第2話 フェンス
ヤモリの鳴き声とともに寝袋の中で目を覚ますようになってから、どのぐらい経つだろう。最初のうちこそ戸惑い、夢の出来事でしかないと思っていた。ただ、何もかもが現実的過ぎた。全てが見え、聞こえ、味や匂いを感じ、触れられた。日本とも新宿とも異なる空の下で見知らぬ仲間たちと生活を共にし、土にまみれ汗を流して働き、片言の英語?を使って生きていた。場所を聞こうとすれば目が覚め、名前を聞こうとすると、北新宿のベッドに舞い戻った。今では夢なのか現実なのかの区別もつかず、与えられたままの時空でただ刺激的な時を過ごし、もう一人の自分の生き様を楽しむことを覚えてしまった。
路地の両脇に同じ造りの平屋建てが三十件ほど建ち並んだ集落。家の前には庭が広がり、手入れされた芝生の上では、乾いた空気と土を潤すためのスプリンクラーが一定のリズムを打ちながら勢いよく回っている。
路地の外れまで進んで行くと、伸び切った雑草で覆い尽くされた家が目に入る。紐が切れて傾いた黄色いブラインド。突き刺さるロックのリズム。そこが「ハウス」だ。
圭は仲間たちと共に、労働以外の時間の大部分をこの中で過ごした。くたびれたソファがあるだけの居間。過去の住人たちが残していったイラストで活気付く壁。床に置かれたコンクリートのブロックには、鋭い棘を持つ大きなアザミのドライフラワーと乾いた木の枝が差し込まれ、更にその枝の上では、灰色のカメレオンが餌を求めてゆったりと移動を繰り返していた。
集落は三メートル程の高さのフェンスで取り囲まれていた。その上には、剃刀のような鋭い突起のついた有刺鉄線が螺旋を成しており、刑務所を彷彿させた。農園に向かう道路にも、農園の周りにもフェンスがあった。場所や形は異なっているものの、どれもが外部からの侵入を拒むために設置されたものだ。
寝袋の中で目覚めた圭は、何度となくボスと供に農園の回りに張られたフェンスの補修をしたことがある。動物の農作物に対する愛着は、相当のものだった。何度修復しても、金網の目を押し拡げ、あちこちに穴を空ける。それを圭は元に戻し、さらに針金とペンチで歪みを押さえて回る。
崖の付近では、驚くほど大きな穴を見つけた。地面に埋め込まれたフェンスの更に下を掘り起こして直径三十センチもある見事なトンネルが貫通していた。
「すごいな。どんな動物だろう」
圭は思わず呟いた。
「猪に決まってる。今度罠を仕掛けよう」
そう言ってボスは、辺りに転がっている石でその穴を埋め始めた。
「圭、いきなり石を手で持ち上げるのはやめろ。サソリに刺されるぞ」
半分土に埋まった石に手をかけた圭をボスが止めた。確かにボスは、手にする前に必ず足を使って石をひっくり返していた。
農園までの行き来には、鉄条網に沿った道路を使う。道路は全幅の三分の二しか舗装されておらず、鉄条網側の三分の一は土や砂が剥き出しのまま放置されていた。雨が降ると、表土が流されてあちこちに穴凹が生じるという不完全な舗装道路だった。
早めに仕事が終わったある日、ボスが急に車を道路の端に停め、圭に降りて来るよう合図した。ボスの後を追って畑の中を歩く。しばらく行くと岩山があり、そのすぐ脇には巨大なサボテンが群生していた。肉厚な葉の先には、あちこちに実がなっていた。手榴弾の形をした赤い実だ。ボスは側に落ちていた棒を使って、その実を落としにかかった。圭は、足下に転がってきた実を拾おうと手を伸ばした。
「触っちゃだめだ!」
その声に手を引っ込めた。
「これには小さな刺があるんだ。直に触ったら後が大変だぞ」
そう言ってボスは、ポケットから軍手とナイフを取り出した。軍手を手にはめて実を拾うと、器用にナイフで皮を剥いて圭に手渡した。
「食ったことあるか?」
圭は首を横に振った。サボテンに実がなることさえ知らなかった。口に運んでみる。予想を裏切り、癖のないあっさりした甘みが口に広がる。サボテンがこんなしゃれた実を提供してくれる植物であることを初めて知った。口の中に残った細かい種を吐き出しながら、次々に落とされ、転がって来る実を軍手をはめた手で寄せ集めた。
ビニール袋に赤い実を詰めて、二人は車の場所まで戻った。その前方から、一台の軍用車が埃を上げながら向かって来るのが見える。圭は助手席に乗り込んで、足を引っ込めようとした。と、そのとき、彼の手元から赤い実が一つ路上に転がり落ちた。抱えた袋にいつの間にか穴が開いていたのだ。軍手をはめたままの圭は、咄嵯にそれを追いかけていた。軍用車が来る前に拾ってしまおうと思ったのだ。
しかし、次の瞬間、圭はその場に凍り付いた。車上の兵士たちが大声で何かを叫ぶと、幾つもの銃口を圭に向けていた。圭は驚愕したまま動けなかった。ボスが慌てて叫んだ。
「出ろ!圭、そこから出るんだ!」
びくついて目が覚めたのは、北新宿のベッドの上だった。心を落ち着かせながら再び瞼を閉じてみる。
未舗装の土の上。圭は、そこから飛び退いた。軍のジープが近づく。そして、ボスを呼び寄せると、激しい口調で何かを訴えた。圭は理解できず、じっと成り行きを見守った。
やがて兵士たちはジープに飛び乗り、再び埃を巻き上げて立ち去って行った。タイヤに踏み漬された赤い実が一つ、土の上には残った。
圭の胸はまだ高鳴っていた。ボスは圭のすぐ側に来て道路を指差した。
「この道路、フェンスの近くは舗装してないだろう?これがテロリストの侵入を知る重要な手掛かりになるんだ。兵士たちは土の上にテロリストの足跡がないか、定期的に巡回している。思ったより神経を使う任務だ。だから目の前で足跡をつけているお前を見て、ひどく腹を立てたというわけだ」
ようやく全てが納得できた。巡回のジープが常に舗装されていない側の道路を選び、やけにゆっくり走っていたこと。その後ろに箒のような何かを引きずって埃をあげながら走っていたこと。フェンスの破れや足跡を捜しながら改めてきれいに掃き直すのが彼らの業務だったのだ。
「あのサボテンの実のようにならなくてよかったな」
ボスは冷たい笑顔を浮かべた。圭は路上の潰れた赤いサボテンの実を見つめ直した。自分 に向けられた銃口の残像がぼやけ、潰れた実の鮮やかな赤い色が脳裏を染めて拡がった。
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