身代わり妻(part4)

 妄想世界で実現不可能なことを今になっても考えていた瑞希に、凛とした澄んだ丸みがあり儚げな声が、こんな言葉で襲いかかった。


「僕は君に恋をした――みたいなんです〜」


 あのプロポーズの列に並んでいた女たちなら、天にも昇るほど浮かれていただろう。しかし、修道院へ行って聖女になろうとしている瑞希は、ぽかんとした顔をした。


「え……? ぼくがきみにこい?」


 いきなりすぎて、漢字変換が間に合わず、出だしが遅れた。


(ランジェさんが私を好き……?)


 愛の告白――。声色と髪が女性的な美青年。ニコニコと人当たりのいい笑み。月のような妖美ですべすべの肌。プロポーズをするために列を作られる男。


 しかし、恋愛をする気のない瑞希は浮かれるでもなく、湯けむりの向こうにいる綺麗なランジェを凝視して、必死で言葉の裏を探そうとする。


(あれ? おかしいなぁ。そんなラブロマンスはどこにもなかった! 絶対なかった! ということは……あっ、わかった!)


 お笑い好きの彼女の脳裏で、ピカンと電球がついた。


「池の鯉ですか! それしか考えられない!」


 フルスイングで宇宙の果てまで満塁ホームランをお見舞いしてやった。打球は山なりにもならず、ライナーで順調に飛んで行っていたが、ランジェがスマートに瞬間移動の魔法をかけて、ボールはグローブへ無事に収まった。


 それは今度、バッター瑞希の体を狙って、デットボールを放ってくる。


「おや? そう来ましたか。それでは、僕が池に入って溺死できし――です〜」


 チビっ子が太鼓判を押していた通り、ランジェはマジでおかしなやつだった。


 瑞希はびっくりして思わず立ち上がりそうになったが、全裸ご披露になってしまうため、声だけをバスルームに轟かせた。


「えぇっ!? 恋におぼれてではなくてですか?!」

「えぇ」


 湯は温かいのに、ランジェの表情はどこまでも冷ややかだった。ただうなずき返されて、瑞希はたじろぎながら聞き返す。


「……どうして死のうとするんですか?」

「僕は死んでみたいんです〜」


 湯けむりの向こうで、自虐的な響きが重く沈んでいった気がした。瑞希は透明な檻の中でウロウロする。


「はぁ? どうしてですか?」

「どのようなものか体験したいんです〜」


 天国へ召されることをご所望のランジェ。瑞希は微妙な声を上げつつも、何とか前向きにとってみた。


「あぁ〜、率先して死ななくても大丈夫です。人は必ず死にますから、いつかは体験できます」


 とらわれのバツ二姫は、マジでおかしな貴族階級の男に餌を檻の中に右に左にばらまかれてゆく。


「僕は死なないんです〜」


 不老不死――。望んでいたのに、不可能だと言う。月の天使とうたい文句をつけられた、神秘的な占い師を前にして、瑞希は思いっきり聞き返した。


「はぁ?」

「いいえ、僕はすでに死んでいるんです〜」


 瑞希はとうとうランジェにとどめを刺されてしまった。どこからどう見ても、目の前の湯に浸かり、しっかり生きている男。


 しかし、嘘でもなく冗談でもなく、本気で言ってきているのを瑞希は肌で感じた。だが、真逆の話がまかり通る事実がどうにも見当たらない。


 まるでナゾナゾ――。お笑い好きの三十路女も、行くつくところは言葉の喪失だった。


「…………」

「…………」


 しばしの沈黙――。その間動き音がしたものは、彼らの体を隠している乳白色の水面に、天井からぽちゃんと結露の雫が落ちただけだった。


 ランジェにノックアウトされた瑞希は意識がようやく戻ってきて、両手をパッと上げ、何とかこう叫んだ。


「すみません。会話が崩壊してます!」


 しかし、ランジェはさらに上をいっていた。含み笑いのあとに、おどけが声が響き渡る。


「おや? バレてしまいましたか〜。わざと崩壊させたんです〜」

「えぇっっ!?!? わざと? どういうこと?」


 びっくりした瑞希のまわりの湯がバシャバシャと暴れ回った。


 その波紋を肩で受けながら、ランジェは人差し指をこめかみに当てて、困った表情をする。


「先ほど、僕は君を抱きしめたいと思いました。こちらは恋ではないんでしょうか?」


 瑞希が見えない世界で、金の粉が舞う――。


 情報を欲しがっている男が、透明な檻の中の遠くに餌をわざと投げたことに気づかず、瑞希は慌てて走っていって、それをつかみ取った――湯から両手を引き上げ、大きくバッテンを作った。


「恋の話に戻ってしまったので、強制終了してください!」


 大騒ぎしている瑞希とは反対に、ランジェが落ち着いた様子で首をかしげると、マゼンダ色の髪が湯船にさらっと尾を落とした。


「なぜですか〜?」


 瑞希は湯の中で落ち着きなく両手を触りながら、真正面にいる女性に見える男をまっすぐ見つめ返した。


「……恋はもうしないって決めたんです」


 人を平然と脅す男。ランジェにそんな話が通じるはずもなく、わざとらしく眉をひそめ、地をはうような低い声で言う。


「そちらでは僕が少々困るんです〜」

「いやいや、私も困ってます!」


 早く湯船から出ないとのぞせてしまう。それはもれなく全裸を披露することになるわけで。さらには、ランジェに迷惑をかけることになり、運ばれることになるわけで。


 湯けむりの向こうにある、夜色が広がる窓を、ヴァイオレットの瞳でまるで真意を確かめるように眺めた。


「おや〜? 先ほどの僕が導き出した可能性は間違っていたんでしょうか〜?」


 荒野の風に吹かれて、瑞希をバスルームに連れ去る前の出来事。彼女には内緒の心の内で、月のような美しい横顔に問いかけようとしたが、


「何の話で――!」


 いつもと違って、天啓といういかづちが瑞希の全身を貫いた。


(今ピンと来た! みんなとまた別の人がいて、それぞれの思惑が交差してるっっ?!?!)


 敵をあざむくためにはまずは味方から――。衝撃的すぎて、瑞希はバカみたいに口を開けたまま、あちこち落ち着きなく視線を向ける。


(何がどうなってるかはわからないけど、それで合ってる! 誰が誰をどうなって――)


 記憶力が崩壊している三十路女の思考回路をさえぎるように、凛とした澄んだ丸みがあり儚げな声がバスルームにこだました。


「困りましたね〜。今日ぐらいきちんと仕事をしないと、上の方に叱られてしまうんです〜」


 瑞希に見えない世界で、金の粉が舞う――。


 さっきまでのことはすっかり忘れて、彼女は真顔に戻った。


「あれ? 占い師に上司っているんですか?」

「えぇ、いるんです〜。僕はこう見えても中間管理職なんです〜」


 ランジェもなかなか大変なようだった。


「部下もいるってことですよね?」


 しかし、まともな話はここで終わってしまった。


「えぇ、たくさんいるんです〜。指示に従わない時には、最終手段として命を奪ってでも従っていただくんです〜」


 極悪非道だった――。瑞希はまた立ち上がりそうになったが、何とかそれを抑えて、両手を大きく暴れさせた。


「いやいや! パワハラどころの話じゃないです! 倫理に反してます!」


 常識は、マジでおかしなやつの前では通じなかった。


「僕がしても罪に問われないんです〜」

「どんな会社……? というか、どんな企業方針?」


 湯に浸かったままのブラウンの髪はそのままに、瑞希は首を傾げ続けていたが、ランジェのことがわかるはずもなかった。


「先ほどの話の続きで、君に相談があるんです〜」

「答えられることなら乗りますよ」


 我に返ると、ニコニコの笑みをしたランジェが、マゼンダ色の髪を慣れた手つきでかき上げていた。


「僕はいつも負けることをしたいんです〜」


 透明な檻の中のあちこちに、ばらまかれるランジェの価値観という餌。


「はぁ? 勝つことじゃなくて?」

「失敗することをしたいんです〜」


 みんな勝ちたいと思うのに、逆の道を行こうするランジェ。そんな彼だったが、負け知らずというか、敗北という言葉とは無縁のように思えた。瑞希は驚くのも忘れて、ただただ感心する。


「こんな個性的な人はそうそういない。というか、世界に一人しかいない」


 貴重な人との時間。ニコニコのまぶたに隠されたヴァイオレットの瞳は今もお隠れ遊ばせ中だった。


「どのようにすれば実現できるのかを考えていると、ぜひやってくださるという方が必ずいらっしゃるんです〜。ですから、代わりにやっていただくんです」

「結果はどうなるんですか?」


 失敗したい人の計画。実行役は別の人。自分は痛い目を見なくても、結果だけは知ることができる。そういう恵まれた運勢のランジェ。


 身の毛もよだつ、含み笑いが湯けむりの向こうからからみついた。


「うふふふっ。やはり失敗してしまいましたか〜になるんです」


 願い出た人は完全に実験台モルモット――。極悪非道極まりない。


 耳を疑いたくなるような話だったが、勘の鋭い瑞希は本当のことだと信じて疑わなかった。ニコニコしているが、本気で話しているランジェを前にして、


「それは上の人に叱られて当然です。被害に遭われた方、ご愁傷様です」


 彼女は心の底から冥福を祈った。


 そうして、言葉は途切れた。動きたくても動けないバスルーム。気まずくなるはずの沈黙も、不思議と安心感が広がる。


 まるで自分にないもの全てをランジェが持っているみたいで、ふらふらとしてバランスのよくない瑞希の隙間を埋めてゆくようだった。


 天井からぽちゃんと雫が落ちる音が何度か響く。足も伸ばせないほどの狭いアパート暮らしに比べたら、ありがたい時間だった。


 ごうに入ったら郷に従えで、バスタイムを楽しんでいる瑞希は、火照った頬で窓の外に広がるビル群を見下ろす。


 ふわふわとして、グラっとめまいがして、チャプンと乳白色の水面に瑞希は顔を思わずつけた――


    *


 ――息苦しさを覚えて、目を覚ますと、遠くにいたはずのランジェが、キスができそうな位置にいた。


 白い湯の下。彼の膝の上に、瑞希は両足を左右に開いて、いつの間にか乗っていた。お互いの素肌を仕切る服は何もない。女の合わさった花びらは、男の足に口づけをしたままだった。


 ヴァイオレットの瞳は瑞希にそっと近づいて、男の色香が匂う大きな手で、彼女のブラウンの髪をなでると、ふたりきりのバスルームに水の音が妖しく立つ。


「うふふふっ。君に僕のセイ◯を触って欲しいんです〜」


 さっきまで押され気味だった瑞希は、ランジェの手をつかんで、クルミ色の瞳はいつもと違い色っぽく見つめ返した。


「あら? ランジェ、待てなくなっちゃったのかしら?」


 バツ二女の本気バーション――人格が別人になっていた。


 お風呂で。全裸で。膝の上で。男と女で。お互いの瞳の色が混じってしまうほど見つめ合っていたが、瑞希はやがて、


「仕方がないわね」


 お預けを食らわせた男に、女の手が近づいてゆく。乳白色の湯という幕の下で、灼熱を帯びているだろう銃身を探り当てることなど、三十路の女には簡単だった。


 硬いものに触れる――


 ヴァイオレットの瞳に余裕と意味ありげな笑みを送る――はずだった。しかし、瑞希の頭の中はすぐさま、


「????」


 はてなマークに支配され、慌てて手を湯から引き上げた。手のひらを穴が空くほどじっと見つめ、今の感触をよく思い出してみる。


 いつもの落ち着きのない瑞希に戻って、目の前にいる男の膝からさっと降りた。乗っていてはいけない気がして。


「……ランジェさん」

「えぇ」


 ニコニコの笑みに再び戻った男に、湯の下に今もあるだろうランジェ自身について問いかけた。


「ヒダみたいなものがついてたんですが、両性具有ですか――?」


 本当の神秘に出会ってしまった――――


    *


 ――――離れたところから、地獄の地面をえぐり取るような低い声が、呪い殺すようにやって来た。


「僕は男性です〜」


 瑞希がハッとすると、マゼンダ色の長い髪はバスルームに連れてこられた時と同じ距離で、遠くのほうにあった。


 妄想世界から速やかに現実へ戻って来た瑞希は、両手を頭の上で大きく横へ振って、必死で言い訳をする。


「いやいや! 違います! 違いますよ! 女性に見えるくらい綺麗な男の人ってことで、両性具有っていう意味です」

「僕を褒めても何も出ませんよ〜」


 瑞希の指先は湯の中にすぐさま突きつけられ、


「え? 男の人だから?」


 彼女の脳裏で、白いマグマが放出される様がはっきりと再生されていた。煩悩女の額へ向かって、ランジェはダガーを放ったようだった。


「うふふふっ。お仕置きされたいんですか〜?」


 お風呂に浸かりすぎてのぼせそうなのに、瑞希は寒気を覚え、


「い、いいえ!」


 一気に正気に戻った彼女は、白い水面に雫を飛ばしながら、深く反省しようとしたが、


「消し消し! 煩悩とはおさ――!」


 違和感を抱いた。


(あれ? 今おかしかったなぁ〜)


 湯船に背中でもたれかかり、唇に指をつけて考えようとすると、ランジェの声が割って入ったきた。


「職場での相談はもうひとつあるんです〜」

「どんな悩みですか?」

「僕が通ったあとの廊下で、なぜか同僚の女性が次々に気絶するんです」


 穏やかではない話を聞いて、瑞希はまた思わず立ち上がりそうになった。


「えぇっ!?」


 ランジェが人差し指をこめかみに突き立て首をかしげると、マゼンダ色の髪が湯に深く浸かった。


「少々困っているんです〜。足の踏み場がなくなり、他の方が通れなくなり、仕事が中断してしまうんです」

「廊下で人が気絶する……」


 瑞希の脳裏で何かが強く引っかかる。白と青がランジェの髪の色と混じって、淡い紫になった。


「あれ? どこかで同じ場面を見たような気がするなぁ〜。どこで――」


 ガラス張りから遠く向こうで、航空障害等の赤が点滅する。それを眺めていたランジェの耳に――いや体の内側で、ラジオのチューニングが合わない時のザラザラとした砂嵐みたいな音に、輪郭のはっきりした声がすうっと流れてきた。


「――終わった」


 簡潔な言葉。それっきり聞こえることもなかった。ランジェの脳裏に見えないはずの場所が浮かぶ。どこかにある街の細い路地で、人が何人も伸びて倒れている風景が。


 凛とした澄んだ丸みがあり儚げな女性的な声が、バスルームから撤退の命令を下した。


「それでは行きましょうか〜? 倒していただいたので……」

「倒す……?」


 首を傾げた瑞希の心の中でなぜか、黄色とピンクがヴァイオレットと混じり、赤紫になってゆく。


「あれ、この話もどこかで聞いたような気がする……」


 今も見えない世界で、金の粉は舞い続けている――。瑞希の頭は何もかもがごちゃ混ぜになり、とうとう混線しそうになっていた。


 ニコニコの笑顔をしながら、ランジェは強引に話を進める。おどけた感じで。


「うふふふっ。次は座りますから、気をつけてくださいね〜」


 瑞希とランジェの姿はバスルームからすうっと消え去り、乳白色の水面が湯上りのようにゆらゆらと揺れていた――――


    *


 ――――急に乾燥した涼しい空気に変わり、ジャズのメロディーがあたりに漂った。


 さっきまで背もたれのようなバスタブに寄りかかっていた瑞希は、急に後ろに倒れそうになって、パニック寸前に。


「えぇっっっ!?!?!?」


 とにかくワラにもすがる気持ちで、近くにあった大きなものにしがみついた。


「あ、あぁ〜……。椅子ってこんなに高いやつだったんだ」


 瑞希が足元をのぞき込むと、足は床についていなかった。背もたれどころか肘掛もない丸椅子の上に移動してきていた。


 右隣に百九十四センチの長身で余裕で腰掛け、長い足を持て余し気味のランジェからこんな言葉のプレゼントが贈られた。


「落ちてしまっても構いませんが、打ちどころが悪いと死んでしまいます。ですが、そちらの時はそちらの時です〜。君にはいさぎよく死んでいただきましょう――」


 この人は……と思って、瑞希は急にげらげら笑い出した。


「あははははっ……!」


 笑いの衝動で椅子から転げ落ちそうになっている彼女を、ヴァイオレットの瞳がじっと見つめる。


「なぜそんなに笑っているんですか〜?」


 瑞希は前にある台みたいなものに両手でもたれて、水色のリボンがピンと結ばれている横で珍しく微笑んだ。


「言ってることはあってるんです、ランジェさんっていつも。でも、言い回しがおかしくて、それもランジェさんの個性なんだなと思うと、飛び切りの幸せに出会って思わず笑ってしまうんです」


 また笑い出した瑞希の隣で、ヴァイオレットの瞳はまぶたから解放されたが、どこか遠い目をしていた。凛とした澄んだ女性的な声が、ジャズのリズムに淡くにじむ。


「――僕は何人の人を愛するんでしょう……?」


 瑞希に聞こえることはなく、彼女は肩の感触に異変を感じた。視線を落とすと、白いフリルが咲いていた。


「あれ? 服が変わってる……」


 紫のタンクトップとピンクのミニスカートはどこから消え失せ、純白の膝まであるワンピースに代わっていた。


 汚れが目立った白いサンダルは新品みたいに綺麗になっていて、ファッション雑誌から抜け出たみたいな洗練された格好だった。


「そちらは僕からのプレゼントです」


 淡いピンク――桜色のタキシードに身を包み、マゼンダ色の腰までの長い髪を優美な川のように背中に流す男は、ひどく綺麗で紳士的で、この世の者とは思えなかった。


 勝手に着せられた服。セクハラだったが、瑞希の心配事はそこではなく、


「え、でも、自分で払ってな――」


 彼女が見えない世界で、金の粉が舞う――。


「君の服はきちんと折りたたんで、バッグの中に入っています。ですから、安心してください」


 さえぎられた言葉だったが、どこかで似たような内容を聞いたような気がした。


 あんなに再会したかった古着屋で買った服。自分の膝の上に乗っているアウトレットのバッグの中に無事にある。瑞希はホッと胸をなでおろした。


「あぁ、ありがとうございます」

「一杯おごりますよ」


 そこで初めて、瑞希はランジェの両性具有のような魅力から解放された。


「え……?」


 真正面に顔を向けると、様々なラベルが顔を見せる酒瓶がずらっと並んでいた。


 さっき椅子から落ちそうになった時にしがみついたのは、大きな一枚板のカウンターテーブル。その向こうでは、蝶ネクタイに黒のベストと白いシャツの男が一人控えていた。


 瑞希はヤッホーっと叫ぶように口に手を添え、興奮冷めやらぬ様子で、


「ここはっ! バ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!?!?」


 隆武のそばで、昼間から妄想するほど来たかった場所。


 優しい陽光のように降り注ぐ、ジャズの音色に耳を傾け、高い丸椅子の上で瑞希は背後に振り返った。


 都会の海が様々な色を煌めかせた宝石箱のような夜景。ランジェ専用バー。他に客は誰もいない。


 高級ホテルのラウンジも顔負けな豪華さ。あの狭い1K六畳のアパートとは大違い。


 あまりのカルチャーショックに、瑞希はランジェを置き去りにして、だいぶ西へ傾いてしまった銀の月明かりを、いつまでもぼうっと浴びていた。


「先ほど手伝っていただいたお礼です」


 桜色のタキシードを着ているランジェが言った。


 瑞希としては、ただ立っていて見ていて、昔作った歌を歌っただけ。それ以上でもそれ以下でもない。それどころか、別の宝物を手に入れられた貴重な時間だった。


「いえ、それはこっちのセリフです。私のすべきことを新しく見つけられたのは、ランジェさんのお陰です。だから、私がお礼をするほうです」


 マゼンダ色の長い髪を持つ男がニコニコと微笑むと、世界崩壊――いやそれだけでは収まりきらず、悲劇的崩壊カタストロフィーを迎え、夜空に浮かんでいる月さえも墜落しそうだった。


「おや? ダガーでまた怪我をしたいんですか〜?」

「またですか……」


 瑞希はあきれたため息をついて、ランジェの一面を未だに見逃していた。彼は策士で、つまりは頭がよく、同じ過ちは二度と犯さないと。それをしているということは、別の思惑があるのだと。


 神がかりな妙策――。


 こうやって瑞希は、言動をコントロールされてしまう。


「っていうか、どうして武器を持ってるんですか?」


 ズボンの中に鞘はあるはずなのに、抜き身のダガーはマゼンダ色をした髪の横で、人差し指と中指に挟み持ちされ、鋭いシルバー色をいつの間にか放っていた。


「武器の所持が義務づけられているんです〜」


 目の前にいる男は占い師。必要ないはず。ランジェのもうひとつの特殊な策――瑞希に見えない世界で、金の粉が舞う。


 いつもの彼女なら気づくはずの疑問も、不思議とスルーしていってしまう。


「あぁ、そうですか」


 いやブラックホールのような強力な引力のあるものに、思考回路も何もかも吸い込まれているようだった。一番上の段に並んでいる酒瓶を、瑞希は見上げる。


「あれ? 他の人も武器を持ってたかな?」


 彼女が視線をはずしたその隙に、ダガーは太ももに巻きつけてある鞘という住処へすっと戻っていった――姿を消した。


「うふふふっ」


 自分たちの正体というゴールへたどり着けないように、遠くへ餌を投げたランジェは含み笑いをした。瑞希は唇に指を当てて思考のポーズを取る。


「藍琉さんも海羅さんも持ってなかったよね?」


 足掛けの上で、サンダルがパタパタと上下に叩きつけられる。


「戦う時にしか使わないから、あのふたりは見逃したのかも」


 その足がピタリと止まり、手を解いて、おとりという餌の前でぼうっとする。


「あれ? でも、兄貴は戦ってたよね? 素手だったよね? 所持義務はどこへ?」


 記憶力崩壊気味の女が考えても、答えが見つかるはずもなかった。今の自分の言動がランジェにどう映っているのかもわからないほど、瑞希は餌につられていた。


 情報を十分引き出した彼は、おごるという言葉にいつまで経っても返事を返してこない女を、檻の外でピピーっと笛を吹き呼び戻すように、


「これ以上考えられないように、君の脳みそをミンチのように切り刻みましょうか〜?」


 パッと主人の近くまで走り寄ってきた瑞希は、考えていたことも忘れて猛抗議した。


「だから、言うことは聞かないです!」


 不服だと彼女は思った。おごるのは自分のほうだと。しかし、ランジェもランジェでまったく引かない。


「僕が君におごらせていただきます」

「いや、だから――」


 信念を押し通そうと、それでも食い下がろうとしたが、凛として澄んではいるが、丸みも儚さもなく、トーンが少し低くなった男の声が、重厚感がありながら猛吹雪のように冷たく言い切った。


「こちらの話に関しては、僕は今後一切取り合いません」


 空気がガラリと変わった。極悪非道なことを言ってやりもするが、ランジェは今初めて怒っていた。


 ヴァイオレットの瞳はまぶたから解放されていたが、瑞希に向くことはなかった。気まずい沈黙が広がる。


「…………」

「…………」


 どんなに待っても、ランジェの綺麗な唇は動かない。この男を作り出しているものが何なのか、別の角度から垣間見えて、瑞希は桜色のタキシードの前で、ひどく反省した。


(あぁ……。ニコニコしてて優しいけど、ランジェさんは一回言ったら大きな岩みたいにテコでも動かない人なんだ。だからこそ、度胸があって、何かのためなら危険なことでも平気でできるんだ。じゃあ、こうしよう)


 瑞希は軽く息を吐き、丁寧に頭を下げた。


「ありがとうございます。ごちそうさまです」

「どういたしまして」


 無言の時は終わりを告げ、ランジェの怒りはあっという間に消え去った。クルミ色とヴァイオレットの瞳は一直線に交わり、緊張感――距離感が縮まった気がした。

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