第二章 災悪の絶望

第二章1  『予兆』

 ――『絶望』。



 それは、ある日突然やってくる。

 それがどんなものなのか、与えられる影響や受け取り方は人それぞれだろう。


 そして彼は、それを早くも味わった。

 6年間にも亘り、絶えず続いたそれは果たして、耐えられるものだろうか?



 答えは――『否だ』。



 これからは始まるは、もがき、あがき、苦しみ続け、引きずってきた。



 そんな忘れはしない、謎と悲しみで染められた『絶望』の物語――。



      ※



 意を決して飛び込んだ先。

 そこには案の定の景色が広がっていて。

 顔を顰めては頬が緩むという、感情の複雑さを物語っていた。


 たとえ何も感じていなくとも、こういう時にどう思えばいいかはわかっている。

 それが露になるあたり、身体は覚えているようで。


「……っ」


 ふと知れず、顔面横をボールが接近し、すかさず右手で掴み取る。


 赤いドッヂボール。

 ハンドボールよりもひとふた回りほど大きなそれに目を落とせば、自然と自分の服装が視界に入り、確信する。


 青黒いチェックの上着と七分丈の黒寄りズボン。

 これまた青黒い運動靴。

 小4の頃に気に入っていた格好。



「――お~い、早く投げ返せよー」



 不意に聞こえる懐かしの声。

 顔を上げた瞬間、目に映ったのはあり得ない光景。


 心があったなら、揺らいで涙を流すほどに。

 驚きを隠せないほど目を見開いては、微笑する。


 前方に佇む少年。


 稲妻のようなアホ毛を生やした茶色い髪。剥き出しの犬歯。

 縞模様の半袖にベージュの短パン。

 露出された手足からワイルドさを感じさせる。



 そんな彼――『おにづかりょうすけ』こと『キスケ』はボールを待っているようで、賺さず返球した。



「ぃって」


 勢いよく投げすぎたか、キスケは歪な表情を見せる。

 それがおかしくて笑ってしまう。


 しばらく繰り返すキャッチボール。

 学校のグラウンドで行う懐かしい遊び。


 校舎に建て掛けられた時計が10時半を示している。

 それすなわち、2限目終わりの大休憩。


 大人からすればたった20分の時間帯で子供は外で大いに遊ぶ。

 子供の頃は時間の流れが遅く感じていた。


 30分が1時間じゃないかと思えるほど、今と昔では感覚が違う。

 だから今も、こんなにも動いているというのに時計の針は1分ほどしか過ぎていない。


 そしてふと、教室の窓辺に笑い合う女子三人が見え、釘付けになる。

 その隙を狙ってか、キスケから意地の悪い速球が飛んでくるも首を倒して避けていた。


『くそ~』とボールを追いかけるキスケ。

 そんな中でもやはり、彼女ら三人に見入ってしまう。



 右から、クールな微笑を浮かべる青い瞳の黒髪ポニーーー『いずひめ』。



 左に、茶髪ボブに切れ長のオレンジ色の瞳を持つ、小学生ではやや大きめのバストを誇る――『しろ』。



 その中心で、明るい笑顔を零す黒髪ポニーのピンクの瞳――『なん』。



 内心秘かに三美神と呼んでいる自分にとって、その光景は複雑で。

 背後から『またか……』という呆れ声が聞こえると、後頭部にボールを当てられる。


「そんなに好きなら、告ればいいだろ~」


 ため息を零すキスケ。

 その言葉が少々気に食わないため、当てられたボールを拾い、後方へと放り投げてやる。


「いてっ!?」


 すると狙い通り、キスケの顔面へと直撃した。


「……もう告った」


ふそっ!?」


「ホント」


 鼻を抑えながらの驚愕。


 その間抜け面に『してやったぞ』と思うも、過去にはなかった会話を切り出してしまい、内心頭を抱えてしまう。


「いつー!?」


 そんなこちらを気にもせず、キスケは容赦なく畳みかける。

 だから目を逸らして数秒思考を凝らすのだが、嘘だと思われても面倒なため、


「未来」


 そうありのままの事実を口にしたのだが、


「へ?」


 キスケはまたも、拍子抜けの顔を晒していた。

 そこに悪戯な笑みを添えてやれば、これが想像の話だと勘違いさせられる。

 辿るべき順路を修正できる。


 こんなくだらない意地の張り合いで未来が変わってしまっては堪ったものじゃない。


「んだよ想像かよ」


 幸い、キスケは不貞腐れてへたり込んでいる。

 つまらなそうに落ち込む姿に苦笑してしまう。


「んで?その話のオチは?」


「オチ?」


「結果だよ結果。たとえ想像でもあるだろー?お前から見た自分の勝率」


「ああ……」


 想像でもいいのか、キスケは告白した場合の予想を求める。

 実際、それを話してもいいのだが、この場においては素直に結果を話したい気分だった。



 未来が変わってしまう恐れがあるのに、幼馴染の旧友には話せなかった未来の話を、ずっとしてやりたかったから――。



「返事なし」


「はあ?」


 嘘ではない事実。

 ちゃんと告げることはできたはずなのに、彼女からの言葉は返ってくることはなかった。



 『あれ』の所為で――。



「何だよそれ~」


 徐々に地面へと崩れていく体勢。

 気力の無さからか、砂の上にうつ伏せになっている。

 そんなキスケを眺めていれば、



「――きたねぇな~」



 近づいてくる懐かしの声がまた耳の奥に響いていた。

 声のする方を一瞥してみれば、案の定のヤツがいる。


 黒縁眼鏡に、緑掛かったくせ毛だらけの髪。

 緑色の上着にオレンジ色のシャツ。薄黄緑色のズボン。


 ちょっと細めの高身長で、頭がいい。

 が、運動は苦手の読書家で。

 保育園からの幼馴染の一人。



 それが彼――『じょう』という親友だった。



「地面の上に寝転ぶな、汚い」


「う~ん……」


 唸りながら起き上がると、キスケは胡坐を掻く。

 結局、立ち上がる気力はないようで、放置することにする。


「んで、何の話?」


「……?」


 斗条の主語のない急な質問に疑問符を上げていれば、


「恋バナ~」


 代わりにキスケが呑気な回答を示していた。


「恋バナ?誰の?」


「こいつに決まってんだろ~」


「あ~」


「……」


 置いてきぼりの会話。

 話題は自分に対してのことで、二人して納得していることに眉を顰めるも、茫然とする。

 昔よく見た、光景だったから。


 二人仲良く、自分を弄り倒す。

 嘲笑うでもなく、からかうように。


 その和やかな空気が嫌いじゃなくて。

 自然と笑みを零していた。


「んで、お前は何の用?」


「んー?時間だから、呼びに来ただけー。行こうぜ~」


「ああ」


 休憩時間が終わり、教室へと向かう。

 周りも急ぎ足でグラウンドを駆けては、追い越すように過ぎ去っていく。



「―――」



 今は無き、旧校舎。

 どれだけ願っても戻れなかったあの頃の世界。


 アルバムという思い出の中にどれだけ収められていようと、身を持って懐かしさに浸れることは決してない。


 だから一歩一歩、惜しむように踏みしめてしまう。


 白砂のグラウンド。

 植木を超えてからのザラメのような赤紫色の床ブロック。


 木製の下駄箱。リノリウムの廊下。錆びかけの階段の鉄格子。

 コンクリートの壁に貼り付けられた木彫りの生徒像。


 階段の途中にある姿見。

 カステラのように大きな木製の階段の手すり。


 2階にある4年生の教室。

 今にも落ちそうな『4―2』という表札。


 水色の木製引き戸。

 開けた先に広がる、木製の床と、幼き友人たちの姿。


 木製のロッカーに、黄色の小汚いカーテン。

 木製の椅子。木製の机。

 木製ばかりの歴史ある出で立ち。


 窓際の前から3番目が自分の指定席だった。


 席に着き、久しぶりに見渡すグラウンドの光景。

 周りには楽しそうに会話する幼馴染みんなの姿がある。



 それが無性に、眩しく感じる――。



「そんじゃなクロ。また後でな」


「ああ」


 キスケと斗条も席へ着こうと移動する中、自然と南芭へと目が行く。

 笑顔で会話を切り上げ、席に着こうと歩いている。


 あまり見すぎてもよくないため、視線を窓へと移した直後、反射越しに南芭がこちらへと振り返っていたことに気づく。


 『危うかった』と内心胸を撫で下ろせば、扉の向こうから先生が現れ、丁度良くチャイムが鳴り、授業が開始される。


 3時間目は算数ということで30分ほどの時間が流れた後、黒板に書かれた問題を斗条が率先して解き上げる。


 塾通いの斗条なら当然と言えば当然のできに、先生は文句なしの花丸を付け。


 より難しい問題を誰かに解いてもらおうということで、斗条に先生から次の問題の解答権を誰かに委ねられるという流れになり。


 斗条は最初から狙っていたかの如く悪戯な笑みを浮かべて、爆睡していたキスケを指名していた。


「……ふが?」


 その呼びに応じてキスケは鼾を止め、顔を上げる。

 すると大体の流れを睡眠の中でも把握していたのか、キスケは目を凝らして問題の内容を見る。

 周りは『寝ていたやつに解けるわけがないだろう』という薄い嘲笑を浮かべている。


「先生!なんでいっつも俺ばっか難しい問題なんすか!」


「当てたのは間木野だ」


「おい斗条テメこの野郎!」


「授業を聞いてればわかる」


「んぐ」


 先生を代弁したかのような斗条の『寝ているやつが悪い』という遠回しの言い分に押し負けてか、キスケは不満げに立ち上がり、渋渋と黒板へ向かう。


 黒板の前に立つと、真剣な顔つきへと変わり、問題文を読み終わってかチョークを取る。

 頭を掻いて考える姿からして『わかっていない』と誰しもが思っているだろう。



 ――が、



「えぇっとー?あれがああして、ああなって……」


 キスケはぼそぼそと呟きながら、その手のチョークを走らせる。

 スラスラと書き続け、皆の表情が徐々に変わっていく。


 そして手に着いたチョークを払う音で、周りは気を取り戻して。

 あっという間に正解へとたどり着いたキスケに疎らな拍手が飛んでいた。


 そこに斗条は不敵な笑みを浮かべていて、キスケは立ち去り際に大欠伸。


 天才肌のキスケと頭脳派の斗条。

 対照的な仲の良い二人の争いに自然と頬が綻ぶ。


 和やかな空気に包まれながら、視線を窓へと移す。


 瞳に映るのは自分の姿。

 時計の針が刻々と過ぎていくのを感じながら、胸の中にある歪なものへと意識を向ける。


 全ては今夜から始まる出来事だと。


 そう自分に言い聞かせながら。



 静かな覚悟を胸に抱えた――。


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