第105話 黒い巨人は塔に現れる

(――捕まる!?)


 そう思ったときには既に結界を張っていた。数々の危機を乗り越えた経験が、ほんのわずかな差で、魔人の手が伸ばされるよりも早く、自身を囲む障壁を展開させていた。


 橙色に輝く選別の結界は、魔人といえども容易に触れられる障壁ではない。望まれない侵入を阻止するための原初の結界は、つかみかかった巨大な手の表面を容赦なく焼いた。そして、焦がされてわずかに魔人が硬直した、その一瞬が、反転して戻ろうとしていた竜の勇者に時間を与える。


「交代なのである! ――アカっ!」


 すかさず赤い瞳を宿した竜の勇者が、炎の塊を黒い巨腕に直撃させて、結界ごとバリエラを捕らえていた魔人の手指を破壊する。拘束から解放されて賢者は、すぐに風魔法を行使した。このままでは落下死する。近くの床は全て崩落してしまっていた。


 だが、せっかく回復した魔力を使い切っても、やはり微量なせいで、残った床まではギリギリ飛距離が伸びない。あと少しなのに、と食いしばるも魔力は無情にも尽きていく。


(――っ)


 ついに身体が重力に捕まった。しかし同時に、脳裏に一つの考えがよぎる。バリエラは再び結界を展開させた。だが、結界そのものに浮く力はない。足場のない空中で生み出しても落下は免れなかった。


 だから、槍を生み出したときと同じように、かつ今度は、あのときよりは硬度を抑えて長さを伸ばす。


「――アカ、これを!」


「……む」


 結界の力を利用して作った命綱を手首に絡ませ、壁際にいた竜の勇者に向かって放り投げる。こっちの意図を察してくれたらしく、アカは受け取ると、ロープを即座に勢いよく引き寄せてくれた。強く伸縮した命綱に引っ張られ、どうにか残った床面まで引き上げられる。


『その程度では、逃がしませんよぉぉ』


「チッ、更にでかくなるつもりか」


 黒い魔人が更に肉体を膨張させる。周囲の壁や瓦礫すらも取り込んで、ついに塔そのものすら食い荒らす。もはや収めることができないほどに、許容をはるかに超えた黒い巨体は、ついに天井を越えて外へと溢れだした。


 超巨大化した黒い魔人は、上階はおろか、塔の頂上にすら巨体を届かせる。壊れた壁の一部が遠慮もなしに、賢者たちの頭に降り注いだ。身を守りながらバリエラたちは血に染まったかのような赤い雲を目撃する。黒い巨人が壊し尽くした階から、外の景色が見えてしまっている。真っ赤な空から降り落ちる灰と、積もる白い地面が遠くまで広がっていた。


『絶望するしかないでしょうねぇ。この私を止める力が貴方たちにありますか? ありませんよねぇぇ?』


 腕と脚が更に分裂して八本になる。もはや自身を支えきれなくなった塔など構うことなく、黒い魔人は残った階の外壁に脚を貼りつけた。増えた腕もバリエラたちのいる側の壁を掴んでいる。そのまま寄りかかるように、黒い魔人は鉄仮面越しに賢者たちを見下ろしていた。


「……どうする賢者。逃げ場はない。いっそ空から落ちてみるか?」


「もう魔力が空っぽだから無理。ここで戦うしかないみたい。――いける?」


 相談する間にも、壁を掴んでいない黒腕たちが、バリエラたちを握りつぶすために伸ばされていた。正面に立ったアカは、険しい表情で状況を見据える。


「いけるだと? ――無論だ」


 小柄なアカの背中から炎で出来た竜翼が出現する。先ほど貫かれて開いた穴には、炎の皮膜が覆い尽くしていた。次の瞬間、彼は残像を置いて、黒い魔人に飛びかかる。


 近付いていた六本の腕を、無から現れた爆炎が弾き飛ばした。それから再びバリエラの目の前に竜の勇者が出現する。やや着地に失敗したのか、止まったときにアカは膝を崩した。


「……ミドの奴、下らぬヘマをしよって。予想以上に厳しいか」


「ごめん、翼を治療するわ」


 加速はできたが、制御を欠いたらしい。貫かれた欠損のことを思い出してバリエラは急いで治癒の奇跡を行使する。だが、アカはそれでも足りんと首を横に振った。


『おやおや、それが全力ですか? 口ほどにもありませんね。さっきと違って、腕も千切れていませんよ?』


 わざわざ煽るためだけに、魔人は大げさに肩をすくめてみせる。アカは少し顔をしかめると賢者のほうを見て、奴の言うことは半分くらい合っていると言い放つ。


「この小さな身体が枷になっている。流石に元の火力は出せん」


 本来のアカは完全な竜の姿をしている。灰色の魔人が巨大化した時も、竜の巨体をもって対抗していたのだった。しかし、完全な竜化ができない今、それに応じて扱える力の大きさも制限されるらしい。


 更に付け加えると、こちらには魔力を尽かせた自分と意識を失ったカナリナがいる。戦力になれない以上、やはり足手まといになるしかない。せめて邪魔にならない場所に行きたいが、逃げ場がないので留まるしか選択がない。


「そういえば、ルーイッドも来ているんでしょ?」


 他の助太刀が来ないかを考えて口にしたが、アカは即座に首を横に振る。


「強化の賢者は、貴様の元まで我らを送り出すために、最下層で時間稼ぎをしていた。ついでに妖精もそこにいる」


 最下層と聞いてバリエラは眉を曇らせた。下層がどこまで続いているかは知らないが、少なくとも今、自分たちがいる場所にまで救援に来るのは難しそうだった。


「やっぱり、私たち二人でなんとかするしかないってことね」


「元よりそのつもりだ」


 竜の勇者は魔人の行動に備えて、全身から炎を放出する。最初から大技を放つつもりらしかった。逆に言えば、それくらいでないと今の魔人には通じない。


 バリエラも何かしたかったが、攻撃には加われない。できることは、竜の勇者がやろうとしていることを邪魔されないように守ることだけ。


『おやおや、分かりやすく何か仕掛けるつもりですねぇ。まぁ、好きにさせるつもりはないのですが』


 黒い巨大な拳が振り降ろされて、バリエラが咄嗟とっさに展開した障壁と激突する。背中に冷や汗が流れるくらいには、魔人の拳には威力があった。だが、問題なのはここからだった。今の魔人は、自分が得た力を試すくらいの気持ちで遊んでいるにすぎない。


 何度も拳を叩き付けた後は、今度は指で障壁を上から押さえてくる。過剰な負荷を掛けられた結界は、ついに限界を迎えて表面を割った。


「賢者よ、結界をっ!」


「分かってるわよ」


『クフフフフフフフフフフフ』


 再びギリギリで展開した選別の結界が黒い手指を食い止める。しかし、黒い魔人も繰り返すように結界を上から押さえてヒビを入れる。完全に弄ばれていた。こちらの必死さを楽しんでいる。


(理不尽すぎでしょ、これ)


 圧倒的な力の差が、戦いの流れを変えるのを不可能にしていた。これまで見てきた敵よりも遥かに大きい巨体は、賢者たちが蓄積してきた経験を一蹴する。存在そのものが強大な武器であり、堅固な装甲になっていた。


 こちらを完封するように魔人の黒い手指が降り注ぐ。戦いは一方的で分が悪い。仮にアカが何か仕掛けたとしても、今の魔人にどこまで通用するか不明だった。


(マズいかもね、って……)


 自分に弱気になるなと叱咤する。心をくじくのは相手の常套手段。諦めてはいけないと、ひたすら自分に言い聞かせる。


「バリエラさん……」


「カナリナ、目が覚めたの?」


「はい……、まだ、うまく動けないですけど……、それより……」


 何かを伝えようとしてくれているのを、バリエラは背中で感じた。どことなく切羽詰まっているようにも思えた。こういうとき、彼女はたいてい危機の予兆を伝えてくる。


「どうしたのよ、十分悪い状況なんだけど」


「遠くのほうで、聞き馴染みのない音がします……。魔人からじゃなくて、別の……」


『――む!?』


 何かの炸裂音が轟き、魔人の体勢が大きくぐらついた。背面から攻撃を受けたかのように、漆黒の巨体が胸を反らす。そして奇遇なことに、アカの準備が完了するのは、その直後だった。


くぞっ!」


 合図を受けて、バリエラは結界を解除する。その直後、全身を赤い炎で包んだ竜の勇者が、砲弾のごとく突撃する。目視できぬほどの素早さで飛翔した炎の塊が、分厚い黒い肉体を通過し、被弾箇所を爆発させる。そのまま空中停止した竜の勇者は、背後を振り返って、天に向けて掌をかざした。


「地に這いつくばれ、このデカブツが!」


 灰色の空を焦がすかの如く黄金色の太陽が、竜の勇者の真上で眩しく輝く。その光が生みだす熱波は、半壊した塔に残るバリエラたちですら、火傷しかねないほど強く激しいものだった。アカ自身も竜翼や角の一部を黒く焼いていた。


「――堕ちろっ!」


 燦々さんさんと燃える黄金色の塊が魔人へと降下する。アカの突進を受けて、塔の外へ押し出されていた黒い巨体には、受け止めることも回避することもできない。


 塔に残った壁すら吹き飛ばして、爆炎と粉塵が黒い肉体を呑みつくす。瓦礫と炎の残滓ざんしを連れて、魔人はそのまま地上へ落下していった。

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