第一章3  『ほんと――、』

 彼女と別れ、帰る夕暮れの道。

 家へと到着し、開いた玄関の先。向かうはあいさつを交わす場所。


「ただいま。父さん、母さん」


 家の和室。今はもう亡き者への言葉。

 仏壇に飾られた二枚の写真立てにそれぞれ目をやり、飾られたもう一つの写真立てに視線を移す。


 そして、ただ一人の兄妹に改めて同じ言葉を投げ掛ける。


「ただいま、ユキ……」


 そこに写っている一人の少女。もう見る事さえ叶わない満面の笑み。


 言葉を交わすたび、心苦しくなる。

 そのたびに何度も、許しを乞うように、悲しみに暮れるように、涙を溢してしまう。


 自分の弱さと情けなさ。



 悔しさに、押し潰されそうになりながら――。



 目を少しばかり赤くして、いつも通り一人家事をこなすと、時計の針は夜の8時を示していた。


 広がる暗闇と静寂。階段を上って自室のドアノブへと手を伸ばす。

 ゆっくりと開き、重たい腰をベッドへと降ろすと、すぐさま身体を横にする。


「……」


 窓から差す月夜の灯。


 眺める天井には、彼女の言葉と妹との思い出が重なって、その暗がりのスクリーンに映し出されていく。


 だから、瞼を閉じて、蘇ってくる思い出に抗うように、額に腕を乗せて逃れようとする。


 どうすればいいのかという心の迷い。許されていいのかという罪悪感と後ろめたさ。その二つが葛藤し、停滞した現状を生んでいる。


 わからないから、仕方ないから。身体は考えることを放棄するように起き上がり、視線は自然と机の引き出しへと向けられる。


 立ち上がり、引き出しから取り出したノート。傍に置かれた鍵。

 それを見るだけで、絶えることの無い悲しみに悶えそうになる。


 けれどそっと、ノートを開く。


 そこにあるのはただの文字。並べられたアイデア。

 描こうとして描けなかったぐちゃぐちゃな絵。

 何度も何度も流した、涙の粒痕。


 僕は、どうしたらいいのだろう……。


 このままではいけないこと。わかってはいるのに踏み出せない勇気。


 僕はずっと囚われている。

 忘れられない思い出に、囚われている。


 僕は、どうしたらいいのだろう……。どうしたいのだろう……。



 ――わからない……。


 

      ※



 ――翌朝。



 泣きつかれるようにして眠りに落ち、瞼を開いた先にあったのは、いつも通りの停滞した一日だった。



 ――ただ、



 そんな中でも蘇るのは、昨日出逢ったばかりの彼女の言葉。


 顔を洗い、服を着替え、朝食を取る。

 その全てに彼女の笑顔すがたがちらつくのは、何故だろう。


「行ってきます」


 父さんと母さん、雪へのあいさつ。



 悲しみに暮れながらも、それをやめずにいられるのは、僕が――、



 思い出に囚われた、住人だからなのかもしれない。


「……」


 泣きそうになる感情を抑え、歯を食いしばって玄関へと向かう。


 朝から泣いてちゃいけない。気を確かに持たなくちゃ。

 そんなちっぽけな思いだけが、僕の心を突き動かしている。


 触れる玄関の戸。ひんやりとするドアノブと誰もいない暗闇。

 ただそれだけが満ちる世界で、僕は外へと足を踏み出す。



 ゆっくりと、自分の弱さを噛み締めて――。



「やあ」


 扉を開いた先。

 光が身を包む中、不意に聞こえる彼女の声。


「おはよう」


「おはよう……」


 どうして君が……。


「……?私の顔になんかついてる?」


「いや、別に……」


 一瞬の瞬き。

 瞳を閉じた瞬間、『なぜ彼女がここにいるのか』と思うも、頬は自然と緩み、僕は止めていた足を動かす。


「じゃ、行こっか」


「うん?」


 待ち合わせをしていたわけでもないのに、微笑し合図した僕。

 けれど、彼女は俯き気味にも足を止めていた。


「……?どうかした?」


「いや、何も聞かないんだなって、思って……」


「……」


「君は、断ることだってできたのに……こんな強引で、我が儘な私に付き合って……。今だって、何も聞かないで私の隣にいる……」


 申し訳なさそうに視線を逸らし、腕を抑える君。


 確かにそうだ。僕は君に、何も聞かずに隣にいる。

 不思議にもその理由は、僕にだってわからない。



 ――でも、



「君は、僕の先導者なんだろう?なら僕は、君を信じるだけだよ」


「そんな簡単に信じるの……?」


「君が言ったんじゃないか」


「そうだけど……」


 複雑そうな表情。そこに僕は、眉を寄せて微笑する。


 君は自分で言っておきながら、昨日今日で打って変わって、不安気で、弱々しくて……。


 だから僕は、そんな君に思いの丈をぶつけることにする。


「……僕ね、正直嬉しかったんだ。君が、僕の先導者になるって、言ってくれたことが」


 自分でもわからない感情。

 君を見ていると、不思議と懐かしさを覚えてしまう。


 確かなものがあるとすれば、



 それはきっと――、



「誰もいない僕に、救いの手を伸ばしてくれた君が、支えになってくれようとしている君の言葉が、たまらなく嬉しかったんだ」


 ずっと一人で、独りだった。


 何を履き違えたわけでもなく、僕の隣には誰もいなくて、ただ一人、自分にできる事を精一杯やってきた。


 僕はずっと、『ひとりぼっち』だった。


 隣には誰もいない。

 大切な人の傍に寄り添うことさえ叶わない。

 支えが、どこにもない。


 そうやって、孤独や不安に押し潰されそうになりながら生きてきた。


 だから自然と求めていた。


 誰かが傍にいてくれることを。

 強引にも、隣へと歩み寄ってくれる存在を。


 そんな君と出逢えた瞬間、僕の不安は和らいだ。

 この胸にぽっかりと空いた寂しさが少し、ほんの少しだけど埋まった気がした。

 僕は弱いから、君のその優しさに甘えてしまう。


 ずっと、求めていたものだったから。



 僕は、弱いから――。



 何かに縋りたい思いで、いっぱいだったから――。



「……そんな大層なものじゃないよ。私はただ、君に前を向いてほしかっただけ……。ただ自分勝手な、独り善がりな想いだよ……」


 負い目を感じている君。


 確かに君は自分勝手だ。

 強引で、前向きで、明るくて。



 ――でも、



「……たとえそうだとしても、君の言葉に嘘はない。君の想いに、嘘はない……そうでしょ?」


 確かなものがあるとすれば、それは君が優しいということ。


 君は僕を知っている。

 僕は君を知らないし、何故知っているのかはわからない。



 ――けれど、



 その行動は、君の優しさによるもので、嘘じゃない。


「うん……」


 弱弱しくも言葉を絞り出す君。

 だから僕は、優しく微笑む。


「なら、それでいいじゃないか」


「うん……」


 表情が徐々に和らぎ、君に笑顔が戻っていく。


 やっぱり、君には笑顔が一番似合う。


「……さ、行こ?また遅刻しちゃうよ?」


「またって、まだ一回もしてないでしょ?」


「そうだね」


 談笑する僕ら。

 笑い合い、歩き出した足。


「なんか、変な感じ」


「何が?」


「君の先導者になるなんて、偉そうなこと言っておいて、私が君に励まされてる」


「そうだね」


 励まし合い、この現状におかしさを覚える。



 ――ああ、そうだったんだ……。



 過(よ)ぎる光景。懐かしさと微笑ましさ。



 重なる笑顔に、映し出されるユキの姿――。



 君を見ていると妹を思い出す。


 だからこんなにも、君に惹かれるのかもしれない。


「そういえば、今日も美術あるよね」


「……」


「ちゃんと、出る、よね?」


 視線を逸らす僕。怪しげなオーラを漂わせ、微笑む君。

 その言葉に僕は何も言えなくて、


「はい……」


 そう、答えるしかなかった……。



 ――そして、



 澄み切った青い空の下。過ぎる光景。

 暮れる度、何度も流したあの涙。

 突如として現れた少女。なぜか不思議と勇気づけられる。



 そんな中、思う事があるとすれば――、



 君の、そうやって言葉を区切って、断り難い脅迫染みたお願いをするところ。


 ほんと、君は妹にそっくりだ。



      ※



 彼女に言われるがまま先導され、学校へと着いた僕ら。

 校門を潜ると、そこには生徒会メンバーが並び立ち、生徒たちへと挨拶を呼び掛けている。


 そこを僕ら二人が談笑しながら通り抜ければ、そこに立つ仲尾が驚き気味に苦笑しており、違和感を覚えてしまう。

 それでも、気に留めることなく通り過ぎるだけだった。



 その瞬間(ば)へと出くわし、逆光により眼鏡を光らせるトモの存在など、知る由もなく――。



      ※



 ――美術。



 いつぶりの授業に参加し、席へと着けば、クラスの空気は若干の騒然に包まれ、チャイムが鳴る。

 そのことに、先生ですら驚きを隠せないようでいたのだが、それでも少しの間があるだけで、授業は平然と開始された。


 今日の授業は前回の続きのようで、互いが互いを写し合う写生大会。

 といっても、参加していないからほとんどよくわからないが……隣が何やらこちらへとニヤニヤしながら視線を送っていることの方がよくわからない。


 みんなが写し合っている中、なぜ描かないのか。その理由を彼女へと問えば、彼女だけが作業を終えているらしく、僕が君を写すのみとなっていた。



 ――けれど、



 筆を持った瞬間。ペンを握る寸前。

 荒い呼吸が僕を襲う。白いキャンパスが陰り、威圧してくる。


 息を整え、汗を垂らし、僕は無心で線を引く。

 時々彼女へと視線を移すと、瞳に映る君が絶えず笑みを溢していることに苦笑してしまう。


 そして、見る度に思う。


 整った顔立ち。きめ細やかな白い肌に、黒く、それでいて茶色い綺麗なミディアムヘア。薄紅色に輝く唇。

 容姿端麗とは、このことを言うのだろうか。


 軽いアタリが完成し、細かく描写する。

 今見たもの全てを、そこへ映すように形にする。


「できた……」


 最後の仕上げに絵の具を使い、カラフルな君が出来上がる。


「どれどれ~?」


 嬉しそうに覗く君。僕はそこに複雑な笑みを溢してしまう。


 何故ならその絵は、当時と比べれば格段に落ちた画力だったから。

 それでも見せられているのは、その落ちた僕の中では一番の出来だったから。


 妥協するわけじゃない。今の精一杯がこれだった。


 白いキャンパスに写された自分の絵を見る度に、そこに描かれているのは今の自分だということを思い知らされる。その度に何度も、涙が零れそうになる。


 そこへ必然と、ユキの笑顔が、思い浮かんでしまうから。


「……」


 黙視する君。

 キャンパスを目に、君はなおも黙り続けている。

 だから僕は自然と、気が重くなる。


「……やっぱり、ヘタクソだよね……」


 見せられるほどのものじゃない。


 ここにあるのは確かに彼女だが、そう上手いものでもない。

 それ故に、後ろめたさを感じてしまう。


 本当の君はもっと、美しいというのに。


「……皮肉だね」


「え?」


「君、よくこれで絵が下手なんて言えるよ」


「……」


「私には、当てつけか嫌味にしか聞こえないな……」


「そうかな……?」


「そうだよ」


 呆れ顔の君。

 そこに少し、ご機嫌斜めの態度が含まれているのは何故だろう。


 もう一度、自分の絵に目を向ける僕。

 すると君は、足早に離れて行き、一つのキャンバスを手にこちらへと戻ってくる。


「それ、君の絵?」


「うん」


 小さな苦笑。

 僕は手渡されたキャンバスに、目を疑ってしまう。

 そこに描かれていたのは、紛れもない僕だった。


「どう?君の絵より、全然ヘタクソでしょ?」


「……いや、普通に上手い、と思う。自分ボク被写体モチーフだから、少しわからないけど……」


「……へー、普通なんだ。これでも結構、自信あったんだけどなぁ」


「描けなくなった僕に闘争心燃やしてどうするのさ」


 口を尖らせる君。

 僕は困り気味にも呆れてしまう。



 ――けれど、



 君の表情は途端にも真剣なものに変わって、指をさして口にする。


「言ったでしょ?君は私たち創作家にとって『憧れ』なの。超えたい壁であり、目標。冒険たびの道標」


「……」


 私たち、か……。

 瞳に映る自分。君の目は、キラキラと輝いている。



 ――でも、



 僕には、その瞳に映る僕には、そんな視線を向けられる資格はない。



 ――だって、



「どうして?昔の僕はもういないのに……。どうしてそこまで、僕に拘ろうとするの……?」


 その思いやる気持ちが、僕にはわからない。

 僕を超えたからと言って、何になるというのだろうか。



 こんな、僕を――。



「そんなの関係ないよっ?」


「……っ」


「絵が描けなくなったって、君はどうせ君なんだ。優しくて、弱くて、泣き虫で。想像に駆られる創作者。君はどこまで行ったって、君でしかない。君は、君だよ」


 どうしてだろう……。


 告げる君。高鳴る鼓動。


 どうして僕はこんなにも、君に勇気づけられるのだろう。

 君に、妹の面影を感じるからかな?


 いや、違う……。



 たぶん、きっと――、



 君と僕が、似ているからかもしれない。


「あれ?そういえば皆は?」


「んー?君が描いてる間に、授業とっくに終わったよー?みんな急いで出て行っちゃった。どうしてだろうね?」


「え?」


 急いでって……あ!


「次の授業、体育だ!」


「あ、だからみんな急いで着替えに行ったんだね」


「僕らも急がなきゃ!」


「うんっ」


 立ち上がり、美術室を飛び出す僕ら。

 道具の片付けは、美術をするクラスが今日はもういないため、放課後へと後回しにする。


 残り5分。

 急げばまだ間に合う!


「ねぇっ」


「なにっ?」


「君って、何か部活に入ってるの?」


「えっ?ああ、一応美術部に……」


「そうなんだ」


「それがどうかしたの?」


「ううん、何でもないっ♪」


「……?」


 走りながらの会話。微笑する君に、僕は疑問符を浮かべてしまう。


 けれど案の定の速さで教室へと戻り、体操服を手に途中廊下ですれ違う先生の「廊下を走るな!」というお叱りを受けるも、互いに更衣室へと1分も経たずして到着し、彼女の言葉の意味を考える暇もなく――、



 ――そして、



「ま、間に合ったぁ~……」


「そうだね~」


 急いで着替え終わり、無事授業に間に合った。

 さすがに全力疾走はきつい……。


「よっ。よく間に合ったな」


 トモ……。


「全力疾走したからね」


「ご苦労なこって」


「ふふ。じゃあ、私はこっちだから」


「うん」


 微笑し、離れて行く君。

 その背中を僕は遠目にも眺め、自分の授業へと集中する。


「今日の授業って……」


「サッカーだな」


「また走るのか……地獄だな」


「まぁいいじゃねぇか。(俺ら補欠組は人数合わせ的に余りとして)サボれるんだしよ」


「だね……」


 腰を下ろす僕。グラウンドではもうゲームが開始されている。


 眺める雲。映る光景。頬を撫でる春風。

 その全てが静かにもゆっくりと流れて行く。



 そうやって、僕の日常はいつも通り、過ぎて行った――。


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