3-3

「手元、大丈夫ですか?」


「あぁ、大丈夫だよ。勘で何とか」


「勘って……」


「大丈夫だって。死ぬわけじゃあるまいし」


「フフッ」と柔らかく微笑む音羽。


『音羽うつぎ』――それが彼のフルネームだった。

医学の勉強で本を借りに、この館に出入りしている彼は、ようやく学校に入学して一年経つという。


「医学生って言うと、凄いように感じるけど、実際はまだまだひよっこなんだよ」


「そんなことないです。凄い、と思います……」


「ひよっこ」とは言うが、医学系の学校に入試で受か ること自体が並大抵ではな い。

いくら外を知らないミツコでも、医者を目指すことが如何ほど難しいかは想像できる。


「医者を難しく見過ぎだよ 。でも、ありがとうね」


「! いっいえ……」


言われ慣れない『ありがとう』に、ミツコは思わず下を向く。

音羽に会ってからというものの、ミツコはずっとこんな調子だ。

なんせ罵倒しかされたことがないので、どう話をしたらいいのか分からない。

扉越しに感じた優しい雰囲気で、柔らかな声で、音羽は今こうして目の前で話をしていた。


――優しい、人……。


月明かりしかないこの暗闇で、お互いの顔は分からない。

ぼんやりと浮かぶシルエットから見るに、音羽は男性にしては細身で、背がそこそこあるようだった。

数え年十四のミツコから見れば、十八の音羽は立派な大人だ。


見えないとはいえ、何とな く顔を凝視するのも憚られたミツコは、音羽の手元を見る。

音羽は暗闇の中にも関わらず、シュルシュルと器用にリンゴを剥いていた。

しばらくして、音羽が口を開いた。


「ねぇ。君、名前は?」


「え?」


飛んできた質問にビクッと するミツコ。

自分のことについてあれこれ聞かれるのは、正直バツが悪い。

化け物呼ばわりの、雛鶴家が三番目。その正体を知った時、彼はどんな反応をするのか。


―言っちゃだめ。嫌われ たくない……。


ミツコはしどろもどろに答えた。


「えっと……雛鶴家、の者としか。名前は……ちょっと」


「言えない理由が?」


「言えないというか、言いたくないんです」


そう言って俯く。

彼女は、自分の名が嫌いだった。

三番目に生まれたか ら三子――ミツコ。

両親にとってそれは、ただの番号付けでしかない。


「意味のない名前なんて… …名前じゃ、ありませんから」


ミツコの口から放たれた、温度のない言葉。

思いがけないその虚ろな響きに、ミツコはハッと口元を手で押さえる。

だが、音羽は何かを察したのか、特に深くは追及しなかった。


「そっか。……大変だね、君も」


それだけ言うと、コトリと皿をミツコの前に置く。

皿には、可愛らしいリンゴのウサギが数羽乗っていた。


「わ、可愛い……食べるの勿体ないわ」


「喜んでもらえてよかった 。ほら、変色しちゃう前に早く」


二人は向かい合わせに椅子に座ると、リンゴを食べた 。

誰かと一緒に食事をするのが初めてなミツコは、ここでもそわそわと落ち着かな い。

だが、音羽と食べるリンゴは格別に美味しかった。


「美味しい」


「そうだね、流石いいリンゴだよ」


しばらくシャクシャクと心地良い音が響く。

やがて、音羽が「んー」と唸った。


「どうしようかなぁ。もう寝ようか……でも、論文完成出来てないしなぁ」


「宿題があるんですか?」


ミツコの問いに「そうだよ」と音羽が頷いた。


「論文を書くのに参考資料が必要なんだけど、しっくりくる本がなかなかなくてね。市の図書館に行ってもなかったしなぁ」


「本……」


呟くミツコ。

一つだけ、思い当たる場所がある。


「私の部屋、書斎だから… …もしかしたら、論文に使える本が見つかるかも」


ミツコが閉じ込められているのは、かなり広い書斎。

おびただしい本の多さで、細かい区分は覚えていないが、中には医学書もあったはずだ。


「え、書斎が他にもあるのかい? やっぱり凄いなぁ、雛鶴邸は。そこにお邪魔できる?」


「それは……ちょっと難しそうで。私、本当は誰とも会ってはいけないんです。それに、部屋から出るなと禁じられていて ……」


ミツコは正直に話す。

音羽を書斎に連れ込み、家族にバレようものならどうなるか分からない。


だが、音羽の手助けもしたい。

しばらく悩んだミツコは、 顔をあげた。


「どんな本を探しているのか、教えてもらえたら探します。それらしい本を見つけたら、どうにかしてお渡しします。どうやって渡すかは……うーん……」


再び悩むミツコ。


音羽は「申し訳ない」と頭 を下げた。


「わざわざありがとう、凄く助かるよ。そうだね……渡してもらう方法は、俺も考えてみる。その書斎は、どこにあるんだい?」


「えっと、階段を上がった突き当たりの……」


その時だった――


ガタン! と何かが動く物音がした。


続いて、足音。

どうやら、誰かが起きてきたらしい。


「 !!いけないわ、早く戻ら なきゃ!」

慌てて席を立つミツコ。

音羽がリンゴとナイフの乗った皿を差し出した。

「これごと持って行って、早く! 見つかったら、マズいんだろう?」


無言でぶんぶん頷いたミツコは、それを受け取ると階段に向かって小走りで急ぐ 。

その背中を、音羽は小さく手を振って見送った。


「また、話そう」

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