第一章5  『再来の地』

 片付けを終えて、結局部活を早めに切り上げ、僕らはとある場所へと辿り着いたのだが――、



「どうかした?」


「……」


 そこへ来た途端、彼女は謎の沈黙を浮かべていた。


 僕は何かあるのかと、彼女の視線を追うように、再度その建築物へと目をやる。

 けれど、その理由はわからなくて、彼女へと視線を戻すと、


「何でもないっ」


 なぜか君は、またもご機嫌斜めだった。


「バカ……」


「……?」


 呟かれた言葉に疑問符を浮かべて、僕はそれを考えようとするも、やっぱりわからなかった。


「じゃ、行こっか」


 止まっていた足を動かし、僕らは建物に近づいていく。


 僕らが訪れた場所は、とある9階建てのマンションだった。


 一歩、また一歩、踏み締めて行くアスファルトの床。


 何かが飛び散って、溶け合って、混ざり合う。そんな感覚が、身体の内に広がっている。

 思い出が、溢れ出している。



 あの頃の思い出が――。



「……っ」


 エレベーターへと乗り、7階のボタンを押す。

 ただそれだけの動作なのに、心の内は逃げ出したい思いでいっぱいだった。


「大丈夫?」


「……何が?」


「手、震えてるから」


「あ、ああ……」


 自分でも気づかなかった、その震え。

 何に対してのものなのかはわかっている。


 この先へと進んでいく度、あの場所へと近づいていくにつれ、薄れ消えかかっていた記憶が、どんどん、どんどんと、深く鮮明に思い出される。


 それが、僕には怖かった。


 思い出される記憶が、蘇る光景が、僕を悲しみの渦へと突き落としてくるから。


「……」


「ここ?」


「うん……」


 辿り着いた足。

 彷徨うように、また戻ってきた。



「―――」



 鍵を取り出し、鍵穴へと射し込む。


 彼女と出逢った瞬間から、何となく予感していた。

 それ故に自然と持ち出していた。


 妹に似ている。ただそれだけのこと。

 自分でも気持ち悪いくらいに、戸惑っている。



 ――でも、



 いつまでも過去に囚われていてはダメだと、そう思っていた。



 だから――、



「開いた……」


 隣から聞こえる彼女の声。カチャリと音を立て開いたドア。

 その瞬間に、何かが視界を包み込む。


 目の前に広がっているのは、ただの暗闇。

 そこには、いるはずのない妹の影があった。



 ――ただ、



 瞬きすればそこにユキはいなくて、何かを噛み締めるようにそっと明かりをつけた。


「お邪魔しまーす……」


 それを合図に、彼女はゆっくりと部屋の中へと入っていき、別室の扉の前に佇んだ。

 入ろうかどうか迷っているようで、その隣に並ぶように扉を開けて上げた。



 さり気なく、なんの覚悟を浮かべずに――。



「うわ~!広~い!」


 はしゃぎ、周りを見渡す君。

 ベランダから差し込む夕日だけが、この部屋を照らしている。


 僕はそこに微笑ましさを覚えるも、僕が目にした光景に映るのは、淡く彩られた、長いようで短いあの頃の思い出だった。


「……ぁ」


 数えきれない、幸せの光景が広がる。

 それ故に、悲しみに暮れる。


 救えなかった想い。辿り着けなかった悔しさ。


 ユキに、幸せになってもらいたかった。

 けれどそれは、叶わない夢として終わった。


 そこには何も残らなかった。

 あったのは、失った悲しみによる後悔というしこりだけ。


「……っ」


 膝を落とし、顔を抑える。


 見たくない。聞きたくない。

 こんなの、耐えられるわけがない。


「どうして……」


 荒い息。乱れる呼吸。

 忘れ去ろうとした記憶が止めどなく溢れ出し、過呼吸となって僕を襲う。


 息苦しい世界だ。



「――暗闇ばかり見てるから、差し込んだ光を見逃しちゃうんだ」



 途端、身体が何かに包まれる。暖かな香りが鼻孔を擽る。

 気づけば、彼女にそっと抱き寄せられていた。


 優しく、そっと。


「よしよし」と撫でられ、安堵する。

 ゆっくりと目を瞑り、身を任せる。


 すると徐々に、過呼吸は納まった。


「君は、何も変わらないね……」


 納まった呼吸の中、ふと囁かれるその言葉。

 僕はその言葉の意味がわからなくて、彼女へと視線を移す。


「妹さん……ユキちゃんは、こんなにも君に思われて幸せ者だ……。ほんと、妬けちゃうくらいに……」


「それって……」

 

 『どういう意味?』と、そう聞こうとした時、彼女は顔を離して目を合わせる。


「君はやっぱり、優しいね」


 微笑む君。

 僕は目を逸らして、口籠ってしまう。


「僕は、優しくなんかないよ……」


 それでも違うと否定する。



 だって、僕は――、



「もう!自虐禁止!」


「……っ」


 近づける顔。

 見つめ合うこの瞬間、時が停まったような気がした。


 けれど咄嗟に恥かしくなり、先に視線をずらしたのは僕だった。


「それで?」


 それを見兼ねてか、立ち上がり暗がりの部屋を眺める君。

 そうやって、部屋を一望すると、こちらへと手を伸ばす。


「君がここへ私を連れてきた理由は、何?」


 手を掴み、立ち上がる瞬間。

 その問いに答えるべく、僕はもう一度、久しぶりの地に目を向ける。


 瞼を閉じて、また開く。


 今度こそ何も映らないことを確認して、彼女へと視線を戻す。

 何かに浸るように、蘇った記憶に思いを馳せる。


「ここは、僕が昔使っていた仕事場なんだ」



 ――そう。



 ここは昔、僕が使っていた仕事場。

 小説を書き、同時並行で漫画を描き、有り得ない小学人生を送っていた頃のもの。


 受賞し、親代わりのように接してくれた担当編集者がくれた、小学生の僕には大きすぎる3LDK。

 賞金は全部、妹の治療費に回していたから殺風景な部屋だった。


 チラホラとある家具は、いらなくなったとかでいろんな人が恵んでくれた。

 そこには新品そうなものもあって、「いらない」と言っても、「子供が遠慮するんじゃない」と強引にも押し付けられた。


 今思えば、僕はいろんな人に支えられていたのかもしれない。


 信頼と期待。

 子供には抱えきれない重荷で、僕はそれを簡単にも裏切ってしまった。



 ――でも、



「当時担当してくれていた編集者がくれて、業界から去るとき返そうとしたんだけど、君が持ってろって、そのまま預けられたんだ」


「うそー!?」


「ほんと」


 当たり前の反応。僕だって信じられない。

 僕から創作を取れば、ただの小学生でしかないのに、この部屋を渡すなんて。大人たちの気が知れない。


「小学生で仕事場持つとか、凄すぎでしょ……。よくそんなことが許されたね……」


「同感」


 ほんと、有り得ない日常だった。


 前代未聞。

 半分遊び感覚で、夢中で、真剣で。

 自分でも信じられないくらいに充実していた。


 絶対に不可能と思われたことを可能とした天才。

 友達と遊ぶことを惜しみ、ただひたすらに妹のためを思って活動し、創作に全てを捧げてきた。

 それでも、できるはずのないことだった。


 だから今の自分と比べると、過去の自分は全くの別人にしか思えない。


「ん?じゃあさ、ここの家賃とかガス・水道・電気は諸々、誰が払ってるの?」


「それは……」


 あれ……そういえば……。


 問われたことに改めて思う。


 僕はこの部屋を貰っただけで、近づこうともせず、放置し続けている。

 当時でさえ、原稿料なんかは妹の治療費以外に使った覚えが一切ない。



 ――つまり、



「僕、払ってないな……」


「え?でも、電気点くし……たぶん他も……」


 台所へと近づいていく君。


 ガスの元栓を捻り、コンロを弄る。

 すると案の定、青い炎が円を描く。


 そのことに互いに目を合わせ、今度は隣にある流しの蛇口に手を伸ばす。

 そこには、水が流れ出るという見慣れた風景があった。


「やっぱり……全部、そのまま見たい……」


 呆れているのか、驚いているのか。

 それは僕も同じ反応で、どうしてなのかと考えてみれば、


「もしかしたら、周りはみんな君が戻ってくることを予感していたのかもしれないね」


 君と同じ結論だった。


「たぶん、僕には創作しかなかったから……。それをわかっていたから、残しておいてくれたんだと思う……」



 たぶん、きっとそう――。



「そっか」


「うん」


「んで結局?私をここへ連れてきた理由は?」


「え?ああ、それはね……」


「うんうん」


 言わなくてもわかっているような顔。

 それでも訪ねてくるのは、口にしてほしいから。



 ――だから、



「僕と一緒に、創作しませんか?」


 君から誘われた時、僕は安易にも二つ返事した。

 只々寄り添ってくれる存在が現れたという嬉しさだけで、鵜呑みにした。


 だから今度は正式に、僕から誘おうと思った。

 たった一時の感情に流され、それだけでオーケーしてしまっては、誘ってくれた彼女に失礼だと思ったから。



「―――」



 口にした言葉。

 それは何ともシンプルで、もうちょっと他になかったのかと自分でも思うくらいにおかしくて――。



 そこに君は――、



「はい、喜んで!」


 満面の笑みを浮かべていた。


 差し込む夕日。照らされる僕ら。

 少しの静寂が流れ、僕らは恥ずかしさのあまりに笑い出す。



 出逢ってすぐの僕らには、くすぐったいひと時だった――。


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