恋心と青空と大先生と(part2)

 ――セミナー会場に入った瑞希は前から三番目、真ん中より少し右側に座った。一人浮いた存在で、どこかずれているクルミ色の瞳は落ち着きなくまわりをうかがう。


(うわ〜! スーツ着てるビジネスマンでいっぱいだ。人気のセミナーなんだ)


 百名ほど収容できるような会場。演台は一段高くなった舞台の上。仕事帰りのサラリーマンばかり。


 一人ラフな格好の瑞希はソワソワしながら、もらったチラシをもう一度よく見てみると、


すみれ ストゥイット……? どんな人だろう?)


 携帯電話で素早く検索。人差し指で慣れない感じで入力し、すぐに出てきたページの文字で、セミナー講師を軽く説明する。


(ん? 経営コンサルタント。世界各国の赤字だった企業を一流にまでのし上げ……?)


 バツ二フリーターと生きている世界が違った。世界を股にかける人のセミナー。適当にページをスクロールしながら、瑞希はうんうんと何度もうなずく。


(間違いなく頭いいね。気を引き締めて、話をよく聞かないと……)


 場違いの空間で、三十四歳女はストゥイット先生を待ち続ける。


(スーツとか着てるのかな?)


 十八時きっかり。舞台の袖から白い服がさっそうと入ってきた。まわりにいたビジネスマンたちから拍手が巻き起こる。


 瑞希は少し遅れて顔を上げたが、びっくりして思わずピタリと動きを止め、先生を凝視した。


(着物っ!?)


 天女でも舞い降りたような袖口も裾も大きく取られた、白い薄手の布地。下のほうには、金と赤の刺繍が入っているスカートのように見えるものだった。


(違う! モード系だ。しかも全身白!)


 大先生の服装は、膝までのロングシャツにはかまのようなワイドパンツ。漆黒の髪は頭の高い位置で結い上げてもなお、腰までの長さがあった。


(髪長い……)


 細く赤い縄のような髪飾りが、黒髪のそばで彩りを添えている。足元は草履のように見えるサンダル。背丈は二百十センチ。


(っていうか、背高いっ!)


 セミナーが始まる前から大騒ぎの瑞希の前を通り過ぎ、演台へ着いた大先生は、陽だまりみたいな穏やかな声をマイクに通した。


「こんばんは。菫 ストゥイットと申します。お忙しい中ご足労そくろういただき、誠にありがとうございます」


 人をうやまう丁寧な言葉遣い。清潔感もあり姿勢もよい。遠目でわからないが、瑞希とそれほど年齢も変わらないようだった。


 こうして、悲劇は起きた。瑞希は両手で顔を覆って、机の上に突っ伏す。


(いや〜〜〜〜〜! 今頃気づいてしまった!)


 手はそのままで起き上がり、椅子の上で前後左右にグラグラと嵐に煽られる木のように揺れ出した。


(かっこよすぎる〜〜〜! 今度この人だ! どうしてみんな、神がかりに綺麗なんだ!)


 机にガタガタと激しくぶつかっているとも気づかず、セミナー会場に広がる、煩悩女の雑音。まわりにいたサラリーマンたちの視線が一斉に集中した。


(特にあれがよくない!)


 瑞希は指の隙間から、大先生を密かにうかがう。しかし、秘密にしているのは彼女だけで、他の人たちからはバレバレだった。


(頭にかかる冷気、クールな感じ。もちろんそれだけじゃなくて! あの胸の内に秘められた情熱の炎! 感情を頭の冷静さで抑えてる人!)


 瑞希が夢中で語る菫の眉尻は凛々りりしく上へと、アイブローペンシルでも使ったように綺麗に、細くもなく太くもなく描かれていた。聡明な瑠璃紺色の瞳は氷雨ひさめ降るような冷たさ。


 その奥には真逆の感情という名の炎が潜む。人を魅了しやすい冷と熱のギャップ。瑞希は唇を噛みしめ、感慨深く目を閉じた。


(もろタイプだ。神様〜〜〜!)


 夢見がちに両手を胸の前で組んで天を見上げると、ゴーンゴーンと聖堂の鐘が鳴り響いた気がした。


(このまま即身成仏そくしんじょうぶつでもいいです……)


 あまりにも好みすぎて、瑞希は言葉を言い間違った。プルプルと首を横へ降り、


(いや、意味が違う。それは、お経を唱えながら死ぬ方法だ)


 前置きの軽い談笑が続いているのもまったく聞こえず、瑞希は神に祈った。


(瞬殺でもいいです)


 しかし、天から成仏のスポットライトは差してこず、瑞希は現実へ引き戻された。みんな前を向いている会場で一人、後ろへ振り返る。


(っていうか、チビっ子どうして私の好みのタイプ知ってるんだろう?)


 後悔先に立たず。瑞希は悔しそうに手元に置いてある紙を、歯でガジガジと何度も噛んだ。


(あぁ〜、昨日の昼間に会いたかった。もう修道院に行くって心決めちゃったからなぁ〜。まぁ、最後に見れただけでも神様に感謝だ)


 大先生のクールな瞳は、瑞希のことなど眼中にない様子で、飲み物が置かれただけで、資料も何もない演台でセミナーをスタートさせた。


「それでは、さっそく講座を進めさせていただきます。こん講座はビギナー向けですので、基礎から始めます」


 会場の空気がぴんと張り詰め、瑞希は煩悩を素早く捨てて座り直した。


(おっとっと! 集中集中!)


 陽だまりみたいな柔らかさで、軽やかで少し高めの男の声が、マイクを通して会場に広がる。


「私たちは一人では決して生きていません。ですから、自身が動く時は、まわりの人も動きます」


 内手首につけた香水の残り香を近くでかぐように、瑞希は頬杖をつく。


(自分が話せば、相手もどう感じるかは変わる。だけど、今まで同じ高さで見てた気がする。ストゥイット先生が話してるのは、もっと高い場所から自分も混ぜて、見てる気がする……)


 彼女は順調なスタートを切っていた。


「全ての物事を成功に近づけるためには、他の人がどのような気持ちを抱き、どのような行動をしてくるのかを常に予測し、自身の言動を選び取らなければいけません」


 クールなイメージの菫。頭がいいのは瑞希も了承済み。大先生はゆっくり話しているのだが、彼女がついていけなくなってゆく。


(成功に近づける? 予測? 言動を選び取る? ん?)


 まわりにいるビジネスマンたちは顔色ひとつ変えずに、先生の言っている話をきちんと理解していた。


「ですから、全ての物事を常に同時にいくつも計りにかけておくことが必要不可欠です」


 菫の凛々しい眉を瑞希はじっと見つめて、彼が何を言っているのか懸命に見定めようとする。


(いくつも計りにかける?)


 しかし、時は刻々と過ぎていて、今まで出てきた男たちの中で、兄貴しか持っていなかったもの。


 つまりは、罠を張ってきた御銫とランジェが、まったく持っていない性質が、菫の少し薄い唇から出てくる。


「感情という曖昧なものは最初に切り捨てます」


 そうして、策士たちの思考回路がはっきりと提示された。


「事実から導き出した可能性を使って、自身の言動を決めていきます」


 菫も策略家であるが、彼は仕事でしているのであって、画家や占い師とは比べものにならないほど高レベル。


 戦車で引きずり回されるわけでもなく、透明な檻に入れられるのでもなく、野放しのまま、菫にすでに罠を仕掛けられているとは知らない瑞希は戸惑うばかり。


(感情はなし。事実? 可能性? ん……?)


 いつも彼女がしている、ひらめきと思いつきは禁止された。ぴよぴよと鳥が頭を中心として円を描いて回り出し、異常スタン状態になってしまった。


 セミナーを最初に受けさせたのは、すでに瑞希の情報は漏洩していて、思考回路を教えても勝算が見込めているからだ。


「ですが、いきなり全ての可能性を同時に持ち続け、対処するのは難しいことでしょう。ですから、まずは自身だけの可能性の導き出し方から説明いたします」


 聡明な瑠璃紺色の瞳は会場にいる全ての人々を見渡して、前置きをしめくくった。


 セミナーを受けなかったら、瑞希は菫がこれから起こす言動を全て、普通のことだと思い、ことごとくスルーしていっただろう。これは大先生の恩なのである。


(自分のことだけ……。よくわからないけど、お願いします)


 瑞希は椅子に座ったまま丁寧に頭を下げた。菫の手元に資料はないのに、


「受付時に配らせていただきました資料、そちらの二ページをご覧ください」


 会場中で一斉に、カサカサという紙がすれる音が響いた。瑞希のどこかずれているクルミ色の瞳は真剣な眼差しで、出てきた文字を読む。


 ――朝の天気予報で雨の降水確率が零パーセントでした。あなたは夕方まで用事があり外出します。傘を持っていきますか?


 例題一。いたってシンプルな問題。日常生活によくある一コマ。菫の春風のように柔らかな声がスタートを告げる。


「傘を持っていくか、いかないかを自身の中でひとまず決断してください」


 瑞希は三十四年間で培ってきた、いや適当にやってきた習慣でチャチャっと選択肢を決定。


(零パーセント。降らないから持っていかない……だね。よし、持っていかない!)


 間髪入れずに、ストゥイット先生の好青年で間違いない、という声が聞こえてきた。


「みなさん、お決めになりましたか?」


 瑞希は心の中でガッツポーズを取った。それが感情だとも気づかずに。


(決めました!)


 マイクを手にしたまま、菫の長い足は演台からはみ出して、舞台へと続く階段を降り始めた。


「ひとまず傘を持っていかないという行動を選択したとします。ですが、夕方になり、天気予報がはずれて雨が降ってきました。どのようにしますか?」


 大先生が今何をしているのかわからないまま、瑞希は真面目に目の前の問題を回答中。


(傘を買う……だね)


 大先生が今何かをして、条件をさらに付け加える。


「傘を購入するという選択肢が出てくるかと思います。ですが、そちらが売り切れだった時にはどのようにしますか?」


 机の間を歩き出した菫は放り出して、瑞希は考える。よくよくある話で、


(あぁ、そうか。急に降ってきたから、みんなも持ってないかもしれないね。売り切れになるよね。ん〜〜? 走って帰るしかない……)


 こうして、素直な瑞希は、ストゥイット先生から、ありがたいトドメをいただくこととなった。


「走って帰るという選択肢を選ばれた方は、残念ながら失敗しています」


 事実と可能性だと最初に説明を受けたのに、瑞希はその計りを使うどころか、ただまぶたをパチパチさせただけだった。


(え、どうして?)


 忍び寄る敵のように、菫のエキゾチックな香は瑞希に近づいてゆく。


「ビジネスはもちろんのこと、人生は戦場と同じです。身近な小さなことにも、細心の注意を払わなければいけません。なぜなら、自身が関係ないと思っていたことも、大きなことにつながっている可能性があるからです。雨がもし、自身の命を狙う敵の攻撃だった時には、あなたはもうすでに死んでおり、未来はそちらにありません。すなわち、そちらの物事はこれ以上進みません。チャンスを逃してしまったことになります」


 通り過ぎてゆく奥ゆかしい香りをかぎながら、瑞希は単純な発想で二度目の決着をした。


(あぁ、そうか。じゃあ、持っていくだ)


 最後尾さいこうびまで歩いていった漆黒の長い髪は、不意に振り返ったことで、半円を美しく描く。


「それでは、持っていくという選択肢を選びなおすと思いますが、なぜ、そちらを選ぶのかの理由が大切です」


 ブラウンの長い髪が、聡明な瑠璃紺色の瞳にターゲッティングされる。そうとは知らず、瑞希は真剣に考え中。


(失敗したから……)


 このセミナーのレベルでは、これは一から零.一学ぶこと――を言う。


 だから、策士の罠にはまるどころか、気づけもしないのだと、菫先生は指摘する。


「失敗したから、別の選択肢を選ぶという理由では、取るべき行動がいくつも出てきた時、順番に試していき、失敗を繰り返して、成功にたどり着くということが起きます。こちらは学習能力を使ったことになります。ですが、非常に非合理的で選んでいる間に、敵からの攻撃を受ける可能性は上がり、実際に起きた時には、対策もなくその場で討ち死にとなります。ですから、なぜ傘を持っていかないと判断したのかの理論的な理由が必要です」


 感覚というのは思考回路が五里霧中なのだ。ぼやけてしまっている頭で、瑞希はただただ言葉を繰り返す。


(理論的な理由?)


 タイムアップ――。


「それでは例題を使って、可能性の導き出し方を説明します」


 ここからしばらく、菫が普段使っている言葉が、瑞希には聞き慣れないもので、彼女が困惑するが続く。


「まずは、朝の天気予報で雨の降水確率が零パーセントでした。こちらがみなさんが得た情報です」


(情報……?)


「事実と言い換えても構いません」


(事実……?)


「こちらの言葉の中で、事実として確定してしまってもよいものは、どちらの言葉でしょうか?」


(確定……?)


 出来のよくない生徒が一人いる前で、大先生は優しく指導しなおした。


「少し難しいかもしれませんね。言い方を変えましょう。こちらの言葉の中で素直に信じてもよい言葉はどちらでしょう?」


 頭の中に出ている霧を、瑞希は少しずつよけてゆく。手元の資料に視線を落としたまま。


(ん〜〜? 朝……はオッケーだよね。天気予報……? 予報? あ、わかった! 予報は違う! 予測だからこれは信じない)


 彼女は唇に手を当て、二重がけしたペンダントヘッドを指先でなぞる。


(雨……これは物事だからオッケー。降水確率は零パーセント……! あ、わかった! 零パーセントじゃないんだ! だから、雨が降るから傘を持っていく!)


 瑞希は最後で理論という地面を踏みはずし、霧という谷底に真っ逆さまに落ちていった。さらには、上から理論のやいばが、大先生によって突き刺される。


「よろしいですか? 事実から可能性を導き出す問題です。ですから、雨が降る、降らないではありません。雨は降るかもしれないですし、降らないかもしれないのです。従って、降る可能性が少しでもある以上、傘は持っていくのです。そちらが失敗もせず、成功へとつながる言動なのです」


 未だ助けは来ず、霧という谷底にいるのに、瑞希は新しいことを覚えられたと勘違いして、珍しく笑顔になった。


(あぁ、なるほど!)


 このセミナーは基本。これでは菫の罠に率先してかかりにいくようなものだが、瑞希はチビっ子からの警告もすっかり忘れてしまった。


 説明はした。理解できるかどうかは、その人の努力次第。これが社会人の鉄則。


 ストゥイット先生は飲み物しか置いていない演台へ戻り、スマートに仕切り直す。


「事実から可能性を導き出すためには、事実を正しい事実として、きちんと確定する作業がまずは必要になります」


 耳慣れない言葉が入ってきて、彼女はすっと真顔に戻った。


(正しい事実……?)


 例題二。今度は菫先生から直接出題される。


「今から私がある行動を取ります。そちらを順番通りに事実だけを覚えてください」


 瑞希は心の中で気合を入れた。


(よし、覚えるぞ!)


 彼女はそれが感情だとも知らずに。


 嵐の前の静けさが漂っていたが、陽だまりみたいな柔らかさで少し高めの声が打ち破った。


「それでは始めます」


 白く広い袖口から出た手は、大きく神がかりな美しさだった。持っていたマイクを演台の上に、しばしの別れというようにそっと乗せる。


 そのやり取りを隣で見ていた女は、クリアなボディーを持つペットボトル。太陽光と勘違いするようなスポットライトの下で、彼女がエキゾチックな香のそよ風に吹かれると、髪をなでられ――キャップを回された。


 透明な液体が傾けられ、菫の唇から体の奥へ落ちてゆく。乾いた体にオアシスをもたらすように。そうして、ペットボトルは彼の手から演台へと移りゆく恋心のように離れていった。


 二百十センチの天女のような白いモード服はすっとかがみ込む。その仕草はまさしく、立てば芍薬しゃくやく、座れば牡丹ぼたん、歩く姿は百合ゆりの花。それだけでは足らず、妖艶な牡丹が人々の前で端座した。 


 そうして、受講生から見えない死角で、紫の光が空間を切るようにすっと走ると、本が急に出てきた。


 それはかかげられ、カチッとした四角い姿が生徒たちにお披露目された。漆黒の長い髪は一本の絡みなく、指先でスーッと伸ばされ、さらさらと肩と胸に落とされる。


 本のページを開き、瑠璃紺色の聡明な瞳に文字の羅列が映った。しばしの別れを告げられていたマイクが再び取り上げられ、


「以上です。それでは回答です」


 瑞希の頭の中ではこの順番で並んだ。


 ――水をゴクゴク飲んだ。

 椅子に座った。

 本を手に持った。

 綺麗な髪を触った。

 本を読んだ――


 問題に集中している彼女は未だ気づいていなかった。今までどころか、これからの言動が、菫にどう映り、それが今後どう使われるのか――罠の詳細になっていくと。


 大先生の回答が始まる。


「一番目はペットボトルの飲み物を飲んだ、です」


 瑞希の記憶――水をゴクゴク飲んだ。


(ん? 水じゃなくて?)


 同じ物事を見ているのに、瑞希と菫で見解の違いがはっきりと出た。


「水と判断された方は間違っている可能性が出てきます。透明な液体はお酒かもしれません。セミナー中ですので飲みませんが……」

「あはははっ……!」


 仕事中なのに酒というミスマッチが、ビジネスマンたちに大受けで、笑い声がどっとあふれた。


 今までの瑞希なら、こんな細かいことなど関係ないと思っていたが、さっきの傘を持っていく結末を聞かされたあとでは、真剣な顔でうなずいてしまうのだった。


(あぁ、そうか)


 だが、ストゥイット先生からさらなる指摘がやって来た。


「それから、ゴクゴクなどはあなたの感覚が判断したものですから、正しい事実にはなりません」


 気をつけていたはずが、まったくなっておらず、瑞希は眉間のシワを濃くした。彼女だけがセミナーに参加しているわけではなく、先生の解説は先に進む。


 瑞希の記憶――椅子に座った。


「次は、椅子に座った、です」


 わざと強調された言葉たち。瑞希は自分が何気なく使っている言葉の形が変わってしまい、わからなくなった。


(え? かもしれない?)


 策士が基本としている事実と可能性。それを踏まえるとこうなると、ストゥイット先生は教えを説く。


「みなさんから私の足元は演台があって見えません。ですから、こちらにあったのは……段ボール箱です」


 茶色の空箱が持ち上げられて、会場は大爆笑の渦に再び飲み込まれた。


「あはははっ……!」


 瑞希は知らなかった。今自分が、例題一の傘が売り切れていた。というところで間違っていると。菫のこの言動はもっと前から準備されていたものだと。


(あぁ、そうか)


 演台の後ろへ段ボール箱を置いて、会場の全ての席から見えないことを確認した上での、大先生からの出題だった。


 それにも気づけないまま、ただ納得した瑞希に、間違った直接の理由が説明される。


「自身が見ていないものを、予測だけで決めつけるのは非常に危険です。ですから、になるのです」


 教えられた時はできたような気持ちになるものだが、本当に理解しているかどうかは、自分でやってみないとわからない。


(なるほど!)


 瑞希は頭の中にとりあえず、適当に叩き込んだ。


 彼女の記憶――本を手に持った。


「次は、本を手に持った、です」


 初めての正解に、瑞希は心に羽が生えて、晴れ渡る青空高くに飛び上がったような気分になった。


(あってる!)


 しかし、一気に五里霧中という谷底へ突き落とされた。


 瑞希の記憶――綺麗な髪を触った。


「髪を触った、だけです。綺麗などの修飾語は自身の感情で勝手に判断したものです。そちらは正しい事実ではありません」


 感情で判断したのは、これで二回目。策士ならば、この情報をどう使うのかはもちろん知っている。


 だが瑞希は問題を解くだけで応用ができないまま、気合だけを入れて先へ進む。


(髪を触った……だけ。よし!)


 そうして、この例題の中で一番の難所へやって来た。


 瑞希の記憶――本を読んだ。


「最後ですが、本を見た、です。読んだ、ではありません」

「あぁ〜」


 事前に予約して、世界に通用するハウツーを学びに来た、ビジネスマンたちから、意外だというため息が上がった。


(えぇ? どうして?)


 瑞希はここにも気づいていなかった。例題の回答が始まってから、菫の言っていることがずっとおかしいところがあると。


 言われてみれば当たり前の回答が、大先生から告げられる。


「読むという行為は、私にしか判断できません。読んでいるふりをするということがあります。実際、私は今本を開いただけです。読んでいません。ですから、みなさんが事実として確定する時には、本を見た、になります」


 瑞希は唇を噛みしめて、何度も慎重にうなずいた。


(そうか……。話をよく聞くとかのレベルじゃなくて、自分の中にこの考え方がないんだ。それに気づいただけでもよかった)


 兄貴とランジェに守られた、あの悪魔みたいな存在と血のように真っ赤な目を、寒気とともに思い出す。


 敵に間違った情報を与えられて、信じて進んだ先が敵の罠だった。それがないとは言い切れないと、瑞希は思った。


 菫の好青年で陽だまりみたいな柔らかな声は、ここから先は実践であり、解説は一切つかないことを宣言する。


「それでは、今回はここまでです。次回は実際に起こった物事から判断するだけでなく、相手から情報を得る具体的な方法をお話しします」


 何気ない普通の言葉が罠だと自身で気づかなくてはいけない時間が、瑞希にやって来た。しかし、彼女はぼんやりしたまま携帯電話を傾けると、二十時ちょうどだった。


「本日はありがとうございました」


 ストゥイット大先生が姿勢を正して頭を深々と下げると、漆黒の髪はライトの下でツヤを生み出し、妖艶に揺れ動いた。


 会場中から拍手が舞い起こる。瑞希は携帯電話を慌てて机の上に置いて、つられて手を叩く。それを見ている瑠璃紺色の瞳があるとも知らずに。


 忙しいビジネスマンたちは荷物をまとめ、そそくさと会場から出てゆく。まわりの人たちに取り残されてゆく瑞希は、資料をパラパラとめくったが、パンク状態の頭には何も入ってこず、紙が作り出す風圧を頬で感じるだけ。


「次回か……。修道院に行っちゃうから、もう聞けないな」


 あと数名ほどで会場からサラリーマンがいなくなるという頃に、ページの途中で例題の文字を読んで、ブツブツと独り言を言う。


「でも、面白い考え方だ。相手から情報を得る方法っていうのも覚えたいなぁ」


 テキストの裏表紙に印字された講座の料金を見ると、バツ二フリーターには手が出せないほど、世界基準の金額だった。


 ストゥイット先生とこれから話をするのはわかっているが、瑞希は躊躇した。


「どうしようかなぁ〜。聞いたら教えて――」

「教えてほしいの〜?」


 声色は好青年で陽だまりみたいな穏やかさを持つのに、間延びしたものがにわかに聞こえてきた。


「え……?」


 見上げた先には、菫大先生がすぐそばにいた。さっきまでのクールで聡明なイメージは息を潜め、御銫のような甘さダラダラの口調でもう一度聞く。


「ボクに教えてほしいの〜?」


 雰囲気はちょっと違っていたが、凛々しい眉も天女のような白い服もそのままで、そこには何の警戒心を抱くものはなく、瑞希は表情を明るくさせた。


「いいんですか?」

「教えてあげるから、ボクと手つないでくれるかなぁ〜?」


 銀の細いブレスレットをした大きな手が、エキゾチックな香を舞い踊らせながら、瑞希の前に差し出された。

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