幽霊を拳で語れ(part2)

 ――――金曜日の夜。男のウェスタンブーツは、ついさっき瑞希が通った、駅近くの大通りを、たくさんの靴に囲まれながら歩いていた。


 会社の飲み会。会場となる店へと向かう途中。すぐそばを歩いていた若い男に、しゃがれた声をかけた。


「さっきの件、なぐさめておけや」


 叱られていた部下の背中を、若い男はちらっとうかがって、目をキラキラ輝かせた。


「さすが兄貴っす!」

「オレからは言えねぇからよ」


 叱り役は叱り役。上司として辛いところだ。


「経営者は孤独ってやつっすね!」


 ジーパンの長い足はあと数歩で、瑞希が曲がった脇道までと迫っていた。


「行けたら行くからよ」


 あと数分で店だというのに、抜けようとする上司。


「どこ行くんすか?」


 若い男が不思議そうな顔で聞き返すと、ウェスタンブーツはふと立ち止まった。瑞希が消えていった脇道を横で見る位置で。


「野暮なこと聞くんじゃねぇよ」


 厚みのある唇からふっと笑い声がもれたのを聞いて、若い男は暗い夜道の意味を変換させた。


「女っすか?」


 男はそれに答えず、ウォレットチェーンを腰元から引き上げる。財布から一枚のカードを取り出し、


「これで払っとけや」


 三つのシルバーリングで握られた、黒いキャッシュカードを、若い男は賞状でも受け取るように手にして、頭を礼儀正しく下げた。


「ごちそうさまっす!」


 それが合図というように、男は瑞希が歩いていったほうへいいスタートを切った。スパーとペンダントヘッドの金属が歪む音が、吸い込まれていくように、あっという間に脇道の奥へ向かって遠ざかってゆく。


 歩いていた他の部下たちも、全速力で走ってゆく、二百三センチのガタイのいい背中を不思議そうに見送る。


「兄貴が女をナンパ……?」

「そんなこと今までに一度も聞いたことないよな?」

「兄貴、硬派だから野郎どもに慕われてるのに、何だか変だな?」


 違和感が首をもたげていたが、後ろに立っていた男の一人が両腕を広げて、ふざけた感じで肩に抱きついてきた。


「アラサーの兄貴にも、やっと春が来たってことじゃないか?」

「マジかっ!?」

「ウホォーッ!」

「兄貴かっこいいっす!」


 船乗りの掛け声のような威勢のいい響きが大通りに炸裂し、無関心な人混みも一瞬だけ彼らに視線を向けた。


 そんなことはお構いなしの、兄貴命あにきいのちの野郎どもは大盛り上がり。


「飲み屋に早く行って、祝いの準備しておこうぜ!」

「おう!」

「兄貴に乾杯っ!」


 彼らが歩き出すころには、あのカモフラシャツと長いジーパンの足は、闇の中で輪郭を持つこともなく、誰からもはぐれてしまうかのように消え去っていた――――


    *


 ――――行き先の選択肢を奪われてしまった瑞希は、とにかく前へ前へと進み、とうとう人気のない高架下のそばまでとやって来た。


「よし、来た。ここをくぐって――」


 ざわりと心と体が騒ぐ――強く警告する。

 そっちへ行ってはダメだと――


 瑞希の白いサンダルは、石臼いしうすいたようなジャリジャリという砂の音を立てて、戸惑いの線を描く。


「ん? やっぱり変だ」


 塗装がはがれ落ちた半円を描く天井。首都のはずなのに、整備の行き届いていない公共の場。


 作り物みたいな街灯の明かりの下で、どこかずれているクルミ色の瞳は入念に調べる。


「それにこのトンネル、数メートルしかないのに、向こうにたどり着けない気がする……」


 何の変哲もない夜道が広がる向こう側。


 瑞希は神経を研ぎ澄ます。空気がある場所ではなく、もっと遠く。遠くの銀河を通り越して、さらに先にある宇宙の果てまで、自分のテリトリーとするように。


 すると、彼女の霊感は普段よりも鮮明に、小さな違和感も見落とすことがなくなった。見える世界では自分一人。それなのに、


「人がいないのに気配がいっぱいある。自分をたくさんの目が見てる視線を感じる……。誰もいないのに……」


 彼女はこの感覚と似たものを定期的に感じていた。それは、人のいないはずの墓地。その気配はただ自分を見ているだけだ。


 しかし、この感じは異様だった。言い表す言葉を見つけようとする。しばらくして、


「吐き気がするほどの邪気と悪意……」


 つぶやくと、冷たいものなどないのに、背筋が凍りつき、瑞希は思わず身震いした。その瞬間フラッシュバックした、ある光景が。


「……昨日のレストランでのことと関係する?」


 姿なきいくつもの気配と、瑞希は一人対峙する。ブラウンの髪を無防備な背中で左右に傾けながら――――


    *


 ――――アッシュグレーの鋭い眼光はあちこちに向けられていた。


 途切れがあるはずなのに、ない高架近くの脇道。人の乗っていないカラの電車が時々、つじつま合わせのように、カタンカタンと軽い音を立てて走り去ってゆく。


 古びたビルの壁と窓がずっと同じ間隔のままの景色がいつまでも続く。男まで空間をループされていた。 


「どこにいやがんだ? 探れねぇ……。こんなこと朝飯前だろ。ノーマルならよ。がよ、も躍起になってっからよ。見つからねぇんだよ」


 偽物じみた細い路地で、ウェスタンブーツのスパーは、街灯のくすんだ光に照らし出されては、色を失いを繰り返す。


「手遅れになったら、取り返しがつかねぇだろ。しょうがねぇな」


 時間ばかりが悪戯に過ぎてゆく、ループした空間。すぐ近くにいるのに、それさえもループさせられていて、見つけられないのかもしれない。


 男は立ち止まって、空に向かって大きな声で呼びかけた。


「おう! リキョウ!」


 誰もいないはず。それなのに、やけに間延びした返事がやって来た。


「どうしたの〜?」

「女んとこに飛ばせや」


 親指を立てて、日に焼けた頬と藤色をした髪の横で、後ろへ引く仕草をする。


「これで貸しは二百一 か〜い!」


 ここでもきちんとカウントされている数字。男は空へ向かって、人差し指を突きつけた。


「オレのキス――で、それチャラにしろや!」


 人が違う。ネタはさっきと同じだが、こう返って来た。


「あっかんべー!」


 子供が舌を出して、指先で目元を下へ引っ張ったみたいな対応だった。男は鼻でふっと笑う。


「相変わらずクールな悪戯坊主だな。キスはジョーク――だ」


 しゃがれた声が嘘だと言うと、ガタイのいい体は踏切の遮断機が降りるように上から下へ向かって、細い路地からすうっと消え去った――――


    *


 ――――ミニスカートの下に出ている膝に両手を当てて、瑞希はトンネルをさっきからのぞき込んでいた。ふと体を起こして、後ろへ振り返る。


「ん〜? 待ってみたけど……出てこないな、男の人」


 笑いのライバル――待ち人 ず。駅からこの道へ入るまでに、考えていたネタも忘れてしまいそうなほどの、時間の経過。


 ポツンと差している街灯の小さな白い丸を眺める。


「くぐったら出てくるのかな?」


 さっきから誰も通らないトンネルの向こう側。嫌な予感は今でも思いっきりするが、これも何かの意味があるのかと思い、とうとう決心してしまった。


「こうなったら行ってみよう」


 あの世へとばっくりと口が開いているような高架下。そのエリアに、白いサンダルが一歩入り込もうとした時、


「よし、勇気を出し――」

「おい、そこの女」


 しゃがれた声が背後からかかった。チーターも真っ青なほど俊足で、足をぴゅっと引っ込めて、瑞希は目を大きく見開く。


「来たっ!」


 ガンガン行こう! モードでひたすら待ち続けた相手だ。否応いやおうなしにでも、RPGゲームのスタートボタンを押してしまうのだった。


 ブラウンの長い髪を横へ滑らせながら、瑞希は振り返った。そこには、ガタイのいい人影が紫の光に包まれて、今まさに空から降りてきたようだった。


 光が消えると、銀の月影を背中に従えた、面倒見がよさそうで熱い男が立っていた。男らしく大きく左右に開かれているウェスタンブーツ。ヴィンテージジーパンの長い足。


 穏やかだが、鋭いアッシュグレーの瞳。藤色をした長めの短髪。日に焼けているが、なめらかな肌。この世のものとは思えないほど、整った顔立ち。


 瑞希はイケメン衝撃で、男もろともテレビゲームの妄想世界へと飛ばされた――――


    *


 戦闘モードは、ガンガン行こう! 


 勇ましい戦闘時のミュージックが迫り来る戦慄のように奏でられ始めた。


 笑いのライバル、レベル三十四の敵が現れた!


 瑞希のターン――先制攻撃。

 白いサンダルは地面を噛みしめるように仁王立ちし、男に人差し指を勢いよく突きつけて、大声でわめき散らした!


「酒を出せっ!! シラフでこれ以上やってられるかっ! もう三回目だっ!」


 男のターン――防御。

 助けに来たのに、啖呵たんかを切られた。それでも、男は怒りもせずに、あきれたようにふっと笑い、


「キラハよりも気がみじけぇな。おい」


 瑞希のターン――コントローラーのボタンを誤って押し、痛恨のミス。防御のみ。

 いきなり出てきた名前をただ繰り返し、戸惑いに見舞われ、立ち尽くすだけだった。


「キラハ? 男の人? 女の人? どっち?」


 男のターン――通常攻撃。

 瑞希の腰より少し下を、節々のはっきりした指で差した。


「短ぇついでによ。そのスカートの下、何か履いてんだろうな?」


 瑞希のターン――会心かいしんの一撃狙い。


「パンツは履いてます!」


 親指を立てて、バッチリですみたいに、歯をキランと輝かせて渋く微笑んだ。ミニスカートにパンツだけ。どうもアバンチュールな香りが思いっきりする。


 男のターン――カウンター攻撃。


「階段登る時、隠してんだろうな?」


 瑞希のターン――敵に混乱させられ、まさかの相打ち。

 何の恥じらいもなく、何の躊躇もなく、バツ二の三十路女はこんな言葉をお見舞いしてしまった。


「いやいや! 見られても減るものじゃないんで、そのままです!」


 男のターン――属性つき攻撃。

 必殺技。受けろ、シャイニング ブラスト!

 世にいる野郎どもの代弁を、瑞希に突きつけた。


「てめぇ、見たくなくてもよ、下から見えてんだよ」


 相手の立場にならないと人の気持ちはわからないものだ。瑞希はハッとして、髪の毛をぐしゃぐしゃにかき上げた。


「あぁっ! そうか! 見たくない人もいましたね。あぁ、今まで公害を撒き散らしてた。すみません。今度からは隠して登ります」


 戦闘終了。瑞希の敗北――


    *


 ――勇ましい音楽は消え去り、男もろとも現実の世界へ戻ってきた。瑞希のそばへ、ウェスタンブーツのスパーが近づいてゆく。


「色気ナッシングだな」


 三十四年、紆余湾曲うよわんきょくしながらも生きてきた女には、持論があった。


「色気などいらない! そんなものがなくて人生は生きていける!」

「色気がねぇのが、てめぇの色気なんだろ」


 鉄っぽい男の匂いがほのかに押し寄せた。


「いいこと言いますね! 歳いくつですか?」


 この妄想癖のある女は、重要なことを置き去りにして、鋭いアッシュグレーの瞳を見上げ、にっこり問いかけた。


 男は鼻でふっと笑い、彼女に言葉でカウンターパンチを放つ。


「っつうかよ、話元に戻せや。てめぇ、しょっぱな別んとこ飛ばしやがって、責任取りやがれ」


 さっきまでのおどろおどろしい雰囲気は台無しだった。放置したままの背後に広がるトンネル。瑞希はすっと真顔に戻って、わざとらしく咳払いをする。


「あ、あぁ……んんっ!」


 白いローヒールサンダルは、砂埃の上でジャリジャリと振り返り、高架下をのぞき込み、瑞希は気持ちがこもっていない言い方をする。


「ここ進んでも大丈夫かなぁ。それとも戻って――」

「そっから先に行くんじゃねぇぜ」


 しゃがれた男の声が背後からふとかかった。笑い好きのふたりは、さっきの戦闘シーンは亡き者にして、普通に会話を再開する。


「どうしてですか?」

「死が待ってるからよ」

「し? ……ん〜〜〜? よし、来た!」


 瑞希の頭の中で、電球がピカンとついた気がした。そうして、また寄り道――いや笑いのライバルである以上、笑いを取りにいかなくてはいけない。そう思い込んでいる瑞希は、昔取った杵柄と男の言葉を組み合わせた。


「ドレミファソラシド〜♪ のが待ってる! ということで、から始まる曲を歌う〜〜!」


 誰かさん――チビっ子のお陰で、全然進まない会話。男は鼻でふっと笑う。


「笑い取ってきやがって、珍しい女郎だな」

「珍しい?」


 未だループさせれている、ふたりきりの空間で、瑞希はまぶたを激しくパチパチさせた。まったく危機感のない女。


「真面目にやるとこはやらねぇと、人生ゲームオーバーになんぜ」


 この言葉が気つけ薬となり、急に真剣な顔になって、瑞希は後ろにゆっくりと振り返った。寒気に背中を震わせながら。


「死ぬ……。このトンネルの中で……? どういうこと?」


 罠を隠せるような死角はない。曲がっているわけでもなく、向こう側の景色は平和に広がっている。ただ、なぜか死臭が漂う。


「とりあえず下がれや。こういう時は女が男に守られる――もんだろ?」


 瑞希の横をウェスタンブーツが通り過ぎてゆく。四十三センチも背の高い男の背中にすっぽり隠れた女。何かが始まりそうな予感だった。


 しかし、オーバー気味で飛んできたボールをキャッチするように、瑞希は片手を大きく上げた。


「はいっ!」

「何手ぇなんか上げてやがんだ?」


 かろうじて、男の視界の端に瑞希の手が映り込んだ。節々のはっきりした手が、前ポケットに親指だけを引っ掛けて、両肘を横に大きく開けている男は、首だけで振り返り、日に焼けている横顔を見せた。


 御銫みせねと秀麗は、瑞希にこんな多大なる影響を与えていた。


「発言権を手に入れようと、手を上げたんです。前のふたりはどんどん勝手に話が進んでいってしまったので……」


 種類は違うのに、どこか似ている、独断ペースの男ふたり。しかし、兄貴は口の端をニヤリとさせただけだった。


「ふっ! よく知らねぇんだよな、あのふたりのことはよ。けど、お疲れさんだったな」


 目の前にいる女もさぞかし大変だったのだろうと思った。なぜなら、普通に意見が言えなくなるほどになってしまったのだから。


 瑞希は嬉しかった。ただ嬉しかった。御銫と秀麗に、笑いの前振りなどしても、無機質にあしらわれるか、火山噴火をくらうだけだ。この男なら、ぜひわかってくれると思い、調子に乗り始めた。


「ですが、これで足りないのでしたら、手を出す、手を汚す、手が早い、手を下す、手を替え品を替え、手――」


 手がつく熟語のオンパレード。男はまた鼻でふっと笑って、


「よく覚えてやがんな、そんなによ」

「ありがとうございます!」


 瑞希は満足げに微笑んで、礼儀正しく頭を下げた。


 しかし、トンネルがまた放置の運命をたどっていた。太いシルバーリング三つをつけた手を、男は顔の横でひらひらと揺らした。


「っつうか話ずれてってんだよ。意見があんならノーマルに言いやがれ」


 こうして、瑞希はあの無意識の策略とゴーイングマイウェイから無事に解放されたのである。


「どうして、男の人が女を守るって決まってるんですか――?」


 さっきから規格外の女。彼女を背中でかばいながら、男は気だるそうに聞き返した。


「あぁ? 世の中、変な女郎がいるから、男はそう言わざるを得なくなってんだろ? 需要と供給でよ」

「変な女の人?」


 瑞希は本当に不思議そうに聞き返した。男は一旦勝算込みでトンネルに背を向けて、小さな女を正面で捉える。


「女ってのはよ。その実、ストロングな生き物だろ?」

「どういうとこがですか?」

「野郎はよ。基本的に体も精神も弱いぜ。から、寿命短ぇだろ。血を見て気絶するやつもいるしよ。注射が怖くて、病院から逃亡ラナウェイするやつもいんぜ。あとはよ、株が大暴落して、何億の借金背負った時なんかはよ、耐えきれなくなって自殺するぜ」

「あぁ、確かに見たことあるし、話には聞きますね」

「女郎の社長も世の中いっぱいいやがんだろ。がよ、同じ目に遭っても開き直って、平気で生きてやがる。色恋沙汰はそのたびに上書き保存だろ? 女郎はよ」


 順調に進んでいた会話だったが、最後でつまずいた。


「色恋沙汰については、ちょっとピンときません」


 どこかずれているクルミ色の瞳と、情に厚いアッシュグレーのそれは一直線に交わった。切り取られたふたりきりの世界で、静寂がふと広がる。


「…………」

「…………」


 今回のことは急ぎで、目の前にいる女のことはよく知らない。だから、試すようなことをしている男。


 鋭いアッシュグレーの瞳はどこか遠くを見ているように焦点が合わなくなり、瑞希の中にある何かを見透かすように探った。そうして、男はやがてあきれたため息をつく。


「そっちってか? マジで珍しい女郎だな」

「え……? 何を納得してるんだろう? どういうこと?」


 アッシュグレーの瞳に映った自分を、瑞希はまぶたをパチパチさせながらのぞき込んでいた。


 どこかずれているクルミ色の瞳に映る自分の顔を、男は真っ直ぐ見つめ返す。


「世の中よ。弱ぇふりして媚び売ってくる、くだらねぇ女郎が多いんだよ。からよ、わざと言ってみたんだけどよ。てめぇには効かねぇ――っつうか、そこの女郎――いや女だな」


 やるべきことには必ず優先順位がつく。この女は最下位だった。もしくはランキング外だった。しかし、今は最優先に変わった。


「いいぜ。向こうにいんの、マジで倒してやってもよ」


 男は立てた親指を頬の横で、後ろへ引く仕草をした。男らしい胸板の向こう側に広がっているトンネルをのぞき込み、瑞希は願い出てくれていることに素直に頭を下げる。


「よくわからないですけど……。合ってる気がするんで、お願いします」


 少々不利な状況だと男は思う。敵のテリトリーに入ってしまっている。いつもなら、荒野が広がる世界へ出て、思う存分にやれるが、今はそれが叶わない。


「けどよ、逆に面白インタレスティングなんだよ」


 ハングリー精神のボクサーみたいに口の端でニヤリとすると、ウェスタンブーツはスパーの音をカチャッとさせ、トンネルと真正面に対峙するように振り返った。


「地獄に落ちやがれ――」


 しゃがれた声が合図と言うように、張り詰めていた空気が一気に崩れた気がした。左右合わせて六つの太いシルバーリングが、拳につける武器――ナックルダスターを思わせ、鋭いパンチを確実に繰り出す。誰もいないトンネル――いや男には見えていた、全てが。


 耳にこびりつくような悲鳴が高架下にこだまする、銀の線が敵へ向かって素早く引かれてゆくたび。


「ウワァァッッ!!」

「ギャアァッ!!」


 瑞希はびっくりして、後ろへ下がりそうになったが、


「っ! やっぱり誰かいたっ!?」


 自分のために、この男は何かを倒している。だからこそ、逃げるわけないはいかない。恐怖心をねじ伏せグッと堪え、彼女の白いローヒールサンダルはそこに居残った。


 男はトンネルに半身を見せ、ウェスタンブーツの足をねじり回す。左足を軸にして、右足をバッファローのデザインがされたベルトと同じ位置――腰の高さにまで蹴り上げ、そのまま横向きに回り蹴りバックをお見舞いしようとする。


「っ!」


 左から右へ時間差で、次々にまた悲鳴が上がるかと思いきや、男は口の端でニヤリとし、


「ジョークだ」


 足蹴りはせず、右手をそのまま天へ向かって大きくかかげた。次の瞬間、


 ザザーンッ!


 杞憂きゆうの法則が当てはまるはずの空が、落ちてきたのかと思うような爆音が響き、青白い閃光が龍が空から降臨するように降り注ぐ。


 バリバリバリ!


 世界を引き裂くような勢いで、トンネルを上から貫通して、


 ズドーンッ!


 地面がぐらっと揺れ動くような、地鳴りをともなって破壊音が生まれると、トンネルから脳裏にこびりつくような 断末魔が一斉に上がった。


「ウギャァァァァァァァッッッッ!!!!」


 ループに切り取られた空間。軽く数十人の気配。あと一歩先に進んでいたら、瑞希はどうなっていたのかと考えると、両手で口を思わず押さえた。


「えぇっ!? こんなにいたっ!」


 自分たちの取り囲んでいた空気が、ガラスが割れたようにガシャンと音がして、何かから解放されたようだった。


 男は何事もなかったように、おとりとして上げていた右足を地面につけると、砂埃のジャリっという音が響く。


「オレはこれで十分イナフだ。電話すっか」


 いきなり出てきたアイテム。瑞希は我に返り、男の藤色をした長めの短髪を横から見上げたが、


「誰に電話するの?」


 それには構わず、彼はどこから取り出したのか、光る携帯電話を耳に当てて、こんなことを話し出す。


「おう。オレはもういいからよ。次に回せや」

「何がいいんだろう?」


 瑞希が疑問に思っている向こうで、誰かの声がかすかに聞こえた。しかし、男には予想外の内容だったようで、喧嘩を売りつけるように突っかかったが、


「あぁ? ――ったく、切れやがった」


 用済みと言うように、光る携帯電話は後ろにポイっと投げ捨てられたが、地面に落ちる寸前に、不思議なことに姿をすっと消した。


 瑞希にはさっぱりだったが、男の次の言葉は聞き覚えのあるものだった。


「ハルカ並みに融通きかねぇな。――っつうか笑い取ってきやがって、フランの野郎」


 鋭利なスミレ色の瞳とともに、秀麗の言葉をふと思い出した。


「――貴様までハルカと一緒で、ルールはルールか!」


 何かと話題の人。瑞希なりに想像してみる。


「ハルカさんはきちんとした性格ってことかな? しっかりした女の人なのかも。でも、フランは誰? 男の人?」


 瑞希は意見求めます的に男を見ていたが、彼は取り合わなかった。諦めて、男の背後に広がるトンネルをのぞき込む。


「何を使って倒したんですか?」

「電気ってとこだな」


 しゃがれた男の声が返ってきて、このまま順調に話が進みそうだったが、瑞希が崩壊させた。


「あぁ〜、あの人の一生を書いた――」


 男の大きな手が、ブラウンの頭に軽めのチョップを放ってくる。


「次々に飛ばしてきがやって――っつうか、てめぇ、わざとやってんだろ? さっきから」


 瑞希は兄貴の手をつかんで、珍しく微笑んだ。


「もうこれで三回目なので、そろそろバリエーションをつけておかないと、この先マンネリ化するかと思って……」


 理由はわからないが参加しているのならば、何か自分も努力をと彼女は願っていた。男は手を自分のほうへ戻しながら、


「てめぇが気遣うとこじゃねぇんだよ、そこは」


 遠くで電車の発車音楽が何の異常もなく聞こえる。瑞希は急に真剣な顔をして、次はこう言った。


「性別に関係なく、守ったり守られたりが平等だと、私は思います」


 何を言ってきているのかわかって、男はあきれ顔をした。


「まださっきの話続いてたってか?」

「はい、続いてました!」


 トンネルの向こうで自転車や歩行者が通り過ぎてゆくのを前にして、瑞希は平和な日常へ無事戻ってこれたことを肌でひしひしと感じ、自然と笑みがこぼれるのだった。


 カウンターパンチさながらに、男は口の端でニヤリとし、


「じゃあよ。飲み会やってっからついて来いや」

「まださっきの話続いてたんですか!」


 ノリ重視の瑞希は負けじと返した。


「行くぜ」


 彼女を置いて、人がまばらな脇道へと、ウェスタンブーツはゆっくりと進み出した。白いローヒールサンダルは小走りになることもなく、配慮された歩幅でのんびりついてゆく。


「会費いくらですか〜?」


 トンネルから離れ、細い路地を左へ曲がってゆくと、すでに酔っ払っているみたいな瑞希の叫び声が響いた。


「よし、飲むぜ飲むぜっ!」


 ふたりが立ち去ったトンネルの中では、これで終わらせないと言うように、真っ赤な目がいくつも現れ、闇が血のような赤に染まりきった――

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