身代わり妻(part5)

 瑞希は照れたように珍しく微笑み、真正面に顔を戻して、船を漕ぐように体を上下に揺らす。


「え〜っと、何頼もうかなぁ〜?」


 酒専門店のバー。ビールと言っても酒は出てこない。具体的にどんなのが飲みたいのかを言わないと、もしくは銘柄などを指定しないと、酒にありつけない。


 しかも、ランジェのプライベートバー。メニュー表などない。瑞希がいつも飲みたがっている、グリーン アラスカとも思ったが、まだまだ続くタイムループを考えると、さすがの彼女も足が鈍った。


 悪戦苦闘に突入しそうだったが、大踊りに面したフルーツパーラーで決心したことを思い出した。


「あぁっ!?!?」


 酒瓶が振動で落ちるのでないかと思うほど大声でいきなり叫んだ女。ランジェは水色のリボンを左右にピンピンと引っ張りながら、落ち着いた様子でニッコリ微笑む。


「君は僕と違って大げさな人ですね〜」

「どうしてかよくわからないんですけど、ランジェさんのそばだと、大騒ぎしても道からはずれない気がするんです」


 瑞希は本能的にわかっていた。透明な檻に入れられていて、マイワールド――妄想街道には勝手に出られないと。


 ヴァイオレットの瞳がまぶたから解放されて、真っ直ぐ見つめ返してきた。


「そちらは告白でしょうか〜?」


 安心感があると言ってしまったのと、同意義になっていた。瑞希はぽかんとした顔をする。


「え……?」


 こ・く・は・く――

 告白――

 こくはく――再度漢字変換。


「ん〜〜〜〜?」


 恋愛をする気のない瑞希は、何とかランジェからのボールを打ち返してやりたかったが、


「すみません。うまく笑いに持っていけなかったので、今の話なかったことにしてください!」


 顔の前で両腕を使って、バッテンを大きく作った。バーテンダーに向き直り、バー好きの女はカクテル名をウッキウキで言う。


「アレキサンダー、お願いします!」


 バーテンダーはニッコリ微笑み、テキパキと仕事を始めた。右隣からランジェの凛とした澄んだ儚げで丸みのある声が、ゆるゆる〜と聞いてきた。


「おや? ビール――ではないんですか〜?」


 神がかりな妙策――。


「今はケーキな気分なんです」


 瑞希は言い間違いはしていないと思う。絶対の自信を持っている彼女の脳裏で、カクテルの材料が浮かんでいた。その中にはしっかり生クリームが入っている。


「そうですか〜。君は予測がつきませんね」

「さっきの人に聞いたんですか?」


 もう直ぐでデザートにもありつける。ランジェとは距離感も縮んで、浮かれ気分の瑞希は罠というピアノ線が張られているとも知らずに、そのまま前へ進んでしまった。


 策という鎖で目の前の女をぐるぐる巻きにして、ランジェは一気に自分の元へ引き寄せた。そうして、これ以上ないくらい怖い笑みで、もう一度聞き返す。


「どなたに――ですか〜?」


 瑞希の笑顔はそこでさっと消え去った。


「あ……あ……? いや〜〜〜〜っ!」


 重要なことに今頃気づいて頭を抱え、カウンターに崩れ落ちるように突っ伏した。


「兄貴! 申し訳ないっす。名前聞くの忘れたっす!」


 大騒ぎしている瑞希を尻目に、ニコニコしているランジェは、悪魔も黙るような含み笑いをもらした。


「うふふふっ。彼が少々怒っていましたよ〜、最後まで名前を聞いていただけなかったと……」


 瑞希は申し訳ないと心の底から思った。不快な想いをさせてしまった、自分の記憶力崩壊――いや笑い好きのお陰で。


「あぁ〜、助けていただいたのに、名前聞くの忘れてしまって……」


 悔やんでも悔やみきれない。唇を噛みしめている瑞希の隣で、ランジェは慣れた感じで注文した。


「僕はいつものを願いします」


 そうしてまだ続いている、神がかりな妙策――。


 瑞希は見事なまでにまた引っかかり、今まで出てきた男たちの記憶をたどる。


(あれ? 他の人たちって、別の人の話知ってたっけ? 海羅さんが『言ってなかったのか』って聞いてたってことは、知らなかったってことだよね? どうして知って――!)


 そこで、あの居酒屋で酔っ払って意識朦朧としている時の、兄貴と野郎どもの話にが出てきたことを、今頃思い出した。瑞希は人差し指を勢いよくランジェに向ける。


「もしかして、兄貴と友達ですか?!」


 月のように美しい横顔が上品に微笑んだ。


「うふふふっ。そういうことにしておきましょうか〜」

「違うってことですね。じゃあ、戦友ですか? さっき戦ってたもんね」

「うふふふっ。そういうことにしておきましょうか〜」


 シャカシャカとシェイカーがリズムよく振られる音がし出し、明かりの下でシルバーの線が描かれた。


「え〜? 他にどんな関係があったかな?」


 そうして、失敗することが大好きなランジェの綺麗な唇が動き、


「僕と彼は、担任教師と保護者の関係です〜」

「はぁ?」


 今までの話の軌跡という線路は全て破壊され、そこを通ってきたトロッコは脱線し、混乱という名の谷底へ向かって無情にも落ちていった。


 担任教師と保護者――


 瑞希は考える。どこから突っ込めばいいのかと。

 ランジェは思う。この女はどう返してくるのかと。


 シャカシャカというカクテルを作る音と、ジャズの音楽だけになった。今日会ったばかりの男と女は見つめ合ったまま、


「…………」

「…………」


 一分ほど経過した。何とか正気を取り戻した瑞希は、とりあえずここに手をつけた。


「ちなみにどっちが担任教師ですか?」

「僕です〜」


 ニコニコの笑みで、何の嘘もついていないみたいにランジェは言ってきて、瑞希は厳しく追及した。


「あれ? は占い師でしたよね?」

「えぇ、そうです〜」


 両方肯定してきた、嘘をついていないみたい――いや本気のランジェ。彼からの千本ノックを全てグローブで取らずに、体に当たってしまったようなダメージを受けて、瑞希は両腕を上げ、大きくバッテンを作った。


「すみません! 会話が崩壊してるんで、強制終了してください!」


 話がひと段落すると同時に、ショートカクテルグラスが淡い琥珀色で満たされ、お待ちかねのケーキな酒――アレキサンダーがやって来た。


 ランジェの前には、ミントの葉がグリーンの花を咲かせるロンググラスのモヒート。


 乾杯でグラスのカツンという音が響くと、ジャズの音だけになった。三角の小さいグラスを少し傾けると、瑞希は感動で目を思わず閉じる。


(あぁ〜、ケーキだ。甘くておいしい! ランジェさんのお陰でこれが飲めるなんて幸せだ〜〜!)


 色々あったが、生きていてよかったと思える瞬間。だが、兄貴の時の失敗がある、酒に関しては。瑞希は自分を戒める。


(でも、アルコール度数はビールより高いから、気をつけないと……。また迷惑かけちゃうからね)


 ラム酒を炭酸で割った、低アルコール度数のモヒート。女性的なマゼンダ色をした髪の前で、ストローが綺麗な唇にくわえられる。


 カラカラと氷の鳴る音が涼しさを演出すると、凛とした澄んだ声がドS発言を放ってきた。


「僕は運びませんよ〜。こちらに放置です〜」

「ですよね〜? ランジェさんが運んだら、ランジェさんらしくないですもんね」


 瑞希はべっとりと塗りつけるように賛同した。しかし、カクテルグラスの足を両手で悪戯っぽくつかみながら、


「でも、私はランジェさんを運びたいです!」


 煩悩が神に許されるのなら、このランジェ姫を瑞希王子はお姫様抱っこしてみたかった。そこには、どんなに素敵な世界が広がって――


「おや〜? 慣れてしまったんでしょうか〜?」


 この浮かれ気味の女とは違って、ランジェはしっかりと地に足がついていた。瑞希は桜色のタキシードを上から下までまじまじと眺める。


「え……? ランジェさんを運ぶことが? いやいや、それじゃ話がおかしいな。ん? 今の言葉は何を指してるんだろう?」

「それでは、僕もやりましょうか〜?」


 カラカラとかき混ぜられるモヒートのミントの葉が回るのが、瑞希のどこかずれているクルミ色の瞳に映っていた。


「何をですか?」


 そうして、彼女にこの言葉が再来する。


「七個です」


 まさかここでまだら模様の声の持ち主がしていた、話が出てくるとは思っていなかった。びっくりして瑞希は高椅子から転げ落ちそうになる。


「えぇっ!? どうして藍琉さんが言ってた突然の数字なの? しかも、数が少ないのは気のせい?」


 かろうじて一枚板のカウンターテーブルにしがみついた瑞希のまわりで、目に見えない金の粉が竜巻のように舞い続ける。


 そうすると、彼女は今何をしていたのか、何を考えていたのか。それどころか、自分がどこにいて、誰だったのかがわからなくなりそうになる。何もかもが惑わされて、相手のペースで踊らされそうにもなる。


 瑞希はもう忘れていた。チビっ子が御銫には無意識の策略の他に何かがあると言っていた時の言葉を。


「似たので、他にもっと強力なやついっけどな――」


 ランジェに会った時、白いチャイナドレスを着て、ピンヒールを履いていた。カラフルな化粧もしていて、指輪もブレスレットもつけていた。背丈は瑞希と数センチしか変わらない、どこからどう見ても女性だった。


 それなのに、そばに寄った時は、白いブラウスと水色の細身のズボン。茶色のロングブーツ。化粧もしていなければ、アクセサリーもしていない。男性のラインを持った百九十四センチの長身の男だった。


 瑞希が気づかないうちに、神がかりな妙策は迫ってきて、彼女を妄想世界へ連れ去った――――


    *


 ――――カクテルは豪華なケーキに取って代わり、バーの照明は立派なシャンデリアの輝きになった。


 宮廷楽団の奏でる優雅なワルツに乗って、瑞希は右に左にステップを踏み続ける。ゆらゆらと揺れる金のオーロラが広がる幻想的な城の大広間。


 最初は一人で踊っていたが、いつの間にかランジェに優しくリードされ、マゼンダ色の長い髪とヴァイオレットの瞳が惹きつけてやまない魅力を振りまく。


 キラキラと輝くシャンデリアの下でターンをするたび、瑞希の白いスカートはふわっと乙女チックに広がる。


 月のように美しい神がかりな顔をうっとり見つめ返して、優美に踊り続ける。マゼンダ色の長い髪が自分の頬に寄り添うように近づいてきてかと思うと、ふとささやかれた――――


    *


「――僕と結婚しませんか?」


 先月離婚したばかり。戸籍的に無理。修道院へ行って聖女になりたい、バツ二女は妄想世界から一気に目が覚めて、あきれた顔をした。


「どうして話が勝手に発展してるんですか?」


 ニコニコ笑顔のランジェは、マジでおかしなことを言う。


「僕は女性とまともに話したことがほとんどないんです〜」


 肌の色艶、話している内容からして、十代ではない。どうからどう見ても、人生経験も普通にあった男である。瑞希は疑いの眼差しを向ける。


「はぁ? ランジェさんいくつですか〜?」

「どちらを聞きたいんですか〜?」


 御銫の再来。ケーキなカクテルにほとんど口をつけないまま、瑞希は戸惑っていたが、言葉の裏を読みきった。


「え? 年齢のどっちってあったっけ? 名前ならわかるんだけど……。あぁ、聞かれたくなかったってことですね?」


 怒りはしなかったが、ランジェの凛とした澄んだ女性的な声が、「えぇ」と短くうなずき、


「答えてもよいほうでしたら、三十六歳です〜」


 二歳上の男。


「え……? 答えてはいけないほうが気になるな? そう言われると……」


 あの自分を脅してきたしたたかさ。凄み。同じ世代の男ができるとは思えない。もっと長く生きているような気がしてならなかった。


 モヒートの甘みとさわやかさが、ランジェの内で香ると、鈴のがシャンと鳴るように、


「六個です」


 瑞希はカウンターに両手をついて、パッと立ち上がった。


「またですか! だから、それは何の数字ですか? あ、ランジェさんも数字でできてるってことですか?」


 問い詰めた。問い詰めてみた。それなのに、マゼンダ色の髪が少し揺れただけのランジェは、ゆるゆる〜と語尾を伸ばしこんなことを言ってきた。


「僕は歴史で――できています〜」


 瑞希はカウンターからさっと離れて、椅子の後ろにある絨毯の上で、ランジェの白い革靴へ向かって土下座した。


「ランジェ様、どうかご無礼をお許しください。話が本当に崩壊してしまったので、元へ戻していただきたくぞんじます〜!」


 知らぬがほとけという言葉があるが、世の中首を突っ込まないほうがいいこともあるのだと、瑞希は改めて思った。


「初対面の女性のほとんどが、僕になぜかプロポーズしてくるんです〜」


 ランジェ王子の逆鱗には触れず、無事に戻された会話を聞きながら、瑞希は椅子に座り直す。


「え……? さっきの人たち、全員知り合いじゃないんですか?」


 マジでおかしな男の日常生活が明らかになる。あのデパートのまわりにとぐろを巻くように長蛇の列ができていた原因が。


「彼女たちにはどちらでも会ったことがないんです〜」

「どうして、そんな現象が起きるんですか?」


 知らない女に列を作られプロポーズを受け続ける男――ランジェからはニコニコの笑みが消え去り、こめかみに人差し指を突き立てて、本当に困った顔をする。


「なぜでしょうね〜? 僕は何もしていないんですよ。彼女たちに特別な感情を抱いているわけでもありません。罠を張っているわけでもありません。ですがなぜか、彼女たちが勝手に結婚を申し込んでくるんです〜」


 嘘をついてるわけでもなく、策でもなく、本気で話しているのを肌で感じ取って、瑞希はカクテルを一口飲み、軽く息を吐いた。


「ランジェさんの人生、マジで個性的ですね……。見たことがない人に話しても信じてもらえないだろうな。でも、さっき本当に起きてたからなぁ〜」


 大変だろうと瑞希は思った。歩いただけで、あんな長蛇の列ができてしまうのだから。しかし、ランジェの話はこれだけでは留まらなかった。


「今の話にはまだ続きがあるんです〜」

「どんなのですか?」


 モヒートが入ったグラスの結露に手を添えたまま、凛とした澄んだ声が耳を疑うような本当の話をしてくる。


「プロポーズしてこなかった女性は、先ほどした職場の話と同じように気絶するんです〜」


 瑞希はまた椅子から転げ落ちそうになった。


「あぁっ! だから、近くを通ってた女の人が倒れてたのか!」


 デパートの脇道でバタバタと倒れる女たち。騒然とする通行人。巻き込まれた彼女たちも大変だが、ランジェも頭が痛い限りだった。そうして、この女を撃破をするような怪奇現象は結びを迎える。


「そちらにもならなかった方は、僕が望んだ通りの品物や金額を渡してくるんです〜」


 デパートのまわりで起きていた事件は、ランジェという男が巻き起こすハーレムという悲劇――いやみつがせ物語だった。瑞希はコースターの縁を爪でなぞる。


「あれはこういうことだったのか。ランジェさんが街角に立つと、女と金と品物が勝手に向こうから集まってくる……」


 ブラックホールと言っても過言ではない。チビっ子が気をつけようと言っていた意味が何となくわかった瑞希だった。


 特に引っかかりやすいのが女というだけで、おそらく男も本来はいるのだ。


「特異体質――というか、たぐいまれな強運の持ち主だ」


 月から来た天使のような美しき男は、幼い頃からこうなのだろう。相手は狂喜乱舞だが、自身は落ち着き払って、その光景を傍観している。


 ランジェの嘘みたいな本当の話は結論へとたどり着いた。


「ですから、僕は女性ときちんと話したことがほとんどないんです。そちらができる方が現れたら、運命の人かもしれないと考えていたんです」

「そうですか……」


 瑞希はグラスから手を離して、慎重にうなずいた。惑わされきった女たちにもならず、ところどころおかしくても、まともに話ができている。


 百九十四センチのランジェ。高い丸椅子に座っても足は有り余るくらい長く、床を軽く蹴り、瑞希へ正面を向けた。


「ですから、僕は君に恋をして、結婚を申し込んでいるんですが……」


 聖女になるのだと決心していた瑞希だったが、ランジェの言葉に一瞬立ち止まった。


 女性的な柔らかな物腰。負けることが好き。自身の生き方をよく知っている慈愛を持つ男。


 そんな彼のヴァイオレットの瞳は邪悪なのに、どこまでも澄み切っていて、真逆の性質でもなく、やはり紙一重という言葉が似合う。


 不思議な魅力で、その奥をのぞき込む瑞希のクルミ色の瞳と、四つのそれは真摯に交わった。


(ランジェさんの話は嘘がない。でも、ランジェさんが言ってる結婚は、私が知ってるのとはまったく違う価値観……そんな気がする)


 三十四年という重みを持った、どこかずれているクルミ色の瞳を、ランジェはまぶたも閉じず見つめる。


(君は勘の鋭い人みたいです。君が今までしてきた結婚とは意味が違います。ですが、君はその価値観を乗り越えられるかもしれない)


 森羅万象も知り得ない事実へ手を伸ばすように、瑞希は思っていることと、口にする言葉をわざとずらした。


「結婚ってそう言うものなんですか?」

(ランジェさんは何を知ってるんですか?)


 凛とした澄んだ女性的な声の持ち主も、言葉の裏を隠した。


「どう言うものが結婚なんですか?」

(君は何を知りたいんですか?)


 問いかけても返事はもらえなかった。いや問題はそこではなく、もうすでに存在していることなのだから、受け入れるしかないのだ。


 女性的な男。丁寧な物腰なのに極悪非道。若いはずなのに、人智を超えた年輪を感じさせる存在。


「…………」

(この人が私を変える……)


 男とか人間とか、そういうことではなく。ひとつの存在という意味で、ランジェは瑞希の内側を、月までできた水色に光る道のように遠く追い続ける。


「…………」

(僕が君を変えるかもしれない)


 一歩踏み出せそうだったが、ヴァイオレットの瞳を映す、瑞希のクルミ色のそれは急に陰った。


「…………」

(この人の価値観にはついていけない気がする……)


 ランジェの脳裏の中で光る道はふと途切れた。


「…………」

(君は価値観の壁を超えられないかもしれない……)


 モヒートの氷がどんどん溶けていっても、ランジェと瑞希は黙ったまま、お互いに視線をはずすこともなく、ふたりきりの時間はどこまでも続いていきそうだった。


 マゼンダ色とブラウンの長い髪が室内のはずなのに、急にさらさらと乾いた埃っぽい風に吹かれた。


「やはり、見つかってしまいましたか〜」


 ランジェはニコニコの笑みに戻り、おどけた感じで凛とした澄んだ声を響かせた。破られた静寂で、瑞希は我に返ってあたりを見渡す。


「え? 景色が急に変わって――」


 都会の海を従えた全面ガラス張りの空間ではなく、バーテンダーもおらず、カウンターと丸椅子だけが、荒野の真ん中でポツリと海に浮かぶ孤島のようだった。


 空はどこまでも青く、小枝が丸く絡まったダンブルウィードが近くの地面を風に乗せられ、コロコロと転がってゆく。


 ふたりは別世界へと飛ばされてしまっていた――


「僕が命をかけて君を守りますよ〜」


 普通に聞かされたら甘い言葉だったが、兄貴の時に意見したフレーズに似ていて、瑞希のぼうっとしていた頭脳に電流が走り、どうして列に並んだのか当初の目的を思い出した。


「あっ! そうだ! 霊感で見て欲しかったんだ! 何が起きて――」


 自身で動かなくてもまわりが勝手に望んだものを手にして近づいてくる強運なランジェ。彼の言動はいつだって落ち着いていて、後手ごてに回りがち。


 それなのに今は先手を打って、瑞希の言葉に被せ気味で、負けるの大好きな策士はさえぎった。


「僕は戦闘系ではないので、一緒に死んでしまうかもしれません〜」


 しようとしていた質問をまた忘れてしまった瑞希は、ランジェは何系だと心の中で叫びつつ、両腕を頭の上で大きく横へ振る。


「いやいや! さっきすでに死んでるって言ってましたよね? また話が崩壊して――」


 全てが混沌カオスと化しており、瑞希の手にはもう追えなくなってしまった。


 荒野が風に吹かれ茶色の砂埃が舞い上がる。その向こうにはどこまでも広がる青空。いつもなら鳥たちが悠々と飛んでいるが、今は何かを警戒しているように、静まり返っていた。


 ランジェマジックの稼働力のひとつは、頭の回転のよさにある。瑞希の反応を待たずして、どんどん先へ進んでゆく。


「先ほどから場所を移動して巻いていたんですが、居場所が知られてしまいましたか〜。前のターンでもループさせられていましたからね」

「さっきのバスルームに行ったのって、敵から守るためだった?」


 セクハラだのエロ妄想だの何だのと色々あったが、この男は常に瑞希を危険にさらさない最善の方法を取っていただけだったのだ。


 ランジェの真の優しさに出会い、ぼうっとしている瑞希の背中に、彼の男性のラインが出ている桜色のタキシードを着た腕が回され、マゼンダ色の髪へと抱き寄せられた。


 女性的な印象なのに、力や骨格は男で、瑞希の小さな体はランジェの腕の中にしっかりと埋もれた。


 広大な乾いた大地に置き去りにされたみたいな、バーカウンターと丸椅子が珍客のようで、そこで寄り添う男と女はひどくエキセントリックだった。


 ヴァイオレットの邪悪な瞳はさっきから瑞希を見ていなかった。


「うふふふっ。おいたをする子は地獄行きです〜」


 いつの間にか手にしていたダガーの鋭い刃が、瑞希の頬ギリギリのラインを狙って、彼女の背後のカウンターを突き刺すように、ビュッと宙を切るように素早く落ちていった。


「グァッ!」


 禍々まがまがしい吐き気がするような濁った悲鳴が背後から耳をつんざくと、左腕と背中半分に冷たいしぶきがバケツをひっくり返したようにかかる。


「え……? どんな敵?」


 ランジェの腕の中で首だけで振り返ると、思っても見ない光景が広がり、びっくりして息を詰まらせた。


「っ!」


 そこにいたのは、人ではなかった。血のようなおどろおどろしい赤い目がふたつ。岩のようなゴツゴツとした肌。頭には雄牛のような角が二本。鋭くみにくい牙の間からダラダラと落ちる粘液。悪魔としか言いようがない生命体がいた。


 カウンターテーブルには鋭い爪をした手の甲が、ダガーの刃で串刺しにされたまま、水もれを起こすパイプみたいに緑色の血を吹き出し、瑞希の服にまで飛び散っていた。


 剣抜弩張けんばつどちょうでにらみ合う。低音と高音を混ぜたような声が、ランジェを問い詰めた。


「貴様、何者だ?」

「ツキノリオン――です〜」


 敵と戦闘中であろうとも、語尾は相変わらず、ゆるゆる〜っと伸びていた。抱き寄せられている瑞希は、敵とは反対側の右人差し指を立てて、魔法でも使うように顔の横に素早く持ってきた。


「月野 リオンさん。名前ゲット!」


 兄貴を逃している以上、彼女は必死だった。悪魔みたいな敵から即行ツッコミ。


「そこの女、間違っている」

「え……?」


 マゼンダ色をした髪の横で、瑞希はバカみたいに口を開けてぽかんとしたが、どこかわざとらしかった。


「前半分は名前ではなく、特殊――」


 出てきた敵も敵で、緊張感ゼロで真面目に説明しようとしていたが、邪悪なヴァイオレットの瞳を持つ男の、おどけた含み笑いで阻止された。


「おや? よそ見をするとは、そんなに僕に殺してほしいんですか〜」


 ダガーの刃元は敵の腕を真っ二つにするように、縦の線を骨までえぐり取るように描いた。


「っ!」

「ウギャァァッッ!!!!」


 一本だった岩みたいな腕は二本に簡単に分かれ、敵がうめき声を上げている隙に、ニコニコの笑みで人を平気で脅し、極悪非道な行いをする男から次の攻撃が容赦なく襲いかかる。


「っ!」


 真っ赤な目は刃先で突き刺され、くり抜くように潰されてゆく。


「ギャアッッ!!」


 悲鳴が上がるたび、瑞希の白いワンピースは緑色に染まり、飽和状態になった布地から血が乾いた大地に落ち、ギザギザの波紋をいくつも染め始めた。


 片手と両目を負傷した敵がひるんでいるうちに、マゼンダ色の長い髪を持ち、ヴァイオレットの邪悪な瞳が印象的な、月のように美しいリオンは最後の仕上げに入る。


 瑞希の左側――カウンターテーブルと反対側にある逆の手に、ダガー持ち替えて、彼女の背後――敵の真正面で上から縦に三回空中を突き刺す仕草をした。


 すると、武器は三つに分身し、横向きに発射されるミサイルが待機するようになった。


「っ!」


 柄の背を上から順番に勢いよく押すように、手を下へ向かって振り落とすと、敵の体深くへ太い杭でも打ち込んだように、破壊的にダガー三本は突き刺さり、


「ゲフッ!!」


 岩のようなゴツゴツとした敵は猛スピードで荒野を土煙を上げ、横滑りして吹き飛ばされてゆく。


 遠くの切り立った丘に、めり込むほどぶつかると、衝撃でガラガラと爆音を立てて崩壊し、地鳴りがしばらくしていたが、それがやむとガレキの山ばかりで、敵は跡形もなく消え失せていた――


 次の瞬間には何事もなかったように、元の平和なバーカウンターへとふたりとも無事に戻ってきていた。


 ジャズの滑らかな音色の下で、瑞希の白いワンピースはさっきのことが嘘だったように純白一色だった。


 いつの間にか降り出していた雨がガラス窓を優しく叩く。


 雫が白いまゆのような線を描く前で、ランジェは抱きしめたままだった瑞希を、体からそっと離して椅子の上にきちんと座らせた。彼はニコニコと微笑み、


「君のお陰で倒しやすかったみたいです」

「どういたしまして、わざとボケました」


 瑞希は得意げに言う。守られるだけの存在になどならないと、そんな信念を貫くため、三十路女の知恵が冴えた瞬間だった。


 モヒートのグラスを桜色をしたタキシードへと引き寄せ、ランジェは一口飲み、珍しく表情を曇らせた。


「しかし、残念でしたね〜」


 一仕事終えた瑞希も、カクテルグラスの小さく繊細な三角形をわしづかみし、淡い琥珀色をがぶっと一気飲みする。


「何がですか?」


 しっとりと降り続く雨の中で、静かな大人の時間という、いい感じだったが、ランジェの綺麗な唇から出てくる言葉は極悪非道だった。


「先ほどの相手は、五十万年ほど地獄から出てこれないかもしれません。ですが、あと百倍ほど罪を重ねさせてから、地獄に突き落としてもよかったかもしれませんね〜」

「いやいや! だから、どっちが悪者だかわからなくなってます!」


 真っ黒に塗りつぶした至福の時。何の矛盾もなく正常にそれが広がっているのが、ランジェの性質であり、世界だ。


「神に誓っても、僕はあくではありませんよ〜」


 指先でグラスの縁をなぞっているランジェの、透き通る月のように綺麗な横顔を、瑞希は聖堂にある天使の絵画でも見るような気持ちで眺めていた。


「知ってます。とても優しい人だって」


 荒野で子供たちと遊んでいる男の姿が、彼女の脳裏に強く焼きついていた。ランジェのグラスをなぞっていた指先はふと止まり、声のトーンが低くなって、


「残念ですね」

「今度は何ですか?」


 まぶたから解放されたヴァイオレットの瞳は女性的ではなく、今はどこまでも男性的だった。


「君に手を伸ばせないことがです」


 夜空に浮かぶ水色に光る道のはるか遠くで、ランジェは振り返り手を差し伸べている。走っていって、その手をつかめば、味わったことのない幸せなアブノーマルな世界が広がっているのだろう。


 しかし、その透明な道は、自分のような不浄な存在に登れるものなのだろうかと、瑞希は躊躇する。


「…………」


 どこかずれているクルミ色の瞳は、カラになってしまったカクテルグラスをぼうっと眺めて、その細い足を瑞希は何度も落ち着きなく触るだけで、決してランジェに向けられることはなかった。


「どのようにしたら、君は僕の手中に落ちる――のでしょうか?」


 瑞希はふと怒りに駆られた。パッと顔を上げ、ランジェのヴァイオレットの瞳をきっとにらみ返した。


「私は物ではないので、手中には落ちません! 心は誰の物にもなりません!」


 ニコニコの笑みに戻って、ランジェの大きな手は、瑞希のブラウンの髪に伸びてきて、まるで子供を褒めるように頭を優しくなでた。


「よくできました。ご褒美です」


 神がかりな妙策の中で、不浄ではないと言われた――いや赦された気がした。


 マゼンダ色の長い髪を縛っている水色のリボンと、ほのかな石鹸の香りが近づいてきて、彼の花びらのように綺麗な唇が、瑞希のおでこにそっと触れた。


「え……?」


 恋愛はせず、修道院へ行って、聖女になるのだ。それなのに、恋愛に進みそうな運命の中で瑞希は思う、人をもう一度愛することが神の御心みこころなのだろうかと。


 この女性的な綺麗な男と――


 一歩踏み出しそうになった時、ランジェのおどけた声が割って入った。


「おや〜? 時間切れです〜」

「時間切れ?」


 瑞希は甘い夢から覚めたように、我に返った。


 妄想癖のある女とは違って、どんなに信じがたい出来事を巻き起こしていたとしても、現実主義のランジェは今自分がどこにいて、まわりで何が発生しているのか常に理解しながら行動していた。


 そんな彼はあきれた顔をする。


「おや〜? 君にも困りましたね〜」


 策士の人差し指はこめかみに突き立てられ、彼は表情を曇らせる。そんな仕草を何度もしていた彼の内手首には――腕時計の数字盤があった。


 つまりは最初から時刻を秒単位で測って、言動を起こしていたのである。


 未だに――いやターンが始まってから全て、神がかりな妙策――聖なる罠が続いているとは知らない瑞希は、ぽかんとした顔をした。


「何の話をしてるんですか?」


 彼女の知らない世界で、金の粉が激しく舞う――。


「先ほどのキスはなかったことにしましょうか〜」


 取り消し。ニコニコの笑みで、凛とした澄んだ丸みがあり儚げな女性的でありながら男の声が、ゆるゆる〜とおどけた感じで響いた。


「話をそらさないで答えてください」


 瑞希は真剣な眼差しをランジェに向けた。ヴィオレットの瞳は姿を現し、負けることが大好きだが、勝つところはきっちり勝つ策士の本性が漂っていた。


「僕の特異体質に惑わされなくなった――みたいです」


 未だに神がかりな妙策の中で、瑞希は透明な檻の中を右に左にウロウロする。


「え……? そんなところあった?」


 ランジェの腕時計は刻々と、秒針が時を刻んでゆく。そうして、さっきまでのシリアスとは違い、やけにふざけた感じで、


「僕の特異体質を説明できる方がこのあと出てきます〜」


 次回以降のターン予告をしているランジェを前にして、瑞希はこれが一番気になった。


「それって、ハルカ――さんですか?」


 彼女のことなら、どんな些細なことでも知りたい。瑞希はワラにもすがるような気持ちだった。


 しかし、どこかボケている感がある秀麗ではないのだから、ランジェがうっかり話をしてくれるはずもなく、不気味な含み笑いがもれて、


「うふふふっ。教えませんよ〜。自身で見つけてくださいね〜」


 瑞希は高椅子の上で、雨がにじむ窓ガラスの向こう側に広がる、都会という海の隅々まで届くような大きな声で叫んだ。


「噂のハルカはどこ〜〜〜〜〜っっ!」


 そんなお笑いを、ランジェが拾うはずもなく、月のような美しい顔の横で、手を上品に振り出す――バイバイする。


「それでは、僕の時間は深夜零時までですから、ボンニュイ〜!」


 結局話は巻かれたまま、別れを勝手に告げられて、瑞希はとうとう壊れ、


「♪君に会いたし〜 麗しのハルカ――」


 と、デタラメな歌を歌いながら、彼女は光る粒子となり、すうっと消えていった――


 ジャズが流れるバーカウンターに、桜色のタキシードだけになると、モヒートの氷がカランと涼しげな音を響かせた。


 ランジェは両肘をテーブルについて頬づえをし、少しだけ微笑む。


「君は可愛い人ですね。君の明日が無事に来ることを、僕は神に心の底から祈っています……」


 夜色を背景にして、銀の線をさらに激しく窓の外で描き始めた、会葬かいそうの雨のように寒々しく。


 ガラスに映るランジェの服と背丈は、点滅するライトのように代わる代わるになる。


 白いチャイナドレスを着た百六十四センチの女性。

 と、

 桜色のタキシードに身を包む百九十四センチの男性。


 ランジェの性質は、女性とか男性とかでもなく、両性具有でもなく、やはり混沌カオスが一番合っているのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る