フェンス越しの風

アボカド畑

第1話 七面鳥

 北新宿。「北」という文字が付くだけで、喧噪な街からは程遠く、濃い夜の闇が辺り一面を覆い尽くす。その一角にひっそりと建つ古びた一軒家。

 やるべき宿題と確固たる目標もなく続けている大学受験対策問題をそれなりに済ませた圭は、狭いベッドの上で深い眠りに落ちていった。


 「チッチッチッチッ」とヤモリが鳴いた。ぼんやりと目覚めた圭を、見覚えのあるコンクリートの白い天井が見下ろしていた。幾筋もの亀裂。忘れ去られた過去の記憶を閉じ込め、塗り固めたハケの跡。

 深緑色の寝袋の中で丸めた体を伸ばしてみる。体中の痛みが逃げ場を失い突き刺さる。記憶を辿りつつ、圭は下腹とパンツの隙間に右手を突っ込んだ。そしてそっと局部を掌で掴み、転がしてみる。鈍い痛みを覚えて一瞬、眉間に縦皺が走る。

 しばらくして寝袋を抜け出し、部屋を出ると、すぐ隣にある別のドアを開けた。地下室へと導く階段がぼんやりと闇に浮き上がる。闇の底からは、バタバタと微かに羽音が聞こえてくる。間違いなく、昨夜飼育小屋から持ち帰った七面鳥が、光の届かぬ闇の中でもがいているのだった。


 日没と同時に大型トラックが飼育小屋の前に横付けされた。圭たちは、すぐ脇の空き地に腰を下ろし、指示を待っていた。間もなくフォークリフトが荷台のケージを一つずつ下ろし始める。西からの風に埃が舞い、小屋の隅に灯された裸電球が鈍い光を放って揺れる。

 全てのケージが降ろされると同時に、誰からともなく立ち上がる。そして、小屋の扉を開けて中へと踏み込んだ。鼻の粘膜を強烈な悪臭が容赦なく襲う。

 「ホロホロホロホロ…」

 侵入者の気配に、鳥たちが一斉に鳴き声を放つ。その叫びは、近隣の飼育小屋をも巻き込んでウェーブを成し、闇一面に幾重ものこだまを作った。

 「ホロホロホロホロ…」

  「ホロホロホロホロ…」

 懸命でありながら、悲しいほどに滑稽に轟く叫び。鳥たちは闇に視力を奪われて、飛ぶことはおろか微動だにできず、ただオドオドと突っ立ったままだ。


 ボスが圭たちを呼び寄せた。ボスは、一羽の鳥に背後からそっと近づいた。そして、サッと真横から右手で…鎌で草を払うようにして両足を掴み上げ、同時に左手で羽の付け根を支え持った。一瞬の出来事だ。

 「これでもう暴れることはない。こいつらを丁寧に扱う必要はないぞ。畑の野菜と同じだ。野菜だと思えばいい」

 彼は冷酷な表情を浮かべてそう言うと、しなだれた七面鳥を楽々と持ち上げて見せ、反動を付けてケージの一番下の段に投げ込んだ。鳥は狼狽えた様子でヨタヨタとケージの隅に辿り着くと、運命を悟ったように体を落として丸くなった。

 ボスは別の一羽を捕まえて紐で両足を縛ると、バネ秤のフックの先に逆さまに吊るした。上下に揺れていた赤い針は、六キロ付近の目盛りを差して止まった。


 「いいか、一つの段に七羽ずつ入れるんだ。下の段から順番に埋めていけ。数を間違えないように、大声で数えながら投げ込んでくれ」

 ボスはそう言って、最後の電球の灯りを消した。鳥たちの間に一瞬ざわめきが起こり、再び静まり返る。白い影の群れが暗闇にうっすらと浮かび上がった。

 一つのケージには五段の層がある。圭たちは十個のケージを前に、早速無様なハンティングに取り掛かった。果たして、一見大人しそうに見えた野菜は、いざ捕まえようとすると、呆れるほどの抵抗を示した。

 「1!、2!、3!…」

 圭たちは慣れない手付きで鳥を捕まえては、半ば怒りを込めて声を張り上げ、次々とケージの中に荒々しく放り込んでいった。軍手をはめた両手は、すぐに埃と糞にまみれて強烈な匂いを放ち、鼻の頭さえも掻けなくなる。


 「イテッ!」

 番号とともに、時折混じる悲鳴。くちばしの先を切断処理された奴らにとって、鋭い爪が残された唯一の武器だった。

 「7!」

 七まで数え上げると、その層の扉が閉まり、上の段の扉が開く。番号は再び一に戻る。闇の中のケージには、次第に白い層が積み重ねられていく。

 骨が折れるのは上の段だ。荷物を頭上に掲げるようにして持ち上げ、弾みを付けてうまく中へ押し込む必要があった。厄介なのは、この荷物がそれぞれの意志に任せて動くことだった。狭い入り口で引っ掛かるものなら、奴らは鋭い武器を下方に向け、容赦なく顔を目掛けて飛び降りてくる。

 次第に背中が汗を噴く。凄まじい埃に鼻が痛み、呼吸をするのが辛い。両腕の引っ掻き傷がヒリヒリと痛む。今はただ、うがいとシャワーが必要なもの全てだった。


 一時間も経つと、ケージは二つを残すのみとなっていた。皆少しでも楽をしたくて、見た目貧弱そうな標的から捕まえ続けた結果、後には見るからに意地の悪そうな肥えた奴ばかりが取り残されていた。

 小屋の中のフェンスをずらし、逃げ場を更に狭くしてからハンティングを再開する。今度は奴らの両足を掴むだけでも骨が折れた。タインミグがずれると、力強いボディキックが返ってくる。シャツにかぎ裂きをこしらえた仲間が圭と視線を合わせ、(参ったね)とポーズを作る。シャツの裂け目からは、白い肌に刻まれた赤い線が痛々しく覗いている。


 大物を捕らえてケージに放り込もうとしていた圭は、次の瞬間、呼吸が停まった。その場に崩れて蹲る。声にならない呻き声…。

 両足を掴んでいたはずの右手の軍手が糞で滑り、抱えていた鳥の片足が一瞬自由になった。奴は、それを見逃さなかった。圭の下腹部に狙いを定め、有りったけの力を溜める。そして見事なキックを放ち、逃げ去った。冷や汗とともに鈍痛が体の内側を駆け上る。

 「大丈夫か、圭」

 股間を押さえて唸っている圭をボスが小屋の隅まで運んだ。仲間の笑い声が腹立たしい。

 「ホロホロホロホロ…」

 七面鳥の間抜けな鳴き声がまるで嘲るかのように響き、圭を包み込んだ。

 (こんな野菜があってたまるか)

 圭は苦痛が遠ざかるのをじっと堪えて待った。


 圭がどうにか立ち上がれるようになった頃には、全てのケージがほぼ満杯になっていた。早い内に捕らえられた鳥たちは、すでにそこを自分の寝蔵と決め付けたかのように大人しく羽を畳み、呑気に眠りに落ちている。明日にもフックに吊され、羽を毟られる悲運を悟っている様子は更々ない。

 静まり返った小屋には、仲間同志の争いで傷を負い、動けなくなった七面鳥がポツリと一羽だけ取り残されていた。

 「圭、お前の労と痛みをねぎらってあの七面鳥をやろう。持って行け」

ボスは僕の肩を叩き、笑みを浮かべた。圭は礼を言い、その傷ついた七面鳥を逆さにぶら下げて、仲間と共にハウスヘと引き上げた。

西からの風は止み、再び小屋の回りに明かりが灯った。やがて背後でフォークリフトのエンジン音が唸り始めた。


 「一人五分だぞ」

 体中の細胞がシャワーを待ちわびていた。毛穴が悪臭で詰まり、息をするのも苦しい。

 圭は地下室に通じるドアを開け、明かりの切れた階段をゆっくりと下りて行った。手に下げた七面鳥がばたついて、バランスを失いかける。闇の底に辿り着くと、片手で部屋の明かりのスイッチを捜した。プチッと弾ける音と供に明かりが灯った。その弱々しい裸電球の光が、圭と鳥を一緒くたにして不気味な影を壁全体に映し出した。通空口を除けば隙間一つない白い部屋は、乾いた空気を溜め込んで、じっと黙ったままだった。

 圭は七面鳥を床に放してやった。鳥は手を離れると、傷ついた羽を広げ、積もった埃を舞い上げた。圭は逃れるように光洩れるドアを目指して駆け上っていった。


 「早くしろよ。もう五分たったぞ、五分」

 シャワーは、やっと二人を洗い流したところだった。ある一定の使用量を超えると、冷たい水に変わってしまう。それがこのシャワーの欠点だった。

 幾分お湯もぬるくなりかけた頃、やっと圭にも順番が回ってきた。タオルをノブに引っかけて、全裸になる。真っ先にシャンプーをぶっかけると、頭の先から順に埃と汗と糞の匂いの粒子を落としにかかった。鼻をかむと、驚く程真っ黒な粘液が飛び出した。圭は二度目の石鹸を体中に擦り付け、丹念に体の隅々を洗い流した。粗いコンクリートの床の上には、流されずに残った汚泥がラインを作り、排水口まで伸びている。

 「ウワッ!」

 突然冷たくなったシャワーに圭は声をあげ、北新宿の狭いベッドの上で目を覚ました。息を整え、再び目を閉じてみる。水の冷たさに震えながら背中の石鹸を洗い落とす。コックをひねり、水を止める。圭の身体が湯気を生み出し、また息を吹き返した。



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