恋心と青空と大先生と(part1)
高層ビル群の屋上。ヘリポートのオレンジ色の線は、夜空に浮かぶ銀盤をいつも独り占め。街明かりと都会の喧騒をはるか下に従えて。
だが今は違う。水辺に浮かぶ
仰向けで寝転がる人は、服からはみ出した両腕を頭の下で枕がわり。瑠璃紺色の瞳に夜色が混じって
「星が見えないなぁ〜。ボク、星が見たかったんだけどなぁ〜」
穏やかな陽だまりみたいに優しく、清潔感があり好青年な声色。それなのに、ずいぶん間延びしていて、砂糖菓子みたいに甘い口調だった。
都会の明かりに押され気味だった、星々のか弱い輝き。それらが一斉に灼熱の陽光にでもなったように、あたりを紫色の光で染めた。その人も高層ビル群も人混みも何もかも。
さっきまで何も持っていなかった大きな手の中には、四枚の紙がどこかから勝手に拝借してきたみたいに、いきなり現れた。
顔の前に持ってきて、カサカサと紙がすれる音をさせながら、瑠璃紺色の瞳で書かれた文章を読んでゆく。
「ん〜? これが
読み直すこともなく、一枚を取り上げ、最後に回す。
「ん〜? これが秀麗。そう……」
三枚目を読んでいる途中で、春風みたいな柔らかな笑い声がもれた。最後まで名前をスルーさせるという笑いを取った男の資料を前にして。
「ん〜? これが……ふふっ。兄貴。そう……」
そうして、最後の用紙へたどり着き、瑠璃紺色の瞳は十分な明かりがなくても何の損傷もなく文字を追う。
「ん〜? これがランジェ。そう……」
適当にさらっと軽く読んだ、用済みになった紙四枚は空へ向かって投げられた。ひらひらと落ちてくるかと思いきや、紫の光がまたあたり一帯に走って、それが消え去ると、紙もどこかへ行ってしまっていた。
それはほんの一瞬の出来事で、瞬きするくらいの間で、街の時間は平和に過ぎてゆく。
屋上のコンクリートに広がる淡い熱は、夏の
銀の細いブレスレットをした男の手が、慣れた感じで服のポケットに入り、自分を呼んでいるものを招き出す。
携帯電話の着信ライトが湿った風に紛れ込む。通話にして耳に当てると、さっきまでとは違う言語が、一人きりの屋上で甘く響き渡った。
「Hello〜? /もしもし〜?」
向こうから何の戸惑いもなしに、流暢な言葉がかすかに聞こえてきて、男は春風みたいにふんわり微笑み、何かの続きを話し出した。
「Haha. Because this morning I suddenly came up with it/ふふっ。朝急に思いついたからなんだけど」
ずいぶんと気さくで親しげな雰囲気。男が首を横に振ると、髪がサラサラと揺れる音が反対の耳をくすぐった。
「No. Reservation time is good at 15 o'clock〜/ううん。十五時からでいいんだけどなぁ〜」
コンクリートの上に淫らになだれ込む髪を指先でつまみ、夜空へ向かってすうっと伸ばし弄ぶ。バラバラと長さが足らない毛から、ビルの屋上に戻り落ちてゆく。
「That's a secret〜! Haha/
子供が楽しくて仕方がないというような、笑い声をもらし、
「Thank you. Bey/よろしくね。じゃあ」
通話終了にすると同時に、薄氷が張ったように一瞬、あたりが真昼のように明るくなった。
だがそれは、ごくごく短い時間で、大都会の海にいる何万人の人々は誰一人として気づかなかった。
男はコンクリートから起き上がる。それは、かかとを軸にして、白い服が真っ直ぐのまま九十度立ち上がる動き。人が後ろへ倒れた映像を逆再生したみたいだった。
生地が多めに取られた服を、旗を
「ふふっ。みんなはそうしたんだぁ。ボクはどうしようかなぁ?」
転落防止用の柵がない、フラットに近い屋上。彼は臆することもなく、数十センチだけ高くなっている屋上の枠へと乗った。
「そうだなぁ〜?」
眼下に広がる人混みも車も何もかもがミニチュアのよう。綱渡りをするように、両手を水平に伸ばして、右へ左へヨロヨロとバランスを取りながら、向こうの角を目指して歩いてゆく。
「あれがこうで〜、それがああだから〜? あっちがこっち……?」
進んでいた足は危なっかしげに立ち止まりそうになった。それだけだったらよかったのだが、バランスを失った白い布地は、一度人混みの上――地面に転落してゆく運命を踏みそうになった。
「っ……」
驚き声は上げないが、何とか踏ん張って、屋上のコンクリートの上へもつれ気味にどさっと両足は飛び降りた。
「あれあれあれ〜?」
何とか命拾いした割には緊張感がやけになく、可愛く小首を傾げて、軽く握った手の爪を見つめる。
「頭の中がこんがらがっちゃったかも〜?」
迷走してしまった話のようだったが、
「なーんちゃって!」
悪戯が成功した時の子供みたいに、両手を腰の後ろで組んで、頭を少し横へ傾け、全身でゆるいCの字を作った。
胸に落ちてしまった髪を慣れた感じで背中へ落とすと、銀のブレスレットが手首でサラサラと揺れる。
聡明な瑠璃紺色をした瞳の奥にある脳裏に、マゼンダ色の長い髪を持つ男が鮮やかに浮かび上がった。
「ランジェはボクと同じ目的だったのかなぁ〜? そうなると……その勝利に一番早く近づく方法……?」
いつの間にか手に持っていた、細長い棒のようなものを唇に当てる。そうして、さっきと同じことをするが、
「あれがこうで、それがああだから〜?」
今度は結果が違っていた――
「答え出たかも〜?」
棒状のものを持つ手を勢いよく下へ振り落とすような仕草をすると、バッと強く帆を張るような音がした。
何かで
「ふふっ。時間は有効的に使う。だから、開始時刻変えちゃったかも〜?」
まわりのビルの影になり、いやはるか下の歩道での出来事で、男には絶対に見えないはずなのに、ブラウンの長い髪とどこかずれているクルミ色の瞳を持つ女が、西口のロータリーから今まさに横断歩道を渡ろうとする姿が見えていた。
屋上の枠の上へもう一度乗り、白い服と長い髪が夏の湿った風に吹かれていたが、
「それじゃあ、ボクの
足を強く蹴り上げると、男はふわっと空中へ躍り出た。斜めに回転するコマのように、服と髪が遠心力の縁を描きながら体の上下がひっくり返った。
そうして、真っ逆さまに落ち出す、頭から地面へ向かって。
ビューっと頬を切る空気の咆哮が、耳に迫ってきては離れてゆく。高すぎて色形が霞んでいた人々の頭も行き交う車も、見る見るうちに迫ってきて……。
あと数メートルでぶつかるというところで、地面と聡明な瑠璃紺色の瞳の間で、ブリリアンカットされた宝石が放つ光のように、紫の細い放射線が
光をともなった不思議な現象が頭上で起こったのに、誰も驚くものはおらず、いや気づくものはおらず、紫の光が完全に消え去ると、男の白い服と漆黒の髪はどこにもなかった――――
*
――――クールな瑠璃紺色の瞳は歩道の端へ寄って、自分の前を右へ左へと通り過ぎてゆく人々を眺めている。
異様に高い背は二百十センチ。人の様子をうかがうには好都合。そんな男は少し違った見方をしていた。高層ビル群から交差点を渡ってきた女を見つけて、
(右肩が下がってる。あの人は右利きかも?)
その女とすれ違った、繁華街の細道からくる男女を視界に映す。
(カップル……他の異性を見てる。うまくいってないのかも?)
次に見るチャンネルを変える。この惑星ではなく、もっと遠くの宇宙へ。いや宇宙の果てへと意識を伸ばしてゆく。横に平行ではなく、チューリップの花底のような曲線を縦に。
すると、人々の姿形がトレースシートを重ねたように、二重に見え始めた。下になっている表情は、的確なカテゴリーに分類すると二種類になる。
他の人ならば見ても違いはわからない。その人と話をしたとしても、気づかないほど巧妙に隠された分類分け。そんな繊細かつ重要な線引き。
はす向かいの角で、若い男がどさくさ紛れでゴミをポイ捨て。
(あの人はこっちの人間。段数は、四百七十三)
御銫がサラリーマンに説教したあとで、口にしていたものと数字は違うが同じものが脳裏に浮かんだ。
ふと振り返ると、斜め前からやってくる女は見た目は平凡で、人当たりはとてもよさそうだった。しかし、瑠璃紺色の瞳にはこう映っていた。
(あの人は向こうの人間。段数は、百七十六。だけど、少し高すぎる……)
そうこうしているうちに、少し離れたパチンコ店から、二十代前半の若い男が出てきた。
(彼は向こうの人間。段数は、四百七十三)
開けたままの財布を手にして、その中身を見て、店の奥を眺めるを何度か繰り返していた。
(ん〜? 負けた可能性が高い)
しかしやがて、投げやりな感じで財布をポケットにしまい、浮かない顔でこっちへ歩いてきた。仕事帰りのようで、ビジネスバッグとくたびれたシャツ。
(年齢は二十四。私利私欲のために動く可能性が高い)
都会の街角で、今この時に最適なターゲットを見つけた。
(うん。彼だね)
待ち人来たり。背丈のある白い服は人混みに少しだけ歩み出し、若い男の行く手をさりげなくさえぎった。
「ねぇ? そこのキミ、お願いしたいんだけど……これ」
誰がどう聞いても好青年な声が響き渡った。だが、人混みの死角のひとつ――手元で何かを相手に同時に押しつけた。
「……あ、あぁ、はい」
いきなり呼び止められた男としては驚くばかり。しかも、二百十センチの長身が違和感を呼ぶ。
だが、見た目はどこからどう見ても好印象。誰もが太鼓判を押す好青年。それよりも、気になるのは自分の手の甲に突きつけられた、細い横線だった。思わず視線を落とすと、
(五万ギル?)
金が交換条件として、他の人から見えない場所で提示されていた。真意を確かめる暇もないうちに、携帯電話の画面が視界に割って入ってくる。そこには、どこかずれたクルミ色の瞳を持つ三十代の女が映っていた。
「これから、この女の人がここを通るから……」
銀の細いブレスレットをした腕を下ろすと、エキゾチックな
一度腰元へ落ちて手の中にはほんの一瞬で、さっきまでなかったはずの紙が一枚現れた。若い男の顔前にそれを素知らぬふりで持ってきて、
「……このチラシを渡して、会場に連れてきてほしいんだけど。成功させてくれたら、この三倍あと払いするから」
遠くで交差点の信号が青になり、車が街灯の銀の線を引き始めた。差し出された紙を受け取るが、若いサラリーマンは困惑顔をする。
「あぁ、そうですか……」
計算はとても簡単で、春風みたいな柔らかな笑みで、誰がどう見ても人がよさそうで、しかし、やはり金額がおかしいと、若い男は思った。
(全部で二十万だ。こんな大金、何かのサギ? でもな、さっきパチンコですちゃったしな……)
得と損が若い男の頭の中でぐるぐると回る。瑠璃紺色の瞳が少し困ったように陰り、携帯電話の画面をもう一度見せると、今度はブラウンの長い髪が見え取れた。
「実はね、この女の人今日ここに来るの初めてなんだ。ボクが案内するはずだったんだけど……」
男は漆黒の頭に照れたように片手を当てて、「ははっ……」と、お手上げみたいに少し苦笑いをする。
「別の仕事、同じ会場で頼まれちゃって困ってるんだ。頼めないかな?」
さっきからずっと手に触れている五万ギル。若い男の頭の中で、得だと思う言い訳が勝手に作られてゆく。
(この人は会場にいるんだ。連絡先も書いてある……。でもな?)
未だ警戒心が邪魔をする。だからこそ、白い服の男は陽だまりみたいな柔らかな声でこんなことを言う。
「あぁ、ごめんね。忙しかった? それじゃ、別の人にお願いするから……」
金の感触が手の甲から離れ、白い服が去っていこうとする。若い男の脳裏で、札五枚に羽が生えて、遠くへ飛んでゆく映像がいきなり浮かんだ。
(あっ! 五万ギルが……!)
男は慌てて引き止めるが、
「あぁっ! 忙しくないです。ただ……」
途中で口ごもり、瑠璃紺色の瞳は不思議そうにかがみ込んだ。
「ただ?」
たった二音に秘められた真意を知る由もなく、いや罠だとも気づかないまま、若い男は視線を落ち着きなくあちこちに向けながら、
「いや、その……見つけられるかな? と思って……」
さっきまで微塵も思っていなかったこと――嘘をとっさについた。
漆黒の髪を持つ人はうっかりしていたみたいに、「あぁ、そうだった」と前置きして、
「忘れてた。彼女と事前に打ち合わせしたんだけど、今日は紫のタンクトップとピンクのミニスカートを着てくるって。靴は白のサンダル。これでどうかな?」
矛盾が生じていることに気づかず、いや矛盾に気づかないようにされたのだ、今までの会話のどこかで。
未だに札の感触は戻って来ず、若い男の頭の中で遠く飛んでゆく札たち。自分が焦っているとも気づけないほど、得になることばかり考えている彼は、
「他に目印はありますか?」
瑠璃紺色の瞳は夜空を見上げるような仕草をして、
「ん〜? あぁ、さっき連絡があって、服を買ったから大きな紙袋持ってるって。これで見つけられそう?」
再び突きつけられた五万ギル札の感触。
(見つからなかったとしても、今うなずけば五万ギルはもらえる……)
急いで考える。また去っていくと言われては困るから。
それは漆黒の髪を持つ男の策のうちのひとつで、彼の目的は別のところにあった。
(キミが彼女を連れてこなくても、ボクが連れて行くことは簡単だよ)
人混みは無関心にふたりの男の左右へ流れ、遠くで車のクラクションが不機嫌に鳴り響く。
(連れてけば、二十万になる!)
ほんの数秒間の葛藤で、好青年の雰囲気を持つ男は、春風のように穏やかに微笑んだままだった。
(これは彼女のためにしてる。最後にお金は全て回収する。キミみたいな人間には必要ない)
目に見えているから、若い男は目の前にいる男が普通の人だと思うのだ。見た目で判断するのだ。
(マイナスどころじゃなくて、プラスだ!)
パチンコで負けた男は天に昇るような気持ちになった。聡明な瑠璃紺色の瞳を持つ男の頭脳の中で、このターゲットがなぜ若い男だったのかが語られた。
(私利私欲――損得で動いてる人間は、得だと思わせれば動く。そうでしょ?)
背の高い男からすれば、これは利用ではなく、聖なる戦術としか言いようがない。
金で心も体も買われた若い男は、手付金の五万ギルを強く握りしめた。
「あぁ、わかりました」
「それじゃ、よろしくね〜」
白い服の男はさわやかに微笑んで、顔の横で手を可愛く振った。後ろへ振り返ると同時に、紫の光があたり一帯に広がる。しかし、誰もそれに気づかず、男は消え去った。
たくさんの視線の中から人が突然いなくなる。それだけでもおかしいのに、漆黒の長い髪を持つ男がいたことさえ、最初からなかった事実のように、街は平和に動いていた――――
*
――――瑞希は高層ビル群を目指して、信号のない路地を歩いていた。彼女の斜め前で、五万ギルを財布にしまっている若い男がいるとも知らずに。
進み近づいてゆく。ランジェにプレゼントしてもらったドレスが入った紙袋を肩にかけ、紫のタンクトップとピンクのミニスカート、なぜか汚れがなくなった白のサンダルが。
(どんな罠を仕掛けてくる――)
チビっ子もやられていた感じがしていた。しかも、今までの比ではないとも言われ、散々引っかかってきた、瑞希には頭痛い限りだった。
罠を張ってくる人の頭の構造はどうなっているのかと、考えようとすると、若い男が素早く寄ってきた。
「すみません!」
「は、はい?」
人混みの中で声をいきなりかけられる。それは勧誘かナンパだ。瑞希は自然と警戒をする。二重がけしたネックレスの前に、紙が一枚差し出された。
「これ、どうですか?」
どこかずれているクルミ色の瞳に、印字された大きな文字を映して、ポツリつぶやく。
「ビジネスセミナー……?」
バツ二フリーターには無縁の場所。瑞希の躊躇は最高潮になった。しかし、若い男も負けていなかった。あと十五万ギル入るターゲットがここにいるのだから。
「ぜひ聞いていってください!」
ある意味人探しをしている瑞希。しかも、彼女は霊感をいう勘を持っている。そうなると、もう一度押されると、これが当たりなのではと思って、警戒心を半減させた。
「あぁ〜、これかな? サラリーマンとかなのかな? ん? 十八時から?」
開始時刻で違和感を持った。瑞希はまさか自分をはるか遠くから見ている瑠璃紺色の瞳が今もあると知らず。チラシから若い男へ視線を上げる。
「途中からでも大丈夫なんですか?」
罠を仕掛けられたふたりの脇を、無関心に人混みは通り過ぎてゆく。予想外のことを聞かれたようで、男は言葉を詰まらせてチラシをのぞき、
「え……? 途中? 十八時……?」
慌てて携帯電話をズボンのポケットから取り出した。それでも、男は首をかしげている。
「あれ? 今何時?」
瑞希もバッグからそれを出して、画面を見てまぶたを激しくパチパチさせた。
「十七時四十二分? あれ? さっき十八時過ぎてたよね?」
彼女は気づかなかった。ある時点で開始時刻を前倒しされたのだと。しかも、それは漆黒の髪を持つ男の、策略――氷山の一角だと。
「あのメルヘンチック世界の中って、他と時間が違う? それとも、見間違えた?」
瑞希は来た道を振り返り、無防備な背中を見せる。今もしっかりうかがっている聡明な瑠璃紺色をした瞳の前で。
「それとも、何かあった?」
チビっ子は親切に忠告をしてくれたが、彼は策略家ではない。つまりは天の声のアドバイスは役に立たないのだと、瑞希は知らずに考え続ける。
「あ、あの……」
戸惑い気味の男の声で、瑞希は我に返った。
「はい? あ、あぁ、すみません。考えごとしてしまって」
「人生にも通じる話がありますよ」
獲物を逃さんと、男はどこかの宣伝文句みたいなものを口にした。瑞希はチラシをもう一度自分へ引き寄せ、曲げた指の節を歯で軽く噛む。
「あぁ、そうですよね。どんなことをやるのかわからないけど……。修道院に行ったら聞けない話のような気がするから。よし、行こう!」
電光石火のごとく、ささっと判断したが、ビジネス街など来たことがない。会場名がチラシに書いてあったが、どのビルかもわからない。
「どこから行けば……?」
会場に連れてきてほしいと言われている若い男――いやビジネスマンは、当然場所は知っていて、にこやかな笑顔を向けた。
「案内します。こっちです!」
「はい、ご親切にありがとうございます」
瑞希が礼儀正しく頭を下げると、ブラウンの長い髪がザバッと前に落ちた――――
*
――――彼女が案内され始めた頃。セミナー会場の控え室では、全身白の服が一人きり、ソファーに座ることもなく、右へ左へのんびりと行ったり来たり。
「信念のある人を動かすには、少し罠が必要。情に熱い人なら情に訴えかける。こだわりを持ってる人なら、そのこだわりに沿うような条件をちらつかせる。だから相手の情報が最初に必要」
手に持っていた
「一番難しいのは、ボクと同じ思考回路の人。御銫とかランジェとか、あと――」
漆黒の長い髪を指先でつまんで、すーっと前へ引っ張っていっては、短いものからさらさらと落とす――弄びをしようとした。
「あぁ、さっきの人来たぁ〜」
パチンコ店のそばで五万ギル突きつけた男の姿はどこにもなかったが、なぜか見つけた。
瑠璃紺色の瞳は手のひらを少し握った形で自分の爪を眺める。春風みたいに柔らかな笑い声をもらして、「ふふっ」と小首を可愛く傾げた。
「今言ったの全部嘘かも〜?」
全てが帳消しになる呪文。御銫のまだら模様の声がどこかから聞こえてきたような気がした。
銀の細いブレスレットは、部屋を出ようとする男の手首によってドアへと連れられてゆく。
ドアノブに触れることもなくふと立ち止まると、春風のような笑みはデジタルに一瞬にして消え去り、氷河期のような突き刺すような冷たさが広がった。
「直感ははずれる時がある。だから、感覚や感情で物事を判断するのは危険だよ、瑞希――」
煩悩女の名を呼び捨てにして、紫の光があたり一帯に広がると、ドアを出ることもなく、二百十センチの長身は控え室から消え去っていた――
*
――瑠璃紺色の瞳に次に映ったのは、無事にセミナー会場へ案内された、瑞希のブラウンの髪が入り口に飲み込まれたすぐあとだった。
廊下の途中から突然現れて歩いてきたにも関わらず、漆黒の長い髪の持ち主は約束の十五万を持って普通を装い、若い男に親しげに近づいた。穏やかな陽だまりのような声で言う。
「ありがとう。じゃあ、残りのこれ」
「あぁ、はい」
何も知らずに若い男はほくそ笑んで帰っていった。背の高い男が現れたり消えたりすることに誰も気づかないのと同じ原理で、今預けられた二十万は、そんな話があったことさえ忘れさせられて、すぐに手元からなくなってしまうとも知らずに。
クールな悪戯坊主という異名を兄貴につけられた、その男は心の中であっかんべーをする。
(ボクがセミナーの講師なんだ。だから、誰からも仕事頼まれてないかも〜?)
ブレスレットを指先でつまんではくるくると回し、アクセサリーのくすぐったいような感触を味わう。
「ふふっ。開始時刻ずらしたのは、可能性の
舞台の上にある演台へと向かう、前方のドアへ歩いてゆく。男の大きな手にはセミナーの資料はどこにもなく手ぶら。
しかし、これはいつものことだったが、間延びした声がつぶやくことは問題だらけだった。
「でも〜、ボクふたりの彼に悪戯しちゃったから、どうしようかなぁ〜? プリンかなぁ〜? 限定物かなぁ〜? ご馳走しないと、次は聞いてもらえないかも〜?」
子供が楽しくて仕方がないというように微笑みながら、ドアの前で一旦立ち止まった――
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