第73話 賢者は迷宮を彷徨う
一寸先すら閉ざす暗闇が、同じような景色が続く牢獄を巨大な迷宮へと変えていた。どれほど時が経過したのだろうか。鐘の音も無ければ日差しもない闇の中では、今が昼なのか夜なのかさえも定かでない。
結局、カナリナと出会ったあたりで見つけた分岐を左に進んでも、その先にも赤褐色の土壁と石格子の牢がある光景が広がるだけだった。文句を垂れても仕方がないが、少なくとも嫌気は差す。
「見つからないですね、出口」
「そうね。でも、流石に構造も予想がついてきたから、なんとかなりそうね」
しつこいくらいに
「じゃあ、ここもさっきと同じですか。ぐるっと左に一周して、分岐を左の道に進めばいいんですよね」
「多分ね」
歩きながらバリエラは頷く。この牢獄は同心円状に何層にも連なって、いくつもの牢屋が並んでいる。通路がほぼ一本道であることと、ずっと通路が緩やかな曲線を描いていたことで気づいたのだった。
環状の通路を反時計回りで進み続け、必ずどこかにある分岐で左を選べば、必然と内側の層に入ることができる。それを繰り返していけば、いずれ出口も見つけられるのではないか、というのが今の推測だった。
「こんな迷惑な建造物、いったい誰が建てたんだか……」
構造そのものは単純なほうだが、人を簡単には脱出させない造りになっていた。無駄に歩き回らなければならないことに悪意を感じる。
「言われてみれば、自然にできたって感じじゃないですよね。昔は人がいたんでしょうか?」
「そうなんじゃない? 昔の建造物を魔物たちが勝手に利用してるってところでしょ。それにしても、わざわざ人を
魔物化した人間は既に何度も見た。しかし、知性のない魔物を増やす必要性なんてあるのだろうか。連れ去った人間に何かさせているならばともかく、放っといても勝手に増える魔物をわざわざ人を変異させてまで生み出すという行為に、バリエラは不可解を募らせていた。
「あの……」
何かに気づいたようなカナリナの声に、バリエラは振り向く。指で示された方向を見ると格子を破壊された牢屋が並んでいた。強大な力で無理やり砕かれた扉をカナリナが不安げな瞳で見つめる。
「これって魔物がやったんでしょうか?」
「可能性あるわね。遭遇するかもしれないから、念のために聞くけど、魔力制御はうまくできそう?」
「…………あんまり」
微妙そうな顔でカナリナが首を振る。牢獄を探索しながら、魔力制御について教えているところだった。
この牢獄はどういうわけか周囲の魔力を吸い取っている。だが、対象から強引に魔力を奪い取っているわけではなく、空間に漏れた魔力を回収するようにできているらしかった。
どのような熟練の魔法士でも意識しなければ、肉体から漏れる魔力を抑えることはできない。見習いのカナリナであれば、尚更のことだった。
「回復した分の魔力が温存できてるなら、いざという時に簡単な魔法くらいは使えるようになると思うわ。ただし、この場所だと消耗は激しくなるから注意して」
疲労が増えるのは事実上、自身の魔力のみで魔法を完成させなければならないからだった。本来、魔法は詠唱を通して大気中の魔力を集め、自身の魔力と合わせて行使される。無詠唱に慣れているバリエラならともかく、まだ冒険者見習いのカナリナには難しい。
カナリナはゆっくりと呼吸に集中して、自分の魔力が漏れ出ないように制御しようとしている。一応、未熟ながらも素養はあるらしく、彼女から発される魔力の気配は少し減っていた。
暗闇を魔法の光で照らし出しながら、二人は牢の壁を進み続ける。長時間にわたる魔力の行使で、そろそろ休憩が欲しくなった頃、内側の円層へと続く分岐の通路が目の前に現れる。
奥を見据えて、バリエラはうんざりしたように息をつく。先にも同じような牢部屋の並びが待っていた。いったいどれほどの層があるのか。
一応、中心部には近付いている。目で見て通路がはっきりと曲がっていると認識できる程度には内側の層に進んでいた。ただし、この監獄の中央に出口があるという確証はない。
カナリナが隣にいる手前、顔には出さないようにしているが、気が滅入りそうになる。
「……あの、バリエラさん。奥から何か聞こえます」
「えっ、本当に?」
何も音がしない廊下で言われて、驚いて耳を澄ませるが、やはりバリエラには何も聞こえなかった。だが、カナリナは確信をもった様子で、暗闇へと伸びる通路の奥を指し示す。
訝しみながらも暗闇を照らして先に進んでいくと、そこには人影があった。
疲れ果てたように両足を広げ、壁に背を預けるように魔法士の導衣の男性が一人、静かに座り込んでいる。広い額には皺が刻み込まれ、頭には初老めいた白髪が入り混じっていた。自分たちのように牢を破った人が他にもいたのか、とバリエラは目を見開く。
しかし、視線を移すと男の左胸には深々と石でできた杭が突き刺さっている。明らかに心臓を貫く凶器にただ絶句するしかなかった。
「…………死んでる、んですか?」
カナリナが動揺を隠せない様子で、バリエラの裾を軽く引っ張る。だが、バリエラの目にも、男は息絶えているようにしか見えなかった。二つの
しかし、死んでいるはずの男の首が前触れもなく動き出す。
「…………。まだ意識は保てているようだ」
「「――っ!?」」
力無い掠れ気味の声が口から発される。あまりにも突然、喋りだした男にカナリナだけでなく、バリエラまでもギョッと身を一歩退かせた。二人の反応に男は諦めた表情を浮かべる。
「まだ人が残っていたんだな」
「すみません、今、治癒魔法をかけるので動かないでください」
死体が動き出したような衝撃から我に返ったバリエラは、急いで胸に刺さっているものを除こうと駆け寄ろうとした。しかし、男はそれを拒否する。
「すまないが、このままにしてくれ。刺した痛みで、どうにか正気を保てそうなんだ」
「いや、でも……」
「ああ、致命傷だ。だが、それでもなかなか死ねない」
男はゆっくりと襟元を
自らが魔物となり果てる前に命を絶とうとした。もはや教えられずとも察することができた。
「ここに長く閉じ込められている奴は、どいつも化け物へとなり果てる。やっとの思いで牢から出られたが、俺の場合は手遅れだった。だから、心まで魔物になる前にけじめをつけたかった」
「…………どうやって、牢屋から出たんですか?」
「俺の力じゃない。出してくれた奴らがいたんだ。確か、黒ローブの女魔法士が檻を魔法で粉々に砕いてくれたんだったかな。そいつは一緒に脱出口を探さないかと誘ってくれたが、俺は自分が魔物になりかけていると知ってしまったからな」
黒ローブの女魔法士と聞いて、バリエラはふとニャアイコのことを思い出す。最後に報告を聞いて以来、連絡を取っていないが、かなり心配かけているに違いなかった。今頃、ルーイッドたちとも合流して、連れ去られた自分を捜索しているのかもしれない。
「君たちも脱出口を探しているんだろ。俺を牢から出してくれた奴らは、この牢獄の中央に上階へ向かう階段があるんじゃないかって話していた。あれから時間は経っているが、もしかしたら君たちも合流できるかもしれない」
「……っ! 情報ありがとうございます」
「俺のようになるなよ……」
バリエラはひたすら頭を深く下げた。魔物化を治療することも、この牢獄から連れ出すこともできない。ただ、できるのは感謝を態度で示すことだけだった。カナリナも申し訳なさそうに深々と礼をしていた。
「気休めみたいなもので、特に意味はないかもしれないですが」
せめてものこととして、バリエラは浄化の奇跡を行使する。変色した肌は元へと戻らず、張り付いた鱗も取れることはない。浄化はあくまでも呪いや毒などを掻き消すためのものだった。
かつて戦った灰色の魔人が生み出す黒い霧は、いわば硬化の呪いの集合体というべきものだったから対処できた。だが、この魔物化はただの肉体の変化。浄化で遅らせることはできても元には戻せない。
「何をしたんだ?」
「ただの浄化魔法です。魔物化が少しでも遅くなればいいと思って」
本来はもっと強力なものだが、バリエラはただの魔法ということにした。救いにならないものを奇跡と呼ぶ気にはなれない。
「……そうか。気持ちだけでも有り難い」
男は虚ろな目のまま笑みを返すと、腕を鈍く動かして自分の懐をまさぐった。中から取り出したのは麻布で包まれた袋だった。受け取ると中に少し硬い何かが入っている。
「あまり残していないが、持っていってくれ。もう俺には必要ない」
小さな袋の中身には乾いたパンの切れ端が残っていた。
「一応、気をつけてくれ。体が魔物に近付いていくと、飢えや渇きを感じられなくなっていく。代わりに、強く何かを壊したくなる衝動に襲われるようになるんだ。自分が自分でなくなる前に脱出するんだ。…………もう行ってくれ。俺もそろそろ限界が来るかもしれない……」
「本当に、ありがとうございます」
改めて感謝を伝えて、バリエラたちは男の元を去った。最後に振り返って見た彼は目を閉じて眠るように壁に背中を預けていた。もはや、安らかな死を待っているかのようだった。
バリエラにはどう足掻いても救うことはできない。せめて、穏やかに逝けるように祈るばかりだった。
「……なんとしてでも脱出するわよ。生存者は他にもいる。その人たちと協力すれば、脱出の糸口を見つけられるかもしれない」
それくらいしか犠牲となった人たちの想いに応える方法がなかった。ここに閉じ込めた黒幕に一泡吹かせられればいい。
「…………。そうです、ねっ!」
不安の混じった顔を浮かべながらも、カナリナも強く同調した。バリエラたちは廊下を突き進み、再び牢屋が並び続ける通路へと出る。見た景色ばかりが続くが、永遠に続くわけではない。
一度は滅入りそうだった心には火が灯っていた。決意を固めたバリエラは、牢獄に立ち込めた陰鬱な空気を払うかのように、力強い足取りのままに突き進んでいった。
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