第58話 兵士は怪物を斬り裂く

 黒腕の怪物が、山の頂上から傾いた地面へと身を乗り出す。透き通った全身の中では唯一、向こう側を見通せない、正面の窪みの中にある黒点が眼球のように動き、下にいる剣士二人と飛翔する勇者の姿を捉えた。


 水膨れした醜悪な六本腕が順々に振り上げられ、ぬかるんだ地面にめりこまされていく。そして、背中を無数の鋭利な触手へと変化させて、下の剣士たちへと放った。


 数十は下らない鋭利な黒い棘が迫りくる前に、サユイカは周囲の岩を踏み台にして跳躍した。そして、ぬかるみに足を捕られるのを避けつつ、近くの岩や木を足場にしながら、そこらの地面を刺し続ける触手を回避する。


 ほんの僅かな時間で周囲の状況を把握しては、逃げ道が潰されないように立ち回っていた。副隊長であるクラダイゴも同じ手段で、鋭利な棘の嵐を躱していた。


「我を無視するとは良い度胸だな」


 上空から急降下した竜の勇者が、怪物の背中を裂かんと、炎を灯した爪先を突き立てた。触手が根元から分断され、サユイカたちを襲っていた攻撃の嵐が止まる。抗うように黒腕の怪物は全身を硬化させたが、竜の怪力を内に秘めた鋭利な爪先が強引に背中に亀裂を入れた。


 その刹那、怪物の全身を覆っていた水気が、その傷痕に溢れ出す。竜の勇者の顔に噴射するように飛び散り、空気に触れるや否や爆炎と化した。


「――っ!?」


 山頂で立ち昇った火柱にサユイカは目を丸くする。即座にアカが爆炎から脱出したのを見て安堵したが、同時に苦虫を噛み潰したような顔をした。


 あの黒腕の化け物は、地面のぬかるみが特にひどい場所に鎮座している。それは回避どころか、剣を振り抜くのにすら支障がでそうな足場で戦わねばならないということであった。そのうえ、不用意に傷をつければ、燃える体液による爆発に巻き込まれるということまで分かっている。まさに剣士泣かせの敵だった。


「――――」


 いや、それだけではない気がした。


 動いた怪物の単眼にサユイカは妙な悪寒を感じた。黒点の手前が急に黄色く明るくなったと思えば、その直後に炎色の光線が直線上の障害物を全て焼き払った。


「…………っ!?」


 辛うじて退避し、別の岩を足場にしたサユイカは、炎が過ぎた跡を一瞥する。そこにあったはずの低木や植物は勿論、地面も抉り取られてしまっている。蒸発する水気が視界を白く染めていた。生身であろうとなかろうと、あんなものが直撃すればひとたまりもないだろう。冗談にならない大火力にサユイカは渋面をつくるしかない。


 それから、どこに退避したか分からないクラダイゴへ通信魔法を飛ばす。


『さて、どうしますか? 副隊長』


 相手が応じる気配を感じて、サユイカは尋ねた。黒い棘に襲われた時点で、クラダイゴとは別々に行動している。一箇所に集まったところを狙われるのを防ぐためだった。


『俺のほうは、アカの奴が注意を引きつけている間に、あの化け物に近付いて斬りこんでやるつもりだ。少なくとも離れてちゃ、手出しのしようもねえからな』


 一度は爆炎に呑まれた竜の勇者だが、大した傷ではないとばかりに、上空からの斬りつけと退避を繰り返している。おそらくだが、彼は全力では戦っていない。というより、黒腕の怪物の内部に、水の勇者がいる可能性が払拭されない限り、全力で戦ってはいけなかった。


『レイラ様が取り込まれている可能性についてはどうしますか?』


『あの巨体全部がレイラの奴な訳ねえだろう。黒の薄い部分なら裂いたところで問題はないはずだ。そもそも、近づかねえとあの中にレイラがいるかどうかも判別がつかねえ』


『流石はクラダイゴさん。いっそのこと、全てお任せしてもいいでしょうか?』


『アホ言うな。一人だけ体を張らせる気か』


『冗談です。私も加勢します』


 サユイカは見上げて、まともな足場になりそうな草木や岩を探す。彼女の身軽さならば、ほんの小さなとっかかりでも足を置くことができた。


『分かった。なら、俺は裏から頂上側に回り込む。攪乱かくらんは任せるぞ』


『……? 裏って、ほぼ崖では?』


 疑問を口にしきる前に、通信魔法が途絶える。サユイカは少し困惑した。だが、あの人ならできないこともないだろうと、考えるのをやめた。


 前方では、竜の勇者と黒腕の怪物の争いが繰り広げられている。地面へと突き立てられていた黒腕が、空中を旋回する勇者を掴もうと伸ばされる。だが、竜の勇者が放った不可視の斬撃によって、即座に切り崩された。燃える体液が外気に晒されたことで腕が四散するが、千切れた部位からすぐさま再生が始まる。


 ――埒が明かない。サユイカはそう感じた。


 水の勇者の有無を抜きにしても、十分すぎるくらい厄介な敵だった。全身を切り刻まれようが、燃やされようが、黒腕の怪物に止まる気配はない。圧倒的な暴力を理不尽なまでの再生力で凌駕していた。


 断片すら残さず、瞬時に滅ぼしつくせば、まだ倒せる可能性はある。だが、黒腕の怪物に水の勇者が取り込まれているのであれば、ほぼ確実に巻き添えにしてしまうだろう。


 何か手立てはあるのだろうか? 攪乱かくらんは任せると言ってきた副隊長の言葉を信じながら、サユイカは足場に飛び移っていく。隊長といってもサユイカは、技量や経験でクラダイゴに及ばない。もちろん、親衛隊長の肩書は伊達という意味ではないが。


「仕方ありません。全力で囮になりましょうか」


 サユイカの全身から白い魔力が溢れ出る。白い輝きの中に身を置いた彼女は、山頂付近に陣取る黒い巨塊を見据えると、足場にした岩を強く踏みしめた。刹那、噴射された魔力がサユイカ自身を射出させる。速度を亜音速にまで引き上げた彼女は、流星のように怪物の巨体の真横を通過した。


「――――ッ――」


 ぼとりと音を立てて、怪物の一部が地面の上に崩れ落ちる。勢いのまま振るわれた消滅魔法付与の剣筋が、片側三本の腕を全て分断していた。燃え上がる傷口から再生は既に始まっているが、一気に大きく部位を消失したため、少し時間がかかるようだった。


 だが、剣を振り切ったサユイカはふと気づく。ここは山頂、通り過ぎれば地面は遥か下にあると。


「……勢いを付けすぎましたね、これ」


 すかさず交戦中だったアカが空中旋回し、彼女の両脚を捕まえた。申し訳なさそうにする親衛隊長にアカは愉快げに表情を綻ばせていた。


「なかなか良い技を持っているではないか。もう一度だ、小娘っ!」


「人使い荒いですよ? 本当に」


 両足を握ったアカがそのまま足場の代わりとなり、未だ光をまとうサユイカを押し出すように投擲する。驚きながらも察した彼女も両脚を曲げ、放たれると同時に跳躍した。


 今度は反対側を通過する。左側の腕が落とされて、再生したての右側では支えきれず、怪物は腹を地面に打ち付けた。


 ぬかるんだ足場を緩衝材にしながら、強引に斜面に着地するサユイカ。既に尋常でない魔力を消費しているが、顔色一つ変えていない。保有できる魔力量の限界を引き上げられた彼女だからこそ可能な荒業だった。


 そして、山の頂上側にはクラダイゴが、腹這いになった怪物に剣を向けていた。


「無駄に太りきったその巨肉、少しは削がねえと動きづらいだろ?」


 その剣身には魔法が付与され、圧縮された風が渦を巻いている。渾身の溜めが込められた一振りがそのまま一陣の風となり、怪物の巨体を吹き抜けていった。


 込められた魔法は、ルーイッドの振るう風魔法と大差ない。だが、クラダイゴの剣技が組み合わさることで、風の刃はより凶悪な意思を得たかのように暴れ出す。


 一拍を置いて、怪物の体内に入り込んでいた風が斬撃となって拡散し出し、周囲の黒い水を一気に掻き回していく。空気に触れた体液は次々に引火し、暴れる風によって連鎖的な爆発を引き起こした。結果的に怪物の後ろ半身が、見る見るうちに斬り尽くされて炎へと消える。


「――!?」


 重心が移ったことで怪物は前のめりに転倒する。声をあげることができていたならば、苦悶の声を上げていたに違いない。斜面でひっくり返り、黒点がクラダイゴのほうを向く。


 軽度の火傷を負った褐色肌の大男は、既に剣を再び掲げていた。


「見せてもらうぞ、その内側にあるものを」


 陽光で反射する鋼の剣身が、怪物の窪みにある黒点めがけて、一気に振り下ろされた。硬質な響きと共に、引火する体液が飛び散り、その中身が露わとなる。


「…………」


 クラダイゴが失望したかのように、怪物の黒点へ追い打ちの斬撃を見舞う。それから即座に後ろへ跳び退いた。透けて見えなかった黒点にあったものは、ただの虚無だった。


 一方で、急所を傷つけられた怪物は発狂するかのように、失った肉体を急激に再生、――いや、変質させた。


 途端、発生した爆風にクラダイゴや竜の勇者は、その場から退避した。火災を思わされるような烈火が、黒腕の怪物を包み込んでいる。


「……自分を燃やしているのか、あれは?」


「ただの自傷行為にしか思えんな」


 黒腕の怪物は肉体を燃やし尽くし、その業火を新たな肉体に変える。元より不定形だったからか、腕を次々と増やし、数えきれないほどの炎の触手で身を包む。唯一、変わっていないのは、怪物の正面に浮かんでいた黒点のみ。火炎に囲まれながらも、焼け落ちてはいない。


 岩場の隙間や周囲に生えてきた小さな草木は延焼し、火災が起きている。この山の頂上が岩ばかりで比較的、緑が少なかったというのは幸運だった。


「おいおいおい。まるで炎を操ってるみたいじゃねえか。流石にふざけてねえか?」


「――操るというほどではない」


 上空のアカがクラダイゴと言葉を交わした。


「単なる足掻きだ。最初と比べれば、感じる力の大きさがずいぶんと弱まっている」


「ですが、流石にあれを斬るのは難しそうですね」


 しばらくの間、着地の拍子に足を地面に捕られていたサユイカも合流する。飛翔していたアカは既に降りていた。


 頂上には業火をまとう怪物がそびえる。あの熱気では、水でも被らない限り、近づくことさえ困難だった。だが、竜の勇者はただ辟易とするだけで、たいして気を留めてない。


「ふん、あの程度の火なら我が何とでもしよう。だが、肝心なのは水の勇者だ。結局、あの中にいたのか? あの濃い黒の中身は見たのだろう?」


 竜の勇者がクラダイゴに問い掛ける。クラダイゴは確かに、黒点を切り裂き、その中身を目撃していた。


「……ああ、見た。レイラの奴はいなかったよ」


 中身など何もない。黒い液体が詰まっただけのただの球体だった。最初の人影は目の錯覚か、あるいは本物の水の勇者を模した偽物。どのみち、まんまと引っ掛かったということになる。


 ともかく、この怪物に水の勇者が囚われていないことは確定した。


「分かった。それなら、加減はもう必要なくなった。貴様たちは少し下がってくれ」


 そう言って、竜の勇者はゆっくりと風と共に舞い上がる。まるで本物の業火を見せつけようとしているかのように、緋と黄金色の混じる炎を竜翼に纏わせて、大空へと大きく広げる。


 怪物が炎の触手を伸ばしていくが、ただ燃え上がるだけの炎で竜の勇者を傷つけることは叶わない。むしろ近付いた触手のほうが熱に耐えられずに、焼け落ちていく。


 全力を出した竜の勇者が、炎を纏った怪物を滅ぼすのに、それから数分もかからなかった。

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