第一章4 『勧誘』
――放課後。
授業での後片付けをしようと美術室へとやってきた僕。
扉を開き、誰もいない教室へと足を踏み入れる。
そんな中、ふと知れず起こる回想。
教室を出る寸前に交わした「またね」という彼女との言葉。
廊下で秘かに先生と会話している光景。
君は何をしていたのだろう。
「……」
俯き気味だった顔。
上げた先にあったのは、開いた窓とそこから吹くカーテンを靡かせる風、何度も見る眩し気な日差しだった。
「……」
教室の端に飾られた二つのキャンパス。僕と彼女の、二人がモデル。
――ただ、
そこに写る彼女は、昨日のように窓から差す日差しに照らされていて、僕が写る絵は、僕の絵の後ろに立て掛けてられていて――、
彼女の描いてくれた絵でさえ、僕は影の中にいる。
「やっぱり、ダメなのかな……」
僕はどんなに足搔いても、どうもがいても、僕の周りに広がる暗闇は晴れなくて、僕の心を締め付け続ける。とても、息苦しい世界。
何度も折れそうになる心。晴れない闇。
僕の失くしたものは、何なのだろう。どこにあるのだろう。
僕は弱い……。
僕は、やっぱり――、
「何がダメだって?」
「……っ」
突如として聞こえる声。
でもそこに動揺はなく、僕はゆっくりと声主の方へと振り返る。
扉へと目を向けると、不意に現れる君が一人。
僕は何度も、君を見る度、笑みを溢す。
ほんと、どうしてだろうね。
「何でもないよ」
「……そ」
微笑する君。
真剣な眼差しを向けられるも、不思議な間と共に終わりを告げて、君は軽やかな足取りで歩み寄る。
並び立つ僕ら。
君は上機嫌にも絵を眺めている。
その横顔を見ながら、僕は先ほど浮かんだ疑問を口にする。
「ねぇ」
「んー?」
「さっき、先生と何を話していたの?」
「ああ……私、美術部に入ることにしたから」
「え?」
唐突の告白。
君は机の上に置いた鞄の中をあさって、一枚の紙を取り出し、こちらへと手渡してくる。
「はいこれ」
「……入部届け?」
「うん、そう」
「入るの?美術部に?」
「うん?」
「……」
当たり前みたいな顔。
本当に理解しているのかな……。
この部に入るってことの意味を――。
「なに?文句でもあるの?」
「いや、別に……」
でも、まぁ――、
「これからよろしくね、部長さん?」
「うん……」
二度目のあいさつ。
交わす言葉がむず痒く、互いに笑みを溢してしまう。
――けど、
勘違いのままで終わらせるのはよくないと、僕は君に真実を告げることにする。
いろんな君を見て見たいと、秘かな思いを抱きながら。
そこに少しの、悪戯な笑みを含ませて。
「僕が部長じゃないけどね」
「え?」
「部長は中尾で、部員は僕とトモの3人だけ。君を含めて4人だけど、僕らが卒業した年からはこの部は潰れる
「……」
「さらに言えば、トモは塾があるからそんなに出られないし、中尾も生徒会があって忙しい……。先生でさえ見捨てている部だから、実質、この部は僕一人だけど、絵の描けない僕にはこの時間は無駄でしかないから、帰宅部同然の幽霊部員ってわけ」
「……」
「まぁでも、時々中尾が部活に誘いに来るから、僕も一応、部員としては活動しているけど……」
「ふんっ!!」
「あだぁっ!?」
無言だった君。
途端の蹴りに僕は膝をついてしまう。
「な、何するんだ……」
「べっつに!最後の情報は余計だって思っただけ」
「……?」
「ばか……」
頬を膨らませ、不機嫌な君。
その理由が僕にはわからない。
何か気に障ることでも言ったかな?
「……それで?部員少数、潰れる寸前。そんな部に入るなんてバカみたいだと思っていた君は、その入部届けをどうしてくれるのかな?」
「そこまでは思ってないけど……せっかく入ってくれるんだし、これは僕から仲尾に渡しておくよ」
「そ」
未だに不機嫌な君。
口元は緩んでいるのに、なぜそんなにも怒り気味なのかわからない。
ほんと、女の子はわからない。
「ん?」
「……?」
何かを見つけた君。
その視線を追ってみれば、そこには放置された
目的を忘れかけていたからか、僕らは偶然にも目を合わせる。
「それじゃ、始めよっか」
「そうだね」
そうやって、僕と彼女は呆れながらに微笑し合った。
「……今更なんだけどさ」
「なに?」
片付けが終わり、ふと気づいた僕。
絵具道具を洗って、ハンカチで手を拭きながら思ったことが一つ。
それは――、
「君まで残る必要、なかったんじゃない?」
どうして君は、僕と一緒に残ったのだろう。
その疑問が、今更ながらに頭の中に浮かんでいた。
「んー、どうせ部活があると思ってたし、別にいっかなって」
偶然か必然か。
君は僕と同じことを考えていたみたいだ。
そのことに少し、嬉しく思う。
――けれど、
「そ。じゃあまた明日」
「うん……っておい!君も美術部でしょ!」
「うぐっ!?」
鞄を背負い、帰ろうとした僕。
君は引き止めるようにして鞄を掴み、僕の首が抉られる。
ヒリヒリする痛み。
僕は首元を抑えながら、頬を膨らませる君から視線を逸らし、申し訳なくも口にする。
「……でも、僕は描けないし……。いる意味ないよ……」
残ったところで、僕は何もできない。
不毛な時間が過ぎるだけ。
――だから、
「む……あんな絵を描いておきながら、まだ言うかね君は……」
眉を寄せる君。
だって仕方ないじゃないか。
絵だけは、どうしても――。
「……あんなのまぐれだよ。奇跡的な偶然。君の絵の方が、よっぽど……」
僕は落ちた人間。這い上がることのできない敗残者。
どうやったって、絵を描こうとすれば自然とユキの顔が頭に浮かんでしまう。息をする度、胸が苦しくなる。
「それに僕は、専属作家なんだろ?なら、描ける必要、ないじゃないか……。描く必要、ないじゃないか……」
卑怯者。汚い言い訳。
僕は君の言葉を利用してまで、逃げる理由ばかり探している。
心が叫んでいる。
本当に、こればっかりは、どうしようもないことだと――。
――けれど、
「君は描けないんじゃなく、描かないんだ。塞ぎ込んで、言い訳ばかり並べて……逃げているだけじゃない」
君の放つ言葉。
それが
――それでも、
わかってはいても、僕には――。
「僕には無理だよ……」
描く理由がない。
今日描けたのだって、ただの偶然で、まぐれで、奇跡に等しい。
君の絵より下手で、使い物にならないのは確かだ。
ユキのために描いていた僕にとって、筆を執るのは思い出の引き出しをこじ開けられるようなもの。
だから必然的に、ユキのことを思い出してしまう。
その度に、あの感情が、涙が、僕を襲う。
どうしようもない事なんだ。
だから――、
「なら、私のために描いてよ」
「……っ」
「描く理由がないなら、私のために描いてよ」
まただ。
君はまた、僕の心を読んでいるかのように言葉を並べる。
「君は描く理由がないから、描けないんでしょ?」
「……うん」
確かめるような言い分。
その言葉に、不思議と安堵浮かべる自分がいる。
だから僕は、弱弱しくも言葉を絞り出した。
「それでもいいよ」
「ぇ……」
「私だって、別に無理強いをしたいわけじゃないし……。ゆっくりでいい。ゆっくりでいいから、君の一部を取り戻していこうよ。君が失ってきたものたちを」
どうしてだろう。
どうして君はそんなにも――。
「冒険(たび)に危険は付きものさ!」
「……っ」
「勇気を持って、自信を持って。恐れるな!前を向け!――――君なら、できるよ」
眩しい日差し。差し込まれた光。
どうして――、
どうして君はそんなにも、輝いているのだろう。
――ドクンッ!ドクンッ!
脈打つ心臓。
あの鐘がまた、鳴り響くように、揺れ動く。
――『お兄ちゃん!』
過ぎる光景。重なる笑顔。
君を見ていると、妹を思い出す。
「うん――」
「ふふ」
容姿端麗。才色兼備。
君はキラキラ輝いていて、僕にはそれが眩しくて。
でも、差し込む光はとても、暖かくて――。
ほんと、僕は君に、励まされてばかりだ。
「それで、これからどうするの?」
「何が?」
「いや、僕と君が組んで何をするかってこと」
「んー。とりあえず、賞に応募しようよ。それで、二人して受賞しよう」
「簡単に言ってくれるなぁ……」
「そうすることで、この部の実績にもなるし、私と君のどっちが上なのかっていう勝負にもなる……まさに一石二鳥!」
「実績になるかなぁ……というか、一石二鳥って……」
「もう、ごちゃごちゃうっさい!やると言ったらやる!」
「……」
「返事は!」
「はい……」
「よろしい」
「……」
動き出した足。
僕らは本当の意味でやっと、歩き出したのかもしれない。
「そういえば、どこの賞に応募するか決めてるの?」
「うん」
「どこ?」
「雷鳴文庫っていう年に1度開催される新人賞」
雷鳴文庫……。
ん?それって……。
「締め切りもう半月もないじゃないか!?」
「うん?」
「うんって、そんな悠長な!?」
「大丈夫だって。私たちならできるよ」
「その自信はどこから来るんだよ……。いろいろ無茶苦茶だ……」
「無茶でもやるのー」
強引な君。無理難題。
自分勝手な言い分に、僕は何度も振り回される。
――けれど、
その度に何度も、悪くはないと思ってしまうのは何故だろう。
「……じゃあ、仕方ないか」
いろいろな事が頭を過ぎりながらも、思考を働かせ、僕が人知れず呟くと、
「そうそう仕方ない」
「……」
呑気に笑顔で答える君。
その二度目の勘違いと能天気さに僕は眉を寄せながら、僕はふと呟いた言葉の意味を伝える。
「……ねぇ」
「んー?」
「これから時間ある?」
「ぇ……」
「……?」
驚き気味の君。頬を赤らめ、髪をくるくる弄り始める。
そのことに僕は、疑問符を浮かべてしまう。
「ないことも、ないけど……?」
「……」
急な上目遣い。
まるで何かを期待しているような、そんな類の。
でも、生憎僕にはその理由がわからなくて、
「ちょっと、付き合ってほしい――」
「はい……っ!」
その嬉しそうな即答に、僕は驚きながらも安堵し微笑していた。
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