幽霊を拳で語れ(part3)

 ――大通りに戻ると、歩道側に自然とされた瑞希は、男の歩みに引きずられるわけでも、慌ててついてゆくわけでもなく、普通に人混みを抜けてゆく。


 二百三センチの長身。遠くを見渡せる。自分たちにどんな人の流れが次に来るのかの予測は簡単。


 衝突を避けるために時折、男は瑞希の腕を引っ張っては離すを繰り返しながら、ふたりは歩いてゆく。その度に、自分を気遣っている男に、瑞希は頭を丁寧に下げていた。


 そうして始まった。まわりを歩いている人たちが立ち止まっては、男を目で追って、コソコソと話し合うのが。ほとんど間を入れず、写メのフラッシュが焚かれ、青白い光が瑞希に降り注ぐ。


(何を撮ってるんだろう?)


 灯台下暗し。隣にいる男に、人混みの視線が奪われているとは気づかなかった。


 ガヤガヤしている人々の声に、男のしゃがれた響きがふと混じる。


「てめぇ、昨日あたりから、突然違う場所に立ってる時ねぇか?」

「え……? どうしてそれを……?」


 背中に冷たい汗がつうっと落ちていったようだった。昨日のレストランでの出来事。イケメン幽霊に会う前のこと。


 人混みで思わず立ち止まった瑞希の腕を引っ張って、男は白いサンダルを無理やり連れてゆく。


「覚えてたってか」

「もしかして、終わったって伝えにきたんじゃなくて、助けに来た?」


 イケメン幽霊と向かい合わせで座る前の、腕を引っ張られた感触が今ごろ鮮明に蘇った。フラッシュの嵐にもビクともせず、男は鼻で笑う。


「ふっ! ルールはルールをきっちり守ってるってか?」


 何に対してそう言っているのかわからなかったが、そのフレーズはよく覚えている。


「それって、ハルカさんのことですよね?」

「オレまで情報漏洩しちまうかんな。お口にチャックだ」

「む〜〜〜!」


 愛しのハルカ――。彼女が気になる瑞希は、唇を悔しそうに噛みしめた。


「違うとこ連れてかれた時、何か言われなかったか?」

「何か……?」


 イケメン幽霊の忠告に焦点が合っていて、その前のことはただの過去となっていて、瑞希の記憶力崩壊気味の脳裏から消え去りそうになっていた。


「よく思い出せよ。そこに心の時間戻せよ」


 妙な言い回しだったが、霊感のある瑞希には当たり前のことだった。昨日の夜を思い浮かべただけで、心はそこへ簡単に行ってしまうのだから。


「心の時間……」


 いきなり暗い場所に立っていた。金縛りみたいなものに遭って動けない。そうして、腕を引っ張られて、元のレストランへ戻る――


 見逃している――


 瑞希はもう一度心の時間を巻き戻す。今度は視点を変える。さっきと同じ視点ではなく、一歩外側から客観的にその場面を見る。


 いきなり暗い場所に立っていた。恐怖心が――耳に何かが引っかかった。


「……あぁ、本当だ。何か言われてた」

「何つってた?」


 今聞こえてくる雑音とは違う、心の内側から――耳の後ろから首にかけて響いてくるような、別の聞こえ方をするものに神経を研ぎ澄ます。そうして、埋もれた記憶の中で見つけた。


「――それが欲しい……」

「他には?」


 客観的に見る。あの視線が集中している外側から見る。


「ん〜〜〜? あ、ああ……」


 霊感があるはずの自分が見ることのできない存在。それは相手の力がはるかに上だということだ。


 姿をわざと消されているのだ。つまりは、自分の命など簡単に奪えるということだ。恐怖心がつのる。


 あの暗闇に時間を超えて、飲まれてしまいそうだったが、明るく平常な場所へ、男のしゃがれた声が瑞希を引き戻した。


「目ぇそらすなよ」


 隠されていた声が耳を切る。


「――死ね。死ねばいい……」

「あとは?」

「…………殺せ――」


 非日常な言葉が都会の騒音にかき消された。あの幽霊がなぜ自分のそばへ来て、助けたのかの理由がわかった気がした。


「そうか。何か見えなかったって――」


 男が聞くよりも早く、瑞希の霊感は一気に鋭くなった。そうして、今度は視界が効いてくる。あの暗闇で鋭利に振り下ろされる鉛色の線が幾重も見えた。


「自分が……自分が次々に斬られてる――。でも、痛みはないです」


 信号待ちの人混みを左右に見ようと、男から視線をはずしそうになったが、彼のシビアな声が今度は非日常を口にした。


「そりゃねぇだろ。魂――が斬られてんだからよ」

「魂が斬られる?」


 瑞希は青信号で動き出した人の流れに、スタート遅れになりそうだった。彼女の腕が、男のカモフラシャツの半袖から出ていた、素肌に連れていかれる。


「よく無事だったよな」

「え……?」


 魂が切られるとどうなるのだろうと、瑞希は思った。形のないものを切っても、何のダメージもないのでは……。


 今も焚かれ続けているフラッシュを、男はアッシュグレーの瞳で見渡し、ボソッとつぶやいた。


「……他のやつらもよ」


 明らかに瑞希を見ていなかった。少しだけ振り返り、西口のロータリーのほうを眺めて、チビっ子のある言葉が頭をよぎった。


「――俺は少ねぇと思うぞ」


 また腕を引っ張られ、瑞希は正面を向いてしっかりと歩き出した。


「自分が思ってるよりも、もっとたくさんの人が関係してるってこと……?」


 この国――いや世界――いやもっと次元の違う、想像がつかないほどのことなのではと、瑞希の心で不安が広がるように、ことの重大さが刻み込まれた。


 しかし、矛盾が生じる。たった一人の人間にそんな大きな影響など与えられる何かがあるはずがない。それでは、何がどうなって――。


「それは、てめぇじゃ倒せねぇんだよ」


 無限に広がる宇宙――森羅万象という水面に水滴が落ちて、波紋が広がるような不思議な世界から、瑞希は現実へ戻ってきた。


「いいから、今だけはオレに守られていやがれ――」

「今だけ……」


 鉄っぽい男の匂いを間近で嗅いだ瑞希が立ち止まると、ちょうど店の階段が脇に来た。


「着いたぜ」


 男は腕をすっと離し、瑞希の背中をそっと後ろから押した。すると、物騒な怪奇話は終わりを告げ、平和な日常が戻ってきた――


    *


 ――遅れてきた兄貴。しかも、女の瑞希が一緒だった。


 先に飲んでいた男たちは目を輝かせて、ふたりを出迎えた。靴を脱いで座敷に乗る前に、部下たちが待ち望んでいた言葉を、兄貴は口にした。細かい説明――ごちゃごちゃしたものを好まない性格がわざわいして。


「オレの女――だ」


 何を勝手に。聖女になるのだ。恋愛はもうしないのだと瑞希は思い、即行付け足した。


「友達がつきます」

「オレの女だ」

「友達がつきます」


 野郎どもの視線は兄貴と瑞希の間で、右に左に動いていた。


「オレの女――」

「――友達です!」


 瑞希してやったり。言葉をかぶせて撃破。だったが、若い男たちが納得の声をなぜか上げた。


「さすが恋人同士っす! 息がずいぶん合ってるっすね!」

「え……?」


 まさかの展開。敵のボス――兄貴と恋仲に……。こうして、みんな仲良く暮らしましたとさ。RPGゲーム無事クリア。


 呆然とする瑞希の頭の中で、エンドロールが流れ出す。ぼうっと突っ立ったままの彼女を先に座敷へ上げ、長いジーパンの足があとから畳の上に立つと、若い男から声がかかった。


「兄貴、単独オッケーっす!」

「そうか。すまねぇな」


 男はそう言うと、畳の上にあぐらをかいた。


 習慣はそうそう変わらない。パンツが見えてもオッケーな瑞希は、正座ではなく、ミニスカートでも足を崩して腰を下ろす。


「単独って何ですか?」

「酒の話だ」


 日に焼けているのに、滑らかな頬に寄り添う藤色の長めな短髪を、瑞希はじっと見つめた。


「ん?」


 しかし、返事は返って来ず、斜め向こうのテーブルについていた若い男が代わりに答えた。


「兄貴、飲み屋には普段は来ないっす」

「洒落たバーに行くっすよ」


 手前で、灰皿にタバコを置いた部下が言った単語が、瑞希の心に火をつけた。彼女はムンクの叫びみたいに顔を歪めて、心の限り叫ぶ。


「バーっ!?」

「そこで、兄貴がいつも頼むのが、エギュベルのジン」


 さらに素通りできない単語が来て、瑞希は頭を両手で抱えた。


「エギュベルっ!?」


 飲み屋にもない、あの黒いラベルが瑞希の頭の中で、うろちょろする。昼間から飲みたい気分なのに、お預け状態マックスである。


「あ〜〜〜〜〜っ!」


 彼女は畳の上に突っ伏して、野郎どもがどうしたのかと心配そうな顔をしている前で、兄貴の大きな手が、瑞希の素肌の肩をトントンと軽く叩いた。


「さっきから、何大騒ぎしてんだよ?」


 ガバッと沈んでいたリングから起き上がり、瑞希は熱く語り始めた。


「あの! 外国の修道院で秘蔵で作られてるウォッカとジンのメイカー名。それが、エギュベル! コクがあるのにまろやか……」

「何、詳しく説明してんだよ」


 兄貴のお墨付きがついて、野郎どもは目を輝かせた。


「いつも一緒に飲んでたんすか!」


 瑞希はエギュベル熱にあおられ、オーバーリアクションで、昼間カフェで叫んでいたカクテル名を口にした。


「いやいや! グリーン アラスカというカクテルに使うんです!」

「てめぇもそれ飲むってか?」


 兄貴の頭の中に、黄緑色の宝石みたいに輝くカクテルが浮かんだ。


「とことん飲みたい時に飲みます。飲んでも平気ですか?」

「ノックアウトされてぇ時にしか飲まねぇな。平気ってか?」


 野郎どもが見守る中で、兄貴と偽彼女の話は順調に進んでいたが、


「いや、ボッコボコにやられます!」


 トイレを占領していると、隆武りゅうむが言っていた。わかっているのに、手を出してしまう煩悩だらけ瑞希の腕を、男は軽く叩いた。


「人様に迷惑かけんなよ」


 瑞希は正座をして、胸の前で十字を切る。


「神よ、ここに懺悔ざんげします。罪深い私をどうぞおゆるしください」


 妄想世界の中で、聖堂の鐘がゴーンゴーンと鳴り始めたが、若い男の声が割って入ってきた。


「それで、俺の説明がまだ途中っす!」

「え……?」


 瑞希は胸の前で手を組んだまま、まぶたを開けた。紅一点。兄貴の彼女(偽)は、笑いでもやっているのだと思い、野郎どもは気にせずスルーしていった。


「兄貴、普段エギュベルのジンをストレートで飲むっすよ」


 このガタイのいい、アッシュグレーの鋭い眼光で、長い足を組んで、ショットグラスを傾け、強いアルコールを噛みしめるような、渋くしかめたイケメンの横顔。


 それがあの薄暗いバーのカウンター越しにあると思うと、瑞希は両手の親指を立てて、口の端を歪めて微笑んだ。


「兄貴、かっこいいっす!」

「てめぇはオレのこと、兄貴って呼ぶんじゃねぇよ」


 男の大きな手で、親指は封印されるように抑え込まれたが、瑞希は横へ逃げて、わめき散らした。


「呼びたい! 呼ばせろ〜〜!」


 兄貴と言わせて――! どうも男の熱さに影響されて、いつも以上にテンションが高くなっている瑞希だった。


「少しは落ち着きやがれ。さっきから話ずれてってんだろ。こいつの話まだ終わってねぇだろ」


 こんな言葉がしゃがれた声で出てきて、瑞希のノリも少々冷めた。


「本当ですか?」

「そうっす!」


 唐揚げの皿の横で頭を勢いよく下げると、ブラウンの長い髪はザバッと縦に大きく揺れた。


「すみません。話の腰を折ってしまって。それにしても、人の思ってることがよくわかりますね?」

「兄貴はいつもそうっす!」


 他の野郎どもから次々に賛同が上がると、瑞希は異様に体の大きい男を眺めて、こんな存在と重ねてみた。


「神様――みたいだ」


 テーブルのあちこちから、野郎どもの粋のいい掛け声が上がる。


「兄貴最高っす!」


 それに煽られ、瑞希はまた両方の親指を立てて、渋く微笑んだ。


「兄貴最高っす!」


 そうしてとうとう、男の特技が出た。


「だから、てめぇも一緒に言ってんじゃねぇよ。受けろ、リストロック!」

「え……?」


 何のことやらさっぱりで、瑞希は真顔に戻ってぽかんとした。しかし、野郎どもは手を大きく横へ揺らして、必死に叫んだ。


あねさん、逃げてくれっす! それはジョークじゃないっす!」


 やはり何のことやらさっぱりで、無防備に脇へ落としていた、右腕が不意につかまれた。そうしてひねりを入れられる。


「いたたたたたっ!」


 瑞希の苦痛を訴える声が宴会場に響き渡った。野郎どもは、兄貴の餌食になった女に同情の眼差しを送った。


「あ〜あ〜……」


 本気でやられた瑞希は痛みから解放されて、男の言葉の意味を今やっと理解した。


「あぁ、そうか。プロレスの技ってこと?」

「今のは腕の関節技っす!」


 野郎どもが得意げに答えると、瑞希は幸せを分けてもらったみたいで、珍しく笑顔になった。


「何だか仲が良くて、楽しそうだ」


 一人でニヤニヤし始めた女に、兄貴が手の甲でパシンと腕を叩いて軌道修正。


「っつうかよ。また話それてってんだよ」


 咳払いをして、瑞希はまた説明みたいなものを始める。


「あ! んんっ! 飲み屋にはジンのストレートはないですよね? 普通ジントニックでトニックウォーター入るし、あってもジンライムでジュース割り……」


 刺身の前に座っていた男が割って入ってきた。


「なんで、金は同額払うから、ジンだけもらえるか確認取ってたってことっす!」

「その手があったか……」


 今度やってやろうと思った、瑞希だった。枝豆を口に入れていた男が、メニューを手渡した。


「姉さん何にするっすか?」


 瑞希は悩むのだ。


「家の近くだったら、ジンのストレートでもいいんだけど、酔っ払ってから電車乗りたくないよね。っていうか、まだ続くんだよね? 人に会うの。だったら、あんまり強いの飲まないほうがいいよね?」


 タイムループをして酔いが覚めるなら、いくらでも飲めるが、もしそうでなかったら、泥酔状態でチビっ子に会ったら、絶対にカラオケエコーつきの声でカミナリが落ちるのは目に見えている。しかも、このターン以降に出てくる人たちに失礼すぎる。瑞希はそう思って、


「ビールにするか? でも、炭酸は酔いが回るの早いんだよなぁ。でも、夏だから……よし!」


 三十路女は手を大きく上げて、野郎どものように粋に注文した。


生中なまちゅうひとつっす!」

「ジンにすりゃいいだろ?」


 隣に座っていた男はあきれた顔をした。あんなに熱く語っていたのに、全然違うアルコールを飲もうとしている女に。


「いやいや、この先でもお酒飲むのなら、最初はってやつです」


 飲み屋で客が言うフレーズナンバーワン。夜が何度も来るのならば、飲んでやると思っていた、瑞希だった。


 あんなに深刻な話をさっきしていたのに、すっかり忘れているような――いや前向きな――いや誰がどう考えても主旨を間違っている瑞希に、男が釘を刺した。


「これは飲み屋のはしごじゃねぇんだよ」


 おしぼりで手を拭きながら、瑞希にとっては大切な質問をした。


「名前何て言うんですか?」


 助けていただいたのだ、何がどうなっているか詳しくはわからないが。だからこそ、うかがっておこうと、瑞希は礼を尽くそうとした。


「オレってか?」


 兄貴の彼女だと思っていた野郎どもは、ふたりのやり取りを聞いてがっくりと肩を落とすかと思いきや、目をキラキラと輝かせた。


「名前も知らなかったんすか!」

「運命だったんすね。それでもこんなに気が合ってるんだから」

「兄貴、姉さん、イカスっす!」

「ふたりに乾杯っっっ!!」


 どこまでも前向きな野郎ども。ビールジョッキがかかげられて、カツンと心地よい音をはじかせた。


 大盛り上がりの男たちとは対照的に、瑞希はテーブルに肘をついて、心の中はずいぶんと冷めきっていた。


(恋愛する気はもうないからね。勘違いされてもどうでもいい。みんなは放っておこう)


 そこで、バツ二の三十路女は、野郎どもに話を撹乱されたことを知って、強引に戻した。


「――っていうか、名前を寄越しやがれ!」


 必ず笑いの前振りをしてくる瑞希。男は口の端でニヤリとし、


「オレの真似しやがって。ガキに何か言われてきやがったな?」

「やっぱり子供なんだ、天の声って」


 黄色とピンクのメルヘンチックワールド。姿は見えないけれど、今正体が明らかになった。笑いに関してはライバル同士のふたり。


「そうだな?」


 なぜか考えた男は、藤色の短髪を指先で乱暴にかきわけ、鼻で少しだけ笑い、


「ふっ! グラディアール ランデ十三世だ」

「そうですか。じゃあ、ランデさんって呼ばせていただきます」


 瑞希はうなずいて、渡されたビールを受け取った。野郎どもを見渡して、


「お疲れ様で〜す。カンパ〜イ!」


 前に押し出したジョッキに、他のそれが近づいてカツンカツンとこだまする。すでに馴染んでしまっている飲み会がスタート。


 男はショットグラスをクイッと煽って、料理をさっそくゲットしに行った瑞希の背中に、斜め後ろからツッコミを入れた。


絶対ぜってぇ偽名ディファレントだろ! スルーして笑い取りやがって」


 まともに進みやしない、今回のターンの会話。


 それも聞こえていないふりをして、瑞希はビールから手をパッと離し、アウトレットのバッグを引き寄せた。


「あ、お酒といえば、これだ!」


 鍵が入っている外ポケットから、四角いものを取り出す。割り箸のそばに置くと、野郎どもの話し声がピタリとやんだ。


「おう?」


 男たちの視線の先には、シルバーのシガーケースがふたつ。しかも同じ柄のもの。色形大きさの違う、瑞希と兄貴の手が同時に、ケースのロックをはずした。


 パカッと開くと、赤茶の縦線が並んでいた。それが何か知っている若い男は、女である瑞希に興味津々な視線を向けた。


「姉さんもミニシガリロっすかっ!?」


 瑞希は粋にうなずいて、また詳しい説明始まる。


「そうっす! 葉巻を巻いた時に出る、葉っぱの端で大量生産した、タバコサイズの葉巻。それがミニシガリロ。十本で二千ギル弱」


 値段まで丁寧に言った瑞希だったが、野郎どもの視線はまだテーブルの上に注ぎ込まれていた。もう一度巻き戻してみる、若いのが言った言葉を。


? あれ、兄貴もだ」


 慣れた感じでケースから取り出そうとする隣で、自分のよりも本数が多いが、まったく同じものが並んでいた。様々な料理とグラスの向こうにいた男が、テーブルに身を乗り出す。


「もう、あれなんじゃないっすか?」

「あぁ?」


 ふたつ並んだミニシガリロに釘付けになっている瑞希の横で、気だるいしゃがれた声が聞き返した。


「一緒に銘柄を言ってくれっす!」


 男と瑞希の声が抜群のタイミングで同時に響いた。


「ダビドフ プラチナム」

「ウッホォーーーーッッッ!!!!」


 居酒屋の隅々まで届くような、野郎どもの拍手喝采と歓喜が、瑞希と男にライスシャワーのように降り注ぐ。


「出すタイミングまで一緒。銘柄も一緒。結婚するかもしれないっすね!」

「兄貴と姉さんの運命の出会いに乾杯っ!」


 瑞希は気にせず、滑らかでありながら、葉っぱのデコボコのある葉巻を手に取り、まずは鼻に近づけて、香りを楽しんだ。


 デタラメな歌を歌いながら、彼女はミニシガリロにジェットライターをかざす。


「♪葉巻は〜 タバコと違って〜 自動的に燃えないよ〜 だから〜 灰皿に置いたままにすると〜 火が消えて〜 そのまま残ってるよ〜♪」


 口にくわえて火をつけないふたりは、ミニシガリロを丁寧に炎の前で転がして、オレンジ色を丸く丁寧に炙ってゆく。そうして、瑞希が続きを歌おうとすると、隣からしゃがれた男の歌声が聞こえてきた。


「♪かたよったまま〜 火がつくとよ〜 そのまま斜めに〜 燃えていっちまうぜ〜 だからよ〜 回しながらつけんだぜ〜♪」


 瑞希は驚いた顔を向けていたが、ふと歌声が途切れ、まるでリハーサルでもしたのかというように、一緒になって歌い出した。


「♪タバコみたいに〜 吸わなくても〜〜 火は必ずつく〜 けど〜 まんべんなくつくまでは〜 時間がかかるから〜 ジェットライターが便利〜♪」


 火がついたミニシガリロは、瑞希と男のそれぞれの唇に入れられて、独特の香りを漂わせながら、青白い煙が二本立ち上った。至福の時である。


 これが、夢見る二十代だったら、瑞希も舞い上がっていただろう。自分と同じ趣味の人がいると。しかし、三十路のバツ二である。ものすごく冷めた気分で、


「何ですか? この出来レースみたいな話は……」


 決して煙を肺に入れない葉巻。兄貴は厚みのある唇の隙間からそのまま吐き出した。


「笑いだろ?」

「誰の前振り?」


 完全に滑っている笑いだと、瑞希は思った。


「こんなことするやつは一人しかいねぇだろ」


 兄貴にはわかっていた。昨日の今日で、ここまで出そろわせるようなことができる人物を。


 瑞希は一瞬チビっ子かと思ったが、葉巻という大人のアイテムに不似合いで、どうもピンと来なかった。


「お笑い好きな人だよね? 今までいた? それとも、これから出てくる人ってことですか?」

「もう出てんじゃねぇのか」


 同じ灰皿にミニシガリロを伸ばしたが、全然違った灰の落とし方をした。兄貴はトントンと軽く叩き、瑞希は縁に何度もなすりつける。


「ん〜〜? わからないから、とりあえず脇に置いておこう」


 しばらく考えていたが、瑞希の頭脳ではギブアップを迎え、料理に箸を伸ばした。


(よし、サーモンとハマチゲット!)


 醤油皿に取り置いて、わさびをつかもうとすると、隣からこんな会話が聞こえてきた。


「そうそう。で、あのめん、部屋から廊下にすぐ出ると、背後からやられるんだよ。だから、一旦待ってから出ないと……」

「俺も最初はそこでやられた」


 わさびをときながら、瑞希は平気な顔で話に割り込んだ。


「それって、TPSですか? FPSですか?」


 専門用語が並んでいて、兄貴から即行ツッコミが入った。


「おいおい、シューティングゲームの話だろ? 今のってよ。何で知ってやがんだ?」


 バツ二フリーター女は、男の趣味に強かった。


「自分はやらないんですけど、背後から見てるのは楽しいんです。だから、いつも見てました」

「でよ、その、何とかPSってのは何だよ?」


 ゲームをかじったことがないと、男でも知らない単語。兄貴は聞き取りやすくするため、瑞希のほうへ少しだけかがみこんだ。


「あぁ、シューティングゲームやったことないんですね。TPS はThird Person Systemの略です」

「三人称ってか?」


 藤色をした剛毛の中にある脳裏で即座に翻訳。瑞希は手をグーにして箸を握りしめた。彼女の香水をつけた両手首は、身振り手振りで激しく動き出す。


「そうです。だから、ゲームの画面の中は、動かすキャラクターがほぼ全身映ってて、そこで、スダダダダッ! と銃を構えて敵をやっつけるんです」


 これが原因だった、軍の兵士になる彼女の妄想癖は。


 ミニシガリロの灰をトントンと落とすと、太いシルバーリングがかすかにすれた音を出したが、店の喧騒にかき消された。


「っつうことは、FPSは、First Person System……一人称ってか?」

「そうです。だから、ゲームの画面の中では、プレイしてるキャラクターの腕と武器しか映ってない状態です。人それぞれだと思うんですけど、私はこっちのほうが操作しづらいと思います」


 冷えたジンがのどで熱に変わる。高いアルコールが気化する時に作り出す、ジリジリとした灼熱。真逆のマゾ的な酒。


 噛みしめるように飲み込む男は、高い空の上から見下ろすように野郎どもを眺めた。


「てめぇの立ち位置がわかりやがらねぇからな。ノーマルはそうだろ」


 ふたりだけの世界を壊さないように見守っていた男たち。話がひと段落したところで、掛け声みたいなものがテーブルの上に舞った。


「姉さん、かっこいいっす!」

「ありがとうございます!」


 ふざけた感じで、瑞希はパシッと敬礼して見せた。そうして、シューティングゲームの話にまだまだ花咲かせる。


「オンラインのサバイバルだと、他の人を狙ってる自分が、実は背後から別の人に狙われてたとかも起こりますよね?」

「そうっす! 自分がトリガー引こうとしたら、画面が揺れてゲームオーバーとかよくあるっすよね!」

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