第104話 賢者は塔より脱出しなければならない

 勢いつけて飛び込んだのは失敗だった。唐突に切り替わった景色の中で、バリエラたちは放り出されて、そこにあった段差から転げ落ちる。


 歪曲した空間を抜けた先は、赤褐色で囲まれた巨大な広間だった。赤土で覆われた壁と天井にぶら下がる気味の悪い黒蓑たちを見て、バリエラは以前ここに来たことがあることを思い出す。


「……ここに繋がっていたのね」


 黒い魔人と初めて遭遇した場所だった。吊り下げられた気持ち悪いみのの中には、改造された元人間たちが納められている。少しだけニャアイコのことを思い出して、気分が重くなっていく。


 余計な刺激さえ与えなければ、目覚めて襲いかかってくることはない。ひとまず無視したほうが身の為だった。


「……とりあえず、助かったわね」


「安全な場所というわけではなさそうではあるが」


「その通り、ね……」


 軽く周囲を見渡してみると、赤土の壁に無数の傷痕が刻み込まれていた。天井も一部破損していて、黒蓑も以前と比べれば数が少ない。地下で魔人に見せられた映像で、ノルソンたちが交戦していたから、おそらく残骸がそのままにしてあるのだろう。


「この部屋も出口がないようであるな」


「閉じ込める部屋を作るのが趣味らしいわよ、あの魔人」


「それは悪い趣味であるな」


 そのとき、ミドは後ろを振り返る。どうやら自分たちが出てきた壁が気になるらしかった。何の変哲もない壁ではある。しかし、あえて段差の上に設置され、わざわざ奥にくぼませている。


「なるほど、空間転移でしか移動できない構造になっているのである」


 人の背丈ほどある段差の先にある、不自然に凹んだ謎の壁。ここへ転移してきたら、その壁から出てくるようになっているのが見て取れた。


 たしか前回も、バリエラとカナリナは同じ場所から転落している。だが、あのときはゆっくり観察する余裕はなかった。今にして思えば、あそこに空間の歪みがあるのは間違いない。


「歪んだ空間から飛べるのは、一方向だけって聞いたわ。だから、あの壁を触ったところで元の場所には帰れない。まぁ、崩落した場所に戻る気はないだろうけど」


「うむ、戻る気はない。……だが、少し離れたほうが良さそうなのである」


「……。嫌な前触れを言ってくれるじゃない」


 ミドは明らかに警戒感を強めていた。ずっと黙っているカナリナも、同じ視線を向けたまま、落ち着かない様子を見せている。二人とも何かの脅威を感じ取っているらしい。


「……カナリナ、もしかして」


「なにか……、音が近づいてきているような……、気がします」


 言葉の終わりと同時に、べちゃりと貼りつくような音が、段差の上から発された。黒々とした泥水が、凹んだ壁から染み込みだして、やがて鉄砲水のように一気にあふれかえる。こぼれ落ちた黒い水面が、バリエラたちのところを侵食するように広がっていく。


「ついに来たのであるっ!」


 とっさにミドが緑炎を吐きだして、燃える壁で黒い液体を防ぎ止める。


「しぶといわねっ……。あれに巻き込まれても無事って……」


「潰れた程度で止まらないということなのである」


「バリエラさん、……あれって!」


 魔法陣を展開しようとした矢先に、カナリナが慌てたように指を差す。炎の壁の向こう側で、一部の黒い液体たちが集合し、半固形の手を形成し始めていた。まさか、ここで巨大化するつもりなのか、とバリエラは思わず息を呑んだ。


「良くない状況なのである。一応であるが、この場所は先ほどよりは狭くはない。戦うという選択肢も取れなくないのであるが……」


「正直、やめたほうが……、いいと思います……」


 弱気なカナリナの声に、歯切れ悪そうに話していたミドも同調した。


「今まで感じたことないくらい、強い気配がするのである……」


 途中で詰まるような音を立てながらも、まだまだ空間の歪みを通って、黒い泥水が流れ込んでくる。更に体積を増やして肥大する黒い塊は、バリエラたちが会話している間にも、一本の巨大な腕となっていた。黒い拳が前後に動いたのを見て、賢者は結界を展開する。


「――っ!? なんて力なのよ……っ!」


 炎の壁を破って振り下ろされた巨腕が、結界を激しく強打し続ける。加わった衝撃は地下の時とは比べ物にならないほど大きかった。一枚の壁だけでは長くは持たない。


 二重に障壁を張り替えても、五秒くらい耐えたところで、一枚目が割れ、二枚目にも大きなヒビが入る。いとも簡単に崩される防御結界に、バリエラは歯を食いしばるしかない。


「バリエラさん、私が……」


「――あんたじゃ無理! それより脱出するために、脆そうな壁がないか探してきて!」


「分かり、ました!」


 駆け出したカナリナに目をやってから、バリエラは割れた結界を修復する。ヒビから侵入してきた黒い泥水は、全てミドが竜炎で一掃してくれるが、事後対応でしかない。


「キリが無い……」


「バリエラ殿、そちらの結界に私の力を加えるのである!」


 炎の放射を止めたミドが、バリエラの腕に自分の手をかざす。新たに加えられた竜の勇者の奇跡が、賢者の結界を分厚くさせた。どうやら力を受け流す能力が強化されたらしい。再び振り下ろされた黒い巨拳をうまく跳ね返したことで、賢者は確かな手ごたえを得る。


「――っ! これなら」


「いや、時間稼ぎにしかならないのである」


 まだ油断はできない、と竜の勇者は首を横に振る。集合しつつある黒い液体は、もう一本の腕を形成しようと起伏しかかっていた。


「悪い展開ね……」


 上に向けて伸ばされた二本の黒い腕、その次には巨大な首、そして頭部。ゆっくりと黒い上半身が完成していく。胴回りまで完成したとき、高く伸びていた両手が、ついに天井を突き破った。天盤を破壊することで落下した黒蓑たちを吸収して、黒い巨人は更に肥えていく。この時点で既に、バリエラたちが今まで対峙してきた敵の大きさを超えていた。


(こんな敵、どう相手すればいいのよ……)


『驚かれましたかねぇ?』


 聞き覚えのある煽りが突然、耳を撫でてくる。声の方向を思わずにらむが、そこには何もいない。声はミドにも聞こえたようで、彼も鋭い視線を周囲に配る。


『良くないことをしましたねぇ、結界の賢者。貴方が大人しく取り込まれてくれていたら、私も本体を呼び出すことはしませんでしたのにぃ……。ですが、仕方ありませんねぇ。数多くの魔物や人間共を取り込み、数多あまたの能力を獲得した、私の究極の肉体です。お見せするのも良いでしょう』


 言葉が終わると同時に、研究者の風貌をした魔人が、黒い泥の巨人の前に出現し、自ら額の中へ取りこまれていく。同時に、ほぼ単調な膨張だけを繰り返していた巨人の肉体に変化を起きた。


「グォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ」


 獣に似た咆哮ほうこうが、無貌むぼうの頭部から発せられる。顎上の皮が二つに割けて、擬似的な口が出来上がる。腕も更に分化して四本になり、脚部は馬のように形成されて、こちらも四本となっている。真っ黒な頭部からは、錆色の鉄仮面が浮き上がり、魔人の顔を隠していく。


 巨体の更なる膨張と変化に伴い、魔人の自重を支えきれなくなった広間に亀裂が入る。唐突に割れて大きく傾いた床に、バリエラたちもまた巻き込まれていた。


「掴まるのであるっ!」


 崩壊する床から飛翔した竜の勇者が、落下しかけたバリエラの腕を掴む。しかし、降ってくる瓦礫を避けるせいで、空中での動きは鈍くなっていた。


『――この場で終わらせてあげましょう!』


 崩落によって肉体が下階に沈み込んでもなお、黒い魔人は上半身を広間に残したままだった。不定形な黒い肉体は、落下で肉片を飛散させ、そのまま黒い無数の矢に姿を変えて、バリエラたちに敵意を向ける。


 黒霧からの武器生成。灰色の魔人が得意としていた能力に酷似していた。ミドも同じことを思ったのか、目を丸くしている。


のがれられますかねぇ? 言っておきますが、当たると痛いだけでは済まないですよ?』


 言葉と同時に、浮遊していた黒い矢雨が一斉に動き出す。音速を越えた炸裂音を鳴らして、漆黒の閃光が束になって、竜の勇者に突撃していく。それでも対応しようとするミドだが、動きを制限される中での全弾回避は流石に不可能だった。


「――ぬっ」


 自らの奇跡を発動させて、ミドが目の前に巨大な力場を生成する。全てを引き込む重力の球が矢雨を吸い寄せるが、それでも一部しか巻き込めない。バリエラも結界の壁で防戦したが、黒い矢の勢いを弱めるだけでほとんどを貫通させていた。


 それでも竜の勇者は、直撃だけは辛うじて全て避けきった。だが、命中した数本の矢がミドの翼に風穴を開けていた。制御を失った竜の勇者は、バリエラと共に真っ逆さまへと落下していく。


 突然、遠くから巻き付いてきた植物のツルが引き上げてくれなければ、二人は間違いなく崩落に巻き込まれていた。


 バリエラたちを捕まえた植物は、自らを伸縮させて、まだ崩落していなかった壁際まで二人を引き寄せる。魔物としての能力を行使したカナリナが、顔に疲労をにじませて、その場に両膝をついた。


「か、カナリナ!?」


「バリエラさん……、外に脱出しましょう……。この壁を壊した先が一番、外に近いみたいです……」


「そうしたいのは山々なんだけどっ!」


 頭上から降ってきた瓦礫を、バリエラは結界を使って弾き飛ばす。今の状況では脱出どころか、崩落に巻き込まれないことだけでも必死だった。


「ぐぅ、……すまないのである」


「謝る必要なんてない。むしろ私のほうこそ、ごめん。完全に足を引っ張ってる」


 結界を張ることしかできないと自覚できているだけに、とてつもない歯痒さがあった。


 これがミドだけなら、あるいは魔物化した今のカナリナだけなら、単独でも壁を破壊して、どうにか脱出できるかもしれない。だが、一人では逃げれない自分がいるから、二人とも残って戦ってくれている。だからこそ、もどかしく感じていた。


 あの地下で撃った消滅魔法が今はひどく悔やまれる。あの無駄になった一発を放たなければ、魔法を駆使しての脱出も、視野に入れることができたはずなのだった。


『外に出たいようですねぇ? 消し炭にしてからであれば、外へ出してあげても構いませんが?』


 黒くて分厚い四本腕が、すべて中央に寄せられる。たったのそれだけの動作で、魔人は巨大魔法陣からでしか生成できないような巨大火球が発生させる。色を赤から黄色へ、そして蒼白く変化していくほのおを目にしながら、バリエラは思わず息を呑む。


 火力が桁違いすぎた。ミドでもバリエラでも、あれを完全に防ぐのは厳しい。詳細が分かったところで、対策を講じられない超火力を魔人は生み出していたのであった。


『さて、今の貴方たちに耐えられますか? 耐えられるといいですねぇ。生き残れたら予定を変えて、取り込んであげてもいいですよ?』


「舐めるんじゃないわよ!」


 絶対的な不利を承知しながら、バリエラたちは一か八かの抵抗で障壁を生み出した。しかし、それ以前に黒い魔人の大火球がそのまま放たれることはなかった。


 突如、壁から出現した巨大な樹木が、真正面から黒い魔人に襲いかかる。撃たれるはずだった大火球は、勢いよく突っ込んだ巨樹の幹によって、物理的に掻き消されていた。


 黒い魔人は勿論のこと、バリエラやミドですら予想してない急襲の一撃。虚を突かれて受けきれなかった魔人は、巨大化した背中を仰け反らせて、背後の壁へと激突する。成長を続ける黒い大樹は絡めた魔人を押し潰そうとし、更に幹を伸ばして反対側の壁までっていく。


「やった……。私、あれに一泡吹かせてやりました……」


 今度こそ力尽きたのか、呟きと共にカナリナが意識を失うように、その場に倒れる。魔物としての能力を全開にした反動が来たらしかった。


 この子、いつの間にこんなに強くなったのよ、と驚きつつもバリエラは彼女を背負った。それからミドに呼びかける。一時的とはいえ、魔人が動けない今こそ、千載一遇のチャンスだった。


「ミド、この壁を破壊できる力は残ってる?」


「勿論なのである」


 カナリナの奮闘に触発されたのか、ミドが壁を叩き付けて大きな亀裂を入れ始める。続けざまに振るわれた拳が、人間が通れる大きさのトンネルをこじ開けようとしていた。


『おやおや、弱った敵を差し置いて逃亡ですかねぇ?』


「逃げてるわけじゃないわよ、戦略的な撤退よ」


 遠目では押さえつけられている魔人だが、まだまだ余力は残している。その証拠に、黒い大樹の幹が一つずつ朽ちるように折れていっていた。


「もう、行けるのである!」


 ついに、ひび割れた壁が崩壊する。ミドが開通したトンネルに入るように手招きする。バリエラは急いで駆け込んだ。背後からの魔人の笑い声が耳障りだったが、気にしなかった。


『ふふふふふふ。そこまで分かりやすい脱出方法を、どうして私が潰さないと思ったのでしょうか?』


 通り抜ける間際に聞こえた、その声にハッとしたが、時は既に遅かった。強烈にぶれた視界が、空間転移が起きたのだと知らせる。そう簡単にはいかないか、とバリエラは表情を強張らせた。


 今度は、どこに飛ばされたのか。だが、景色は変わらなかった。いや、同じ景色が広がっただけだった。気づけばバリエラは、カナリナを背負ったまま、崩れた広間の中央にまで戻されている。床のない地面に立たされている。


「……!?」


『単純ですねぇ』


 近くにいるのは巨木から脱したばかりの黒い巨人。その仮面がバリエラたちのほうを向く。その黒い腕は既に伸ばされていた。

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