第57話 兵士は怪物と対峙する

 真紅の炎翼が空から流星を描くように落下する。翼の生えた炎塊は、墜落の寸前で角度を変えて、高山の斜面で静止した。鎮まった炎の内側からは、竜の勇者たちが姿を現す。アカはともかく、親衛隊であるサユイカとクラダイゴは荒々しい着陸に愚痴を零していた。


「流石に俺も歳か? 思ったより堪えるな」


「ですね。私も戦い始める前から潰されるかと思いましたよ。もっと丁寧に運ぶことはできなかったのでしょうか?」


 凝り固まった姿勢をほぐすようにサユイカとクラダイゴが肩や首を回す。しばらく炎の中にいたにもかかわらず、二人に火傷はない。


 竜の勇者が熱を操作したことで、むしろ炎は身を守る防護服の代わりになっていた。当然、飛行中の揺れや衝撃も緩和していたが、腕を引かれながらの飛行であるので、体がもげそうだったと親衛隊の二人は口々に文句を言う。


「ふん、軟弱すぎる。――それよりも警戒をしろ」


 着陸した大地を漂う異様な気配に反応して、竜の勇者が目つきを鋭くさせる。彼らがいる場所は、高山の頂上から少し下ったところにある、針葉樹と背丈の低い植物で覆われた緩い傾斜が続く坂道だった。この高山は周辺の山岳の中では最も標高が高い。そして頂上は、水の勇者が魔物たちに守られていると、ノルソンが確認した場所でもあった。


 冬を思わせるくらいの冷気が、親衛隊の白制服の上から肌を刺す。身震いしつつも、まずサユイカが地形の違和感を察した。足元の靴がまるで泥の中に突っ込んだ後であるかのように汚れていた。


 というよりも、地面そのものに異様なぬかるみがあった。草の上を踏むと水気が染みだしてくる。普通であれば、冷気で地面が固まっていてもいいはずであろう。


「水の勇者がいるという証なのでしょうか?」


「さあな、魔人の可能性もある。どちらにせよ、俺たちが想像できないほどの力を秘める相手だ。今更、驚くことではねえさ。……だが、戦うときに足を取られるのは少しマズいか」


 クラダイゴが斜面の先を見据える。竜の勇者たちの存在に気づいたのか、黒い魔物たちが頂上から下って押し寄せてくるのが見えた。


「ついに来ますね……っ」


「待て」


 交戦に備えて、剣を抜きかけたサユイカとクラダイゴを竜の勇者が手で制止する。


「まずは分からせねばな。数で押したところで、我らには勝てぬと」


 そう言ったアカは右手で払いのけるかのように、手前を指で一閃した。撫でられた空気が風となったまま凝り固まり、透明な鋭刃となって、猛進してきた黒い魔物たちを引き裂いた。


 炭の塊となって崩れ落ちた同胞を気に留めることなく、魔物たちは次々に向かってくるが、竜の勇者が指で空気をなぞるだけで全滅する。


 敵の援軍を待つ必要はないと竜の勇者は前進した。


「……私たち、いらなくないですか?」


「そうでもない。今のわれの能力では、勇者と魔人を同時に相手にするのは厳しい。雑兵の一掃程度ならわけないが」


「つまるところ最悪の場合、俺と嬢ちゃんで魔人か水の勇者のどちらかを相手にするってことだな。最低でもアカが片方を倒すまでの時間稼ぎしなきゃならねえってわけか」


 群がる魔物たちを千切りにしながら、竜の勇者と親衛隊の二人は泥の斜面を登った。形が崩れて炭となった魔物の死骸を踏みしめて、頂上を目指す。


 事前の情報どおりであれば、山頂には黒い繭の中で眠りに就いた水の勇者と、護衛の黒巨人たちがいるという。状況が変わっているため、現在もそうだとは限らないが、上空から観察した限りでは、魔物の群れは間違いなく、この高山から発生しているようだった。少なくとも魔物発生の元凶が山頂にいるのは確実であろう。


「…………っ!」


 ふとした異臭にサユイカは顔をしかめた。水気を含む空気の中に泥と油が混ざったかのような不快な匂いが鼻につく。頂上へ近付くにつれて異臭は濃さを増していく。地面も粘り気がひどく、常に靴裏に張り付いてくる感触が気に障る。


「……嫌な感じだ。さっきから妙に静かだしな」


 周囲に目を配らせながらクラダイゴが呟く。山の頂上が視界に入るようになったところで、敵の増援は途絶えていた。


 敵の死骸を足場にすることができなくなり、地面のぬかるみが更に目立つようになった。粘りつく足場との格闘の末に、やがて三人は山頂に辿り着く。


 不規則に生えるやや色が褪せた低木と、灰色の岩しかない閑散とした地面。本来、絶景が見渡せるはずの場所で、大人ほどの大きさの黒い球体が浮遊していた。


 まるで水玉に黒い絵の具を垂らしたかのように、薄い黒が内部を漂い、中心部に近付くにつれて黒を濃くしていく。その球の中央に、最も濃い黒で人の形をした影があった


「――おいっ! 聞こえているか!」


 クラダイゴが人の影に向けて、声を投げ掛けた。


「そこにいるのはレイラか? 返事をしろ!」


 黒い球体は全く反応を見せなかった。声が届いていないのか、会話を拒絶しているのか。中の人影が動く素振りさえない。


「仕方ねえ。近づいて声を掛けるしかねえな」


「危険ではないか?」


「そんなもん承知の上だ。」


 警戒のつもりか、クラダイゴが自分の長剣を鞘から引き抜く。厚みと幅を利かせた剣身が外光に晒されて反射した。外見は親衛隊の支給品と大差がないものの、実際には見た目以上に重く、より頑丈な金属が使用されていた。それをクラダイゴは軽く持ち上げ、抜き身のまま逆手に握る。


 黒い球体に向かっていく副隊長を注視しながら、サユイカは呟いた。


「そういえば、話に聞いていた護衛の巨人たちはいませんね」


「警戒は抜かぬほうがいい。ここは敵地だ」


 半分ほど距離が縮まったあたりで、クラダイゴがふと歩みを止めた。見守る二人の視線が一斉に、彼の背中に集まる。黒い球体の表面が、不自然に小さく波打ったことに気づいたのは、最も間近にいたクラダイゴだけだった。


「――――っ」


 危険を察知したクラダイゴが、即座に身をよじらせる。彼の体があった場所を黒い棘が通過した。それからも黒い球体からは鋭利な棘が次々と伸び、後方にいる二人にも襲いかかった。


「――チッ!」


 瞬時に翼を広げて、竜の勇者が上空に退避する。サユイカも咄嗟ではあったが、身を屈めて躱した。間近で狙われたクラダイゴは、避けたあとも執拗に複数の黒い棘に追われる。だが、強引に斬り払って串刺しになるのだけは回避する。


「おいおい。……マジかよ」


 斬撃を振るった自分の剣が、軽く刃こぼれを起こすのを目の当たりにする。クラダイゴは口元を引きつらせながらも、辛うじて黒い球体の攻撃圏内から逃れた。そして、先に頂上から逃れた年下の隊長に告げた。


「間違えても、あいつの棘は剣で受けるんじゃねえぞ。お前の剣なら確実に折れる」


「分かりました。――それなら」


 サユイカは詠唱して、自分の剣に魔法を宿した。白い光が剣全体を包み込み、刃を一回り大きくする。消滅魔法を帯びた光の剣が彼女の手に握られる。


 バリエラやルーイッドも切り札とする消滅魔法。実のところ、勇者や賢者以外で習得できた者は、ごく僅かしかいない。本来であれば、緻密な魔力を制御できる技術と魔法に対する深い造詣、そのうえ天賦された才能を有する者でなければ、習得のためのスタート位置にすら立てない魔法の極致の一つであった。


 だが、親衛隊で能力開発を受けていたサユイカは、消滅魔法を完全に物にしていた。最初から資質が備わっていたのは事実だが、ルーイッドの強化の奇跡によって、才能はより大きく開花させられていた。


「無理はするんじゃねえぞ」


「副隊長こそ、久々の実戦で、勘が鈍っているんじゃないですか?」


「言ってくれるじゃねえか」


「――おい、貴様ら、敵に集中しろ」


 上空でアカが親衛隊の二人を睨みつけた。事実、黒い球体は形状をさらに変化させている。透き通った黒い水が沸騰したかのように泡を立たせて、全体を膨張させていく。


 新たに生まれる六本の腕。まるで人間の腕を真似ようと試みたかのような、歪な形をした肢体が地へと立てられる。まるで大蜘蛛が地面に張りついているかのようだった。


 顔と呼べるようなものはない。その代わりに、中心に見えていた人影が急にぼやけ、より濃厚な淀みとなり、大きな黒点となる。全身が膨張するに従って、黒点も怪物の正面に据えられ、最寄りの肉壁が凹んだことで、巨大な単眼のようになった。


 凹みの部分を除けば、体全体は変わらず透き通った黒い水で覆われており、動くたびに波紋を生じさせている。そして、波紋から垂れ落ちた水の雫が、黒い蜥蜴の魔物の姿となって肉壁から生まれ落ちた。


「こやつが、あの魔物どもの元凶みたいだな」


 アカの呟きと共に、上空で風が吹き荒れる。


 空気を荒らした竜の勇者が、両指の鉤爪を十字に振るう。鎌鼬かまいたちとなった不可視の斬撃が、周囲の黒蜥蜴たちに降り注ぎ、黒球の化け物にも襲いかかる。黒蜥蜴たちの全身は透明の刃が両断し、手足かどうかも判別できぬほどに裁断する。だが……。


「再生か……」


 全身に波紋を生じさせた黒球だった怪物を、上空からアカは見下ろした。風の斬撃は確かに黒い身体を通り抜けたが、刻んだはずの傷痕は、瞬きをする間もなく消失する。


 忌々しそうにアカは顔を歪めた。かつて戦った灰色の魔人も、黒霧によって自身を再生する能力を持っていたのを思い出したからだった。それはサユイカも同様だった。


「一筋縄ではいかなさそうですね。できれば、あの人影がレイラ様かどうかは確かめたいのですが」


 今は黒腕を生やした怪物に、どう立ち向かうかをサユイカは剣を構えながらも思案する。


 消滅魔法の完成度は、もはや灰色の魔人と交戦したときの比ではなくなっていた。だが、斬撃を浴びせたところで再生されたら意味はない。体表面を自在に変化させられる相手である以上、剣では相性が悪い。


 この相手には勝てるのだろうか? だが、副隊長はただ一言で叱咤した。


「弱気になるな」


 剣士としての経験が長いからか、クラダイゴに動じた様子はなかった。ただ、腕の怪物にできた正面の窪みを静かに見据えていた。黒い穴の裏側にあるものを、見極めようとしているかのようだった。


「どのみち野放しにできる相手じゃねえ。水の勇者が取り込まれてんなら、引き剥がしてでも連れ出す。いねえなら叩き潰す。俺たちの目的は最初からそれだけだ」


「そうですね」


 今もなお、黒腕の怪物は伸縮自在に、質量を増大させていく。やがて山頂には収まりきらなくなり、空を飛ぶ竜の勇者と違って、親衛隊の二人は黒い巨躯を見上げることになった。一目見て禍々しさを感じる敵だった。


「やりましょう、クラダイゴさん。ルーイッド様に情けない報告はできませんしね」


「アカの奴もいるから、戦力的には問題ねえ。とことんやるぞ、隊長」


 珍しく副隊長が隊長呼びしてきたことに、サユイカは好戦的な笑みを浮かべて、それから黒腕の怪物に目を向けた。

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