社畜男はB人お姉さんに助けられて――
櫻井 春輝
プロローグ
「はー……」
静かに走る電車の中、終電間際のおかげで空いている席に座った
(なんとか明日は休みとれたな……久しぶりにゆっくり寝れる)
納期が迫り、仕事は残業続き。しかも仕事が終わって帰ろうにも終電は過ぎていたために、社中泊が当たり前だったここ数日。そして当然のように先週末に休みは無く、休日出勤だった。
(えーと、何連勤したんだ……? 前の前の日曜は休めたから……十三連勤……まだマシな方か)
こう思ってしまうようになった辺り大樹の毒されようが相当だとわかる。
大樹が勤める会社は所謂ブラック企業である。いや、ブラック企業になったが正解か。
(ふざけんなよな、人件費縮小だっつって残業代寄越さねえなんて、あのクソ二代目の野郎)
大樹が勤め始めの頃の社長は出来た人間であったが、代替わりして息子が社長を引き継いでからは、会社のクリーンさは徐々に失われ、気づけば真っ黒になっていた。
察しもよく、貯金もしていた同僚は次々に辞めていき、貯金が心許なく、更に辞めていった元同僚の仕事が次々と転がり込んできて大樹は完全に逃げるタイミングを逃した。
(高卒の俺にどれだけ仕事振ってんだよ。て言っても、仕事を任せられる前でも貯金が無いから辞めようもなかったが……)
貯金が出来たら辞めようと思っても、残業代が出なくなり、社中泊したり、たまにタクシーで帰ったり、ネカフェにシャワーを浴びに行ったり、外食夜食が多いせいで、碌に貯まらない。
大樹の環境は完全に悪循環に陥っていた。
(少しずつでも貯めてくしかないか……まあ、いい。とにかく明日は休みだ。ゆっくり寝て、美味いもの作りながらゆっくりしよう)
大樹の趣味は料理という訳ではないが、休みの日ぐらいは外食は避けたいことと、料理が得意ということで、休日の過ごし方はもっぱら美味いものを作って食うのが決まりになっていた。
腕を振るって出来た美味いものを食うのはストレス発散にもなるので、今の大樹の生活では唯一の潤いとなっている。
最早趣味と言ってもいいと過言ではないのだが、大樹自身はそう思っていない。
(昼前に起きたら、簡単に食パンで何か作ってブランチにするか。いや、スーパーでバゲットでも残ってたらそれで何かするのもアリだな)
大樹の頭の中は明日の献立を何にするかについて一杯になり始めた。
帰りに寄っていくスーパーで何を買うかに思考を巡らせる。
ボロく狭く家賃の高いアパートだが、近くに24時間やってるスーパーがあることだけが大樹にとっては救いだった。
(夜は何にするか……久しぶりに角煮でも作ってそれでゆっくりビールも悪かねえな)
甘辛く味つけしてトロトロに煮込まれた豚の角煮を頬張ってビールを流し込むのを想像すると、喉がゴクリと鳴り、思わず一人顔がニヤケてしまい、慌てて表情を引き締め周りを見渡す。幸い、誰も大樹のことなど見ていなかったようで、変質者扱いは避けられて胸を撫で下ろす。
大樹の身長は180に届かないぐらいで、肩幅も広めで厚みもある中々な体格をしている。そして、顔は人が言うには厳つい方らしく、そんなつもりも無いのに威嚇してるように見えるらしい。そんな大樹が一人ニヤケていると、どんな誤解を生むかわからないと高校の時に友人に言われ、以来、大樹は気をつけているのである。
それはともかくとして、大樹が明日の食事について思いを馳せていると、知らずの内にウトウトしており、気づけば降りる駅に着いたところで、大樹は慌てて鞄を抱えて電車を降りた。
「ふう……」
乗り過ごすと、終電間際ということもあって帰る電車が無くなる場合もあるので、無事に降りることができて大樹はホッと安堵の息を吐く。
そして階段に向かって歩き出すと、大樹は途端に全身から疲労を感じ始めた。
明日が休みということと、最寄り駅に着いたということもあって、日々の激務からの緊張が抜けたせいだろう。
ある意味麻痺していた感覚が正常に戻ったということなのかもしれないが、どうせなら家に着いてからにして欲しかったというのが偽らざる心境だ。
ともあれ、大樹は駅のホームで重くなった足取りを改札に繋がる階段に向かって進める。
そして階段を登り始めた時だ。
「え、ちょ――!? きゃあああ――」
何事かと顔を上げると、上にいる女性が足を踏み外したのか、空中遊泳するかのように手をバタバタとしながら、背を向けてこちらに落ちてきたのである。
「うおっ――!?」
大樹はそのままジッとしていると、落下する女性の直撃コースである。なので、大樹は当然避ける――こともなく、咄嗟に片足を一段下ろして踏ん張り、右手は手すりをしっかり掴んで、前傾姿勢になって待ち受け態勢を作ると、落ちてきた女性を体で受け止め左手を回して抱きとめた。
「ぐっ――!!」
大樹の大柄でガッシリした体格は、女性と一緒に転ぶことなく、衝撃を受け止め切ることができた。
そして大樹がホッと一息吐くと、密着した女性の体の柔らかさと細さに意識が回ってドギマギし始めた。
(や、柔らか! 体の当たってるとこ全部柔らか! んで腰細っ!!)
彼女いない歴が年齢の大樹にとって、女性とここまで密着したのは初めてで、なかなか洒落にならない刺激であった。そのせいで大樹の思考がフリーズする。
「え……?」
そして女性が戸惑った声を出しながら、自分の体を見下ろし、次いでゆっくり振り返った。
「ああ――!? ご、ごめんなさい! 大丈夫でしたか!?」
状況を理解したのだろう。自分の危ういところを大樹に助けられただけでなく、巻き込みそうになったということも。
「あ、ああ、いえ。こちらは大丈夫です、そちらは大丈夫ですか――っ!?」
女性の声に我に返った大樹は、見上げてくる女性と目を合わせると、思わず息を呑んだ。
その小ぶりな顔に、意志の強そうで猫のように大きなアーモンドアイ。筋の通った高い鼻に、形の良い口では艶やかに唇が煌いて、そしてキメの細かい白い肌。
大樹は女性のその美貌にすっかり目を奪われてしまったのである。
「は、はい、大丈夫です。そして本当にありがとうございます、受け止めていただいて。そちらも危なかったでしょうに――……あの?」
思わず呆けていた大樹に、女性が不思議がる。
「あ、いや、はい、お、お気になさらず」
どもりながら大樹が返すと、そこで未だに自分が女性を抱きしめたままなのに気づく。
「――あっと、すみません。手を離しますが、大丈夫ですか?」
「あ、はい。大丈夫です――」
大樹は女性を胸板で支えながら手を離し、名残惜しく感じながら体も離れた。
そして両の足でしっかりと階段の上に立った女性はこちらに振り返って、深々と頭を下げた。長く艶やかな黒髪をハーフアップにした毛先が勢いよく揺れる。
「改めて――本当に危ないところを、ありがとうございます。受け止めたあなたも――いえ、受け止めてくれたあなたの方こそ、危なくなるところだったのに、本当にありがとうございます」
心から言ってるのがわかる気持ちのこもった感謝の言葉に、大樹は照れ臭さと心地よさを味わっていた。何より自分の顔を真正面から見ても、怖がらないのが嬉しい。
「いえ、大事なくてよかったです。お互いにね。それに俺はこの体格ですし、大丈夫だと踏んで受け止めたし、あなたは軽かったですしね、そう気になさらず」
そして頭を上げた女性が「まあ」とクスリと笑む。
「重く感じられなくて良かったです……本当に立派な体格ね?」
緊張感が抜けたのか最後は口調を少し砕かせそう言って、小首を傾げる女性の可憐さに胸を撃ち抜かれたような気分を味わいながら、大樹は改めて女性の凛とした出で立ちを見た。
ネイビーのテイラードジャケットに、ハイウエストの白のタイトスカートの下には黒ストッキング、格好としてはありふれたように思えるが、大樹でも一目でわかるほど服から高級感が漂っている。そしてそんな高級そうな服に負けてない多分年上だろう美人女性からは、大樹の周囲ではお目にかかれないほど『仕事の出来る女性』のオーラのようなものを感じる。雰囲気から恐らく女性は、自分のような小さなブラック企業でなく、立派で大きな会社でビシビシ働いているのではないかと大樹は勝手ながらにそんな予想をした。
そして、ふと大樹の脳裏に『格差』という二文字が浮かぶ。
(いかん、こんなすごそうな美人にこれ以上関わって惚れでもしたら後が大変だ)
高嶺の花というのは、高嶺にあるから、届かないから高嶺の花なのだ。手を伸ばそうとしても苦労するのは、辛くなるのはこちらであるので、見上げるだけで十分だ。
皮肉にも、女性は大樹より段差の高い位置にいて、そんな大樹の考えを肯定してるように感じた。
本能的に大樹はそう考え、高鳴りそうな胸に蓋をして、早いとここの美女から離れようと思いながら手を振って答える。
「ははっ、筋トレが趣味でしてね。あと、飯食ってたらこうなっただけです」
「ああ、筋トレを、なるほど……」
感心した風な声を出す美女。そこで大樹は気づいた。
(で、でかい……)
ジャケットとその下のシャツを押し上げる双丘はかなりのものだった。
(なんだこの人、モデルみたいな美人で細くて、仕事ができそうな雰囲気で、おまけにおっぱいまででかいとか……最終兵器美女かよ)
疲労と突然の美女の遭遇とで色々といっぱいになって頭の回ってない大樹の頭に、意味のわからない言葉が走る。
(うん、やはり童貞には到底手に余るな、この美女もおっぱいも)
おまけに普段は出ないような下世話なことまで考えたところで、大樹は頭を振って雑念を追い払った。
「? どうしたんですか?」
「ああ、何でもないです。それでは急ぐので、俺はここで。帰り、気をつけてください」
言って軽く頭を下げ、大樹は美女の脇を通って足早に階段を登り始める。
「え!? ちょ、ちょっと――あの、本当にありがとうございました!」
足を止めずに、ペコと頭を下げてそのまま早歩きで進んで改札を抜けた大樹であった。
改札を抜けて階段を降りたとこで、大樹は一瞬目眩がして、たたらを踏んだ。
(あー不味い、あの美女受け止めたのでエネルギー空になった感じか……?)
流石に疲労困憊の体で、落ちてくる女性を受け止めるには体力が残り少なかったようだ。
大樹は一つ深呼吸してから目に入ったコンビニへ足を向ける。
「ありがとうございましたー」
コンビニ店員の声を背中に受けた大樹は、入り口から脇に寄って、並んだゴミ箱の前で立ち止まり、先ほど購入した栄養ドリンクの蓋を開けてそれを一気に飲み干す。
「――ぷはっ。もう家に帰るってのに、今日もこれに世話になっちまうなんてな……」
残業してる時に眠気を追い出すために常用している栄養ドリンクを、これから家に帰るというのに、それまでのエネルギー補給のためとは言え、今日も飲んでしまったことに虚しさを覚えてしまったのだ。
独り言ちた大樹は栄養ドリンクの瓶をゴミ箱に捨て、家路へ向かう。
「まあ、スーパー寄って食材しっかり見たいしな、そのためなら仕方ないな、うん」
そんな風に自分に言い訳しながら、家の方角に足を進めていくと、ふと前方を歩く人の背中を見て気づく。
(あれは……多分、さっきの美女だよな……)
後ろ姿もまた美しかった。既に大樹は美女だと知っているが、知らなくても振り向いたら絶対にあの女性は美人だと、そう予感させる後ろ姿である。
そしてふと気づく。このまま距離が離れているとは言え、後ろを歩いていてそれに気づかれたら変な風に思われたりしないだろうかと。ストーカーのように間違われたりしないだろうかと。
(いや、一応は危ないところを助けた身だし、大丈夫……だよな……?)
そう思いながらも大樹は進める足を気持ちゆっくりにして、美女から徐々に距離を離すように歩いた。
そんな風に足を進める大樹だが、自然と美女の背中に目が行ってしまう。
(後ろ姿まで美人ってなんか凄いな……)
視界の中に入っているのだから、これは仕方ないと自分に言い訳しながら何気なしに眺めていると、女性が先ほどは持っていなかったビニール袋を手にしていることに気づいた。
恐らくは大樹のようにコンビニにでも寄ったのだろうと当たりをつけると、女性がコンビニ袋をぶら下げた手をハンドバッグに入れて、不用心に歩きながら中を探り始めた。
(コケたりしないだろうな……?)
そのように思い至って、落ち着かない気持ちになっていると、女性が向かってる先がどこか何となく察した。
恐らく先ほどから目に入っている高層タワーマンションであろう。そこに近づいたから、鍵を出そうとしているのだろうと大樹は予測した。
駅に近く如何にも高級感漂うこのマンションは聞いた話では億越えだとか。
(すげえな、億ションに住んでんのか、やっぱり文字通り高嶺の花だな……)
やはりお近づきにならずに正解であった。色々と格差があり過ぎる。先ほどまで折角の出会いだったかと勿体ない思いでいっぱいであったが、その名残りも綺麗になくなりそうである。
そうやって一人納得していると、気づけば女性との距離が随分縮まっていた。だけでなく、美女の困ったような声が聞こえてきた。
「あれ……? どこいったんだろ……?」
そして美女は立ち止まって鞄の中を漁り始めた。
(……鍵が見つからないのか……? もしかしてさっき階段で落としたとかか……?)
気の毒に思うが、大樹はもう必要以上の接触をする気は無い。そのまま女性の後ろを通り過ぎようと足を進めていると――
「あっ――!」
どうやら探っている内に鞄を落として、中身をばら撒いてしまったらしい。更に不幸なことに財布のボタンかジッパーが開いていたのか、チャリンチャリンと小銭が広がっていく。
「あーあ……」
美女は傍目にわかるほど肩を落として、しゃがんで鞄の中身を拾い始めた。
そしてその様子をついつい立ち止まって見てしまっていた大樹の足元に、小銭が転がってきた。
こうなると、善良な大樹に見て見ぬ振りなど出来ない。
大樹はため息を吐いて、その小銭――五円玉を拾い、美女の元へ足を進めた。
「こっちに転がってきましたよ」
「あ、どうもすみません――って、さっきの!?」
「ええ、さっき振りですね」
苦笑して大樹は五円玉を手渡すと、その場でしゃがんで拾うのを手伝い始めた。
「あ、ありがとう……」
「いえ。それより見えてますか? 携帯で照らしときますか」
街灯もあって、大樹にはしっかり見えているが、見落とすかもしれないので、念のためスマホを取り出して、光を当てる。
「あ、そうですね」
相槌を打った女性は、足元に転がっていたスマホをとり、割れてないのを確認してホッとした様子を見せる。
「あれ――ああ、そうだ。すみません、電池切れてしまったようで……」
「電池切れなんですか? 大丈夫ですか、壊れたとかでなくて?」
「ええ。さっき電車降りる時には電池が切れかかっていたので、そのせいだと思います」
「なら、いいんですが……まあ、一つだけでも照らせば十分でしょう。あ、そこカードみたいの落ちてますよ」
「え? あ! よかった……落としたんじゃなかったのね……」
女性が心底ホッとした様子でそれを握りしめた。
(……あ、カードキーか)
カバンを落とす前の様子と併せてそう察する。その間も、大樹はせっせと小銭やらハンカチやら拾っていて、それに気づいた女性も慌てて拾い始めた。
(……なんか、最初に会った時の出来る女性イメージが崩れていっているような……)
いや、恐らくたまたまだろうと、大樹は思考を打ち消した。
「うん……もう無いようですね。鞄の中身は全部ありそうですか?」
「ええ、恐らく大丈夫……だと思うわ。本当にありがとう」
しゃがんでキョロキョロ見渡した末に、微笑まれて、その笑顔に見惚れそうになった大樹は目を逸らして頷きだけを返した。
そして二人一緒に立ち上がった時だ。
「っ!?」
大樹は目眩がするのと同時に、サーっと血の気が引くのを感じた。
しゃがんだ姿勢から立ち上がった時に、血の巡りが悪くなってしまったせいだろう。
「? 大丈夫……ですか?」
大樹が目に手を当て、たたらを踏んだのを見て、異変に気づいたのだろう。
「え、ええ、大丈夫――で、す……」
言いながら、大樹は世界がひっくり返るのを感じた。いや、自分がその場で崩れ落ちてしまったのだと気づいた時には、地面が横にあった。
「ちょ、ちょっと――!? は!? きゅ、救急車――! ああ、もう電池切れ……そうだ!! ちょっと待ってて!?」
女性がそう言って駆け出す。
(……走ってる後ろ姿まで美人かよ……)
そんなことを考えながら大樹は気を失った。
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