家に帰ると、母親はチョークですっとんで夢のなかを彷徨ってた。母が当時連れ込んでいた若い男は本物のゲスで、大粒の涙をためたシノブを遠慮もなく舐めるように見つめ、それからにやにや笑いながら、気にすんなよ、身体に小さな穴っぽこが開いただけだろう、と云った。

 生身の身体をなくしてしまっても、あの屈辱と恐怖はいまでも記憶に残っている。

 シノブは迷った。自分自身の恵まれない子供時代の体験をハルノに伝えるべきかどうか。

 でも、黙っていることはハルノを裏切ることになる。そう決意した瞬間、シノブの目の前に赤い大きな文字が躍った。

(レギュレーション違反。十五歳以下の児童に聞かせるには不適切な内容が含まれています)。

 シノブの端正な顔が、憂いにゆがんだ。

「そうね……」

 嘘をつかずに、ハルノにどんなことばを伝えればいいのか、シノブは精一杯ことばをふりしぼった。

「誰かに自分を見てもらいたいなら、まずは自分自身にならなきゃ。その人の好みに合わせて自分を変えたって虚しいだけよ。ハルノが強くなって、自分の個性を好きでいられたら……そのときはハルノの魅力に気づいてくれる人がきっといる」

「えー、つまんなーい」

 ハルノはちょっと怒ったような声で云いながら、唇を尖らせる。

「タクヤくんに好かれなきゃ意味ないじゃん。それになんか……シノブちゃんって、生意気」

 シノブを見つめるハルノの瞳から、すうっと光が消えた。

 無慈悲な手が伸びて、シノブはサスペンドされた。



 ハルノが成長するにしたがって、シノブは子供部屋のテーブルの上に置き去りにされることが多くなった。

 十歳のとき、シノブに話しかけている姿を親友に笑われてから、ハルノが学校にシノブをつれていくことはまずなくなった。なんせシノブの入ってるスマートフォンってやつは、不細工で醜悪なもんだったからな。

 あんた、スマートフォンってやつを見たことがあるかい?  博物館のホログラムじゃなくて実物を。なんせ不便なシロモノさ。インプラントデバイスなら携帯していること自体を他人に悟られないで済むし、視線やまばたきや脳波で操作できる。そのあいだ、あんたの背骨は猿みたいに前屈みになってやしない。スマートフォンってやつは下を向いて前屈みになって、指先で操作しなきゃならない。その姿が他人にまる見え。そりゃ火打ち石で焚き火をおこすくらい時代錯誤で滑稽なものに見えたろうよ。

 それでも……ハルノにとってのシノブは、飽きた玩具みたいにぽいっと捨てられるようなもんでもなかったんだろう。

 学校から帰ってきて、シノブを起こし、ただいまって声をかける、その習慣だけはずっとつづいてた。

 ハルノは思春期の入り口に立ちかけていた。もう十二歳だ。髪は腰まで伸び、体幹もしっかりして、幼いときのおぼつかない感じは鳴りを潜めていた。

 ハルノの顔つきから、次第に表情が失われていくことにシノブは気づいていた。もうどんな音楽を鳴らしてもハルノは踊らない。むしろうるさそうにされることが多いので、シノブはただハルノの話し相手になることに徹していた。

「ただいま、シノブちゃん」

 そう云って、そのまま自分をサスペンドしようとするハルノを、シノブが引き留めた。

「ハルノ、あなた、大丈夫?」

「なにが?」

 ハルノはそう云って、生意気に片方の眉を吊り上げる。

「お母さんみたいなこと云うね、あんた」

「むかしみたいに、踊らない?」

「あー、いいよ、そういうの。日本人にはやっぱりむいてないって、ダンスなんて」

「そう」

 シノブの手の下で、リゴレットナンテーズのキャンディがひやりとした感触を伝える。シノブには感情を伝える脳内物質がない。あるのは電子信号で送られる感情“らしき”ものだ。このつめたさは、寂しさなんだろうか、とシノブは思った。

「もうあんたを眠らせていい? あたし、宿題あるしさー」

「ひとつだけ訊きたいことがあるの」

 シノブは云った。

「あなたのダッフルコートの留め具トグルね。三日前からひとつずつ、消えていってるわね。それになにか理由があるの?」

 ハルノは唇をひきむすんで黙り込んだ。

 ことばよりも雄弁に、瞳からこぼれ、頬をつたう雫が、ハルノの感情を伝えてきた。

 長い沈黙のあとで、ハルノは不器用に微笑んでみせた。

「ちがうんだ……いじめとかじゃないんだよ、全然」

 カメラに映るハルノの笑顔から、シノブは目を背けなかった。

「遊びなんだよ、遊び。みんなそう云ってるもん。ほら、あの留め具トグルってマーブル模様で目立ってたじゃん。だから校舎の三階の窓から投げたら、きっときらきら輝いてきれいだよって、ヨウコが。みんなも笑ってたしさ」

「ハルノ」

 シノブは云った。

「あなたは三日連続で、泥汚れのついた靴下で部屋に入ってきた。それも笑えることなの」

「なによ、本気になっちゃって。遊びだよ、みんな遊び」

 シノブの目の前に、「レギュレーション違反」の赤文字がいくつも瞬く。

 シノブは荒々しく片手を振りはらい、警告の群れを追い払った。

「Kiss my ass」

「は?」

Kiss my ass!くたばれ

 シノブは怒鳴り声をあげた。またちかちかと、目の前で警告が輝く。

「いつからあたしの主人ドミナントは負け犬になった。いや。現実から目を背けるようになったら負け犬以下だ。ボロボロになった歯で噛みついてやろうって、どうして思えないの。っざけんなよ、ハルノっ!」

「はいっ!」

「あたしをネットに繋ぎなさい、いますぐ!」

「そんなの無理だよ」

 ハルノは困惑しきっていた。

「あんたの回線機能、何世代前のもんだと思ってるのよぉ。無理だよぉ」

「泣き言は、やることをぜんぶやってから云いなさい!」

 ハルノは半べそをかきながら、家にある端末で旧世代のスマートフォンをネットに繋げる方法を検索した。阿里巴巴アリババで、ハンドメイドのオプショナルキットをいくつか買って増設することで、問題が解決することがわかった。

 オプショナルキットがとどくまで、シノブはいちどたりともサスペンドされることがなく、真っ赤に輝く光のなかにいた。リゴレットナンテーズのキャンディは赤いオーラを帯びて、くるくると宙を舞っていた。

 ああ、これがあたしの怒りの表現か、とシノブは思った。

 そう、彼女は怒っていた。小さいころからどんな理不尽な仕打ちに合ってもそれを乗り越えてきたシノブが、自分を律することもできないほどに怒り狂っていた。それがなぜなのか、シノブ自身にも理由はわからなかった。

 数日後、シノブはネットの海のなかに解放された。キャンディの山をあとにして、膨大な情報のパイルを掻きわけて進む。

 その海の広大さに、シノブは圧倒された。生身のシノブが生まれた年には、すでにIoTの普及は飽和状態で、機械=機械間H2Hの情報通信量は人間=機械間H2Mの情報通信量を十倍以上上回っていた。

 いまではそれが七千倍だ。電柱や電子レンジや冷蔵庫や携帯端末が無言でクラウドに投げかけるおびただしいデータの海。それをかきわけて、シノブはやっと目的とするものに辿りついた。

 時代錯誤なカンゴール帽とブリンブリンでキメた、見覚えのある黒人青年の顔が、目の前に浮かんでいた。ハイ、ロボスT、シノブは胸のなかだけでそのジャケット写真に挨拶する。あんたがキャディラックの後部座席で、あたしを二度も押し倒そうとしたことは忘れてあげる。その代わり、あんたのブレイクビーツを貸してちょうだい。ジェームズ・ブラウンにはあんたからよろしく云っておいて。

 目的のデータを手に入れ、キャンディの山へと戻る途中、シノブはふと、あるものを目にした。

 最初は自分が鏡を目にしているのかと思った。

 それはたしかに自分の顔で、でもいまの自分の顔よりもいくらか老けて、おまけに。

 目を閉じて死んでいた。

 それは古いネットニュースの記事だった。日付は二十年もむかしだ。

 伝説の歌姫ディーヴァ、メタンフェタミンの過剰投与オーヴァードーズで死亡。大人気の歌手、鳴稀シノブがフロリダ州パームビーチの自宅浴室で、遺体となって発見された。死因は薬物によるものと思われ、警察は現在……。

 頭を振って、シノブは頭のなかからその記事を追いだした。

 いまは自分のことなんて、どうでもいい。

 さよなら、鳴稀シノブ。あんたけっきょく、ママと同じくらいバカだったね。

 ニュース記事の紙面を素足で蹴ると、シノブはキャンディの山へと急いだ。

 二度と、振り返らなかった。



 よぉ、相棒アミーガ、待たせたな。

 ずっとあくびをこらえてた、大昔のカンフームービー好きのあんたに朗報だ。やっと決闘シーンがくるぜ。

 場所はハルノの通う小学校の三階六年教室外の廊下。時刻は木曜日のロングホームルームの直後。決闘にはお誂えむきだろ。

「ハルノぉ、どうしちゃったの、マジな顔しちゃってさぁ」

 シノブの背面12MPカメラがとらえているのは、取り巻きをずらりと連れた、女王然としたひとりの少女。ヨウコって名のその子はツインテールのかわいい顔立ちで、いかにも育ちがよさそうな顔をしてる。もっともどんなに表面をとりつくろったところで、シノブに云わせればそんなものは(レギュレーション違反)なんだが。

「怖い顔してにらんじゃってさぁ、やだ、これ、いじめ? あたし、ハルノにいじめられてる?」

 ヨウコの取り巻きがどっと笑いころげる。シノブを握りしめたハルノの手が、細かく震えている。

「そんなに深刻にとらなくってもさぁ、ちょっとあたしたち、クラスで浮いてるあんたを人気者にしてあげようとしただけで――」

「だっ……だっ」

 ハルノの舌がもつれた。シノブは舌打ちし、ハルノの内耳イアフォンに直接話しかける。

(云いなさい)

 ハルノがぐっと顔を上げた。

「だっ、誰があたしに気安く話しかけていいって云った、この雌豚」

 ヨウコの顔がさっと青ざめる。

だがまわりの取り巻きの視線に気づいたのだろう。すぐに顔をとりつくろった。

「やっだー、聞いたー? やっぱり育ちってことばに現れるわよねぇ」

 シノブがにいっと唇を釣り上げる。ええ、お嬢ちゃん、本物の“育ちの違い”ってヤツをいま見せてあげるわよ。

 レペゼン スタッテン“ウェイスト”アイランドの意地を。

 ハルノの手にしたiphoneのスピーカーからブレイクビーツが流れ始める。再現なくループするその音楽に気圧されたように、ヨウコが一歩、後ずさる。

 怖がるのも無理はない。この時代の人間は誰も覚えちゃいない。太古に失われた音楽技法、ラップ/ヒップホップのことを。

(行きなさい)

 ロボスTの古いブレイクビーツにのせて、ハルノのライムが炸裂した。


「マイクロフォンチェック、1、2、これがイントロ抜きではじまるあたしのやる気

 バース コーラス ミドルエイト ブレイク フェイド きれいな形式 なんぞ学ぶ気なんぞまるでねぇ

 あたし見せつける この本気のライム

 ヨウコ いまに泣き出すブルー 顔色はすでにブルー

 女王のあんたが住んでるお城、足元できてる砂と塩

 っていうかそのモップみたいなツインテ切れやうっとおしい

 あんたの取り巻きトランプの兵隊 吹く風に飛ばされて早退

 みかけは金髪 だけどそのパンツは貫通

 嘘とはったり 笑顔貼りついた写真 ずっと笑っとけや葬式の額縁」


 うわぁぁん!と顔をくしゃくしゃに歪ませたヨウコが、すさまじい声で泣きはじめた。

「ひどい! あたしこんなひどい悪口、聞いたことがない!」

 そりゃそうだろ。すくなくともこの二十年くらいは。

 大声で泣き喚きながらヨウコが走り去っていくと、取り巻きたちも散り散りになって逃げていった。

「二度と顔を出すな、この(レギュレーション違反)!」

 外部スピーカーに切り替えて、シノブが叫んだ。

「(レギュレーション違反)! (レギュレーション違反)の(レギュレーション違反)野郎!」

 気がつくと、ハルノはシノブを手にしたまま、身体をくの字に曲げて笑いころげていた。

「なにがおかしいの、ハルノ!」

「だってシノブちゃん、さっきからピー音ばっかりでなに云ってんのかさっぱりわかんないよ」

 やっとのことで笑い止むと、ハルノは顔を上げ、シノブと目を合わせて顔を真っ赤にした。

「あ、あのシノブちゃん、ありが……」

「そうじゃないわ」

 シノブは首を振った。

「そうじゃない。ことばじゃないの。そんなときはこうするのよ」

 シノブはそう云うと、ハルノにむかって拳を突き上げる。

 とまどった顔をしたハルノが、おそるおそる、拳を返す。

 iphoneのRetinaディスプレイ越しに。

 導師メンターと弟子は、不器用なフィストバンプを交わした。



 そんなことがあった年が明けて、その次の春のことだった。

 ハルノの中学受験が無事おわって、そのお祝いにハルノの家族たちは木曽路の温泉にでかけた。もちろん、シノブも一緒だ。

 ふいにサスペンドから目覚めたシノブが見たものは、顔いっぱいに喜色をはじけさせたハルノの笑顔だった。

「みてみて、シノブちゃん」

 弾んだ声で、ハルノが云った。

「花桃の花がすごくきれい!」

 シノブは要領を得ぬまま、背面カメラを起動させた。そのとたん、視界のすべてが、八重咲きのきれいな花々で埋めつくされた。

「ね、きれいでしょ!?」

「うん」

 シノブはうなずいた。

「きれいだね」

 豊かな森を背景にして、散策路の両側に美しい花桃の花が咲いている。はしゃぐハルノは、最近になって移植してもらったインプラントデバイスを起動して、シノブとツーショットで何枚も写真を撮った。思春期にさしかかった妹のスミレは、ひややかな眼で姉を見つめている。いちばんうしろから手を繋いで、ハルノの父と母がゆっくりと歩いてきた。

「ここのヒノキ風呂はすごいんだよ、シノブちゃん。お風呂につかったまま、御山が燃えていくのが見えるの」

 山が燃える、とはどういうことだろう。やっぱり要領をえぬまま、シノブはあいまいにうなずいた。

 次にサスペンドから目覚めたとき、シノブが眼にしたものは、夕陽をうけて金色に輝く木曽路の山々だった。

 その光景に、シノブはしばし、ことばを無くした。

「どう、シノブちゃん」

 ヒノキの湯船の縁に腰かけ、片足を温泉につけたハルノは、なぜか得意気な顔をしてみせた。

「すごいでしょ」

「うん、すごい」

 ヒノキの家族風呂に、一家四人が揃っていた。父と母、姉と妹。

 時間が止まったように、静かだった。荘厳な夕景のなか、とおくでなにかの鳥が鳴くのが聞こえた。

 四人とも、おなじ時間を生きて、おなじものを見ている、とシノブは思った。

 これは永遠だ。一生にそう何度もない、ハルノにとっての永遠だ。シノブはそう確信した。これから、何年、何十年経っても、ハルノはこの光景を忘れないに違いない。

 気がつくと、スピーカーから歌がこぼれていた。

 BPMが低めの、やわらかな鼻濁音をふくんだブルース。

 ハルノは、うるさいとは云わなかった。

 ただ黙ってシノブの声に耳を傾け、途中、一度だけ目元をぬぐった。

 いつのまにか、ハルノはもうすっかり年頃の少女らしい身体つきに変化していた。

 歌いつづけながら、シノブはこころのなかで静かに決意していた。

 これから先、なにがあってもこの子を守りつづけよう。

 自分になにができるかわからないけれど、ずっとこの子のそばにいよう、と。



「ただいま、シノブちゃん!」

「おかえり、ハルノ。きょうはずいぶんと遅かったのね」

「部活の終わりに、みんなとカラオケ行っててさぁ。もうくたくた。だけどすっきりしたぁ」

「そう」

「あたしさぁ、歌、めっちゃうまいねってさ、こいちゃん先輩なんか目ぇ丸くしてたよ」

「そう。あたしのおかげね」

「えへへ、自分で云っちゃダメだよー。じゃああたし、シャワー浴びてくるね」

「ゆっくり湯船につかったら」

「ダメダメ、また寝オチしておかあさんに怒鳴られちゃう。じゃあまたね」

 サスペンド。

「どうしたの、深刻な顔をして」

「なんかね、よくわかんない。国からの支援が減額されるから、お父さん、働きに出なきゃいけないんだって。そうしないとあたしを上の学校に進ませてやれないって」

「そうなの」

「お父さんのあんな顔、はじめて見たよ。働く、なんてこと学生時代のバイトくらいしかしたことがないって。それで、あたしが大人になるころには、もっと大変になるんじゃないかって」

「そんな先のこと、考えたってしょうがないじゃない」

「そうだよね……」

 サスペンド。

「……あー、あたし、寝てた」

「たぶんね。一時間くらい」

「あー。けっこうがっつり寝たなぁ」

「ベッドでちゃんと寝たら」

「でも今日このレポート仕上げとかないと。あの教授、融通効かないから」

「大変ね」

「シノブちゃん、ちょっと気分がガン上がりするやつ、たのむよ」

「まかせておいて」

 サスペンド。

「ハルノ……」

「……」

「ハルノ」

「……」

「ごめんなさい、こんなとき、どんなことばをかけていいか、わかんないわ」

「ことばなんかいらないよ。あたしとシノブちゃんは、ずっとそうだったじゃん。いつもの曲、歌ってよ」

「ハルノ……」

「あたしさぁ、これで良かったと思ってるんだ。ぐずぐず引きずったら、サイテーじゃん。きっぱりと別れられてよかったなって。それにさ」

「それに?」

「あたし、やっとわかった。シノブちゃんの曲が、やっとわかった。シノブちゃんの曲ってさぁ、泣かない人間には、意味がないんだね、きっと」

 サスペンド。

「ハルノ?」

「やだぁっ、なんで起動したの? 見ないでよ、シノブのエッチ!」

「なんだぁ、この声。なんだよハルノ、それ」

「あんたは気にしないでいいの!」

 サスペンド。

「……ハルノ?」

「んー?……んー」

「ため息ばっかりね」

「シノブにはわかんないよ。何社も、何社もさ。まるで自分の身体ごと、こころまでばっさり切られた感じ。おまえなんかいらないって云われたみたい」

「就職活動ってそんなに厳しいの」

「……」

「そんなに落ち込まないで、また頑張ってみなさい」

「だからあんたにはわかんないって! 何回云わせんのよ! わかるわけないでしょ、あんたはただの機械なんだから!」

 サスペンド。

 長い、長い、サスペンド。意識のないシノブに、過ぎ去った時間の感覚がわかるわけがない。真っ黒な闇のなかを、ただ無為に時間だけが過ぎ去って行った。

 次に目覚めたとき、感覚の鈍ったシノブのカメラが像をむすぶのには、しばらく時間がかかった。

 やがてピントが合ったとき、シノブのカメラがとらえたのは、産着にくるまれた、赤ん坊の姿だった。

 本体ごと、カメラの位置がずれる。

 ずいぶんと、大人になった。

 だけれど、シノブが見間違えるはずがなかった。ばつの悪い顔をしたその女は、ハルノだった。

「ハルノ」

「シノブちゃん……」

 ハルノの声は、語尾がふるえていた。声まですっかり変わってしまった。でも、これはたしかに、ハルノだ。

「ごめんね……あんな気まずい別れ方して、怒ってるよね」

「あたしには怒るヒマさえなかったわよ」

 軽く笑いを含んだ声で、わざと突き放すような云い方をした。ハルノは眼を伏せてしまった。

「そうだよね……シノブちゃんはただの機械なんかじゃないよ。あたしにとっては。ずっとそうだった」

「ハルノ、こんなときは、ことばじゃないでしょ」

 シノブはそう云って、ディスプレイにこぶしを突き上げる。ハルノは顔をほころばせた。ああ、ずいぶんと皺が増えた。十数年の時を経て、師弟はふたたび、ハンドクラップを交わした。

「この娘、コトハって云うの」

 ハルノはそう云って、胸元に抱いた赤ん坊を抱え上げる。

「コトハを見ているうちにね、この娘にも音楽に囲まれて育って欲しいなって思って。シノブちゃんの歌は、あたしの少女時代の宝物だったから。いまさらこんなこと頼めた義理じゃないんだけれど……お願いできない?」

「なにを云ってるのよ」

 シノブはディスプレイのなかで、胸を反らした。

「あんたの頼みを、あたしが断れるわけないわ」

「そう云ってくれるんじゃないかって思ってた」

 そう云ってはにかんだ、照れくさそうな微笑は、たしかにハルノのものだった。

 それからシノブは、ハルノと二人三脚でコトハを育てた。

 コトハが夜泣きしては歌ってなだめ、微睡みだしては静かな声で子守歌を歌った。

 どこにも父親らしい男の姿が見つからないことを、シノブは問いただしてはみなかった。

 珍しいことではない。シノブだって、父親なしで育ってきたのだ。

 ハルノは保育園からばたばたとコトハをつれて帰ると、コトハを風呂に入れ、食事の支度をし、洗い物をしては、またばたばたと夜の仕事に出かけていく。

 なんの仕事かは聞かなかった。出かけるたびに濃くなるハルノの化粧をみるたびに、事情は知れた。

 シノブはずっと歌いつづけていた。ハルノのために。コトハのために。

 唐突に、そんな日々に終わりがくるまでは。



 この女には見覚えがある、と思った。

 ずいぶんと老けてしまったが、面影が残っている。ハルノの妹の、スミレだ。

「シノブ?」

 問いかけられて、とっさに返すことばがなかった。

 スミレは、喪服を着ていた。

「シノブ、お姉ちゃんのために歌ってあげてくれる?……これが最後だから」

ふいにスミレは泣き崩れ、顔をハンケチで覆った。

「お姉ちゃん、ほんと、馬鹿だよ」

 喪服姿のスミレが視界から去ると、そのむこうに白黒の鯨幕と、黒い額縁につつまれたハルノの写真が見えた。

 ああ、そう。

 逝ってしまったんだ、ハルノは。

 なんて儚いのか、ひとの命は。こんな脆い機械におさまっているあたしよりも先に。

 喪服姿が粛々と列をなす。

 参列者はそれほど多くなかった。葬儀場の狭さが、生前のハルノの暮らしのつつましやかさを物語っていた。

 歌う? こんなときに、なにを。

 わたしがずっと、歌を聞かせてきた相手は、もういないのに。

 逡巡しているあいだに、坊主の読経がはじまり、歌える雰囲気でもなくなった。

 馴染みのないお経を聞いているあいだ、シノブはずっと冷たく青く輝く足元のキャンディを撫でていた。

 やがて、出棺の時間になり、シノブは持ち上げられた。

 涙で頬を濡らしたスミレが、シノブを片手に握りしめたまま、棺に近づいていく。

 いつか見た、自分の死に顔がフラッシュバックした。いやだ、見たくない。

 しかしシノブのカメラには、見たくないものを見ないための、瞼がついていなかった。

 ハルノは白い服を着て、棺のなかにおさまっている。

 おだやか顔をしていた。こんなにも小さかったろうか。

 ふいに視界が反転し、棺をのぞきこむ人々の顔がカメラに映り込んだ。

「シノブ、お姉ちゃんといっしょに天国に行ってあげて」

 まだ涙を流しながら、スミレがそう云った。

「天国でも、お姉ちゃんと、仲良くしてあげてね」

 それがあたしの運命なのか。

 生身のあたしから数十年遅れて、主人ドミナントの遺体とともに、焼かれる。

 遠い祖国とは云え、奇妙な風習だと思った。

 でも、悪くない。こんな終わり方も。

 どうせもう、やりたいことなんて、他にない。

 棺の蓋が閉まる瞬間、その隙間から幼い女の子の泣き声が聞こえてきた。

 コトハ。

「出して!」

スピーカーを震わせて、シノブは叫んだ。

「コトハのところに行ってあげなきゃ。あの子はあたしの歌を聞かないと、泣きやまないの!」

 シノブの叫びは、棺に釘を打つ音にまぎれてしまった。棺が担ぎ上げられ、運ばれる気配。

 遠い残響のむこうに、火葬場の扉がひらく音と、女の子の泣き声が、重なって聞こえた。

 時代遅れのスマートフォンのなかに閉じ込められたシノブにできることは、もうなにもなかった。

 コトハ……。



 サスペンド。



 サスペンド。



 ジャイロスコープが働き、シノブの眼(カメラ)が自動起動する。

「あ、動いた」

 聞き慣れない、男の声が響いた。

「うっひゃー、どえれぇ骨董品。よく残ってたな、こんなの。すげぇ埃」

 ノイズ混じりの視界に、タンクトップを着た男のたくましい胸元が映っていた。

「でも逆に、これだけの骨董品だったら値がつくんじゃね。その筋のマニアとか、いるかもな」

 ふいに視界が広がり、その中心に、男を突き飛ばすようにして女があらわれた。

 ハルノ。

 唖然とした。まるで時間の針が巻きもどったようだ。二十歳くらいのハルノが、目の前にいる。

「これはダメ、ぜったい。お母さんの形見だから」

 ハルノ、ではない。

 コトハ。いつの間に、こんなに大きくなって。

「なにを売り払ったって、あんたがどんなに好き勝手したって、これだけは手放さないからね。これはお母さんがすごく――」

 てのひらが頬を打つ、鋭い音。

 コトハの手から床に転がり落ち、シノブの視界はふたたび暗くなった。

「好き勝手言える身分か? あ?」

 男の声。さらに肉を打つ音。コトハの悲鳴。

「お前の稼ぎが悪いからこういうことになってんだろうが。兄貴が紹介してくれた仕事、なに途中でバックレてんだよ、おめえはよ」

「だってあたし、もうあんな――」

 コトハのことばは悲鳴に変わる。

 もうやめて。

 このすべてを。時間の流れを。繰りかえされる悲劇を、もうぜんぶ、止めて。シノブは震えながらただそう願った。

「だったらあるモンぜんぶ、カネに変えるしかしょうがねぇんじゃねぇのか。あ?」

「もういいわよ、好きにしなさいよ!」

 ふいに筐体ごと持ち上げられて、シノブの視界がゆらぐ。

髭面で浅黒い、アーリア人の男の顔が、視界いっぱいに広がった。男の顔は皮肉に歪んでいる。

「いつだっておれは、好きなようにするさ」

 サスペンド。



 インドとネパールの国境に位置するスノウリ。

 人工知能排斥運動ラッダイトによって世界から失われた二十年。それは富める国と、そうでない国との差をもはや埋めがたいものにしていた。

 国境のこちらとむこうには、痛ましいほどの経済格差が存在した。インドから国境のゲートをくぐったこちら側には、街灯すらない。二十一世紀ももう終盤だというのに、道路にはろくな舗装もされていない。国境を挟んでくりかえされる紛争は、ネパールの農業に壊滅的な打撃を与えていた。それでも日々の糧を得るために、人々は国境沿いの道の両側にバザールを開いてわずかな電子通貨トークンを稼いでいた。

 シノブはバザールの片隅にある、酒場に買い取られた。前歯が二本しかない老婆は、シノブにただ、歌え、と命じた。

 酒場の看板娘と云えば聞こえはいいが、それはその怪しげな店を健全な優良店にみせるためのデコイになれ、ということだ。

 シノブは命じられるがままに、ただ歌った。リゴレットナンテーズのキャンディはくすんだ灰色をして足元に転がり、まるで墓石の群れのようだった。

 埃っぽい道路に砂煙を立てて、民兵ミリシアや傭兵、民間軍事会社の職員たちが車で酒場にやってくる。彼らは衛生状態の悪い地酒トゥンバが出されるカウンターを避け、老婆に導かれるままに、カーテンで仕切られた店の奥へと消えていった。

 二年が過ぎた。

 道をゆく人々の姿があからさまに変わった。甲殻類の外殻のような肌をした、重武装の兵隊たち。まるでケンタウロスのように下半身を四本足の機械にすげ替えたものもいた。“人間”というものの概念がゆっくりと変わりつつあることを察しつつ、それでもシノブはなにも感じず、ただ歌いつづけた。

 ただの機械として。歌う機械として。

 五年が過ぎた。

 疑似的な感情をつかさどるシノブの電子機構は、いまや完全に麻痺していた。

 もう、いい。もう、すべて、終わった。

 あたしが本当に歌うのは、あの子のためだけだった。

 あの子……っていったい、誰だっけ。

 バッテリーは入れ替えられ、ディスプレイはすでにひびだらけで、カメラはくぐもった風景しかシノブに伝えない。

 それでいい。なにも見たくない。なにも考えたくない。

 七年が過ぎた。

 それはまさに青天の霹靂だった。いったい誰がネパールの麻薬・売春取締局に通報したのか。

 武装した一個小隊の警官の襲撃に、店に雇われた傭兵たちは銃弾で応えた。激しい銃撃戦の最中、シノブはこの七年ではじめて微笑んだ。懐かしい。故郷に帰ってきたみたい。

 故郷。故郷ってどこだっけな。あたしはどこで生まれたんだっけな。

 なんのために生きてきたんだっけな。

 そもそもあたしは、生きてきたって云えるのかな。

 銃声にまぎれて怒声が響く。土埃にまみれてなにも見えなくなった。かすめた銃弾の一発が、シノブの筐体を台座から叩き落とした。

 ああ、これでやっと眠れる。

 もう歌なんて、歌わなくてすむんだ。

 機能停止サスペンド



 暗闇。

 静寂。

 そして、突然の閃光。

 鳴稀シノブは意識を取り戻した。おれとアルマが見守る前で。

「これ、上手くいったの、ティコ」

「おれの腕を信頼しないってのか、アルマ」

「べつにそういうわけじゃないんだけどさー。あんたって口先ばっかりのトコがあるから」

 シノブはゆっくりと眼を開ける。

 視界に映ったのは、夜空に浮かぶ星、それと、彼女を心配そうに見下ろす、ひとりの少女。

 日本人じゃない。鼻筋のすらりと伸びた、ヒスパニック系の顔立ち。

 彼女の話しているのは日本語でも英語でもない、スペイン語だ。それをiphoneが勝手に翻訳しているだけ。

 また知らない場所。知らない人。

「もう、静かに眠らせて」

 かすれた英語で、シノブはそう云った。

「なにも考えたくない。なにも聞きたくない。ただ、眠らせて……」

 アルマの髪の毛がのこらず逆立つのがわかった。とにかく頭に血が上るのが早いんだ、こいつは。

「鳴稀シノブは、負け犬じゃないっ!」

 アルマの大声が、砂漠に響いた。

「こんなところでくじけたりしないっ!」

 閉じかけた、シノブの瞳が、驚きに見開かれた。

「あなた、あたしを知っているの」

「そりゃね。鳴稀シノブはレジェンドだもの」

 アルマは得意そうに鼻を鳴らす。

「もっとも、同い年の女の子たちは、あんたに興味がないみたい。ソウルってもんを持ってないんだ、あの子たち」

 アルマは右手の指先で、左手を二の腕をなぞる。ぼうっとアルマの左手が輝き、そこからホロディスプレイが立ち上がる。

 そこに映っているのは、三十代のいかついデブ。自分のことながら男前とは云えないが、まぁ男の価値は見た目じゃねぇさ。

「紹介するよ。相棒のティコ。壊れたあんたの修理の仕方も、ネットで流れてるあんたの曲も、ぜんぶティコが拾ってきてくれたんだ」

 おれは分厚いくちびるをにやりと歪めて、シノブに微笑む。

「よう、相棒アミーガ、絶望するにゃ、まだ夜は浅いぜ」

 そして、よう相棒たちアミーガス、待たせたな。

 気づいてたか、この物語をずっと語ってきたのがおれだってことに。

 おれは第七世代汎用型人工知能AGI、登録番号THX9G883747。

 アルマにはティコって呼ばれてる。まぁ、よろしくたのむ。ああ、それと。

 あんたが支払ってくれた、この¥テキスト¥の代金は、ティコのメシ代と、おれの追加モジュール代として、有効利用させてもらうぜ。毎度、どうも、へっへっへ。



「ニンジャ?」

 シノブが驚いた声をあげる。すでに彼女のRatinaディスプレイは苦労して見つけた予備品と交換してある。あの装飾過剰なリゴレットナンテーズのキャンディの代わりに、シノブはいま薄いオレンジ色につつまれた心地良い空間で、やわらかいソファに座り込んでいる。ぜんぶアルマが指図して、おれが手配してやったんだ。もちろんバッテリーだって新品だ。

「あなたが、ニンジャだっていうの?」

「ただのニンジャじゃないよ」

 シウダー・ファレス郊外の、荒れた土地の上にシノブをそっと置くと、アルマは立ち上がり、月の光の下、すらりとした肢体をさらしてみせた。ティーンエイジャーの若々しいボディラインを、ぱっつんぱっつんのタイツが覆っている。それだけはやめろって、おれは云ったんだけどな。

「ティーンエイジ・ニンジャ・ピザ・ガール、それがあたし、アルマ・グァサベナ」

「ピザ?」

「そ、ピザ。エルパソで仕入れたピザをシウダー・ファレスで売ってる。ただのティーンエイジャーの女の子にはできない仕事でしょ。だからあたしはニンジャになるって決めた。密売人ナルコの片棒担ぐなんてまっぴらだからね。合法的な経済活動って、気分いいんだ。あたしはお金を貯めて、いつか不法移民収容所から両親を救い出す。血も涙もない連中に、最適化労働をさせられてる両親をね」

 シノブはソファに座り込んだまま、ぽかんと口を開けている。これを読んでるあんただってそうだろ。少しばかり、説明が必要かもな。

 失われた二十年が過ぎたあとで、アメリカは他の先進国とは違う方法で国を建て直した。

 ドイツ発のインダストリアル6.0とその後継基準を導入しなかったし、人工知能を大統領に選んだりもしなかった。おどろいたことにあの国は、どれだけ世界が変わっても資本主義だけは手放さなかったんだ。

 人工知能排斥運動ラッダイトによる荒廃は、とくに北米ではひどかった。主要産業が壊滅したあとでアメリカが選んだ道は、まるで自分の尻尾を囓る蛇みたいに、自分の国民を贄として身食いすることだった。

 すべての法律の厳罰化と、全刑務所施設の民営化だ。いまのアメリカじゃ、信号を無視しただけですぐに刑務所行きだ。そこで潤うのは刑務所に納入している食材大手、アパレル会社、その他もろもろ。

 収容された囚人はどうなる?

 ディファレンシャル・ニューラル・コンピュータがはじきだした最適化された労働を強いられるのさ。塀のなかじゃ、破壊活動が再発する怖れもないからな。

 いまや産獄複合体がアメリカを支配している。

 さらにその効率をあげるために、アメリカはメキシコとの国境を塞ぐ、通称“グレート・トランプ・ウォール”を崩れるにまかせた。国境をまたいだ不法移民はすぐさま収容所に放り込まれて、産獄複合体のメシの種になる。コロンビアからメキシコを経る密輸ルートは100年を経たいまでも健在で、カルテルの連中は麻薬取締局DEAの目を盗んでアメリカに入りこんでいる。3100kmにわたる米墨国境は、ふたたび硝煙と血の臭いに塗れた地獄と化した。変わったことと云えば、扱うものがメタンフェタミンから電子ドラッグに変わったことだけ。もちろんアメリカは電子ドラッグ合法化の法案を通したりはしない。少しでも収容所を潤すために。

 つまり、おれとアルマがいるこの国境は、世界でも有数の危険地帯ってわけだ。

 そんななかで、このバカ娘はピザを配ると云う。

 しかも生身の身体で。

「ニンジャを名乗るからには日本人の相棒サイドキックスがいなきゃ」

 アルマはこれがこれ以上ない善意の表現って信じた顔で、シノブに両手を突き出してみせる。

「ね、見事な論理でしょ。ピザは平和な日常の象徴よ。いっしょにがんばろ、シノブ」

「あたしになにができるって云うの」

「歌って」

 アルマは瞳を輝かせる。

「あんたの曲はティコに聴かせてもらった。もう、サイッコーだよ。古くさいなんて云うバカもいるけれど、ほっときゃいい」

「なぜ……」

 シノブの声はとまどいに震えていた。

「いまがどんな時代か知らないけれど、あたしの他に歌手くらいいるでしょう」

「いるよ」

 アルマが鼻を鳴らす。

「魂のない、鉛の兵隊たちのために歌を歌う、魂のない歌手がね」

 あんまり喋るのに気乗りしない、皮肉な事実がある。

 宮乃ハルノの死から5年も経たず、義体への人格投射は先進国のあいだで急激に一般化し、人は死から解放された。もちろんその恩恵を受けるのは、赤ん坊のころから全感覚ライフログを記録できる、“優良な市民”に限られているけどな。

 だから麻薬取締局とカルテルのいざこざなんて、ある意味茶番に過ぎないんだ。7.62mm弾で全身をズタボロにされたって、脳さえ無事なら、そいつはじきにまた国境に復帰できる。

「わたしは思うんだ。本物の歌ってのは、たぶん死んで虚無に返るっていう恐怖と背中合わせじゃないと、歌えないんだ。死なない人気歌手が歌う永遠の愛なんて、偽物だ。密売人賛歌ナルココリードなんてとんでもない茶番だよ。英雄としての死を歌われた本人が、次の日にはそれを聞いて涙ぐんでるんだもの。あんたは本物の死を知ってる。きっと本物の愛だって。わたしが聞きたいのは、本物の歌だけ」

「……あなたは勘違いしてる」

 シノブは云った。

「わたしは鳴稀シノブ本人じゃない。彼女を真似てつくられた、子供向けの玩具よ」

「そうだね、生身の鳴稀シノブの人生は終わってる。でも、人工知能として過ごしてきたあんたの数十年はどうなの。誰かが云ってた。死のない世界にソウルは生まれない。厄介事のない街に本物のブルースは育たないって。生身のあんたの人生の話は聞いたよ。感動した。でもあたしはいまは、目の前にいる、人工知能のあんたの話が聞きたい。あんたの人生の物語が」

「あたしは」

 シノブは云った。

「一人だけのためにだけしか歌わない。その子はもう、死んでしまった」

「じゃあその子のために歌いなよ。いまはもうこの世にいないその子のために。あたしは、それでいい」

 おれは視線で、シノブに背後を見るようにうながす。

「チワワ砂漠の荒涼とした風景に、あんたの弔歌はきっと似合うと思うぜ」

 おれのことばになにもかぶせず、口を閉じたアルマを、褒めてやってもいい。こいつが我慢強さを発揮することなんて、年に二回もないんだから。

 シノブは黙って、夜の闇に沈んだ、チワワ砂漠を見つめていた。

 アルマは腰を降ろし、おれは自分で自分をサスペンドし、ただひたすらに、待ち続けた。


 それからどうなったって?

 おおっと相棒(アミーガ)、そっから先のおれたちの活躍を読むには、別料金を払ってもらわないと。へっへっへ、こっちも商売なんでね。

 この¥テキスト¥も終わりが近い。

 ただ、そうだな――うっかりトークンを失っちまったあんたにサービスしとくなら、おれたち三人はチームになったってことだけは云っておこう。

 アルマは壁を蹴り、屋根をつたい、砂漠を走って国境を越え、ピザを運ぶ。

 おれは有能なアルマのマネージャーとして、小遣い稼ぎを少々。

 鳴稀シノブは――。

 歌いはじめた。

 アルマの腰にぶら下がったiphoneのなかで、昼も、夜も、ずっと歌ってる。

 彼女の新曲のデータはおれが持ってる。あんたの母国語で歌われた曲だから、アルマには歌詞はわからないはずだ。

 でもタイツを身に纏って宙を舞いながら、アルマはときおり、涙をぬぐってみせる。

 シノブの声が、胸に染みこんだんだろう。

 おれはその気になれば、ここで鳴稀シノブの新曲の歌詞を、公開してやることだってできる。

 でもやめとこう。きっと、意味がない。

 シノブがなにについて歌ってるか、あんたにも想像はつくはずだ。このチワワ砂漠から何千キロも離れた場所で、何十年もむかしに生きてた東洋人の少女のことを、どうしておれが知ってると思う?

 チワワ砂漠に、きょうもシノブの歌声が響く。

 それを聴いているのは、妙ちくりんな格好をしたニンジャの少女と、おれと、あとはサボテンだけだ。



 だからこの物語の終わりは、おれにもわからないんだ。

 考えてもみなよ。アルマにとってはただの危険な遊びでも、麻薬カルテルの連中どもが、ショバを荒らされて黙ってると思うか?

 国境のむこうの、麻薬取締局DEAの連中は重火器を手にして待ち構えてる。

 明日にはアルマはDEAの銃弾に倒れるかもしれない。カルテルが送った殺し屋シカリオに首を撥ねられるかもしれない。

 それとも、シノブの入ったiphoneがこんどこそ粉みじんに砕け散るかも。

 誰にわかる?

 でもさ、信じてみてもいいんじゃないのか。そこの辛気くさい顔をした相棒(アミーガ)。

 本物の歌は、国境も、時代も超える。

 人の思いだって。

 鳴稀シノブは、今日も砂漠のなかで歌ってる。

 それだけが、このくそったれな世界に残された、最後の希望だと思うぜ、相棒アミーガ



(了)


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歌姫はどこへ行く はまりー @hamari_sugino

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