恋心と青空と大先生と(part4)

 クレーターが見えるほど大きな月明かりの下で、御銫と秀麗がお互いに見つめ合い、手を取り合って――


「だから、瑞希ちゃんなのかも〜?」


 菫の声が現実へ引き戻したが、瑞希は他の心配事が持ち上がり、頭の上で大きく両手を振った。


「いやいや! ちょっと待った! それって、仮に男の人が十人いたら、十人お互いに好きってことですよね? 私も含めて全員、恋人が十人いる……」


 特殊な逆ハーレムに瑞希は困惑していたが、あくまでもこれは空論であり、菫は可愛く小首を傾げた。


「そうかも〜?」


 バツ二で三十四三歳、色恋沙汰に興味がなかったとしても、瑞希は疑いの眼差しを菫に向けた。


「いやいや、そんなに都合よく、みんながみんなを好きにはならないでしょ?」

「可能性はゼロじゃないと思うんだけどなぁ〜」


 菫にとうとう論破されてしまった。仮にそうだったとして、瑞希は妄想しようとしたが、口ごもる。


「それは……ちょっと実家に帰らせていただきたい――いや考えさせていただきたいです」


 笑いを振ってみたが、菫はそれは拾わず、短く聞き返してきた。


「そう?」

「それ、11Pもあるってことですよね?」


 煩悩だらけの女が行き着くところは結局そこだった。彼女の頭の中では、逆ハーレムは過激を極めていた。


 しかし、菫のクールさは今も変わらずで、春風のような柔らかな声を響かせる。


「そうかも〜?」

「菫さん、どうやって全員でつながりましょうか?」


 煩悩スイッチが入った三十路女は身を乗り出した。しかし、菫もまんざらでもなく、「ふふっ」と可愛く小首を傾げ、


「ボクもう思いついちゃったかも〜?」


 男と女でエロ話は続いてゆく。


はやっ! どうするんですか?」

「瑞希ちゃんセクハラだぁ〜」

「セクハラじゃなくて、煩悩女と呼んでくださいよ」


 瑞希は胸をどんと拳で叩いた。誰もいない昼間のテーマパークで、いやらしくニヤニヤ笑うような話が下世話に出てきそうだったが、


「ボクもかなり煩悩だけど、恥ずかしいから口にしな〜い」


 クールに撤退してゆく菫を、同じ穴のむじなというように、瑞希は引き止めようとした。


「え〜? 恥ずかしいって、菫さんいくつですか?」

「ボク、三十一かも〜?」

「どうして、年齢もその言い方なんですか?」


 菫の口調がどんな効果をもたらしているか、瑞希が気づかないまま、大先生から教育的指導――。


「事実から可能性の問題」

「年齢の可能性……?」


 瑞希はそうつぶやいて、考え始めた。年齢は年齢であり、それは事実だと、確定できると思うのだ。それなのに、菫は可能性だと言う。


 しばらく、会話もなく沈黙が続いていきそうだったが、瑞希のいつもの癖が出る。


(とりあえず、それは置いておいて……)


 白く袖口が広く開いたとこから出ていた腕は、気だるそうに背もたれにもたれ、菫は妖艶に足を組んだ。瑞希は振り返って、


「菫さんの恋愛話はないんですか?」


 細いブレスレットを指先でつまんで、菫はくるくると回し弄ぶ。


「ボク〜?」

「好きな人とかいないんですか?」


 聡明な瑠璃紺色の瞳ははるか遠くの空を眺めていて、右に左に隙なく動く。瑞希のことは見ていなかったが、間延びした様子で会話は成立していた。


「どうだったかなぁ〜?」


 その時だった、空の青が紫色に一瞬変わったのは。


「ん?」


 瑞希の視界から菫は消え去り、青空が映ったり、パークのアトラクションが映ったりを繰り返す。


(あれ? 今もまただ。何かがおかしいのは気のせいなのかな?)


 ブラウンの長い髪は無防備にあちこち揺れ動く。急に落ち着きがなくなった女に顔を戻して、菫は柔らかな春風みたいに微笑む。


は事実? それとも感情?」

「え……?」


 御銫のように戦車で強引に引っ張られているわけでもない。ランジェのように透明な檻に入れられているわけでもない。


 野放しにされているのに、罠は何重にも仕掛けられていて、違和感を抱いた瑞希だったが、それがどの策なのかがもうわからなくなっていた。


 菫は自分の爪を見ながら、聞いたのに答えてこない女に催促をする。


「どっち?」

「どっちだろう?」


 空が光った原因を知りたかったのに、ひとつ話を先へ進められてしまって、しかも考えようとする前に、菫が彼女の顔をのぞき込んだ。


「教えてほしいの〜?」

「はい。降参なので、教えてください」


 正直で落ち着きがなく、感情で動いている瑞希ならば、こう動いてくる可能性が高いと、菫は予測しているのだ。そうして、


「そうするから、そばに寄っていい?」


 接近の予告――


 さすがの瑞希も一瞬ためらった。


「え……?」


 しかし、それも計算済みで、菫はそばにいるスタッフをチラチラうかがいながら、


「他の人には聞かれたくないんだよなぁ〜。だから、近くに寄りたいんだけど……」


 瑞希はこう解釈した。事実か感情かの話を今しているから、セミナーの内容だ。だから、タダでは他の人に教えないということだと。そうして、彼女は、


「わかりました、どうぞ」


 ストゥイット大先生から教育的指導――。


「あれ〜? 可能性の話なんだけどなぁ〜」

「え……?」


 瑞希はもう忘れてしまっていた、例題二の内容を。それをどう利用するものなのかも気づけなかった。


 フリーズしてしまった瑞希の背後から、たくさん人が歩いてきた。菫はそれを見つけて、「ふふっ」と嬉しそうに微笑み、彼らを指差した。


「あぁ、お客さん来たよ〜」


 薄手の白い袖が夏の陽射しに反射して、まぶしさを振りまく。瑞希はそれにつられて振り返り、安堵のため息をもらした。


「……あ、あぁ、よかったです」


 緊張からの解放で、のどの渇きを潤すため、ミネラルウォーターを飲みながら、そっと目を閉じ、子供たちのはしゃぐ声に耳を傾ける。


(みんながいるから自分がいる。たくさんの中の一人だから、自分は……)


 真っ暗な視界の中で、エキゾチックな香が急に色濃くなって、


「ふふっ」


 タックトップから出ている瑞希の素肌に、柔らかい感触がにわかに広がった。慌てて目を開けると、菫の着ていた白いロングシャツだった。男性的な腕の硬さがぴったりと寄り添う。


(あれ? どうしてこんなに近くに来たんだろう?)


 瑞希は上体をそらして、腕の感触から逃げようとしたが、ベンチの端に座っていて、逃げ場がなかった。


「あ、あの……」


 聖女になるつもりだが、煩悩を捨てきれない女は、もろタイプの男の重みを感じて、


(いや〜! 心を揺さぶるのはやめてください〜!)


 このまま菫を捕まえて、彼もろともベンチに寝転がろう――押し倒された図に故意にしたいと思うが、頭を振って正気を取り戻すを繰り返す。


 乱心の瑞希とは対照的に、菫はどこまでもクールで不思議そうな顔をした。


「どうしたの〜?」

「どうして、こんなに近くに来たんですか?」


 ストゥイット大先生から教育的指導――。


「あれ〜? 可能性の話なんだけどなぁ〜」

「可能性の話?」


 瑞希はまた同じ過ちを犯してしまった。ランジェにバスルームへ連れてこられた――魔法という名のセクハラを受けた時と、まるっきり同じ罠の構造だった。


 そうして、菫の次の言葉はこう来るのである。


「瑞希ちゃん、教えてほしいの〜?」

「はい」


 素直にうなずいた瑞希。例題二を応用できないばかりに、菫先生はこう指導してくる。


「じゃあ、ボクの髪なでて〜?」

「どうして、髪をなでるの話に変わったんですか?」


 理論はないが、さすがに瑞希も意見をしたが、それは先生にはお見通しで、春風みたいな柔らかな声はこう言ってくるのだ。


「あれ〜? 事実と可能性の話なんだけどなぁ〜」


 ストゥイット大先生から教育的指導――。


「事実と可能性……? どの話ですか?」


 理論の考え方が面白いと思ってしまった瑞希が、目先の餌につられて聞き返すと、菫はこう言うのである。


「教えてほしいの〜?」

「はい」


 セミナーを最初に受けさせた理由のひとつは、先生にこうやって罠を仕掛けることに使われているのである。間隔が短くなっているのに気づかない瑞希から、菫は情報を収集しつつ、


「じゃあ、〜?」


 今日会ったばかりの女に、こんな言葉を投げかければ、どんな反応を返してくるのか簡単に予測がつく。


「え、何を……?」


 ぽかんとした――戸惑っている瑞希の腕をスルスルと伝って、漆黒の長い髪がすうっと下へ落ちてゆく。


 そうして、瑞希のピンクのミニスカートからはみ出ている足に、身――いや頭を預けた。聡明な瑠璃紺色の瞳には青空と瑞希だけになった。


「はぁ〜。空が綺麗……」


 感嘆の吐息が男の声で膝の上から響く。瑞希にとってはあっという間の出来事で、ただ聞き返すしかできなかった。


「え……? どうして膝枕をするんですか?」


 菫は瑞希の足に頭をスリスリしながら、ランジェと同じ罠で交わそうとする。


「女の人の足柔らかくて気持ちいい〜。ボク大好きかも〜?」

「いやいや、答えてないです!」


 瑞希は即行突っ込んだが、それは菫先生にしてみれば、誘引という罠だった。そうして、ここへ戻って来しまうのだ。


「瑞希ちゃん、教えてほしいの〜?」

「は――ん? また同じ繰り返しになる気がする……。どうしてだかわからないけど……」


 瑞希はうなずきそうになったが、感覚で何とか回避を図った。しかし、やはり理論ではなく、彼女はどんな構図で、同じ罠が自然を装って繰り返されているのはわからなかった。


 菫先生は堂々と膝枕をしたまま、こう言ってくる。


「その原因を知りたいんだったら、ボクに質問したらいいんじゃないかなぁ〜?」

「あぁ、そうですね。教えてください」


 質問をしろと言ったのに、お願いをしてきた女に、菫先生から鉄槌が下る。


「じゃあ、教えてあげるから、チューして? ボクに」


 何のための罠で、何重に張られているかもわからない瑞希は、表向きの言葉にしか対応できなかった。


「いやいや、だから答えてないです!」


 そうして、優しいストゥイット大先生から厳しい叱りを受けることとなった。菫は自分の爪を見ながら、小首を傾げる。


「おかしなぁ〜? ボクは最初から教えてるんだけど……」

「教えてる? 何を?」


 瑞希は不思議そうに、菫の凛々しい眉を見下ろした。自分で学ばなければ意味がないが、大先生は何が問題で、同じ罠に何度も引っかかっているのか指摘した。


「さっきのセミナーで、事実を順番に覚える話」


 菫の声色からは春風の柔らかさはなくなり、好青年の雰囲気だけが残った。様子が変わったのを肌で感じた、瑞希は慎重にうなずく。


「あぁ、はい……」


 菫はポケットから扇子を取り出して、バッと開き仰ぎ出した。


「キミは理論ではなく感覚の人。最初に話したけど、セミナーは基礎。だから、現実で物事を覚えるには、もっと応用しないとできない。今こうやって会話をしてきて、それがどれだけ難しいことかがわかったでしょ?」


 例題として出されれば、注意して覚えようとするが、現実にはそんな指示は出てこない。


 しかも、覚える物事は膨大な量で、他のことも同時進行してくる。だからこそ、一度教わったくらいでは、よほど神経を研ぎ澄まさないとできないのだ。


「はい……」


 瑞希は覚えることさえ忘れていて、ノリだけで進んできてしまって、ひどく反省した。菫は指摘する。彼女の記憶力回復の補佐役として。


「ボクについて来ようとした、最初の目的はどうしたの?」

「あぁ、相手から情報を得る方法! 教えてください。約束でしたよね?」


 忘れてしまった人間には、覚えている人の、忘れられてしまった気持ちにはもう気づけない。それが人間関係を壊す原因にも時にはなるのだ。


 それでも感情的にならず、どこまでも冷静に、

 ストゥイット大先生から教育的指導――。


「あれ〜? おかしいなぁ〜? ボクはさっきから教えてたんだけど……」


 菫は最初からお手本を見せていた。基本中の基本。策士の間では決してしない方法。なぜなら、自分の情報も同時に漏洩してしまい、勝利には近づけない可能性が高いからだ。


 セミナー会場で何気なく話した会話。瑞希は大したことがないと思っていたが、菫には重大なことだった。彼はこう言ったのだ――。


「教えてあげるから、ボクと手つないでくれるかなぁ〜?」


 その約束は今も生きていた。瑞希は自分の感覚と菫の理論のずれに驚いて、びっくりした顔をした。


「教えてた……? いつから?」

「どうしたの?」


 瑠璃紺色の瞳はどこまでも清純で誠実だった。


 菫は一度も嘘はついていなかったのだと、適当に話などしていなかったのだと、瑞希は今頃気づいて、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


「すみません。教えてくださってたのに、見逃してました」

「どうして、見逃したの?」


 理論的な理由を探し出して、瑞希はいかに自分がセミナーをただの通過点にしてしまったのか気づいた。


「……決めつけたからです」


 学ぶ機会はたくさんあったのに、自分で見逃したのだ。菫は短く「そう」と、珍しくはっきりと肯定して、


「傘を持っていくいかないの話と一緒」

「はい……」


 もうすでに、自身の命を狙う敵からの攻撃――予報外れの雨に瑞希はずぶ濡れになっていた。


 菫を包んでいた陽だまりみたいな穏やかさも、聡明さも好青年な雰囲気も一瞬にして、ブラウザの画面を切り替えるように、デジタルに切り替わった。


 今はただただ氷河期のように冷たくなり、菫の一面が顔をのぞかせた。


はお前みたいに優しくないよ――」

「え……?」


 雨だから大したことがない――関係ないと思っている瑞希は、驚かなくていいところで、言葉を詰まらせた。


「どうしたの?」

「菫さんの口調が変わって、驚いたんです」

「どうして、驚いたの?」


 理論的な結論にたどり着いて、瑞希は唇を噛みしめ、


「……決めつけたからです」


 同じミスへ結局戻ってきてしまった。モノマネの意味のひとつはこうにも使えたのだ。


 人の真似ができるということは、人格も簡単に変えられる可能性を秘めているということだ。


 扇子からの風は止まって、菫の大きな手のひらでそれはさっと畳まれた。


「キミは今命を狙われてる。そうでしょ?」

「はい……」


 パークの楽しげな音楽は急に遠くに聞こえて、平和な日常に、非日常が混じった。


「だから、一粒だって雨に濡れちゃいけない。感覚だけでは生きていけないほど、切迫した状況の中にキミはいる。だから、理論を覚えるんだよ」


 何がどうなっているのかわからなかったが、今の状況を嘆くような瑞希でもなかった。膝の上にいる男の優しさに触れて、彼女は珍しく微笑む。


「そういう理由で、セミナーを受けさせてくださったんですね」


 この言葉が決めつけであるからこそ、菫は返事は返さず、先へ話を進める。


「守られるだけの存在になりたくないんでしょ? 守ったり守られたりが平等なんだよね? だったら、感覚ではなくて、理論で成功する可能性の高いものを選び取って、勝利を確実なものに近づけないとでしょ?」


 有言実行。それを現実にする。今まで踏みはずし続けていた階段を登る方法を、一生懸命教えてくれる人がここにいて、こうして出会えたことに喜び、瑞希は涙で視界がにじむ。


 そうして、菫の話はこのターンが始まった時へと戻っていった。


「勘は素早い対応には向くけれど、はずれる時がある。それどころか、受け取れない時もある。気づいてた? キミにチラシを渡した男の人も――だったって」


 瑞希は驚いて涙も引っ込んだ。もう殺されていて、ここにいなかったかもしれないと教えられて。


「え……?」


 そうして、また勝手に決めつけていたと、今度はすぐに気づいて、納得の声を上げた。


「……あぁ、そうか。そうですよね」

「誰も、敵が見えない人だけだって言ってなかったよね?」


 昨日の夜に起きた心霊現象みたいなもの。兄貴もランジェも戦ってはいたが、敵の正体を知らない限り、人ではないものだけと言い切れる決め手はどこにもない。


 そう考えると、瑞希が何気なく歩いていた人混みの中に、敵はいたのかもしれない。それでも、無事でいられたのは彼らに守られていたからだ。


「だから、みんなバラバラでいるんですか?」

「それもあるよ」

「も?」

「可能性はひとつじゃない。そうでしょ?」


 夏の日差しが闇を消し去るようにじりじりと照りつける。乾いた風が不意に吹き抜け、ふたりの髪を優しく揺らす。

 

 可能性がひとつだと決めつけたばかりに、さっきから失敗している瑞希は、難しい顔をして考えようとした。


「え〜っと、あと何だろう?」


 元のふんわりした春風が吹く好青年な雰囲気に一気に戻って、菫は「ふふっ」と柔らかく笑い、


「キミは情報が出そろってないのに、考えようとしてる……」


 理論がなっていない女だったが、瑞希は直感で即座に対応した。


「教えてもらえない気がするんです……」


 白い袴のように見えるワイドパンツの長い足は、妖艶に組み替えられた。菫は思う。自分も直感があるから、彼女の感覚はわかると。


「どうして?」

「何となく……?」


 首を傾げる瑞希の仕草を見て、菫のデジタルな脳裏に鮮やかに蘇った。山吹色のボブ髪と黄緑色の瞳を持つ男が、無意識の策略で自身の言動にはてなマークがつく姿を。菫は急に愛おしさを覚え、優しく微笑んだ。


「ふふっ、御銫に似てる」


 そんな彼のもうひとつの思考回路では、彼女が直感した通り、


(そう、ボクは……ううん、誰も教えない。それは、キミが危険にさらされる可能性が高くなるから。だから教えない――)


 知らず知らずのうちに守られている瑞希は、今までの男たちが別の男の名前を出した時と同じように、菫先生にも聞いてしまった。


「あれ? 菫さんと藍琉さん、友達ですか?」

「そうかも〜?」


 漆黒の長い髪は指先でつままれ、つうっと斜めに夏空へ向かって持ち上げられ、さらさらと短いものから落ちた。


「え……? どうして、事実じゃなくて可能性なの?」


 セミナー初心者の瑞希が、大先生から情報を得られるはずもなかった。ない頭を絞ろうとすると、菫の細いブレスレットをした手が、彼女のブラウンの髪へ侵食するように伸びてきた。


「教えてあげるから、パンツ見せて〜?」


 が、瑞希は手の甲でバツ二女の鉄槌を食らわせた――彼の手を元に押し戻した。


「いやいや、見せないです!」


 菫は瑞希の膝の上で、彼女から少しだけ遠ざかり、瑠璃紺色の瞳をスカートの裾へ倒して、視線が目の上下にあるふちを横に行き来する。


「あぁ〜、瑞希ちゃん、黒だぁ〜」


 再び三十路女の鉄槌。凛々しい眉を描く菫の顔を両手で挟んで、反対側――他の客たちが歩いている通路へ向けた。


「違います! 紫です――!」


 こうして、一条家の別荘で、菫が言ったパンツの色事件は発生したのである。


「自分で答えちゃったぁ〜。ボク見てないんだけど……」


 例題二の、椅子に座った。の解説をまったく理解していなかったばかりに、パンツの色を自分から言った。いや教えた。――いや言わされてしまったのである。


「いや〜! やられた〜〜!」


 瑞希は両手で顔を覆った。しかし、菫の長い腕が肘の間に割って入ってきて、お互いの視線から敷居を取り払う。


 瑠璃紺色の聡明な瞳は、どこかずれているクルミ色のそれを、男の色香を漂わせまっすぐ見つめる。


「ボク、頭のいい女性が好きなんだ。だから、瑞希ちゃん、そうなって?」


 しかし、大先生の恋心は蜃気楼のようだった。聖女になりたい瑞希は猛抗議しようとしたが、途中でさえぎられた。


「いやいや、意味がわかりません。私は恋愛しな――」

「恋愛するって可能性はないの〜?」


 大先生の恋心は幻なのに、膝枕をされているから、こんなことを聞いてくるのだと信じきっている瑞希は、真に受けて思いっきり否定した。


「ないです!」


 恋をしていると一度も言っていない、菫が可愛く小首を傾げると、漆黒の髪がさらっとベンチから落ちた。


「そ〜う〜?」

「どうして疑問形なの?」


 彼の口癖のように思いがちな口調も、罠のひとつだと気づきそうだったが、瑞希は違うことを直感してしまった。急に大声を上げて、


「あっ! 菫さんたちって、人じゃないですよね?」

「人だよ。どうしてそう思うの?」


 大先生は今は嘘をついていない。瑞希の脳裏に、あのマゼンダ色の長い髪とヴァイオレットの邪悪な瞳を持つ男が浮かんでいた。


「ランジェさん、自分は死んでるって言ってたからです」


 それは人ではなく、幽霊だと瑞希は思うのだ。策士に策士の話を聞くと、こうなってしまうのだ。菫は可愛く微笑んで、


「彼の言ってる意味なら、ボクも死んでるかも〜?」


 ご臨終な男たち。瑞希はびっくりして、ベンチから飛び上がろうとしたが、菫の頭があって大声を上げただけだった。


「えぇっ!?!? どうして、生きてるのに死んでるんだろう? どんなナゾナゾだ〜〜!」


 この頭の重みはしっかりとあるし、さらさらとした髪の感触も膝にある。矛盾が出ない答えを探そうと、未だ諦めない三十路女を前にして、菫はとても優しい笑みで、甘さダラダラでおねだりする。


「そういう瑞希ちゃん、好きだよ〜。今すぐチューしたいくらいに〜!」


 策を成功させるためならば、嘘も平気でつく大先生なのに、菫が何をしているのか可能性で測れないばかりに、聖女になりたい煩悩だらけの女は興ざめした。


「いやいや、どうしてそこに話が戻るんですか?」


 そうして、再びストゥイット大先生から教育的指導――。


「あれ〜? 事実と可能性の話なんだけどなぁ〜」


 菫の恋心が嘘かもしれないし、嘘ではないかもしれないと知らない瑞希は、恋愛の概念について叫んだ。


「感情――の話じゃないんですか!」

「あれ〜? もう忘れちゃったの〜?」


 言葉がわざと抜かされた質問を聞かせられて瑞希は、当然聞き返し、


「どういうことですか?」


 こうやって、彼女は菫の交換条件の罠に、最初からはまっていたのだ。


「教えてあげるから、ギューってさせて〜?」


 大先生の恋心は感情だけではないかもしれないのに、真に受けてしまっている瑞希はあきれた顔をした。


「またですか……」


 同じ罠が効かなくなったから、即座に言葉を入れ替える。菫は陽だまりみたいに穏やかに「ふふっ」と笑って、今度はすぐに答えを教えた。


「決めつけないだったでしょ?」


 覚えたはずの理論は、感覚というザルから全て抜け落ちてしまっていて――いや言葉をまたわざと抜かされていて、瑞希は相手から情報を得る初歩を学びそうだったが、途中でため息をついた。


「何をどう決めつけて……。はぁ〜、理論を学びます」

「じゃあ、教えたから、ギュ〜ッ!」


 白い薄衣からはみ出た大きな腕は、瑞希の背中に回されて、小さな彼女は大きな男の胸に素早く引き寄せられた。仲のいいカップルがベンチでじゃれあっているようだった。


 ゴーイングマイウェイではなく、理論的に抱きしめられた事件だと瑞希は思う。大いに不服であり、彼女は菫の手をはぎ取りながら、起き上がる。


「あれ? おかしいなぁ〜。どうして菫さんの言う通りになっちゃうんだろう?」


 首を傾げている瑞希の頭の中は、成功への階段が五段あるとしたら、それを下の段からもしくは上から眺めて、一生懸命考えている。


 聡明な瑠璃紺色の瞳を持ち、モノマネをしてくる菫の頭の中は、人生という全ての階段を同時に見て、言動を決めている。


 広い視野とともに膨大な情報量で、次元が違いすぎるのだ、チビっ子が言っていた通り。エキゾチックな香が夏の空気に超ハッピーにはじける。


「ふふっ。それは瑞希ちゃんが感覚で、ボクが理論だからだよ〜。キミはボクにずっと負けてるの〜」


 凡人の域を出られない瑞希が青空をバックにして首を傾げている。彼女の残り香のような香水と、菫の香が仲良く混じり合う。楽しげに笑った、春風みたいな穏やかさの声に乗せられて。


「はぁ〜、菫さんの足元でもいいからいってみたい……」


 どんな世界が、漆黒の髪の中に広がっているのだろうと、瑞希は想像する。


 陽気な音楽にも他の客の話し声にも、夏の開放的な雰囲気に流されることもなく、膝枕をして、恋の話をして、好きだと言って聞かされても、瑞希と菫は恋はしていない。


 ひとまず理論から離れて感覚へと戻ると、瑞希はペットボトルの水を飲んで、夏の日差しに目を細め、さっそく妄想世界へ飛んだ――


    *


 ――菫は瑞希の膝から起き上がって、紅茶の香りと癒しを体の内へ招き入れた。妖艶に足を組み、背もたれに気だるくもたれかかり、陽気に鼻歌を口ずさむ。


「ふふ〜〜ん♪」


 遠くのパレードを瑞希は眺めながら、珍しく嬉しそうに微笑んだ。


「何だか菫さん楽しそうだなぁ〜」


 客の歩いている姿を目で追い、食べ物の匂いをかぎながらも、好みのタイプだが、恋愛対象にはなっていない菫をしばらく放置したのがよくなかった。


 鼻歌が途切れると、子供が何か完成させたみたいな、超ハッピーな声が響き渡った。


「で〜きたっ! 瑞希ちゃん見て〜」

「え……?」


 青空から視線を、隣にずっと座っていた男へ落とすと、ブラウンと漆黒の髪が、三つ編みという線でひとつに絡まりあっていた。瑞希は顔を覆って、大声を上げる。


「いや〜! どうして一緒に髪を編み込んだんですか〜!」


 髪の長い男と一緒にいると、こんなことが起きるのかと、瑞希は可能性をまた見逃してしまったと反省する。


「これで、ボクとキミはずっと一緒だね」


 菫が少しでも体を揺らすと、瑞希の髪が引っ張られ、味わったこともない妙な感覚が頭から全身へゾクゾクと伝わる。


 髪をほどこうと努力を続けているが、どうやっても取れず、瑞希は煩悩という谷底へ真っ逆さまに落ちていった。


「体を重ねるより、ある意味エロティックな髪を編む……つながり過ぎだよ! どこでも――っていうかトイレも一緒に行かないといけない。放尿プレイだ。手錠みたいだ。これでセック◯するの? 手つないでるより、仲よすぎというか。エロすぎ。手は離す時があっても、髪はずっと離れないから――」


 まだまだ瑞希の、髪プレイは続いていきそうだった――


    *


 ――膝の上でごそごそと何かがこすれる感じがした。


「瑞希ちゃん、ボク恥ずかしいんだけど……」

「え……?」


 瑞希の意識が現実に戻ると、膝の上で菫がモジモジしていた。彼女はそんな彼の反応は置き去りにして、青空へ向かってさっと顔を上げた。


 黄色とピンクのメルヘンチック世界で、何度も行こうとしていた妄想世界へ無事に行けた喜びは、彼女にとってひとしおだった


「今度こそは本当に来た!」


 両手を大きく上げて、横へ激し揺らす――お約束のセリフを叫ぶ。


「消し消し! 煩悩とはおさらばだ!」


 何もかもが感覚なのに、まだ修道院へ行って聖女になれる可能性があると信じて、突き進もうとする瑞希。


 そんな彼女の膝の上で、菫は振動を感じながら、空を見上げている。


(瑞希知ってた? ボク青空が好きだって……)


 本当は呼び捨てだが、今はわざとしないのだ。


 ふたりはアトラクションに乗ることもなく、ただただ楽しげな音楽や人の話し声が響き渡る中で、ずっとベンチに座ったままだった。


 瑞希が時々何か聞いては、菫が交換条件で、自分のしたいことを要求するが繰り返されていった。


 そうして、何度目かの、菫が自分の爪を見る癖をしたあと、彼の言葉はずいぶんと間延びして――あくび混じりになった。


「だからこそ……ふわぁ〜! ボクは……キミに好きって……言う――」


 菫の頭が急にさっきよりも重くのしかかった気がした。瑞希は何かあったのかと思って、彼を見下ろすと、


「え……?」


 聡明な瑠璃紺色の瞳はまぶたの裏に完全に隠されていて、少し薄い唇は全く動かなくなっていて、


「…………」

「菫さん?」


 返事を返してくる代わりに、健やかな寝息が聞こえてきた。


「……ZZZ」

「寝てる……。仕事が忙しいのかな?」


 気持ちよさそうに寝ている人を起こすわけにもいかず、白いモード系ファッションが風で揺れるたび、自分の素肌をなでるのを感じながら瑞希は思う。


 恋はしていないけれども、無防備に膝枕で眠ってしまった男のことを。


 ――優しくないとか言ってたけど……。

 本当に優しくない人は、わざわざ言わない。

 冷たそうに見えるけど、菫さんは優しい人。

 春の陽だまりみたいに温かな心を持ってる人。

 この人と同じ理論で物事を考えたら、どんな世界が広がってるんだろう?


 ペットボトルの水を飲み干して、瑞希は清々しい気持ちで、透き通る青空を見上げた。まだ見ぬ世界に想いを馳せながら。


 真っ暗な視界で菫は思う。


 ――本を読んでるじゃなくて、見てるの話。

 ボクは寝てるんじゃなくて、目を閉じてる。

 だから、寝てるふりをしてる……。

 感覚を理論に直すには時間がかかる。

 それまでは、ボクがキミを守るよ。

 一度でも失敗するわけにはいかないんだ。

 そのためなら、ボクは嘘もつくし、性格も仕草も変える。

 瑞希気づいてた?

 ボクが爪を見る仕草は――


 ベンチの上に置いたままの大きな手のひらには、赤い鉄みたいな銅色をした丸いものがずっと握られていた。それはアラビア数字が十二個で円を作るもの。


 ――懐中時計を見て、時間を計ってたって……。

 あと三秒で、ボクの前からキミはいなくなる。

 その前に、キミと神様に懺悔ざんげ

 キミのことをまだ好きになってないボクを……。

 キミで四人目になるかもしれないボクを……。

 二、一……。


 菫のまぶたはほんの少しだけ震えていたが、それはとても小さな感情の揺れで、神しか気づく者はいなかった。


 瑞希はいきなり体の力が抜けて、


(……ん? 急に眠くなって、もしかして、二十四時になっ――)


 正体不明になって、ベンチの背もたれにぐったりと寄りかかった。あたりは金色に包まれて、瑞希の輪郭がみるみる消え去ってゆく。


 膝枕をしてくれていた女は、もう存在していないのと同じで、漆黒の髪はすうっと起き上がった。


 ガラスが割れたみたいに、金の光がはじけ飛ぶと、瑞希はもうどこにおらず、カラのペットボトルがベンチに忘れ形見みたいに置いてあった。


 菫はそれをそっとつかんで、膝の上に乗せる。今度は瑞希を膝枕するみたいに。


 だが、ストゥイット大先生はとても厳しく、出来のよくない生徒の問題点を上げ始めた。


「瑞希ちゃん、ボクのもうひとつの名前、聞くの忘れちゃったかも〜?」


 惨敗記録を更新した。後れ毛をすうっと縦にすいて、


「どうして、ボクの話し方がこうなってるのか気づいてないかも〜?」


 俺でも私でもよかったのに、ボクにしている理由があったのに聞くどころか、罠の通り振り回されて帰っていった瑞希。


 見上げた瑠璃紺色の瞳には、あま色が映し出されて、


「どうして、空が光ってたのか質問するの忘れちゃったかも〜?」


 記憶力崩壊もはなはだしかった。赤く細い縄のような髪飾りが風で揺れて、


「どうして、敵が一度も襲ってこなかったのか気づいてないかも〜?」


 そもそもタイプループの法則を知ろうとしない瑞希のミスであり、命を狙われているという危機感が未だになかった。


 ワイドパンツのポケットから、紫の扇子を取り出して、


「ボクの武器に気づいてないかも〜?」


 バッと勢いよく開いて、パタパタと仰ぐ。


「どうして、ボクが最初みんなの真似したのか気づいてないかも〜?」


 特にモノマネが得意でもなく、冗談を言うわけでもない、菫の本質を知らないまま瑞希はターンを終了してしまった。


「どうして、ボクが先に歩いていったのか本当の理由に気づいてなかったかも〜?」


 何気なく過ぎてしまった名前の件。


「ボクの罠の目的が何だったか気づいてないかも〜?」


 菫はカラのペットボトルを持ち上げて、


「どうして、ボクが水って言ったのか気づいてなかったかも〜?」


 春風いっぱいの穏やかさでふんわりと微笑んでいたが、氷河期のようなクールさだけになり、男の色香がにわかに漂った。


「っていうか、俺の言動が全部罠だったって、気づいてたかな?」


 大先生の言葉は何ひとつ無駄がなかった。扇子でパタパタと扇ぐと、漆黒の髪は揺れて、エキゾチックな香がかき乱される。


「六重に張ってたところもあったんだけど……」


 感覚の瑞希が勝てるはずもなかった。慣れた感じで手のひらで扇子をたたんで、また陽だまりみたいに暖かで好青年な笑みをする。


残念ざ〜んね〜ん! 瑞希はボクのセミナーテストでは零点れーて〜ん! ふふっ」


 夏の日差しが降り注ぐ青空に、紫の閃光が鋭く走ると、次の瞬間には菫の姿はテーマパークのどこにもなかった――――

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聖女になれなくて(ノーレーティング) 明智 颯茄 @rinreiakechi

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