第一章12 『Eonian Gait』
走る、走る。
息を切らし、降り出した大粒の雨など気にもせず、ただひたすらに駆け抜ける。
不安を煽る天気。
どんなに息が切れようと、乱れた呼吸で肺が痛くなろうと、構わず走り続ける。
彼女のもとへ。
その一心で足を動かす。
嫌な予感がする。
この冷たい空気が不安を煽る。
まるで、あの時を彷彿とさせる――。
急げ……急げ……っ!
この3か月間、ずっと彼女と共にしていた。
僕の日常は彼女なしでは成り立たないほどに、僕の心は、彼女との思い出で満ち溢れている。
掛け替えのない存在。
僕の心を豊かにしてくれた、大切な人。
僕はっ……僕はまだ……っ!
脈打つ心臓がうるさい。
視界を阻む雨が、冷たくて目に染みる。
頬を伝っていく感触が少し、涙に似ている。
頭の中は、彼女との思い出と妹の影が重なって、掛けられた言葉が耳元を掠める。
彼女と妹は似ている。
でも今この瞬間だけは、似てほしくないと思った。
目の前に不穏な空気が漂う。
そこにあるのは、顔馴染みのあの場所で。
目的地へと近づき、視界に入れた途端に浮かぶのは、先ほどのメールで。
――『サブ:病院にいます。
本文:お見舞い、来て?』
※
――病院。
エントランスで受付を澄ませ、乱れた呼吸を整えるべくゆっくりと歩く。
這いずるように壁に寄り掛かり、彼女の病室を見つけては戸惑う。
そこには見慣れた廊下があって、そのことに息は詰まって。
ゴクリと唾を飲み込んで、ドアノブへと触れる。
「―――」
妹と同じ病室。
何度も訪れ、胸にはこの遣る瀬無い思い。
「なんか、因縁を感じるな……」
嫌な予感が助長される。
意を決して、ゆっくりと扉をスライドする。
扉を開いた先に、彼女はいた。
「やあ」
途端に聞こえる彼女の声。
「ごめんね?心配かけちゃって。ちょっと根詰めすぎちゃったかな」
振り返った姿には、いつも通りの笑顔があって。
「大丈夫なの?」
「うん」
気のせい、かな……?
今の返答、予め用意していたみたいだなんて。
「聞いたよー?待田先生と白鳥先生のコンビと勝負するんだってね。編集長からさっき、直々に電話があってびっくりしちゃったよ」
「……うん」
視線を逸らす僕。
窓に目を向ければ、雨は止んで暗闇の広がる夜となっていた。
「……どうして、そんなことをしたの?」
問われたことに、少し言いづらい。
――だってそれは、
「……君が、バカにされたから……」
凄く、子供っぽい理由だったから。
「……君はもっと、冷めてるんだと思ってたんだけどな」
小さな苦笑。
きっと、気のせいだ。
目の前にいる彼女。飾られる花。窓から差し込む月夜の光。
それが全部、昔を思い出させるもので、君が妹に似ているからって、君も同じ道を歩むなんて……。
そんなの、全部――、
「どうして、君はそんなのにも頑張れるの……?」
君は今日まで頑張っていた。
妥協せず、諦め悪く、必死に。
ずっと隣で見てきた。
君は凄い。
誰に何を言われようと自分の信念を貫き通す。
意見を曲げない頑固者。
僕にない、強さを持っている。
だからふと思ってしまう。
君を突き動かす理由は何なのかと。
「どうしてって、そりゃあ……」
暗がりの中振る舞う、明るい笑顔。
その理由を僕はまだ、知らない。
「君に、認められたいから」
静かな言葉だった。
夏に差し掛かった病室で、雪のようにしんとした冷たい回答。
「僕はもう、君を認めている……っ」
バカみたいな理由。
君がどれほど頑張っていたのか、僕は知っている。
傍から見れば天才。
でもそこには、類稀なる努力があった。
絵に全てを注ぎ込んでいた。
僕にはとても真似できないほどの、積み上げてきたものがあった。
刊行に間に合わせるための必死さ。
締め切りを破ることの重み。
君は普通とは違う。
睡眠時間を削って、絵を描いていて。
それは全部、僕のためで。
編集部からの無理難題の締め切りを押し付けられても、君は弱音一つ吐こうとしない。泣き言一つ言わない。
無理なら無理って言っていいのに。
君は意固地になって、諦めることを許そうとしない。
そんな君を認めることなんて、造作もないことで。
僕は君をとっくに、認めているというのに。
「だって、バカにされたんでしょ?」
「……っ」
君はまだ、頑張ろうとする。
僕のため。自分のため。
今にも折れてしまいそうな、ちっぽけな理由。
君はどうしてそこまで頑張れるのだろう。
それが僕にはわからない。
「それってさ、私がまだ、君にふさわしくないってことでしょ……?」
「それは……」
途端に萎らしく、声を震わせる君。
「私は君の力になることも、支える事さえかなわない……。全然できてない……」
溢す涙。
掛ける言葉が見つからない。
そうか……君も、そうだったんだ……。
「だから、今無理するのは、当たり前のことなんだよ……っ?」
無理矢理つくる笑顔。
君も、追い詰められていたんだ……。
「……っ」
悲しそうで、苦しそうで、そんな君を僕は見ていられない。
違う……僕は君に、そんな顔をしてほしいんじゃない……っ!
「ごめん……困らせちゃったよね……」
――『ごめん、ね……?』
君を見ていると、妹を思い出す。
――だから、
「ぇ……」
体は自然と、吸い寄せられるように彼女を抱きしめていた。
「君は、いなくならないでくれよ……っ」
漏らす言葉は、繰り返すようなあの頃を思い出して、頬には君と同じ涙が伝っている。
そんな中でも君は、僕を受け入れるように抱きしめ返してくれる。
傷をなめ合うように泣きじゃくるこの瞬間。
悲しいはずなのに、なぜか不思議と暖かかった――。
※ 『独り善がりの想いほど傲慢なものは無いけれど――、』
「それで、勝負の内容は?」
落ち着いて、恥じらう素振りを誤魔化すように君は話題を変更する。
「とりあえず、小説で賞を取った方の勝ちって感じかな……」
だから僕も、そこに合わせる。
「何を賭けるの?」
「君への謝罪と僕の復帰」
これはもう、決定事項。
彼らの承認も、北村さんや編集長の許可だってもらっている。
僕が勝てば君への謝罪。
僕が負ければ、『竜胆』としての復帰。
ここのどこに、彼らの願いが込められているのかはわからない。
けれど、わかっていることはある。
「そんなことのために、勝負を挑んだの?」
呆れ顔の君。
でも、嬉しそうに笑っている。
「うん……」
僕が物語を描くのは、僕が物語を紡ぐのは、全部君のため。
いや、違うな……。
君であって、僕のためだ。
見つけたんだ、揺るぎない信念を。
真に思った、自分が描く理由を。
お金のためや描きたいからというのとは、少し違う。
自分のためであって、そうじゃない。
独り善がりの想いほど傲慢なものは無いけれど、決めたんだ。
『君のために』って、そう、決めたんだ。
――なのに、
「私ね、手術することになったの」
途端に君が見せる表情は、何かを諦めているような冷めたものだった――。
※
「手、術……?」
「うん……」
「それって、難しい手術なの……?」
「どうだろ」
取り繕った笑顔。
――なんだよ……なんなんだよ……っ。
握り締める手。困ったような苦笑。
君も、不安なんだ。
――やめろ……やめてくれ……っ。
妹の影がちらつく。
今の君の姿は、妹と重なる。
――あの時もそうだった。
いつも通り花を手向け、笑顔を見せていたユキ。
病状が悪化していく中で、それでも耐えず笑みを溢していた。
僕に心配を掛けまいと――。
もしかしたらユキは、自分はもう長くないのだと予感していたのかもしれない。
気づいて、わかったうえで、作り笑いを浮かべていた。
――ごめん……ごめんよ……。
何度謝罪の言葉を並べようと、ユキには届かない。
申し訳なさでいっぱいだったあの頃。
今もまた、同じことを繰り返そうとしている。
――お願いです神様……。
何度訪れたことだろう。
毎日のように、この病室にお見舞いにやって来た。
学校が終わって、宿題なんて帰ってやればいいとほっぽって、面会時間ぎりぎりまでユキと一緒にいた。
帰ったらすぐに執筆と原稿。
それが当たり前の毎日。
最低限の睡眠で、普通は耐えられないと誰もが思ったことだろう。
いろんな人に支えられていた。
でも僕は、それを裏切ってしまった。
ユキの希望も、支えてもらった皆の期待も、抱かせるだけで僕は何もできずに終わってしまった。
僕は、酷い奴だ。
――お願いだから……。
お見舞い帰り、毎日あの神社に通った。
ユキの病気を治してくださいと、お願いをして。
助けるための力をくださいと、何度も願った。
ユキにそっくりなあの白猫。
会う度に、涙が出そうになる。
――彼女を連れて行かないで。
そう、何度思ったことだろう。
君と出逢って、僕は帰って来れた。
これからって時にまた、僕は君を失うの?
そんなの……嫌だよ……。
もっと一緒にいたい。
もっと話をしたい。
もっと、君の傍にいたい。
もっと、もっと、もっと――。
だから、さ。
そんな諦めたような顔、しないでくれよ……。
そこに僅かでも希望があるなら、飛び込むのが君じゃないか。
今の君は全然、君らしくないよ……。
どうして僕の前から皆、いなくなろうとするの?
一人は嫌だよ……。
寂しいよ……。
僕を、一人にしないでくれ……っ。
「ねぇ」
「……っ」
どす黒い感受が渦を巻く。
嫌なことばかり、考えてしまう。
また一人に戻るだけ。
そう考える自分もいる。
――でも、
戻れるわけ、ないじゃないか。
君は僕に、たくさんのものをくれた。
忘れられない思い出ばかりが増えていって、君といることが当たり前となった日常。
それは何とも心地よくて、僕は君に惹かれていた。
こういう感情をなんて言うかわからない。
けれど確かなのは、君を失うのが何よりも嫌で、怖くて。
君は何よりも大切な人で、それを失うのが何よりも怖くて。
怖くて怖くて、仕方がない。
君は僕よりも不安なはずなのに、怖いはずなのに、弱気にならないように頑張っている。
ここでも自分を押し殺している。
今にもまた零れそうになる涙を、必死で堪えている。
僕はバカだ。
君は強くなんかない……普通の女の子なのに……。
僕は、君に掛ける言葉が見つからない。
声に出そうとしても、何を言えばいいかわからない。
だから必然と黙ってしまう。
頑張ってとか、大丈夫だとか。
そんな無責任な言葉は掛けられないよ。
僕はただ、君と一緒にいることしかしてあげられない。
僕は、どうしたらいい……?
なんて言えばいい……?
「―――」
「……っ!」
途端に紡がれる彼女の言葉に、耳を疑う。
君のその言葉が、僕の胸を突き刺す。
鳴りやまぬ鼓動。
その笑顔に魅せられる。
綴られていく言葉に、何度も勘違いしそうになりながら。
渦巻く感情に押し潰されそうだった僕を、解放するように投げ掛ける。
その暖かな言葉が身に沁みる。
そうやって、僕はただ不思議な感情に抱かれながら、ただひらすらに君を見つめていた――。
※ 『リナリアの実り』
手術の話を持ち出してから、君は落ち込んだまま。
そこに気まずさがあるから、私は目を逸らし、からかうように君にこの言葉を投げ掛ける。
「今日は、月がきれいだね」
「……っ!」
「ふふ」
君に届くだろうか。
いや、きっと届くはずだ。
君も同じ、『創作家』なら――。
でもやっぱり、ちょっぴり不安だから、
「そんなに心配なら約束、しよ?」
「それ、したら死亡フラグなんじゃ……」
「もう!こんな時にだけそう考えるんだから!」
「……?」
小指を立て、手を指し出す。
「私の手術が成功して……」
成功するかもわからない手術。
未練が無いと言えば、嘘になる。
「君が賞を取ったら……」
どうしてこんなことになるんだろうと、何度も自分を呪った。
君のために必死で、無茶しすぎた代償。
その付けを払えってことかな?
たぶん、そういうことだ。
酷いな~神様。
凄く、意地悪だ。
――でも、
そのため、ここに誓いを立てよう。
「私がその物語の絵を担当する。そして――」
だってまだ、君に私が傍にいる理由を伝えていないんだもの。
――だから、
徐々に顔を近づける。
ちょっぴり恥ずかしいけれど、私は勇気を振り絞る。
顔を背けようとする僕。
――でも、
月に照らされる君が美しく、それを許してはくれなかった。
そしてそっと、彼女の唇が額に触れた。
「それが叶ったら、私と付き合ってください」
「……っ!」
君もバカじゃない。
だからきっと、届いたはずだ。
「ずっと一緒にいさせてください」
それでも訴えかけるのは――、
「ずっと隣にいさせてください」
それでも言葉を紡ぐのは――、
「ずっと愛を誓ってください」
それでも君を思うのをやめないのは――、
「大好き」
君が、大好きだから。
その言葉と行為は、僕を虜にする。
ずっと一緒にいたいと、傍にいたいと、そう思わせる。
月夜に輝く君は、何よりも儚く、美しい――。
「……って、卑怯だよね――――――……っ」
だから僕も、お返しをする。
奪うように、誓うように、形にする。
間近で見る君は、可憐だった。
「全然、卑怯なんかじゃないよ――――僕も、君が大好きだ」
驚きの表情。
すると彼女は、涙を溢しながら笑みを浮かべる。
「うん……」
そうか……この気持ちを『恋』って言うんだ。
掛け替えのない存在。
ずっと隣にいてほしい、大切な人。
この瞬間、僕は君に永遠の愛を誓った。
君の隣にいること。
『Eonia Gait』――。
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