第103話 賢者は地下より脱出しなければならない
落ちてきた天盤が砕け散る。運良く大きな瓦礫は降ってこなかったようだ。しかし、決して小さくはない土や石の破片たちに強打され、頭を守っていた両腕や肩がじんわりと痛む。大きな怪我が無いのは良かったが、無傷とはいかなかった。
痛みのある箇所に治癒の奇跡を当てながらも、バリエラは周囲を見渡す。黒い巨人を閉じ込めている結界はまだ保てている。修復が必要そうだが、壊れてはいない。
「――バリエラ、さんっ!」
安堵したのも束の間で、頭上から聞き覚えがある声がしたことにまず驚く。先ほど開いた天井の穴のほうを振り向くと、その暗がりを緑の炎が照らしている。少年と少女の二人組が、こちらを覗いているのが見えた。
(あれは……!)
少年のほうは誰かすぐに分かった。暗闇に光る緑の目と特徴的な竜翼。竜の勇者に間違いなかった。瞳の色からして今はミドの人格が表に出ているのだろう。
しかし、もう一人のほうは誰なのか。ぼろぼろの外套に身を包み、黒い
「……え?」
気づいて、というより思い出してバリエラは動揺する。きっかけになったのは、最初に掛けられた声だった。元から誰か似ているような気がしていたが、遅れて一人の少女の姿が脳裏をよぎる。
「もしかして、……カナリナなの?」
「――はい!」
少し
「どうしたのよ、その姿……」
少し背が伸びていると思ったのは錯覚だろうか。髪が異様に長くなり、腕や足から黒い植物が生えている。以前の面影は確かに残っている。だが、見ただけでは同じ少女と全く思えない。
「えっと、これは……」
困ったようにカナリナは口ごもった。少なくとも離れてから何かあったことは推察できる。しかし、いったい何をどうしたら、そんな別人の姿になるのか。
答えを促そうとすると、今度は広間全体を大きな揺れが襲う。張っていた障壁がまた壊されていた。聞き取りどころでなくなり、急いで結界を展開し直すが、すでに黒い肉塊は広間を三分の二ほど占拠している。一度でも張り直しに失敗すれば、たちまち大質量に呑みこまれてしまうだろう。
「うむ。感動の再会に浸るには早い。脱出優先なのである」
穴から降下したミドが燃える緑炎の翼を広げる。天井の穴から脱出するべく竜の勇者は賢者と少女の手を握った。だが、それを見越したように崩壊した天井は、黒い物質で覆われて急激に修復されていく。
「なぬ!?」
「魔人の力が働いているのよ。私たちを逃がさないつもりみたいね」
急速に塞がった大穴は、瞬く間に傷一つない表面を取り戻す。それどころか修復された部分から黒い手足が生成されて、バリエラたちに襲いかかる。
ミドが爪から炎を飛ばして焼き払うも、依然として黒い手は次々と生えてきていた。
「むう、厄介な。穴をこじ開けたことが仇となったか。あの黒い肉塊どもは、この部屋の外から、こちら側への侵入を狙っているようであるな」
ミドは結界を隔てた先で
「穴掘り作戦は、……もう使えないってこと、ですか……?」
「ただの地面なら私の能力で動かせるのである。だが、あの肉塊は明らかに自然のものでない。どうやら、完全に対策されたのである」
「ピンチ、じゃないですか!? 予定では、もう一度、穴を掘ってバリエラさんを連れ帰る、はずだったのに……」
「その通りなのである。あえてバリエラ殿を連れて強行突破する手もあるが、その場合は脱出より先に、この広間が崩れそうなのである。参ったのである」
(…………。流石にそれは脳筋すぎない? 二人とも)
というか、この場所が塔の一部でなく、地面深くにある地下空間だなんて初めて知った。それなら壁や床を壊したところで、最初から意味は無い。しかし、それが分かれば一つの仮説が補強される。
「隠し通路、本当にあるかもしれないわね」
「……うむ? 通路?」
「塔のほうから、ここまで続く道は、たしか無かったはず、です……」
「本当の通路じゃないわよ」
あの腹黒い魔人は、ここまでどうやって移動するのか。どのようにしてバリエラたちを移動させてきたか。バリエラ自身、何度も巻き込まれているから答えは明白だった。黒い魔人は空間の歪みを利用して、遠くへの移動を繰り返している。
一時的に合流していたノルソンたちは、実際に空間が歪んでいる場所があると話していた。彼らの場合は、いきなり塔の頂上まで飛ばされたという。そこまで大掛かりな移動が可能なら、あの魔人が広間に同じものを用意していてもおかしくはない。
「私の予想が正しいなら、どこかに空間の歪みがあるはず。そうじゃないと、あいつもここから移動できない」
「しかし、目星は付いてるのか? バリエラ殿」
「分からないから予想って言ってるの。正直、私は結界を維持するだけで精一杯だったし」
障壁は何度も破られている。天井から黒い腕が伸びるようになってから、そこへも結界の一部を割いていた。正直、余裕はない。
「なら、先に、あれを倒さなきゃ、探せないってことですか?」
「難しいのである。この狭い場所で火力を出すわけにはいかないのである」
再び強い衝撃が全体を揺らす。続々と
「早く探して! あの肉塊たちを押し留められなくなる前に」
「――うむ!」
「は、はい!」
二人が壁などを探り始めたのを確認してから、バリエラは極限まで結界の強度を高めた。だが、閉じ込められながらも、黒い巨体は結界に対して常に力を加え続ける。どれが腕か脚なのか分からぬほどに、ぐちゃぐちゃに固められた肉の塊。であるにもかかわらず、恐ろしい意思を宿して、膨張を止めようとしない。
(いったい、どこまで大きくなるつもりのよっ!)
結界の厚みを強化して、賢者は必死に肉塊を閉じ込める。だが、押し当てられた黒い肉塊たちは、結界を強引に湾曲させていく。
(もう一回、重ね直さないと駄目か)
また壊されるのは間違いない。予想のとおり、数秒後にはヒビ割れる音がやってきた。だが、一つだけ誤算だったのは、音は正面からではなく頭上から響いてきたのだった。
「――また、そっちっ!?」
正面から強引に破ろうとする肉塊たちに気取られて、天井側から侵入しようとする肉塊たちへの警戒を忘れていた。唐突に降り注ぐ無数の手足。それらは天井そのものを破壊して雪崩れ込んできた。
流石に回避は不可能。逃げ場は無い。落ちる黒い手足と流れてくる土砂が、この場にいた全員に覆いかぶさろうとしていた。
「――っ! 駄目っ!」
そのとき、誰かの叫びが轟く。カナリナの声だと一瞬、気付けなかった。掠れた喉を強引に裏返したかのような声音。しかし、その叫びのせいかは知らないが、バリエラたちを襲おうとしていた崩落は止まっていた。
何かが崩落を全て押さえ込んでいた。天井があった場所に、網のように張り巡らされた黒い植物たち。そして、その茎の根元にカナリナがいる。
「……か、カナリナ? それはいったい?」
「後で、話します……。それより、この子たちのおかげで歪み、見つけました……。あの壁の向こう。ミドさんが今、穴を作ってます」
すかさず大きな音が響き、奥の壁がミドによって破壊される。こっちに来い、と竜の勇者が手招きしていた。
「――そうね。後にするわ。けど、必ず話しなさいよ!」
余計なお喋りをしてる時間は無い。急いでカナリナの手を引こうとしたが、何故か彼女は動かなかった。
「重くて体が……」
カナリナが苦しそうに
「――ミドっ! カナリナが……」
「状況は分かったのである!」
すぐさま駆けつけた竜の勇者が、カナリナを押し出そうとする。だが、それでも一歩も動けなかった。
「バリエラ殿、先に穴に向かって欲しいのである」
「置いていけっていうの!?」
「違うのである。むしろ先に行ってもらわねば、バリエラ殿のほうが遅れてしまうのであるが」
「どういう、……ああ、分かったわよ。けど、障壁も限界近いから早くしなさいよ!」
バリエラは開けられた穴に向けて駆け出した。当然、不安は残っている。だが、ミドにも考えあってのことだろう。任せるしかない。
もう少しで穴に入れるという直前で、賢者は地下空間で風を感じた。カナリナと繋がっていた草木の根を断ち、その機動力で加速したミドが一気に壁際まで詰める。竜の勇者はカナリナを連れて、そのままバリエラを後ろから押し出していた。
(――っ!)
間一髪で、全員が崩落に巻き込まれることなく、空間の歪みに突入する。地下が崩れていく音がぷっつりと途絶えていた。一瞬の暗転を感じた後、視界の先では違う景色が広がり出す。そして、切り替わった空間にバリエラたちは放り出された。
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