パンツの色へダイス

 一条に案内されるまま、瑞希は廊下の角をまた曲がった。銀の月明かりは窓の外にポツリと取り残されていて、ドアが立ち並ぶ長い通路へやって来た。


 男物の香水が鼻をくすぐり、瑞希は夢見がちに目を閉じ、妄想世界で再び王子とダンスを楽しもうとした時、


瑞希み〜ずきちゃん?」


 背後から男に声をかけられたが、子供が一緒に遊ぼうと誘いにきたみたいだった。一条と同じタイミングで振り返ると、ドアも何もない廊下に突然現れたように、男がひとり立っていた。


 口調は柔らかいが、瑞希は警戒心を強く持った。


「今度はどんな罠ですか?」


 男は気にした様子もなく、一条をちらっと見て、瑞希のほうへかがみ込んだ。


「彼に何か言われちゃったの〜?」


 彼女は唇を噛みしめて、御曹司を視界に映していたが、できるだけ簡潔に質問に答えた。


「モノマネの話です」

「他には〜?」

「名前の話です」

「あとは〜?」

「何も言われてないです」


 男から瑞希への、質疑応答は長い廊下に響き渡っていたが、終わりを迎えた。しかし、彼は間延びした言い方で、こんな単語を口にする。


「あれあれ〜? パンツの話は出てこなかったの〜?」

「…………」


 瑞希はピンクのミニスカートを落ち着きなさげに、両手で触った。一条は慌てるでもなく、怒るでもなく、優雅だが冷ややかな声で問いかけた。


「なぜ、下着の話になるのですか?」


 男と一条の視線はまっすぐに絡まり合うが、男はふんわり微笑みながら、問題発言を放った。


「彼女、僕にパンツの色教えてくれたんだよね」


 男ふたりの間で、瑞希は頭の上で両手を大きく横へ振った。


「いやいや! 一条さん、違います!」


 御曹司は心の中で密かに思う。この男は確かに嘘をつくが、人を困らせるような嘘はつかないと。つまりは、男と女の間でまた意見の食い違いが起こっていると。


「どのように違うのですか?」


 瑞希は思う。御曹司がどんな人物か多少は知っている。だからこそ、


「一条さんにならわかっていただけると思います。教えたのではなく、言ったんです! いや言わされたんです!」


 冷静な水色の瞳には温かみはどこにもなく、唯一の女に同情するわけでもなく、手を差し伸べるわけでもなく、絶対零度を通り越してまで冷たかった。


 タイムループのうち一回は、一条のターンだったのはもちろんで、彼女の言葉を勝手な解釈をせず、そのまま受け取り、男に中性的な顔を向けた。


「学んだみたいですが、あなたはどのように思いますか?」


 決して一条は瑞希の味方ではない。ふたりの男の間で彼女は品定めされる。男は首をかしげて、ずいぶん間延びした声で明るく言う。


「ん〜? 十 て〜ん!」

「それって、十点満点中ですか?」


 今まで出て来た男よりも、一番背の高い彼を、瑞希は期待をして見上げたが、彼は冷酷にも首を横に振って、


「ううん。百点満 て〜ん!」


 瑞希は打ちしがれて、大理石の廊下の上に座り込んだ。この男が他の誰よりも一番厳しく、容赦ない指摘をしてきて、こってり叱られ、それでもない頭を使って、瑞希なりに頑張ってみた結果が今だった。


「うぐぐぐ……。やっぱり厳しかった。赤点だ」


 それでも、一条も男も瑞希には同情はしない。今の状況を考えれば、男ふたりにはする必要がないのだ。いやこれが彼らの彼女への優しさなのだ。


 一条のブーツが大理石の上で少しだけ動くと、氷の刃のような冷たい声が降り注いた。


「それではあなたに再試験です」

「はい」


 瑞希もへこんでいる暇はない。すくっと立ち上がって、しっかりとうなずいた。彼女には聞き慣れない言い回しだったが、男の考え方からすれば、この言い方が正しかった。一条の優雅な声で、


「他にはどのような罠を、彼に仕掛けられたのかを、きちんと順番通りに事実だけで答えてください」


 スラスラと言われた問題。今までの瑞希なら聞き逃していたところだが、この男たちふたりに彼女はすでに調教――育てられていたが、


「はい。誠に僭越ながら、回答差し上げます!」


 勢いよく右手を斜め上に向かって持ち上げ、妄想世界で、一条王子に瑞希姫は想いを馳せた。いや煩悩だらけの女は笑いを取りにいった――――


    *


 ――――大きな駅の西口。ロータリー前の喧騒の中に、瑞希のデタラメな歌が不意に混じった。


「♪君に会いたし〜 麗しのハルカ――」


 エアコンの冷たく乾いた風は急になくなり、マゼンダ色の長い髪とニコニコの笑みはどこにもなく、瑞希は歌うのをやめて少しだけがっかりした。


「あ……ランジェさん消えちゃった。っていうか、ランジェさんのターン終わっちゃった」


 ついさっきまで目の前で、どこかの貴族みたいに上品に手を振っていた男との時間は、世界でただひとつの宝物のようにとても楽しかった。


 しかも、瑞希がずっと行きたがっていたバー。笑いは取ってくれなくても、唯一の観客だった。


 ハルカコンサートはとりあえず終演を迎えて、瑞希は忘れないうちにと思い、今のターンでの成果を何度も口にした。


「名前、名前!」


 バラバラにゲットした名前たち。瑞希は歩道の柵に腰をかけて、ピンクのミニスカートからはみ出した短い足を組んだ。


「ランジェ リオン? それとも、リオン ランジェ?」


 しっくりくる豪華な響きを前にして、瑞希のテンションは一気に上がった。人混みであることも忘れて、大声で叫ぶ。


「リオン ランジェ! どこかの国のお姫様みたいだ! ランジェさんにぴったり――」


 しかし、すぐに興奮は冷めて、瑞希の声は靴音に紛れた。


「っていうか、ニュアンス的に別々な気がする……。どれが名前でどれが苗字?」


 ランジェもリオンも、どっちでも違っていない気がするのだ。組み合わせるにしても、もうひとつ名前がないと、どうにも答えが出ず、瑞希はがっくりと肩を落とした。


「これはゲットできなかったのと一緒だ……。はぁ〜」


 また失敗。ため息が降り積もる、すぐ近くに置いてある、ひとつ増えてしまった荷物――紙袋の上に。中に入っている白いワンピースを、瑞希はしばらく眺めていたが、


「あっ、そうだ! もう一回デパートに行けば、ランジェさんに聞ける――」

「人生、時には諦めることも肝心だぞ」


 瑞希が走り出そうとすると、少しかすれ気味のチビっ子ボイスが説教してきた。もうすでに黄色とピンクのメルヘンチック世界に連れてこられていて、瑞希はシャボン玉クッションに座り直して空を見上げる。


「どうして、子供なのに人生語れるんだろう? これもマジでおかしなことだ」

「だから諦めが肝心だって。あとつかえてっかんな」


 再び、チビっ子から説教という雷が落ちて、強引にダイスタイムへと入り込んだ。


「よし、行くぞ!」

「はい……」


 瑞希がしおらしくうなずくと、地味にコロコロとサイコロが転がる音が、切り取られた世界に響いた。


「…………」

「…………」


 カップラーメンも食べ終わったらしく、最短距離で物事は進んでゆく。サイコロを取り上げるさっという小さな響きがしただけで、


「六番な」


 これで五ターン目。チビっ子も瑞希も慣れてきて、テンションがそこまで上がらなくなっていた。しかし、天から、当たりみたいなことを言われる。


「おう? 瑞希、好みのタイプ一人目きたぞ」


 恋愛するつもりもなく、聖女になりたい煩悩女は、不思議そうに顔を前に突き出した。


「好みのタイプ? 一人目? っていうか、どんな好みのタイプ?」


 性別が違えば、好みも違うわけで、しかも他にもいる感が思いっきり漂っていた。会ったこともないはずの、チビっ子が訝しげな声を上げて、


「あぁ? 瑞希こういうタイプに昔っから弱かっただろ? 頭よくて、こう感情――!」


 煩悩女の性癖がモロバレになりそうだったが、


「っつうか、瑞希あんまし時間かけっと悪戯されんぞ」


 チビッ子の忠告はやけに意味深で、瑞希は思わず動かしたサンダルで、ランジェからのプレゼントの紙袋を少しだけ蹴った。


「悪戯? いや、悪戯されたい趣味はないんですけど……」


 そんなM体質ではないと、瑞希は思っていたが、悪戯の本当の意味がわかって、


「っていうか、罠を仕掛けられるってこと? またっ!」


 絶叫する声が珍しく響き渡った。策士は何人出てくるんだと、瑞希は思うのだ。


 二ターン連続だ。御銫みせねとランジェに散々引っ張り回された彼女に、厳しい現実が突きつけられる。


「他のやつの比じゃねぇぞ。気をつけねぇと、最初っから――!」


 ニヤニヤしているみたいな声が聞こえていたが、途中で途切れて、素っ頓狂なお子様ボイスが轟いた。


「あぁっ!? 書類なくなってんぞ!」


 ガタガタ。ゴトゴト。ガサガサ……。とにかく音というものの全てが、忙しなく聞こえてきた。


「俺が悪戯されてんだろ! 俺にまで罠仕掛けやが――」


 ブツッと電源が切れたような音が響き、それっきりチビっ子の声も物音も聞こえなくなった。


「もしも〜し!」


 瑞希は慌ててシャボン玉クッションから立ち上がって、空に呼びかけたが、


「…………」


 いくら待っても、静寂が広がるだけで、黄色とピンクのメルヘンチック世界から解放されることもなかった。


「あれ……。返事が返ってこなくなった」


 内手首につけた香水を嗅いでみる。二重がけしているペンダントヘッドをいじってみる。紙袋の中の白いワンピースをのぞいてみる。


 瑞希なりに時間を潰してみたが、未だに別世界から、駅前の雑踏に戻ることはなく、彼女は遊ぶことにした。


「っていうか、ならされたいかも!」


 思いっきり自身に嘘をついて、ぎこちなく微笑み、


「妄想世界へ! 妄想世界へ!」


 しかし、やはり己に嘘をつくということに、神の赦しは得られず、いつまでもシャボン玉が目の前をふわふわと飛んでいた。


「あれ? 切り替わらない。オカズにできる人がいない」


 恋愛はしないけれども、聖女になるために修道院には行きたいけれども、煩悩女は男たちとの出会いを、それなりに楽しんでいた。


「そういえば、海羅さんと兄貴のセイ◯は想像しなかったなぁ〜」


 遠慮も恥じらいもなしに、瑞希は脳裏に鮮やかに蘇らせようとする。


 秀麗のゴスパンクの黒いズボン。

 と、

 兄貴のヴィンテージジーパン。


 のチャックの奥を。目を閉じたまま、苦悩で何度もうなっていたが、


「ん〜〜? ん〜〜? ダメだ。今は浮かばない」


 御銫とランジェも個性的だったから、あのふたりもさぞかしと期待を大きく膨らませていたが、瑞希は失敗に終わった。


「じゃあ、次の人のを……?」


 まだ会ったこともない人物を妄想する。しかし今度はなぜか、神から赦しが下りた。


「よし、ピンとひらめいた!」


 瑞希の中で電球がピカンとつき、プチ妄想世界で彼女の手が白いズボンへ向かってウッキウキで伸びてゆく。慣れた手つきでボタンとチャックをはずし、男自身がご開帳――


「…………」


 彼女のどこかずれているクルミ色の瞳に肌色が映っていたが、チャックとボタンを何も言わずにきちんと元へ戻し、手を口の横に添えて思いっきり叫んだ。


「――何本あるんですか〜〜〜!」


 さらなる神秘に出会ってしまった。瑞希は現実へと戻ってきて、両手を頭の上で大きく横へ揺らす。


「消し消し! 煩悩とはおさらばだ!」


 静寂はまだまだ広がり続けていて、黄色とピンクのメルヘンチック世界で、瑞希は両膝に腕を下ろして、大きくため息をついた。


「……むなしいな。一人でエロボケするの」


 白いサンダルで地面を叩いてみる。バッグのチャックを開け閉めしてみる。スカートの裾を引っ張ってみる。


 瑞希なりにまた時間を潰してみたが、落ち着きのない彼女は待ち切れなくなって、天へ向かって呼びかけた。


「すみませ〜ん! 外に出られませ〜ん! っていうか、行き先聞いてませ〜ん!」


 何もかもが中途半端のままだが、まだまだ放置は続く。瑞希はバッグの外ポケットから携帯電話を取り出した。少しだけ傾け、


「今何時? ……十八時すぎだ。やっぱり、十八時から零時までなんだ、一人の持ち時間は……?」


 計算する前に、あたりは一瞬にして夜になり、湿った夏の空気が広がった。瑞希はホッとして、


「あ、元に戻った」


 動くにも動けないと思った矢先、チビっ子の声が瑞希にだけ呼びかけた。また棒読みがやって来る。


「高層ビル群に行こう――だ!」

「よし、行くぞ!」


 瑞希は気合を入れて、歩道の柵からパッと立ち上がった。くるっと振り返って、交差点からのぞく摩天楼の群れを挑むように見上げる。


 チビっ子の鼓舞にも似た忠告が、瑞希の心に響き渡った。


「よく話聞いとかねぇと、やれっちまうかんな!」

「よく話を聞く! オッケーオッケー!」


 肝に命じたが、瑞希は相手の手強さを知らず、のんきに人混みを歩き出す。


「よし! 行ってこい!」


 チビっ子がまるで手を大きく振って見送ってくれているようだった。捕まった赤信号で、瑞希はボソッと文句を言う。


「っていうか出ずっぱりだよね? 私の睡眠はどうなってるんだろう?」


 四×六=二十四。もう一日は過ぎたと思ったが、信号が青になり、瑞希の綺麗になった白いサンダルは紙袋とともにさっそうと歩き出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る