身代わり妻(part3)

 敵ではなく、やはり味方だった。この女性的に見え、月のような透き通った妖美な肌を持つ男は。そんな彼の内面も同じように美しく尊かった。


「困ってる子供たちのため……ですか」

「子供たちに渡すために、少々強引な手ですが、金品を譲っていただいています――」


 しれっと言ってきたランジェ。さっきダガーを突きつけられた側として、瑞希は黙っていられなくなった。両腕を頭の上で左右に大きく揺さぶって、決死の反論をする。


「いやいや! 譲ってもらってるじゃないです! 脅してる――です!」


 再び開いたまぶた。ヴァイオレットの瞳は邪悪の色を濃くして、ランジェは物事をこんな解釈をしていた。


「うふふふっ。君も人聞きが悪いですね〜。――刃物を少々突きつけると、みなさんもれずに置いていってくださるんです〜。合理的に短時間で金品を収集する手段です。世の中いい人たちばかりですね〜」


 一般に通用する道徳心は存在していなかった。子供のためならば、手段を選ばない、そういうしたたかな男がランジェだった。


 瑞希は首だけでさっと後ろへ振り返り、頭を抱えて、ささやき声ながら心の限り叫んだ。


「マジでおかしなのだ。誰が悪者だかわからなくなってる〜〜!」


 人よりはるかに長い時を生きているような威圧感。極悪、非道、残虐、残酷、冷酷……どんな邪悪な言葉を総動員しても、言い表せないほどの戦慄で、ランジェの含み笑いが聞こえ、


「うふふふっ……」


 凛とした澄んだ響きはなくなり、地面をえぐるような低さだった。


「何か言いましたか〜?」


 地獄耳――。八つ裂きにされそうな恐怖感が全身を襲い、瑞希は慌ててかぶりをプルプルと振った。


「いっ、いいえ! 何も言ってないです!」


 未だ止まったままの静かな空間に、茶色をしたロングブーツのかかとがカツンと鳴り響いた。


「先ほどの話を聞いて、君が偽善者、綺麗ごとと言うならば、放置するつもりでしたが……」


 みんなの幸せを祈ろうとしている、煩悩だらけだが聖女になりたい女は、何のことやらさっぱりだった。まぶたを激しくパチパチさせて、不思議そうな顔をするばかり。


「どこにそんな話がありましたっけ? 普通のことを普通に話してただけですよね?」


 ふたりの間に突如、水色の光る道ができ上がった。それは斜め上へと伸びていて、空に浮かぶ銀色の月へと向かっていた。


「時間がありません。僕と一緒に来ていただきます」

「どこへ……?」


 瑞希の問いかけに答える代わりに、ランジェの白いブラウスの腕が近づいてきて、軽々とお姫様抱っこをした。彼の腕の中で、彼女はあっけにとられると、


「え……?」


 ふたりはすうっと姿を消して、貴族的で神秘的な男に瑞希は、人には決してできない神隠しのように巧妙な手口で連れ去れてしまった――


 止まっていた時は再び動き出し、騒音も不浄な排気ガスも全て戻り、並んでいた女たちは驚愕に染まった。


「きゃあっ! ランジェさんがいないっ!!」


 部外者扱いをされて、時を止められていたほうとしては驚くばかりで、ハートをゲットしようとしていた男が忽然こつぜんといなくなっていた。


 デパートのまわりは騒然とした空気に包み込まれそうだったが、運がいいとしか思えない会話が、最前列から波が伝わるように、後ろの人へとリレーされてゆく。


「あの噂は本当だった?」


 あっという間に最後尾まで言葉が進むと、並んでいた女たちが申し合わせたように、両手を夢見心地で胸の前で組み、四角く切り取られた夜空に止まっている銀盤を見上げた。


「――月から来た天使だって!」


 占い師の宣伝文句と現実を重ね合わせ、


「きゃあ、ランジェさん、素敵〜!」


 幸せいっぱいの黄色い声が都会の喧騒に溶けていった――――


    *


 ――――瑞希は気がつくと、ガタガタと全身が揺れていた。


「どこ?」


 乾いた風が強く吹き抜けてゆく。空はどこまでも遠く広がり青い。はるかかなたには、魚眼レンズをのぞき込んだような半円を描く地平線。気温は一気に上がり、灼熱の陽光が降り注ぐ。


「難民の列へ行きます――」


 すぐ近くからランジェの声が聞こえてきた。平和ボケしたあの国では無縁の言葉。聞くこともない単語。驚く瑞希は屋根もついていないジープで、荒野を連れていかれる。


「え……?」


 反射的に左を向いたそこには、マゼンダ色の長い髪を激しくなびかせ、茶色のロングブーツの片膝を立てているランジェがシートに座っていた。


 大きな敵――いや宿命と対峙するように、肘を足へもたれかけさせて、ヴァイオレットの瞳はまっすぐ前を向いたまま。


 慈愛の元に猛スピードで、ふたりを乗せたジープは土煙を派手に上げながら駆け抜けてゆく。


「もうそろそろ彼らは国境を渡ります。その前に彼らに金品を渡してしまいたいんです。その向こうは法整備が行き届いていますからね。むやみやたらに入国できません。ですから、急ぐ必要があります」


 自分にプロポーズをしてくるような女に構っている暇はランジェにはないのだ。無慈悲に合理的を最大限にした結果だった。


 デパートのまわりで起きていたことは、おかしなことだらけだったが、隣に座る男の中では全てに意味があったのだと気づき、瑞希は静かに相づちを打った。


「それでだったんですね」


 聖堂に描かれた天井絵の天使よりも聖なる存在に思えた、ランジェは。彼は晴れ渡る大地を、猛スピードで走り続けるジープの上にいるが、天国にいる崇高な現存でもおかしくはなかった。


 出会うはずのない尊い人に出会い、瑞希は感動の涙で視界が歪み、彼女の流した雫が向かい風に吹かれ、こめかみを横にかすめて、誰もいない地面に跡を残しては、灼熱の太陽で焼き消されてゆく。


「生きてゆくにはお金が必要です。止むを得ず、子供たちの心や体が犠牲になることがしばしば起きます。そちらは大人として、何としても止めなければいけません」


 ランジェには一番心の痛むことだった。彼は決して涙を流すことはなくても、怒りで憤りで両手を震わせる。小さな人たちが傷ついている姿を、彼は黙って見ていることはできないのだ。


 大人たちによる理不尽な理由で生まれる、負の連鎖――。

 人身売買、臓器売買、強制労働を何としても、ランジェは消滅させたいのだ。


 瑞希は思う。さっき握ったダガーの刃で切られた痛みの比ではないと。守ってくれるはずの、心が通っているはずの親から子供たちが受ける心と体の苦痛は。


 あの焼けつくような痛みとバックリと裂けた手の感触――!


「あれ?」


 違和感を抱いて、指先で触ってみたが、痛みも傷跡のギザギザもなく。瑞希は不思議に思って、手のひらを顔の前へ持ってきた。


 あんなに深く切った傷だ。すぐに治るはずもない。それなのに、ダガーの一直線が描かれているはずなのに、なめらかな肌色が続き、どこにもなかった。


「手の怪我が治ってる……? さっき刃物で思いっきり切ったよね? 血も出てたよね? どうして治ってるんだろう? 跡も何もない。幻だった?」


 誰かが治癒の魔法でも使ったように、元どおりだった。


「うふふふっ」


 含み笑いが不意に聞こえてきて、どこかずれているクルミ色の瞳から手は消え失せ、マゼンダ色の長い髪を持つ月のような横顔が映った。


(ん? どうしてランジェさんが今微笑むんだろう?)


 全ては彼の緻密な計算――妙策の出来事。だから、ランジェは瑞希が怪我をしても、どうでもよかったのだ。だから、ダガーという武器を使ったのだ。


 真昼の白い月が見下ろす荒野をジープは駆け抜けてゆく。国境を全員が超えてしまう前に、どうか間に合うようにと祈りながら――――


    *


 ――――高いフェンスと有刺鉄線が張りめぐらされた向こうへ、人々の半分が飲み込まれていたところに、ランジェと瑞希は何とかたどり着いた。


 ジープから乾涸ひからびた大地へ降りて、ふたりは人々と同じ目線に立つ。瑞希が知らない言語が飛び交い始める。


 さっき消えたはずの金品は全て、ランジェのそばにいつの間にか置いてあった。彼はプレゼントの中にあったお菓子を、子供たちにニコニコの笑顔で配り出す。


 何度も訪れているのはすぐにわかった。子供たちは彼を見ると、疲れた顔が笑顔にすぐ変わるのだから。


 小さな人たちと何かを話したり、手をつないだり、背中によじ登らせたりと、ランジェはずいぶん忙しくなった。


 子供を見つめる彼の眼差しは、あんな残虐な方法で金品を手に入れたとは思えないほど、穏やかなものだった。


 マゼンダ色の長い髪と水色のリボンが風で揺れる大きな背中を、瑞希は少し離れた場所からぼんやり眺めていた。


(ランジェさんは子供を救うためなら、自分の命もいとわない)


 国を追われた以上、手荷物などほとんどない。服はボロボロで埃だらけ。そんな子供たちがランジェの体に抱きついて、楽しそうにはしゃいでいる。


 瑞希はひび割れた大地にただただ立ち尽くし、荒野の風に吹かれていた。


(そんな優しくて強い人のような感じがする……)


 この月のように綺麗な男は、小さな人たちを守るためならば、泣きもせず怖がりもせず、迷いもせず死んでゆくのだろう。


 人がどう見ているのかではなく、自分がどうしたいのかが大切だ。それが具体的にどんな生き方なのかを、瑞希は今目の前で示された気がした。


(私が見てるだけのことを、ランジェさんは行動に移してる……)


 ジュラルミンケースが、札束が国境の向こうへ大人たちによって運ばれてゆく。


(修道院へ行って祈るだけじゃなくて、何かしたほうがいいのかな?)


 心を鎮めたい。煩悩を捨てたいと願っていたが、瑞希は俗世とのつながりも必要なのではと迷い始めた。


(みんなのために……)


 無邪気な笑顔で、空を見上げながらくるくるとその場で回る子供たち。


(たくさんの人のために……)


 目が回り、荒野の上にどさっと仰向けに倒れても笑っている小さい人たち。


(自分は何ができるんだろう?)


 国境を渡ったとしても、まだまだ苦難の日々は続く。フェンスの向こうへと消えてゆく難民の列を瑞希は見送る。


(命をなくしたとしても、自分にできること……)


 生きていることに左右されない、いつまでも続く輪廻転生という法則の中で、瑞希は人と違った角度で全てを消化してゆく。


(考える機会ができたのは、ランジェさんのお陰だな。もちろん神様もだ。また感謝だ。出会えてよかったなぁ〜)


 誰かの幸せが自分の幸せ。瑞希の中では幸せの連鎖はできている。あとはどう実現するかだ。彼女が仰ぎ見た空には、白い月が優しく微笑んでいるようだった。


 そんな瑞希をそっと見ているヴァイオレットの瞳があった。


(彼女の心はとても優しいみたいです。人は自身の価値観で他人を判断する傾向が非常に強いです。厳しい人は、どのような優しさが込められた出来事や人を前にしても、厳しさを持って受け止めてしまいます。ですが、彼女は僕のような存在でも、優しさを持って捉えるみたいです)


 感動をひとしお味わった瑞希は、今も進み続けている難民たちの、ジャリジャリという足音で現実に引き戻された。


 大人の足でも大変なのに、小さな足で歩いてゆく子供たちを前にして、瑞希は必死に探し出す。


(修道院へ行くまでにできること……?)


 言葉が通じていなかろうと、何かをしなくてはという衝動に駆られて、瑞希の頭の中で電球がピカンとついた気がした。


(……あっ、わかった!)


 あのごちゃごちゃした都会の騒音に囲まれた路地で、ダガーを突きつけられ要求されたもの。


 斜めがけしていたアウトレットのバッグから財布を取り出す。ジーッとチャックを開けて、ランジェの斜め後ろから声をかけた。


「1万ギルです。どうかみんなに渡してください」


 バツ二フリーターだから、これしか出せない。十日分の食費。


 まわりで遊んでいた子供たちが不思議そうな顔を向けている中で、マゼンダ色の長い髪は横へゆっくりと揺れた。


「僕は君からお金をいただくつもりはありません」

「どうしてですか?」


 一円だって必要なはず。


「僕がお金を譲っていただく人は、人間の力だけでお金を稼いだと思い、自身の欲を満たすためだけにそちらを使う人間のみです。そのような人間に、お金など必要ありません。困っている人間に渡してしまったほうが、お金を譲ってくれた人間も含めて、みなさん本当に幸せになります。僕はそちらの橋渡し役なんです」


 ランジェも無差別に狙っているわけではなかった。彼なりのはかりがある。金を渡したい人間も生きていなければ、手は差し伸べられない。


 違和感を覚えて、瑞希は近くの大地に力強く根付いている小さな草を見下ろした。


「橋渡し役……? 人間と何かの間ってこと――」


 男たちの正体に迫れそうだったが、神が手を加えたようにタイミングよく、子供たちの無邪気な声が響いた。


「んん〜っ!」


 ミニスカートを下へ引っ張られて、我に返った。ランジェが運んできたクマのぬいぐるみを抱えた子供が、見上げる丸く大きな瞳が視界に入った。


 瑞希はあの平和ボケした国の常識で物事精一杯図ろうとする。


「え? 何だろう? 言葉が通じないからどうすれば――」

「遊んで欲しいのかもしれませんよ」


 ランジェの凛とした澄んだ丸みがあり儚げな女性的な声が指摘した。通じないのではなく、教育が行き届いていないから、言葉を知らないのだ。


「あぁ、そういうことですか」


 瑞希はウンウンと大きく何度もうなずく。長旅。大人たちも必死。子供は黙々と歩いていることに飽きてしまう。


 無邪気な期待の眼差しをあちこちから浴びる中で、瑞希は応えようと一生懸命考える。物がありふれた国。恵まれた生活だからこその、貧弱な思考回路。


「どうしようかな? 遊び道具が何もな――!」


 それでも、三十四年の紆余曲折うよきょくせつした人生の中に答えはあった。


「そうだ。こうしよう!」


 シンガソングラターを目指していた瑞希だからこそ、昔書いた自分の曲で今に一番最適なものを選び出した。


 遠くの地平線を静かに見つめ、大きく息を吸い吐き切る。そうして、素早く息を吸うと歌い出した。


 力強く高音を攻める歌声が、ひび割れた大地に恵みの雨のように降り注ぐ。


「♪天にのぼる 山にのぼる

 後ろは決して振り返らず


 どしゃ降りでも 見えなくても

 ただ前を信じつづけて♪」


 かなり高めの歌い出しなのに、さらに上へ上へと歌詞の通り登り詰めるようなメロディーが続き、とうとうサビに入った。


「♪のぼり つづけ どこまで行くのか

 答え 探して 登りつづける

 果てしない旅の途中♪」


 言葉など必要ない。それが音楽だ。ただただ隣国へ渡るために進んでいた人々は足をふと止めた。


 平和だからこそ、発展する芸術。人だかりがピンクのミニスカートと紫のタンクトップのまわりにできてゆく。


 それでも、百九十四センチの長身を持つランジェにはよく見えた。瑞希がリズムを取るのに右に左にスタップを踏み、エンターテイナーとして身振り手振りで熱唱する姿が。


 ヴァイオレットの瞳はニコニコのまぶたに隠されたままだったが、彼の脳裏には瑞希の真の姿が映っていた。


(肉体の生死は問わず、魂――心の成長を望む歌みたいです……)


 はっきりとそんなことは書かれていない歌詞。それなのに、ランジェにはわかっていた。さっきまでの笑みは消え去り、彼は非常に険しい表情をする。


(ですが、そちらが叶わない時には、君はどのようにするんでしょう?)


 絶望的な不協和音が響き渡った気がした――。難民にではなく、瑞希だけに。


 伸びきっていた歌声の余韻が荒野の風に連れ去られると、拍手が巻き起こった。瑞希は照れたように何度も頭を小さく下げる。


 再び動き出した列。人々は笑顔で手を振って、国境の向こうへと離れてゆく。瑞希は大きく手を振り続ける。明日を信じて、別の国へ渡ってゆく人々に。


(よかった。みんなが幸せなのが、自分も幸せになるよね。……家族やみんなには嘘をついてるとか言われるけど、私はやっぱり誰かの幸せを祈りながら生きたい……)


 行こうとしている修道院。そこで祈りを捧げるように、空よりも高い場所にいる神を瑞希なりに感じた。


 真昼の月を背にしているランジェも同じ空を見上げたが、彼は別のことを感じ取った。


(おや〜? そちらの可能性が上がったみたいです〜)


 御銫も秀麗も兄貴も、一言も言っていなかった言葉が、マゼンダ色をした長い髪の中にある頭脳にくっきりと浮かび上がった。


(契約……はあちらです〜)


 ヴァイオレットの瞳に映る月は、なぜか水色の光を放っていた。


(どうやら、僕たちは全員罠にはまったみたいです〜。最初からそのようなお考えだったみたいです〜)


 罠の仕掛け合いのような心理が、土埃だらけになってしまった白いブラウスの下にある胸の内で展開されていた。


 邪悪な瞳はまぶたに隠され、ランジェは困った顔をする。難民を見送っている彼のこめかみに、人差し指が突きつけられた。


(そうですね〜? それでは、こうしましょうか〜?)


 神がかりな彼の妙策はここで大きく進路変更をすることになった。


(ひとまず、君の情報を僕に提供していただきましょう)


 フェンスと有刺鉄線の向こうへと消えてゆく人々と握手をして、見送っている百六十センチの小さな女の背中をそっと見つめる。


(すなわち、僕の罠にはまっていただきます〜。うふふふっ)


 まぶたから現れたヴァイオレットの瞳は世界を一瞬にして、地獄絵巻きへと追いやるような邪悪一色になった。


刻彩ときいろ 瑞希さ〜ん! 覚悟してくださいね〜。降参だと言っても君が消滅するまで徹底的にやり続けます〜)


 ダガーで人を脅し金品を巻き上げるような容赦のない男。ランジェの長く伸びた影が、瑞希の背中に蛇のように忍び寄り、ぐるぐる巻きにした上で毒牙で首筋に噛みつくようだった。


 全員が国境を渡り終えるまで数時間かかった。


 しかし、瑞希とランジェは笑顔で見送り続け、とうとう最後の一人が柵を越えて、手を大きく頭の上で揺らしながら物陰に隠れるまで、ふたりは手を振っていた。


 茶色のロングブーツは土煙を上げながらくるっと振り向き、無防備なバツ二女に罠を仕掛け始めた


「それでは行きましょうか――」

「あぁ、はい」


 達成感という爽快さでいっぱいだった瑞希は、ニコニコの笑みの下に隠された男の本性に気づくことなく、素直にうなずいてしまった――――


    *


 ――――瑞希の視界が一瞬ブラックアウトすると、やけに煙った場所にいた。


「あれ? 元の場所に戻るんじゃなかったの?」

「僕は元に戻るとは言っていませんよ〜」


 どうやってもデパートの脇道ではない。街明かりも夜空もなく、騒音もない。風もなければ、やけに明るく静かな場所。


「っていうか、ここって……?」


 瑞希とランジェの声がカラオケでもしているようにあたりに響き渡る。


 白い霧みたいなものがずいぶん出ていて、ランジェのマゼンダ色をした髪の鮮やかさが、数メートル先でかろうじて見て取れた。


 乳白色の何かが体を包み込み、それは程よく温かい。


「お湯の中……?」


 立っているのではなく座っている。瑞希は体に異変を感じて、あちこち触るが、紫のタンクトップもピンクのミニスカートもなく……。


「下着も……着てない……!」


 今やっと答えにたどり着いたが、にわかには信じがたかった。もう一度振り返ってみる。


 お湯の中。全裸。乳白色の水面。白く煙るあたり。自分たちの声が響く場所。


 こうして、瑞希は一番おかしかった事件の真相にたどりつき、真正面でニコニコしている男に向かって大声で叫んだ。


「ランジェさん! すみません!」

「どうかしたんですか〜?」


 しれっと聞き直すランジェは、瑞希とは対照的にどこまでも平常で落ち着き払っていた。


 瑞希はなぜいきなり違う場所にいるかはどうでもよくなってしまった。他に衝撃的な出来事を起こされたせいで。


「どうして服を脱いで、一緒にお風呂に入ってるんですか!」


 さっき会ったばかり。しかし今は入浴中。それなのになぜかエロや下世話にならない、ランジェのバスルーム。かなり大きなバスタブでふたりの足がぶつかることもない。


 乳白色のお湯に隠された体の構造は違うが、長い髪のせいで女同士で仲良く温泉気分みたいなバスタイム。


 月のような美しい顔はニコニコ微笑みながら、


「君の服は脱衣所にきちんと畳んで置いてありますから、安心してくださいね」


 瑞希に見えない世界で、金の粉が舞う――。


 ランジェから視線をはずし、彼女は急にキョロキョロし始めた。


「脱衣所?」


 魔法という名のセクハラから逃れる鍵を見つけた。湯船から二、三メートル離れているガラス張りの扉。その向こうにモラルを守る服たちがいる。


 しかし、そこへ行くには湯船を出て床を歩き、脱衣所のドアを開ける必要がある。


 いくらパンツを見せてもオッケーな瑞希でも、さすがに全裸は見せられない。湯の中で足止めを食らった。


「どうやったら、あそこにたどり着けるんだろう?」


 どこかずれているクルミ色をした瞳の奥にある頭脳に、物理的法則を無視した、アニメみたいなシーンが浮かぶ。


「横飛びをして、素早く扉を開けて、シュタッと体操選手のように脱衣所の床に、美しく着地……?」


 妄想癖のある彼女は再現不可能な動きのほうではなく、別の心配をした。マゼンダ色の長い髪を視界の端に映しながら。


「いや、それじゃ、ランジェさんに見えちゃうから……。魔法使いになって服を瞬間移動?」


 ファンタジー世界で暮らそうとしたが、すぐに壁にぶち当たった。


「いやそれもダメだな。着ようとすると、服がお湯で濡れちゃう。バスタオルを先に持ってきて、体を拭いて……」


 あちこちから壁が近づいてきて、とうとう瑞希は四方を囲まれてしまった。


「あぁ、それもダメだな。湯船からどのみち出ないと、体が拭けない。どうすれば?」


 乳白色の湯に保護された三十路バディー。女性に見える男の前で、瑞希の非現実的な逃走劇は、妄想世界の中でまだまだ続いてゆく。


 ランジェの妖艶な首筋に湯がかき寄せられた。


(君が逃げられないように、バスルームに連れてきましたよ〜。もちろんそちらだけではありませんが……)


 策略という檻は何重にもなっていて、すでに投獄されている瑞希は気づかなかった。なぜなら、その柵はステルス――透明だからだ。


(それでは、君の情報を提供していただきましょうか〜?)

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