第102話 賢者は水底より這い出る

 照らす光はなく、ただ真っ暗闇の中を、バリエラはゆっくりと浮上する。ここまで身体を押し上げてくれた水流も、流石に時間が経って、弱々しくなってきていた。


 そろそろ自分でも泳がなければならないと判断して、温存していた体力を使い、バリエラは手足をバタつかせる。黒い水を掻き分けて、ただ上だけを目指していった。全身に張った結界と治癒の奇跡は、まだ維持できるものの、だからと言って余裕はない。


(…………急がないと)


 あえて水底に留まって、黒い腕たちに自ら捕まった灰色の魔人のことを思い返す。今、考えても、どうして自分を逃がしてくれたのかが分からない。単純に黒い魔人に一矢報いるためだけだったのだろうか。本当にそれだけだったのだろうか。


(考え事をしてる場合じゃないわね)


 泳ぐことに集中すべきだ、とバリエラは余計な思考を振り払う。あの黒い腕たちがどこまで迫ってきているか分からないのだ。真っ黒な視界のせいで、地上までどれだけ泳げばいいのかも把握できない。先の見えない不安と焦りで胸が詰まるようだった。


 いつまでも塞ぐ暗闇に嫌気すら差してくる。思い切ってバリエラは、多少は戻ってきた魔力で小さな光を灯した。昇っていく光の玉を追えるようになっただけでも、少しは気分が明るくなった。


 それでも、しばらく経てば、昇っていく光はふと消える。まだ魔力は切れていないのに、といぶかしく思ったバリエラは、すぐに水面の壁を突き破る。口から外気が入ってくる。咄嗟に手を伸ばして、賢者は黒杯の縁を掴んだ。



 ◇ ◇ ◇



 既視感のある広間を、灯した光魔法の玉が燦々さんさんとあたりを照らす。天井の縁に組み込まれた光る鉱石も、ぼんやりとした光を放っている。それでも部屋のほとんどは黒が覆っていた。


 広間の中央には、先ほどバリエラが降りてきた巨大な黒杯がある。そして部屋の壁際には、未完成の復魔兵たちが眠る黒い繭が並んでいる。


 依然として黒々とした悪趣味な空間に辟易へきえきしながら、バリエラは自分の服を手で払う。しばらく水中にいたので、濡れているとばかり思っていたが、実際には水気一つ無い。


 その代わりに、黒い泥のようなものが付着していた。試しに触れてみると、ぐちょりという感触が指に伝わり、率直に気持ち悪くて、風魔法で吹き飛ばす。それから喉の調子を確かめるように、小さく声を振り絞った。


「あっ、あー、なんとか喋れるわね。ちゃんと口も動いた。……よし、問題ない。これからどうしよう」


 改めて現状を確認して、まだ安心できる状況じゃないと思い直す。この広間もまた黒い魔人にとって重要な場所の一つ。いつ魔人が現れるか分からないし、そもそも危険地帯だった。


 結局、塔の中にいれば、魔人の目から完全に逃れることはできない。行方の分からないカナリナの捜索のことも含めると、脱出の為にやるべきことは沢山あった。


「……とりあえず、調べるか」


 まず、この黒い広間から出なければ何事も始まらない。改めて何かないか、と賢者は周囲を見渡した。


 誘い込まれたときにも思ったが、この場所には出口らしきものが存在しない。八方塞がりの閉ざされた箱部屋。どうやって黒い魔人が出入りしているのか不明だった。多くの魔物や人から奪った能力のおかげという可能性もあるが、魔人自身が何かしらの仕掛けを用意しているような気がしている。


 ここを出入りするのは、魔人自身だけではないはずだった。造られた復魔兵だって、地上へ運ばなければならない。隠された運送路があってもおかしくなかった。


(けど、黒い魔人の体液が充満した黒杯と、復魔兵が入った黒繭だけの部屋じゃ、調べるも何も……)


 せいぜい仕掛けがあるとすれば、壁や床くらいしかない。試しに軽く叩いてみると、硬い感触だけが伝わってくる。これでは石畳に手をぶつけたのと大して変わりない。


 面倒だし手当たり次第に壊し回ったほうが早いんじゃないか、と物騒な提案がふと頭の中でよぎる。復魔兵の件もあるし一掃兼ねて、消滅魔法を放ってみるのも悪くない選択肢になりそうだった。


「……やってみるしかないか」


 とりあえず、一発分は放てる魔力を集めて魔法陣を展開する。詠唱を開始しようとしたとき、バリエラは突然、黒杯のほうに視線を向けた。


「今、なにか動かなかった?」


 口にした途端、再び中央の黒杯が小刻みに震える。気のせいでも何でもなく、確かに何かが起こっていると知って、バリエラは落ち着いて消滅の魔法陣を照準させる。


 いつでも放てる準備を終えて待ち構えていると、大口の杯の縁から、大量の腕が飛び出してきた。獲物を求める触手のように人間の手と手が、黒々とした腕を伸縮させて、周囲を這いまわる。それらは間違いなく、水底で灰色の魔人を捕まえていた黒い腕たちだった。


「ああ、もう、うっざいわね!」


 しつこすぎてかなわない。追い払うためにバリエラは消滅魔法を発動させた。黒杯めがけて放たれた光の白い渦は、壁際に転がっていた黒繭も巻き込んで、ある物全てを消し飛ばす。だが、魔法の放出を終えてみれば、肝心の触手たちは健在で黒杯すら傷一つない。


(最初から魔法無効化ってわけ!?)


 魔力は通用しないと判断して、即座にバリエラは結界で広間を二分する。力を感知した黒い手と腕が、展開された結界にぶつかって跳ね返された。これで時間だけは何とか稼げる。


「ゆっくりさせてくれないわね。黒い魔人は」


 念のために三重に同じ結界を展開して壁を補強した。叩いてくる黒い腕たちは増加を止めない。強固な結界といえども、あまり過信はできない。この間に何か脱出できる方法を探さなければならなかった。


 壁を壊すか床を壊すか。だが、先ほどの一発のせいで、魔力は再び枯渇気味。貯めるには、どうしても時間が要る。


(あと、できることって何?)


 結界の力を操作して何か生み出せないか、と思案する。しかし、槍の作り方こそ覚えたものの、それ以外の有用そうな道具はまだ生成できない。せっかく覚えた技術なのに、今は役に立たなさそうだった


(本当に打つ手ないんじゃない? 今回)


 ルーイッドの強化の奇跡であれば、自身の能力を底上げして、力任せに壁を壊すこともできただろうが、守り主体のバリエラではやはり攻撃力に欠ける。黒杯の中にいたときは、灰色の魔人の補助があったから可能だった。やはり、一人でいるときに、この結界の能力は強くない。


 どうすべきか頭を悩ませていると、ぴきりという甲高い音が鼓膜を震わす。結界の障壁がひび割れる音に、いくら何でも早すぎるとバリエラは思った。視線を向けて、愕然と顔を強張らせる。


 黒杯の中から巨大な影が伸びていた。全身に触手を生やした、毛むくじゃらの黒い巨人が器から身を乗り出していた。外に飛び出た肉体の大きさは、明らかに出てきた黒杯の大きさを超えている。


 天井に挟まれて窮屈そうにした黒い巨人は、邪魔だと言いたげに二回ほど結界を拳で打ち付ける。しかし、それだけで障壁にヒビが入っていき、亀裂が拡大していく。


「嘘。あんな怪物まで入っていたの……?」


 魔力の回復には、まだ時間はかかる。戦闘になっても勝ち目はない。となるとバリエラにできるのは結界の補強だけだった。しかし、やってみても亀裂がすぐに入ってしまう。単純に敵の力が強すぎる。新しく壁を生み出す早さよりも、壊される早さのほうが勝ってしまっている。


 どう考えてもジリ貧だった。焦る気持ちとは裏腹に、頭の中ではきちんと打開の手段も模索しているが、いっこうに見つけられない。苦しすぎる状況に、息が詰まりそうになる。結界の展開だって、気力や体力を削っているのだ。結界の張り替えだって、いつかは限界が来てしまう。


 障壁が叩きつけられる度に、部屋全体が震動する。広間自体が崩れ落ちそうなほどの激しい揺れが何度も続いていた。時間稼ぎはいつまで可能か。強い衝撃で部屋中がきしみ、絶えず悲鳴のような音が反響する。バリエラの頭上からも似た音がしていた。


「…………。――えっ!?」


 てっきり部屋全体が鳴っているものだと思ったせいで、バリエラの反応は遅れてしまっていた。どういうわけか、真っ先に限界を迎えたのは、結界でも体力でも気力でもなく、賢者の真上にある天井の耐久力だったらしかった。


 壊れた天盤が降り注ぐ。急に落ちてきた瓦礫に、賢者は巻き込まれるしかなかった。



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