幽霊を拳で語れ(part4)

 醤油が染み込み過ぎたサーモンとハマチを口に入れ、瑞希は海の幸を存分に味わう。ビールを流し込む。それらを繰り返す。


 葉巻の煙を吸い込むと起こる現象。臭覚が鋭くなり、息を潜めていた自分の香水がまた色濃く目を覚ました。


 紅一点。女は瑞希だけ。それでも気にした様子もなく、彼女はビールをお代わりする。


 媚びを売る女など、どうでもいいと思っていた男。彼の前で焼き鳥を串に刺したまま、歯で噛んで横へ抜き取る瑞希の小さな背中があった。


「俺はやっぱりPX-7だな」

「小回りきくの好きだな。俺は断然MD2だな」


 野郎どもの会話をしっかり耳に挟みながら、フライドポテトにマヨネーズをぬろうとしていた、瑞希の手はふと止まった。


「私はラビンです」


 何気なく参戦した会話。しかし、兄貴からツッコミがやって来た。


「車の話だろ。しかも走り屋のよ。どうなってやがんだ?」


 普通に乗りたい車ではなかった。マニアックだった。兄貴とは反対側にいた若い男は振り返って、瑞希に嬉しそうに同意を求める。


「ラビンはとうげの車っすね?」

「そうよく言われますね」


 相手に合わせているのではなく、自分の趣味を真面目に話しているだけだった。兄貴の太い指先が、瑞希の素肌の腕を引っ張るように引っ掛けた。


「ノーマルはエイプリルとかじゃねぇのか? 女が乗んのはよ」


 もう三杯目のビールジョッキをかかげて、瑞希は熱く語る。


「いや〜! 可愛らしいのじゃなくて、ツードアスポーツタイプがいいです! こう風圧をすり抜ける、低めのボディー、滑らかな曲線美。私を官能の渦へと陥れる――」


 言葉のチョイスがおかしい、煩悩脱出作戦を遂行しようとしている女の腕を、兄貴はトントンと叩く。


「また話ずれていきそうになってんぜ」

「はっ! そうでした!」


 瑞希は肩腕を振り上げて、居酒屋中に届く大声を上げた。


「ラビンで公道を二百キロで走ってやる〜〜!」


 いつにも増して壊れている感が漂っている彼女。かかげられていた女の腕を、兄貴は大きな手で封印して、畳の上に引きずり下ろした。


「事故ったらどうすんだよ。人様巻き込むようなことすんじゃねぇよ」

「そうか! じゃあ、レースに参加しよう!」


 兄貴へ振り返って、瑞希は魔法でもかけるように、人差し指を顔の横で突き立てた。


 パッとテーブルへと向き直り、食べかけのフライドポテトを口の中へ入れ、ほとんど噛まずに、瑞希はビールをゴクゴクと飲み、


「く〜! うまい!」


 感嘆のため息をついて、噛みしめるようにうなった。新しい葉巻をケースから取り出して、炎色にジェットライターで炙りながら、男はひとりごちる。


「ずいぶん素直じゃねぇかよ。さっきはあんなに意見してたのによ。まったくどうなってだ? 刻彩ときいろ 瑞希さんはよ」


 ちょうどタイミングよくきたビールのお代わりを受け取った瑞希に、はす向かいにいた男が声をかけた。


「なかなかいないっす。姉さんみたいな女の人。さすが兄貴が惚れただけのことはあるっす」


 男がどういうつもりでここに連れて来たのかは知らない。自分は真に受けずにいるが、男には男の別の理由でもあるのだろう。そう思って、瑞希は違うものは違うと、はっきりここはさせておこうした。


「いやいや、だから、兄貴は惚れてなんか――」

「言わせておけや。明日になったら、全部忘れちまうんだからよ」


 瑞希の腕に男のシルバーリングが巻きついて来た。紫のタンクトップがカモフラシャツに寄り添うように引き寄せられる。


 急接近した。戸惑い気味に返事をした。


「あぁ、はい……」


 男の鉄っぽい匂いを嗅いだ。しかし、瑞希にはそんなんことはどうでもよく、ビールを求めて畳の上をはってゆく。


(全部忘れる? みんなが二日酔いになるってこと? でもそれじゃ、おかしいよね……?)


 何もかもが霧に包まれたようにかすみ始めた。瑞希はジョッキの端に唇をつけて、その硬さを感じる。


(どうして、自分は狙われてるんだろう? っていうか、誰が何のために狙ってるんだろう?)


 グラスを斜めに傾け、黄色い液体を体の中へ機械的に流し込む。


(修道院に行って、聖女になることはできるんだよね?)


 当たり前だと思っていたことが、当たり前にできない気がした。聖水に泥水が入り込んだように、未来がぼんやりにじむ。


 男はその隣で、ミニシガリロの青白い煙を上げ、鋭いアッシュグレーの瞳で彼女をそっとうかがう。


(修道院……。残酷だな、現実っつうのはよ)


 抱きかかえるようにビールのジョッキを持っている瑞希は我に返り、ぷるぷるっとかぶりを振った。


(きっと何かいいことがあるために、今のことが起きてるんだ。だから、やる気を持って、大人のオモチャを片付けよう!)


 残りのビールを一気に飲み干し、空のジョッキを大きくかかげた。


(煩悩を捨てるぞ〜〜!)


 抜群のタイミングでやってくるお代わりを受け取るが、さっきよりやけに重く感じてジョッキをテーブルへ置いた。グラスの結露を指先でなぞるが、つるっと滑って、テーブルに指を強く打ち付ける。


 しかし、痛みをあまり感じず、右に左になぜか揺れながら、藤色の短髪を持つ男だけでなく、あの山吹色のボブ髪の男も針みたいな銀髪の男も、瑞希の脳裏の中でくるくると円を描き出した。


(でも、どうしてこれに出てくる男の人たちは、みんなこんなに綺麗な顔してるんだろう? 人じゃないみたいだ。人じゃない……!)


 ビールの泡。白い泡。ふわふわした泡。そうしてなぜか、瑞希はここで妄想世界へと飛ばされた――


    *


 瑞希は気がつくと、居酒屋の喧騒と葉巻の煙から逃れていた。どこまでも続く透き通った青空。地平線も見えない――いや存在しない景色。


「ここどこだろう?」


 ビールの泡が足元に絨毯のように遠く遠く広がっていた。


「曇っ! 天国ってことかな?」


 そうして気がつくと、さっきまでなかったはずの、大きな柱がすぐ近くに立っていた。


「ってことは、この柱の並びは神殿……」


 石の硬い感触が伝わる。両側に規則正しく並び、奥へ行くほど狭く小さくなってゆく柱の群れ。


「奥に神様がいるってこと? よし、行ってみよう!」


 これは是非とも、神様に直々、聖女になれるようにお願いをしようと、ふわふわと弾力のある雲の上を瑞希は早足で歩き出した。


 だがしかし、遠くの雲の上に黒い影ができていた。


「ん? 向こうに何かがたくさん落ちてる気がする……。あれ何だろう?」


 胸騒ぎがする。小走りで近づくと、瑞希は自分の目を疑った。


「えぇっ!? 人がいっぱい倒れてる! た、大変だ! 敵か何かでも――」


 神の神殿で天変地異ならぬ、森羅万象規模の侵略でも起きたのかと思い、瑞希はあたふたし始めた。


「――そっちには行くんじゃねぇぜ」


 しゃがれた声が背中から突然響くと、瑞希を筋肉質な腕が片方だけで軽々と持ち上げた。


「うわっ!」


 足をジタバタさせていたが、藤色の髪と日に焼けた肌が横から顔をのぞかせ、


「やられっちまうぜ。あれに」


 この天国に反逆者がいる。それを男は知っているようで、瑞希は今も倒れている人々を心配げに眺める。


「え……? 誰が何のために? どうしてこんなことに?」


 緊迫した状況。救護が必要な状況なのに、それは放置して、瑞希の背中は神殿の柱に、男の腕で持ち上げられたままつけられた。


「静かにしろや」


 話運びがいつもと違って、やけに強引な――いや暴走している瑞希の妄想はまだまだ続く。


 ピンクのミニスカートが男の手でめくり上げられそうになると、瑞希はわざとらしく言葉を詰まらせた。


「こ、こんな神聖なところで……」

「神聖なことすんだろ?」


 捕らえた獲物は離さないというように、アッシュグレーの鋭い眼光は瑞希の瞳をのぞき込んだ。神の御前みまえで、彼女はさっと横へ向き、ボソッとつぶやく。


「密教みたいだ……」


 彼女の脳裏で、打楽器が激しくなる中で、エクスタシーという儀式が狂ったように行われていた。


 倒れている人々はそのままに、大人の情事は続いてゆく。瑞希の太ももの内側に、太りシルバーリングの鉄の冷たさが広がった。


「いいから、片足上げろや」

「いや〜〜! 立ったままするんですか〜〜〜〜! 足がつります〜〜!」


 天国の雲の上で、神の神殿の中で、瑞希の声が響き渡った――


    *


 消えかかっているビールの泡に、瑞希のどこかずれているクルミ色の焦点が合った。右隣から、兄貴のしゃがれた声が聞こえてくる。


「タチが好みってか?」

「え……?」


 座敷席の居酒屋で、がっつり座っている自分と男を交互に見ていたが、瑞希は両手を顔の前で横へ大きく振った。


「消し消し! 煩悩とはおさらばだ!」


 ビールの黄色が船にでも乗っているように揺れる。グラスに口をつけて、苦味とかそんなのはもうどうでもいい感覚で、瑞希はただただ冷たい液体を体の中へ流し込む。


 まわりの音は完全に蚊帳の外で、もう内容など入ってこない。今のやり取りをそばで聞いていた若い男が、


「兄貴、それにしても、オレたちの思ってること、ズバリ当てるっすよね!」

「そうそう、占い師とかもやれるんじゃないっすか?」


 厚みのある唇が動くと、ミニシガリロの灰がぽろっと落ちた。


「ボッタクリだろ」


 あまり乗り気ではない兄貴の話に時々出てくる、とある人物の話になり、野郎どもは身を乗り出した。


「あの女の人の話っすか?」


 ショットグラスのジンを一気に煽って、兄貴は世にも怖い話を野郎どもに聞かせる。


「それ、本人が聞いたら殺されっちまうぜ。あれ怒らせっと、地の果てまで追っかけてくるくれぇ執念深いからよ」


 人の領域を超えているような、怖さを持つ人物の話で、野郎どもはびっくりして大声を一斉に上げた。


「ウワァッ!」

「こ、怖っ! 今悪寒が走った!」



 にぎやかな会話に隠れて、数人の野郎どもがこそこそと話しているのが、瑞希にも聞こえるようになった。


「……俺はそこが好きだな」

「お前、本当に胸好きだよな」

「お前だってそうだろう?」

「まあな」

「俺は断然背中だな」

「お前、マニアックだよな。そういう趣味もさ」


 男が一人自分の太ももをさすりながら、瑞希に軽めに話を振ってきた。


「姉さんは、男の体のどこが好きっすか?」


 セクハラと言っても仕方がないレベルの会話。しかし、煩悩からまだ抜け出ていない聖女になりたい、バツ二女は今だけはしっかりと話が聞こえていて、飛び切りの笑顔で、親指を立てて渋く微笑んだ。


「私は腰骨のラインが好きっす!」

「姉さんもマニアックっすね!」


 野郎どもは楽しそうに口をそろえた。しかし瑞希の人生は受難との戦いだった。


「でも残念ながら、ズボンを脱いでいただかないと、おがめない――」


 暴走しまくりの瑞希の斜め後ろから、青白い煙を吐きながら、兄貴のしゃがれた声がかけられた。


「何、真面目に答えてやがんだよ。恥じらいもねぇ――」


 瑞希はパッと振り返って、満面の笑みで、男のジーパンの腰元を指差し、


「兄貴! 腰骨をどうか見せてください!」


 とうとうリアルでやらかしてしまった――


 飛び火してきたエロ話。今日会ったばかり。服を脱げと言ってきた女。さすがの兄貴も返す言葉が見つからず、気だるそうに聞き返したが、


「あぁ?」


 瑞希はそのままの格好で、カモフラのシャツの腕に倒れこんできた。瞬発力で持っていた葉巻を灰皿に投げつけ、男は力強く彼女を受け止める。


「っ!」


 布地でももたれかかるようにくたっとしている瑞希。顔をのぞき込もうとするが、ブラウンの長い髪が邪魔をしていてできない。自分の体から一旦離して、


「っ……」


 瑞希をまっすぐ座らせようとしたが、瞳はすでにまぶたの裏に隠れていた。何が今まで起こっていたのか、兄貴はわかってあきれたため息をつく。


「酔っ払ってから、様子おかしかったってか」


 投げ置くわけにもいかず、カモフラシャツの胸に瑞希を埋もれさせた。ふたつのペンダントヘッドがチャラチャラとかすかに色をなす。


 部下の男たちが意味ありげな視線を送ってきた。


「兄貴は明日、朝帰りっす!」

「ウホォーーーッッ!!」

「兄貴、かっこいいっす!」


 自分を置いて盛り上がりまくりの野郎ども。テーブルの足を自分のそれで、ガツンと蹴りつけた。


「うるせぇな。ったくよ、野郎どもが大勢いるところで、酔い潰れやがって」


 瑞希を抱き寄せたまま、兄貴は吸いかけの葉巻を太い指に挟み込んで、


「ジョッキ五杯でノックアウトってか。グリーン アラスカ飲むのは無謀すぎんだろ」


 女慣れしていない男を前にして、若い衆が苦笑した。


「兄貴、女の人は体が小さいから、そんなもんで酔うっすよ」


 テーブルに身を乗り出していた野郎どもは、一旦ザブトンに座り直して、お互い顔を見合わせた。


「にしても、兄貴アラサーになっても結婚もしないどころか、浮いた話もなかったから、俺たち噂してたっすよ」


 瑞希の頬に、兄貴の声の振動が厚い胸板を通して伝わった。


「あぁ?」

「ゲイなんじゃないかって……」

「あはははっ! そうっす!」


 テーブルのあちこちから大爆笑が起こった。兄貴の厚みのある唇の端からふっと笑い声がもれて、ふざけすぎの野郎どもにカウンターパンチをお見舞いしてやった。


「案外、バイセクシャル――かもしんねぇぜ」


 全員びっくりして、箸が何本か畳の上に転がった。


「両刀使い――っ!?!?」

「えぇっっ!?!?」


 野郎どもをゆっくりと見渡して、十分に間を置いてから、兄貴はボソッと渋い声で付け足した。


「ジョークだ――」


 呪縛から解放されて、野郎どもはほっと胸をなでおろした。


「あぁ〜、びっくりした〜」


 兄貴に視線はほんの少しさまよい、藤色の剛毛は節々のはっきりした指でガシガシとかき上げられ、


「ふっ……」


 軽く息を吐き、瑞希の頭を膝の上に乗せた。


 エアコンが強めにかかっている飲み屋。タンクトップだけの瑞希。まさかここで眠ることになるとは、本人も予測していなかったこと。家に帰るものだと思っていた。当然上着などない。


 青白い煙が横へゆらゆらと揺れているのを見つけて、男は長いジーパンの足を片方だけ立てかけた。


「シャツかけといてやるか。さみぃだろ」


 カモフラのシャツを男らしく脱ぐと、ライラック色の太い肩線を持つタンクトップが現れた。


 鍛え上げられた腕と胸が綺麗なラインを見せるすぐそばで、シャツは瑞希の小さな体にかけられる。


 タンクトップの濃淡が違う紫色が混じって、別の色になってしまうほど、瑞希は兄貴の膝の上で眠りこけていた――


    *


 ――飲み会は無事に終了し、地下から出てきた歩道で、人混みの邪魔にならないようにしていた野郎どもが頭を次々と下げて、それぞれの家路につく。


「兄貴、ごちそうさまっす!」

「おう、お疲れさん。気をつけて帰れや」


 最後の一人を見送ると、男と正体不明になっている瑞希だけが取り残された。人通りの多い街角。お姫様抱っこするわけにもいかない。


 ミニスカートでおんぶすることもできず、肩に担ぎ上げるように、スカートの裾はしっかり押さえられて、頭を背中に向けていた。


「無防備すぎんだろ」


 アッシュグレーの鋭い眼光は、人混みから頭ひとつ半出た状態で、左右を見ていたが、やがて歩き出した。男のヴィンテージジーパンの長い足は駅とは反対方向――明け方まで続く街明かりへと――


    *


 ――鉄っぽい男の匂いと、靴音やクラクションの叫びで、瑞希はふと目を覚ました。


 ぼやけた視界でふたつの感覚を抱く。自分の太ももの裏にある温もりと、お腹のあたりに広がる頑丈な肩骨。


(ん? そうか。運んでくれてるんだ。優しい人だな。みんなに慕われるのわかる気がする……)


 初対面とか。男とか女とか。相手が誰とか。自分の状態がどうなっているとか。そんなことは今はどうでもいい。


 自分の体が他の人に運ばれている。こんな出来事は、あの狭い1K六畳のアパートで暮らす日々にはなかった。


(失踪してきたから、本当に一人だった。誰にも頼らないで生きてきた。どんなトラブルが起きても一人で全部片付けてきた)


 瑞希はぼんやりしながら、脳裏で過ぎてきた日々を綴る。


(立ち止まる暇もなくて、どれだけ進むしかない日々を送ったんだろう? だからこそ、自分は一人でどこへでも行ける強さを手に入れたんだと思う)


 明日になれば、この男とはもう会うこともない。いやこの街並みにさえ、もう会うこともない。遠い修道院へと行ってしまうのだから。それなのに……。


(でも、何かがおかしい。これ以上前に進めない気がする……。どうしてだかわからないけど……)


 気づかないふりをしていた。考えないようにしていた。だが、昨日のレストランでの出来事は、自分を絶望という名の真っ黒なペンキで塗りつぶすような予感がした。


 今までは平気だったのに、一人がひどく怖く悲しいと思う。人の優しさが温もりがむさぼるように恋しい。予告なくやってきた男の背中が腕が、瑞希の心をもろくする。


(……今だけ、頼ってもいいですか?)


 思っただけ――。それなのに、しゃがれた男の声が瑞希にだけしか聞こえないように、喧騒に入り混じった。


「――いいぜ」


 瑞希のクルミ色の瞳は苦しそうに閉じられると、男の背中で一粒の涙が石畳の上に落ちていった。それは誰にも知られることなく、あとから来た靴底に踏み潰されてゆく。


 安心と言うように、瑞希はまた眠りの底へと落ちていった――


    *


 ――大通りを歩いていたが、男はどこへ行ったらいいかわからなかった。瑞希の居場所を探すことはできても、自分の番だと知っていても。


(名前は知っててもよ。住んでる場所がわかんねぇんだよな)


 電車という公共機関はいつも使わない。駅がどこにあるのかも、微妙に覚えているくらい。


 しかも、自分もジンのショットを数杯も飲んでいる。つまりは酔っ払っているのだ。


(瞬間移動はよ、行ったことねぇ場所には飛べねぇんだよ。それ、できるやつに頼むってか。また貸し増えちまうけど、しょうがねぇな)


 自身の能力を超える力。荒野にいきなり立っていたり、目に見えないものを倒したりとかはできるが、限界というものは誰にでもある。


 貸しだらけの兄貴は心の限り、


(リキョウ!)


 あのクールな悪戯坊主の名を呼んでみたが、


「…………」


 応答なし。本気で返してこなかった。男はふと振り返って、遠くの高層ビル群を眺める。


「やっこさんもビジーってか?」


 途中で強制終了はできないと、高架下の近くで言われた。帰れない。どこにも行けない。どこへ連れて行けばいいのかもわからない。


 人の川がしばらく、岩肌の両脇を過ぎてゆくように、男と瑞希を避けて流れていた。


 藤色をした長めの短髪が日に焼けた頬にかかったまま、顔を人混みにさらし続ける。


 まるで映画のワンシーンのような立ち姿。とらわれのお姫様を、手練てだれのナイトが助け出したみたいな瑞希と男。


 どこまでも、ふたりきりの世界が続いていくように思えたが、あたりからふと声が立ち上がった。


「あの人ってさ……」

「えぇっっっ!?」

「すごっ! こんなところにいるなんて……」

「あの人だよね?」

「やっぱりかっこいい!」


 フラッシュの嵐になる前触れ。青白い閃光をもろに浴びる前に、退散しなければいけない。


 男のウェスタンブーツのスパーは、人混みの中をカチャカチャというささやき声を上げながら、駅とは反対のほうへどんどん進んでゆく。


(目立つんだよな、今のこの格好はよ)


 人混みの中で女を抱えている男――


(じゃなくてもよ、オレの顔は知られてっからよ)


 有名人慣れしている都会でも、大通りではさすがに見逃してくれない。兄貴の脳裏を、野郎どもの顔が次々によぎってゆく。


(かたよったイメージついちまうと、商品の売れ行きに関係してくっからよ。そうすっと、野郎どもが食いぱぐれっかもしんねぇだろ。それは上の人間がすることじゃねぇんだよ。しょうがねぇな、脇道入っか)


 ジーパンの長い足はとにかく、下の人間を守りたいという気持ちで、すっと横道に入り込んだ。


 ガラリと雰囲気が変わった。電球の色はピンクが多く、カップルがやけに歩いている通り。


 ウェスタンブーツのスパーは不意に立ち止まり、カチャッと戸惑いの音を響かせた。鋭いアッシュグレーの瞳は珍しく左右に落ち着きなく動く。


(どうなってやがんだ? ホテル街にビンゴで入りやがって……。また笑いってか?)


 あまりにもでき過ぎている話で、男は真意を確かめようとして、なぜか星空を見上げた。しかも、その視線はさらに遠い場所へと向けられている。


(それとも、ってか?)


 子供が何かを決める時のように、調子をつけて心の中で言った。しかし、兄貴にとってはことは重大で、瑞希の重みを肩で強く感じて、顔をホテル街へ戻した。


(だったら、従うしかねぇだろ。逆らえねぇんだからよ)


 下心の言い訳ではなく、それは聖句ロゴスだった。そうとしか言いようがなかった。


 そうして、起きているかどうかわからない瑞希に、しゃがれた男の声が断りを入れた。


「後悔すんなよ、入るぜ」


 ふたりの姿はホテル街の奥へと消えてゆく。男の時計は二十二時半を回っていた――


    *


 ――入り口がわかりづらくて、入るのも一苦労だったホテル。他に客おらず、従業員もいるようないないようなロビー。それでも何とか部屋へとたどり着いた。


 明かりが全開の下にある、大きなベッドに瑞希の体はそっと降ろされた。


「っ!」


 ラブホ初体験の兄貴の苦労はまだまだ続く。寝返りを打った瑞希は放ったらかしにして、面倒見のいい彼は寝るのに最適な環境を作ろうと奮闘する。


「電気、どうやって消すんだ?」


 ボタンが多過ぎて、ここでもまた戸惑い。とりあえず押してみた。


「これか?」


 遠くのほうで明かりに動きがあって、


「あぁ? 入り口だけ消えやがった」


 次々に押してはみるものの。間接照明になったり、ダウンライトになったり、バスルームになったりで悪戦苦闘。


「オール消せねぇのか? どれだ?」


 ようやく全ての明かりが消え、真っ暗な中にネット回線の小さなランプが蛍火のような黄緑色の点滅を繰り返していた。


「……はぁ、やっとってか」


 兄貴は大きくため息をつき、ベッドの隅に男らしくジーパンの足を左右に大きく開いて、そっと腰掛けた。


 見えないはずなのに、アッシュグレーの瞳には瑞希の無防備な寝顔が映っていた。


「人間の男だったらどうすんだよ?」


 ベッドサイドの絨毯の上にゴトンと何かが落ちた。


 男が見下ろしたそこには、白いローヒールサンダルとアウトレットのバッグが、はっきりと何の色も損傷もなく乱雑に置いてあった。


「指一本触れてねぇけど、脱がせてやったぜ。寝んのに余計な靴とバッグはよ」


 両肘を膝の上に乗せて、藤色の剛毛をため息交じりに大きくかき上げる。


「セック◯も惚れたれたも、感情フィーリングが大事なんだよ」


 足でリズムを刻むように動かすと、スパーがカチャッと、冷蔵庫のモーター音と入り乱れた。


「心もつながってねぇのにするくれぇなら、一人で映画見てたほうがマシなんだよ。そんなつまらねぇ時間と労力、消費するくれぇならよ」


 兄貴は思う。それは欲望という燃料に踊らされた、ただの肉塊だと。心を持っている人間ではもうないのだと。


「あぁ?」


 真っ暗な視界の中で、バッグが落ちた衝撃で外に飛び出た、四角いものを取り上げた。


「CD?」


 デタラメな歌を歌うような女だ、持っていてもおかしくはなかった。しかし、真新しさが興味を引いた。


「プレゼントしたってか?」


 兄貴はピンと来た。自分といい勝負のあの鋭利なスミレ色の瞳。銀の長い前髪がサラサラと不機嫌に揺れる男。体型は自分とはまったく違っていて、仕事はミュージシャンだと言っていた。


「イリア……そんなシャレた野郎ってか」


 見えないはずのCDの曲名。このアーティストがどんなグループかは知らない。しかし、兄貴にもこの文字は響き渡った。


 すぐさま頭の中に流れ出す。あの印象的なサビのメロディーが。


「Can't Take My Heart Off You……てめぇのハートから消えねぇ。ノーマルはそうなんだろうな。がよ――」


 瑞希の寝顔をもう一を眺めようとすると、


 ガシャンッ!


 窓ガラスが割れたような派手な音がした。男が顔を上げると、荒野の中に瑞希が眠るベッドがひとつきりあるだけで、ホテルの部屋はどこかへ消え去っていた。


 晴れ渡る空はどこまでも青く、兄貴のウェスタンブーツは土煙を上げて、ジャリジャリと響く。


「敵さんがお出ましってか?」


 二百三センチの長身はさっと立ち上がって、一人敵と対峙する。黒い影が現れては消えてを繰り返しながら、あっという間に自分との間合いを詰めてくる。


 そうして、剣を振りかざした敵が飛び上がって、切り掛かってこようとした。


「っ!」


 筋肉質な腕は後ろへ振り上げられ、右のストレートパンチを鋭く食らわす。


「グフッ!」


 敵の顔面にもろ入り、衝撃で後ろへ跳ね返り、敗者はすうっと消えてゆく。間髪入れずに、鉄球が頭を砕こうと横殴りに迫ってくる。素早く上半身だけかがみこんで、それと一直線になるように足を後ろへ蹴り上げると、


「っ!」


 相手の腹深くに、強烈なキックが見事に決まり、


「グハッ!」


 敵が半分に折れたたむようになったのもつかの間、弾丸のようにビューっと大地の上を横滑りして、遠くへ飛んでゆく。


 そのまま背後から襲ってくる、敵へ回り蹴りバックをお見舞いする。


「っ!」

「ギャアッ!」


 武器を落とす暇もなく、土煙を上げて遠くへ滑ってゆく敵を見送った。

 

 男と瑞希を簡単に取り囲みそうな敵陣。

 多勢に無勢――


 だったが、何かを誘発するように天高くへ右手を上げた。雲ひとつなかった青空には急に暗雲が立ち込め、真っ暗になった。


 それを支えるような角度で、手に力をぐっと入れると、


 ザザーンッ!


 真昼よりも明るく青白い閃光が大地を砕くように、破壊的に敵全体へと襲いかかった。


 バリバリ、スドーンッ!


 すぐさま、あたり一帯に凄まじい断末魔が上がった。


「ギャァァァァァッッッ!!!!」


 しかし、瑞希が目を覚ますことはなかった。いやどうやら聞こえていないようだった。


 ――次の瞬間には、不思議なことに荒野はどこにもなかった。元のホテルの部屋へふたりは戻ってきていた。


 不浄なものが全て浄化されたように静まりきった空間で、男のしゃがれた声が黄昏れ気味に、敵への捨てゼリフを吐いた。


「オレに近づくと怪我すんぜ。――っつうか落雷すんぜ」


 薄闇で見えないはずのソファーへ向かって、普通に歩いてゆく。そこへどさっと身を投げて、慣れた感じでミニシガリロに火をつけた。


 赤オレンジの小さな丸が浮かび上がり、それと反対側が厚みのある唇の中に放り込まれる。


 そうして、くわえタバコならぬ、くわえ葉巻で言葉を口にするから、よく聞き取れない響きになった。


「いいやつがよ。先に……よく言うよな。……守ってやってもよかったけどよ」


 しばらく、瑞希から遠く離れた場所で、ミニシガリロの青白い煙と芳醇な香りが立ち登っていた。


 やがて、ウェスタンブーツはローテーブルをガツンと蹴りつけ、ここを突っ込んでやった。


「――っつうか、オレの名前、最後までスルーしやがって、どうなってやがんだ?」


 天国の夢を見ている瑞希は、ただ寝返りを打っただけだった。兄貴が誰だかわからないまま、夜は更けてゆく――――

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